ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、hiduka@hotmail.comにお願い申し上げます。
なるほど、歌舞伎とは、そういうモノですか。
でもなあ、それは正直、重箱の隅をつついているだけだと思うのですが。『動物化するポストモダン』については、もっとほかに取り上げるべきところがあるでしょうに。
絶望書店は、いわゆるオタク的文化を江戸時代の歌舞伎まで遡るべきであると言う。そして、「この本にあるようなことは江戸時代の歌舞伎や文楽に於いて遥かに洗練された形で完成している。それを論じたものも遥かに洗練された形でいくつもある。そんなことも識らない無教養にも驚くが、本を一冊読めば判るようなことを調べもしないで、この手のことが最近はじまっただのポストモダンだのと云ってる怠惰はいったいなんなんであろうか」「この本のネタ元になったとおぼしい大塚英志の『物語消費論』では歌舞伎の<世界>のことを「大きな物語」と形容している。この人も歌舞伎を識らないままに書いてるようだが、「大きな物語」というのは誤解を与える表現ではある」と批判する。
しかし、私から言わせれば、それは単なる揚げ足取りにすぎないであろう。
そもそも、歌舞伎においてオタク的文化が完成していると言うが、では、それが本当にオタク文化に結びついているのか? 絶望書店では、その論証がまったくなされていない。それは単に、東氏や大塚氏が歌舞伎というキーワードを出してきたのに無条件に飛びついて、事実認定が誤っているからと盲目的に批判した結果ではないか? もし仮に、歌舞伎においてオタク文化が完成しているとすれば、その歌舞伎的思考が、何故オタク文化にのみに残り、日本のコンテンツ文化全般に息づいていないのか? その、検証がまったくなされていない。あるいはその逆に、日本のコンテンツ文化がいかにオタク的であり、オタク文化をほかの日本のコンテンツ文化と区別する必然性の少なさを検証すべきである。
さらに私は言おう。絶望書店は、歌舞伎が「<世界>というのは絶対的な存在ではない。通常の演目でも二つか三つの<世界>が組み合わされる。南北になってくると七つも八つもの<世界>が「ないまぜ」となる。しかもこれは物語の幹となる部分の話であって、細かいシチュエーションやキャラやアイテムなどを入れると膨大な数になってくる。そもそも、元となる<世界>のほうも先行するいくつもの物語を踏まえているのであって、それらを踏まえて創られた作品はざっと百程度の<世界>を組み合わせたものと考えられる。現在のまんがやアニメが先行する作品からいろいろいただいてくると云ってもケタが違う」「これはできるだけ多くのものを踏まえるほうが教養があって偉いということもあるが、なにより役者にいろんな役やいろんなコスプレをさせたいという観客の欲求に応えるためにあるのだ」と言うが、そんなものは、歌舞伎にのみ認められる特性でも何でもない。歌舞伎においてはじめて認められた特性でもない。
例えば、私は詳しくないが、シェークスピア演劇にも、にたようなミーハー精神は息づいていたはずだ。シェークスピア演劇も、時代考証のいい加減さには定評がある。中世だか古代だか良く分からないセッティングのなんと多いことか!
そして、歌舞伎やシェークスピアなんていう、高々、500年程度の文化如きよりも、もっと遙かに、昔から、歌舞伎と似たような仕組みを持ったメディアは存在した。神話と伝説と民話である。すなわち、ファンタジーだ。神話にしろ、伝説にしろ、民話にしろ、民間伝承はおよそ、数百ものプロット、<世界>が観測される。民間伝承の語り手は、一定のルールに従って、複数のプロット<世界>を組み合わせ、あまたの物語を紡ぎ出す。民間伝承における語りとは、民話学や人類学などの研究成果から明らかなように、決められた固有の物語<世界>を記述する物ではなく、創造的行為なのだ。
実例を挙げろ? きりがない。アーサー王伝説しかり。アーサー王では、時代設定を無視し、キリスト教の勝利が語られ、アーサー王はローマ皇帝をうち破り、サラセン人の騎士を円卓の騎士に迎え、場合によっては十字軍に繰り出す。そもそも、円卓の騎士として一番人気の“湖の騎士”ラーンスロットは、フランス(の伝承)生まれの英雄であって、アーサー王伝説が本来所属するイングランドの英雄ではない。トリストラムとイズーの物語も、時代がくだる中で、円卓の騎士の物語に組み込まれている。歴史上実在の人物であった、シャルルマーニュの大帝なども、時代考証をぶっちぎって晴れて円卓の騎士の仲間入りをしている(しかも、『アーサー王の死』では、フランス王は偽のローマ皇帝と手を結んでアーサー王に対決した悪役として描かれているのにだ)。円卓の騎士の数は、12とも、300とも言われている。現代小説になれば、いるはずもない女騎士が円卓の騎士の一員として加えられたりすることもあるであろう。ケイ卿やガウェイン卿の性格が説話ごとに異なるなんてのも、良くある話だろう。
また、ケルトの英雄クーフーリンと北欧の英雄ジークフリートとが知恵比べ、力比べをするという民話は実在する。
キリストの敵、狡猾で強力な悪魔は、民話の中では、徹底的に愚かで知恵足らずな存在として描かれるだろう。同じ物語の中で、先のシーンまで狡猾で強力な魔女が、次の場面になった途端に愚かな存在となり、主人公に殺されると言ったこともよくある話だ。
これは、別にヨーロッパの民間伝承に限ったことではなく、日本の民間伝承でも、それ以外の世界各国の民間伝承でもよく見られる現象である。
歌舞伎がオタク的キャラ萌え的であるというのであれば、そもそも、人類は、その発祥からしてオタク的キャラ萌え的であったのだ。
そして、少なくとも、大塚氏は、私と同じような見解を持っているはずだ。民話学を大学で専攻しており、私以上に、民間伝承については詳しいはずであり、本の中でも民話について言及している以上、上記のような説に気が付かないはずはない。しかも、本の中でビックリマンという例を示している以上、物語消費という概念が、なにもオタクにのみ通用する概念ではなく、もっと普遍的な概念であることにも気が付いているはずだ。…ビックリマンって、ブームの経緯と持続性を考えると、オタク的文化じゃないよね? ただまあ、じゃあ何で大塚氏が、自分に慣れ親しんだ民間伝承ではなく、歌舞伎を実例に出したかは不明なのだが。
まあ、以上の意味において、東氏、大塚氏が調査不足、説明不足であったのは認めるが、だからと言って、絶望書店の批判が的を得ているとは思えない。それどころか、大きく的を外しすぎていて目も当てられない。
絶望書店の批判の仕方では、東氏、大塚氏の事実に誤りがあることを指摘することにとどまり、その、論証の結果言いたかった見解の意味や意義についてなにも触れていない。確かに前提事実を否定することは、相手のロジックを批判する第一歩だが、前提事実を批判したところで別の前提事実を持ちだしてくればよいだけだろう。そうではなく、両名の見解の意味や意義の問題点をもっと、端的に追求すべきだったのだ。
であるが故に絶望書店は、
http://irc.asuka.niu.ne.jp/moujyou/summary/yapw.cgi/%CB%BF%BD%EA%A5%ED%A5%B0%A4%E8%A4%EA?time=1028609643という、身も蓋もない批判をされることになる。
00:48:50 〈うっちー〉 〉 確かに東を批判した両者(著者注:両名とは、絶望書店と唐沢氏の両名を指す)はサスガに知識は豊富なんだけど、整理する枠組が不在のような気がする。
00:48:55 〈うっちー〉 私もそう思うなぁ
00:50:05 〈White_home〉 ちうか、オタが学者のやることにケチつけてるだけっしょ。
昔読んだ『動物化するポストモダン』『定本・物語消費論』を思い返すと、両名とも、本当はデータベース的発想・物語消費的発想は全人類的な現象ではあるが、まずはオタク文化を述べるところから始めよう。そこからの方が自分が親しんだ文化圏内だし、論じやすい。そういう意図が見えてくる。もちろん、その、方法論の是非自体は問わねばならない。それはちょっとオタクを莫迦にしすぎていないか? と。
その上で、両名の、本当の主張。〈大きな物語〉の終焉。その結果の物語消費とデータベース的発想の到来である。彼らが評価されるべきことは、この、〈大きな物語〉の終焉の宣言とそのあとの〈物語消費〉〈データベース的物語〉を予言したことである。この点、
http://plaza7.mbn.or.jp/~memo/nikki/nikki2002.5.htmの5月11日が、実に適切な物言いをしている。
うーん、この件に関しては珍しく(いつもか?)東浩紀を支持したい。東の「動物化」の議論はコジェーブを経由したもの。今回の批判には、この前提が抜けている。コジェーブは「歴史の終焉後」についてこんなふうに言っていたという。フクヤマと対談した浅田彰が上手くまとめているから、そこを引用しておこう。
結局、近代社会は、近代国家という単一のイデオロギーの幻想を追いかけ、<大きな物語>を夢想し、小説家をはじめとした創作業の人々は創作という名の自己妄想のオナニーを垂れ流した。近代国家とそのイデオロギーは、世界が複数の物語(価値観)によって構成されていることを忘れ、単一の、唯一の、絶対の、イデオロギー<大きな物語>のみを追いかけていたのだ。
それが、近代社会の終焉、ポストモダンの到来と共に、アイデンティティが揺らぎ、物語は消費され、データベース化されることになったのだろう。
しかしそれは、私から言わせれば、大昔の民間伝承の時代に戻っただけで、人類の本質はなにも変わっていない。むしろ、近代の、理性の勝利、単一のイデオロギーの勝利、作品に対する作家の完全性、作家性の尊重という、一時的な幻想に目がくらんだだけにすぎない。
そりゃ、近代哲学という、大きな物語の国からやってきた人が見れば、データベース的発想、物語消費的発想は極めて衝撃的だと思われるが、ファンタジーの住人からすれば、なにを今更と言いたくなるぐらいの常識的な事実の指摘にしかすぎないのだ。なので、私も、東氏や大塚氏の物言いは、話半分しか信じていない。彼らは、哲学や文学が好きすぎた罰が当たっているのだ(意味不明)。
…ま、色々と書きましたが、要は、なにが気にくわなかったかと言えば、
2ちゃんねるの伝統芸能板を観れば判るように歌舞伎ファンというのはほとんどが役者のミーハーファンで、小難しいことは云わずに江戸時代そのままのじつに正しい態度で愉しんでいる。こういうところにヲタク的教養は確かに受け継がれている。ヲタク文化を論ずる者はきちんとこの<世界>を踏まえるように。この一文である。
判りましたネ。
「この人、また、カーチャとアントニーナ使っています」
なんだよう。なんか悪いかよう。
「べーつーにー。はじめて、カゲムシャ導入できたんでしょ? 良かったじゃない」
うむ。これで、芸能人導入(?)、カゲムシャ導入、カゲ導入とできたわけだ。あとは、クロマク導入とテロリスト導入ができれば!
「無茶言うなよ…」
夜。時間が余ったので、セッションをしようということに。
上海退魔行とブレカナとの二択の結果、私がブレカナのGMを勤めることに。
「ブレカナはブレカナで構わないんだけども、キャラの作り方も判らないし、時間もないから、ちゃちゃっとプレロードで始めようよ」
と、言われたため、PLたちにプレロードをキャラを渡してみる。
「うわっ、なに、この人キモイ」
………はい、反省しています。
いや、なに、その、なんだ。
自分、20キャラ近くキャラクターを作っているから、それをプレロード代わりに使ったんだけども。なんだ、その。自分のキャラって、こう、改めて動きを観ると、実におかしな動きをするんだな(苦笑)。「動きがキモイ」とか言ったら、「コンセプト通りにプレイしているだけだ!」と言い換えされるし…はい、仰るとおりです。
「つーかさ、キャラクターがなぁ」
首切り役人(被差別民)に、コンセプトが女チェザレ・ボルジアの次期枢機卿候補に、黒獅子を連れた遍歴騎士に、鷹を連れ馬上弓を撃つオクタール人(タタール人)の騎士だから、なぁ。全員、そろいもそろって怪しさ大爆発。
「つーか、一番まともなのは、黒獅子を連れた遍歴騎士ってのも、どうよ?」
えー。セッション自体はとても面白い物でして、近いうちに、シナリオと共にプレイレポートを公開してみようかと。火塚のキャラが4人会すると、どういうセッションになるか?(苦笑)
http://www.hotwired.co.jp/nwt/030624/msg00009.html
それで、ですね…うーん。えっと、「人権」じゃなくて、「人格権」と書いた方が良いかと思うのですが。
まあ、「著作権は人権である」とは主張する人を時々見かけますので、そういう人に対して、釘を刺したい気持ちは、何となく分かります。
しかし、いわゆる大陸法系の著作権法は、人権をベースに権利を構成しているわけではなく、人格権をベースに権利を構成しています。人格権と人権とは別物ですので、やはり、真紀奈たんの今回の物の書き方は問題があるかと。いや、重ねて言いますが、真紀奈たんの言いたいことは分かるので、強烈な批判をするつもりはないのですが。
http://www.riaj.or.jp/cgi-bin/press_release.cgi?id=54
http://school.uchida.co.jp/colum/new/index.cfm
http://open.shonan.bunkyo.ac.jp/forum2002/internet-chosakuken.html
http://www.avcc.or.jp/forum/32_kai/html/dai_2/pro.htm
(文化庁著作権課課長岡本薫『マルチメディア時代の著作権』ねえ…今度、読んでみるか)
では、なぜ、「著作権は人権である」という物言いに抵抗を覚えるか。それは、著作権をわざわざ人権と呼ぶことに意味を見いだしにくいからである。「所有権は人権である」と言うぐらい空虚なことであって、無意味なことである。神聖不可侵な財産権(そして、財産権の基盤とも言うべき所有権)といえども、様々な歴史的経緯から制限を受けると同じように、著作権もまた、制限を受けることは当然だからである。特に、著作権が表現の自由の制限として働く限りにおいては。
もちろん、著作権を、財産権としての人権ではなく、表現の自由といった精神的自由としての人権として構成する考え方も充分あり得る。特に、大陸法系の人格権的に構成する著作権制度であれば、13条以下の精神的自由として著作権を構成することになるだろう。
しかし、著作権は同時に、相手の表現の自由を制限するものであり、いくら、著作権が精神的自由であったとしても、無制約に権利を行使することが許されるわけではない。
………って、いま、上記の岡本氏のロジックの素晴らしくおかしなところに気が付いた。いやまあ、氏の文章を読んだ訳じゃないので、確実なことを言えるわけではないのだが。だが、憲法論を勉強した人間であれば、わかるだろう。人権とは、基本的に、国家に対する請求権であり、国民に向けられた請求権ではない。あくまで、国家に対し、人権を侵害するなと言うにとどまり、私人間では、人権は原則その効力を持たない。私人間で人権の効力を持たせるには、私人間効力という特殊なロジックを持ち出す必要があることは、言うまでもなく、法律学、憲法学の基本である。そもそも、フランス革命時に言われた「神聖不可侵な所有権」という物言いは、当時の横暴なフランス国王に向けられた物言いであり、決して、市民間に向けられた物言いではなかったはずだ。そこに、著作権という、どう考えても国家ではなく、私人間、市民間に向けられた法規を、わざわざ人権と主張する必要性が、私には、どうしても見いだせないのだ。そりゃ、確かに、プライバシー権も名誉権も人権だ。だが、それが、民間に向けて主張され、不法行為として請求されるときに、いまさら、わざわざ人権と主張する人間がいるのだろうか? それと同じく、いまさら、著作権を人権と呼ぶ意義が、私にはどうしても見いだせない。
ちなみに、ここで誤解して欲しくはないのだが、私は別に、webで最近大人気のレッシグ教授のシンパではない。なので、著作権法制度がインセンティブ論を前提にしているという説は採用していない。先日の日記でも触れたが、インセンティブ論は政策的判断と言うが、それでは、政策的に許されるのであるならば、著作権はどのようにでも制限できるということになりかねない。内在的制限、内在的限界を導く理論が欠けているのが、インセンティブ論の問題なのである(もちろん、著作権のことの起こりである特許著作権外化にインセンティブ的であったかは理解しているつもりなので、インセンティブ論が出す問題提起には充分に敬意を払うべきであると考えているが)。
そもそも、権利でもないものを保護するはずもなく、そういう意味では、著作権法は間違いなく権利であると考えるべきである。それを、財産権的に把握するのか、人格権的に把握するのかでなお争いはあるであろうが(私自身は、恐らく財産権的に把握すべきだと思う)。
閑話休題。
うーん。真紀奈たん、やっぱり、法人だから人権が認められないってのは、議論として乱暴かと。
あれかなあ。基本的なところでどうかなぁと思うところが散見されるし、これ、突っ込まれること覚悟の上での文章なのかなぁ。
ただやはり、結論から読むと、「著作権を人権と呼ぶ人たちがいる。例えば〜〜」という書き出しの方が良かったかなぁと思うのですが、どうですかね?
今みたいに、人権だから絶対的な物で、そのうえ、財産的ふむ。この文章だと、「人格権としての著作権と財産権としての著作権」の話と「人権としての著作権」の話とを無理矢理くっつけた感じが強いですな。やっぱり。うん、「人格権としての著作権と財産権としての著作権」を都合良く使い分けているという話と、「人権としての著作権」という物言いのおかしさを指摘する話、その両方とも、良く分かるんだけども、ちょっと、結論を急ぎすぎたような気がします。
な運用がされるというよりは、どっちであれよっぽどすっ
きりした形になるし、わかりやすくなると思います。
「手塚信者に通報されるんじゃない?」
…そーね(ぽんと手を叩く)。
ちなみに、この一連の流れについては、著作権コラム第八回「著作権法改正にまつわる三段オチ」にて、持論と解説を行っております。
「金曜日、東地区“ユ”ブロック−16b」
http://chubun.lite.tamacc.chuo-u.ac.jp/saitolab/forum98/yashima/library/sgml/sgml.html
ふーむ。まあ、クリップしておきましょう。
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic/3815/serifu.htm
http://www4.ocn.ne.jp/~temp/
すみません。誰か、つっこんであげてください。
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/index.html
自分にとって、いつか、何かの役に立つだろう。
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~louis-n/newtype/hige/turna000.htm
まだ、第二話までだが、すばらしい分析だ。
http://www.law.co.jp/okamura/nikki.htm
だからどうした、と思う人も多いだろうが、サイト運営者の岡村久道氏は、さりげなく情報法学の権威のひとりだったりする。
いわゆる著名人ではない個人サイトが、こういう場所で紹介されるような時代になったんだなぁと、感動した一日だった。
http://www.hotwired.co.jp/news/news/Culture/story/20011130203.html
http://www.hotwired.co.jp/news/news/culture/story/20011130204.html
http://www.hotwired.co.jp/news/news/20010604203.html
http://www.hotwired.co.jp/news/news/culture/story/20010322207.html
http://civilpro.law.kansai-u.ac.jp/kurita/copyright/article2.html
そういえば、真紀奈たんで紹介されていたな………。
次に、「イメージ等のソースファイルとして他人のファイルを指定することは、著作権法32条の範囲内でのみ許されるべきである」との結論を法学的にどのように説明するかが問題となる。
(中略)
民法の領域であれば、この程度の拡張解釈はよくあることであるが、著作権法の領域で認められるかは問題である(注2)。見解の変更の余地のあることを留保しつつ、一応肯定しておきたい。
あー。そういやそうだ。そもそも、直リンが引用(複製)ではないと結論づけるのであれば、イメージ等のソースファイルとして他人のファイルを指定すること(例えば、人様のサイトにある画像をさながら自分のサイトにある画像のように表示すること)は、何ら違法を構成しないからなぁ。
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/hika/essay/works/copylt.htm
よく調べています。とはいえ、「パッケージ画像使用の可否」「ゲーム評論における画像の引用について」ぐらいは、公平な慣行として自由な引用を認めて欲しいところであります。
http://www.cric.or.jp/qa/multimedia/multi12_qa.html
いまだに、こういう質問をする人って、多いんだよね………。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=182738
まあ、大体そんな感じ。キャラクターの著作権を認めたと思われているサザエさん事件は、むしろ、特殊事例に該当するのだ…と思う。
http://www.jps.gr.jp/kenri/q&a.htm
なんか、誤解や説明不足が酷いんですけども………。
http://www.dj.st44.arena.ne.jp/xwin2/mainhtml/kanto/xkanto00593.html
おもしろいから読んどけ。
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0022.html
織田信長の独断で、常滑焼きを無視して、瀬戸焼のみに特許を与えられた時代ならいざ知らず、現在では、発明者は「特許」を国家から与えられた「恩恵」などと思わず、当然の「権利」と思っているのですから、何を対象として、どうゆう条件を満たしたものを保護するかはっきりさせ、それが実際に守られていることがはっきりしなければ、みんな納得しません。
平成11年10月4日の日本経済新聞に「特許と著作権併用/自社技術保護に活用」という記事
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0001.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0006.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0007.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0012.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0013.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0014.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0015.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0016.html
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0019.html
そういえば、webに入った当初(1999年)、似たようなことを唄ったサイトを見かけて、酷く詐欺的だよなぁと思ったものだ。旧い記事で恐縮だが、結構誤解している人も多そうなので、少し解説を。何故、詐欺的かというと………。
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0018.html
つまり、こういうこと。著作物として公表したとたんに、特許権に言う「新規性」の要件を喪失してしまうからだ。
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0005.html
しかも、ここを読んでいただければわかると思うが、第77条・著作権の登録は、「著作権の移転」を証明するだけで、「著作権の発生」を証明するものではない。それは、条文上も、「移転」の用語があるにとどまり、「発生」の語がないことからも明らかである。これを、法律用語で、公示の原則という。日本法は、ドイツ法などと異なり、登記登録制度において権利の移転を証明する(公示の原則)にとどまり、権利の発生を証明するもの(公信の原則)ではない。これは、日本法の一般原則であり、著作権法でも何ら代わるものではない(もちろん、異説はあるが、判例は公信の原則を採用していない)。
ここで、ではなんで特許や意匠権は登録に権利発生の効果があるのだろうか? という疑念はあるだろう。それは、特許などは、そもそも、登録が権利発生のための要件になっているからで、登録しなければ権利が発生しようがないからだ(それに対して、著作権や不動産取引では、権利の登録なくしても、当然に権利は発生するし、移転する)。
したがって、くだんの記事は、役に立たないどころか、大嘘を教えている可能性すらあるのだ。………うん、著作権の登録が「著作権の発生」を証明しない以上、「周辺技術の保護も可能」なんて物言い、絶対にできるはずないよなぁ………。
詳しくは、昨日紹介したhttp://civilpro.law.kansai-u.ac.jp/kurita/copyright/commentary/Act77.htmlを参考にすると良いだろう。
http://www.techserv.co.jp/kharada/kawaraban/vol0017.html
とはいえ、この問題、実は、ただ、「詐欺的で酷い話」と片づけられる問題ではない。この、「著作権で広く保護」という発想は、知的財産権者を、広く、長く、誘惑し続けてきている。特に、近年の、著作権の成立要件が緩やかなのに対して、バランス論を無視した後半で強力な保護を求める姿勢は、その、最たるものであろう。かつて、アメリカ法を受継し、特許権またはそれに類似した制度での保護を図るべきという議論があったにもかかわらずプログラム著作物を認めてきた歴史的経緯などもある(しかも、その上さらにプログラム特許を認めるのだ)。
おそらく、この問題は、知的財産制度を、広く、長く、今後も苦しめていくことになるだろう。
http://133.46.140.74:8080/Zwiki/FrontPage
http://133.46.140.74:8080/Zwiki/LinKs#other
補足されました。
http://www.u-pat.com/
http://www.u-pat.com/menu.html
判例研究が充実しています。
http://www.cidf.org/japanese/information/docs/cidf-gen-62.pdf
http://www.interq.or.jp/blue/mits/deniiro/aboutlaw.htm
あれ? 確か、紹介の際に引用することも、判例上許されていたと思ったけども…?(いやまあ、直接真正面から認めているわけではないけども)
http://www.chosakuken.org/index.htm
http://www.chosakuken.org/saito.htm
もしかしたら、流通は、クッションであったのかもしれません。重要な指摘。ワリと誤解されているようだが、自分自身は、いまの流通が悪であるとは考えていない。ただ、いまのままの流通では、変化に対応できず、結果、著作権制度自体を空洞化する結果を招くと考えている。
さまざまな手間やコストがかかる面倒なものであるのは確かなのだけれど、それは同時に、多様なチェック機構を持つ、作品が世に出るまでの緩衝機構としても機能していたのかもしれない。
私自身は、著作権使用料を徴収することよりも前に、誰がどういうオリジナル作品を創造したのかという根本部分での「証明」をするシステムが必要ではないかと考えていました。私のいまの関心と非常に近しい考え方を持っている。大切なのは、同一性の保持なのだ。すなわち、現在の著作権法は、コンテンツが同一性を保持し、原則、未来永劫コンテンツが変化し得ないことを前提としている。しかし、デジタルコンテンツは、有体物に化体したコンテンツと異なり、加工が容易であり、その、同一性の保持、証明は困難を極める。デジタルコンテンツが一般化したときに、はたして、現在の著作権法の制度が有効に機能するのか? ひとつ考えなければならないと思われる。
デジタル時代を迎え、あらゆる創作物が簡単にコピーできるようになりました。一方では、出版不況、文芸不振という傾向も進み、コピーの危険性を承知しつつも、インターネットという荒野に表現の場を求めざるをえない作家もたくさんいます。著作権の所在が証明できない状況のまま作品をデジタル配信することは、かなり無謀なことかもしれません。
http://civilpro.law.kansai-u.ac.jp/kurita/copyright/commentary/index.html
webで読める逐条解釈。応援しています。
http://civilpro.law.kansai-u.ac.jp/kurita/copyright/commentary/Act77.html
著作権の登録という、専門家でもなかなか論じない、珍しい研究論文。一読の価値あり。
http://www.big.or.jp/~daba/index/recognition.html
懐かしいなぁ。このサイトが、私の著作権問題の出発点だったんだよなぁ。
http://members.tripod.co.jp/copy_and_copyright/vl/index.html
文献複写の現状と問題点
http://members.tripod.co.jp/copy_and_copyright/opinions/yakugakutoshokan011.html
ふうむ…?
http://www.ndl.go.jp/jp/library/current/no248/doc0006.htm
なるほど、だから図書館のコピーが高いのか。
http://www.benseiren.gr.jp/M1/k_asano/f121.html
>映画はリスクの多い産業であるので
どの産業と比べて、リスクが多いのだろうか? つか、リスクが低い産業なんてあるの???
http://121ware.com/navigate/shopping/campaign/picaichi/
「ウホッ」に、カーソルを合わせてみよう。
http://snap.shot.cx/1024121571
そりゃそーだ。
http://garden7010.tripod.com/trpg/nova/review.html
N◎VAシナリオのレビューという、珍しいサイト。「星明りの通りで」の評価が低いのとか、幾つかを除き、概ね同じ評価かな?
http://www.remus.dti.ne.jp/~multi/column/kinsin.html
個人的には強姦よりはましって思うんだけど、そういう考えがそもそもいかんのか?
「おい。どこに、マネキンが入っているんだ?」
脳内に。
「(物も言わずに刀を抜く)」
………冗談だよ(苦笑)。
マネキンらしく動くこと、オープニングでベットシーンを演出できるキャストであること、がアクト導入の条件らしいので、カーチャでも十分対応可能だったのだろう。マネキン入っていないけども、カーチャ、かなりの駄目女で、かつ、湯気女、地雷女なので。
「ほんっとうに、あんた、そういうキャラ好きだなぁ」
うひ。
そうそう。このアクトで、カーチャの設定が随分と固まった。
カーチャのペルソナがカゲムシャである理由。彼女は演技派女優であり、役になりきって演じるタイプの役者だ。それは、確かにうまい演技なのだが、そこには、真の感動がない。カーチャは、カブキでもカリスマでもないからだ。だから、名脇役として助演女優賞を常にかっさらうけども、決して主演女優にはなれない。ただ、クロマクでもあるので、芸能界には純然たる影響力を及ぼしている。そのため、仕事は常に多忙を極めている。
実は、影武者のアントニーナの方が、演技の才能は上である。アントニーナは、カーチャにはない輝きを持っているのだ(カブキ)。アントニーナがカーチャになりすまして演技をしたときは、実に華がある演技をこなす。そこで、「いやぁ、今日のカーチャちゃん。なんだかいつもとは違う凄味があったねぇ」などと、誉められるのだが、それはアントニーナであり、カーチャではない。そこでカーチャは、「それ、アントニーナの演技なのよ」と、心の中で呟き、荒れるのであった。
………事情を知らない他人からしたら、誉めているのに理由なく荒れるカーチャは、さぞかし扱いずらい女優として認識しているんだろうなぁ。
深夜、ブレカナのGM。「リーゼンスカヤの遊戯」………眠かったためか、今ひとつ波に乗れず。不完全燃焼。
昼、二本目。N◎VAのPL。ウィリアム龍で参加するのだが…三合会と後方処理課との間で板挟みになって危うくキャストが死ぬところだった。久しぶりに、冷や汗もののアクトだった。
とにかく、勇み足や思い違いは即、死を招くと、かなり慎重に立ち回る。適宜、PLレベルでRLに質問を重ね、RLのN◎VAのイメージと自分のN◎VAのイメージとの摺り合わせを図る。口から出任せの嘘は付かず、嘘を付くにしても、最小限度で済ますようにする。手応えがある交渉だった。
再び深夜。三本目。火塚がRLをやる。イヌシナリオ「首輪と犬と葬式と」。
事実関係がかなりややこしいシナリオで、PLには、丁寧な調査とそれなりの推理能力を要求するアクトである。…むむ、ちいと、情報の与え方を誤ったかも…RLがミスリードしてしまった模様。別に、ミスリード自体は良いのだが、そもそもRLからヒントの提供がなければ、そのミスリードは、公平ではない、アンフェアなものと言えるだろう。
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2003/06/19/10.html
http://www4.justnet.ne.jp/~kat/pc/pccase.htm
おまえら素敵すぎます。
http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/cat_aaaaaaaaaa_related.html
>「あ、あのー、きょうのレッシグ先生のレクチャー、ICレコーダーで録音したんですけど、napsterize(つまりMXとかで共有)していいッスか?」
>
>・・・そしたらレッシグさん、シュアー、オフコース、と微笑しながら即答。ナイスガイだぜ!イエス!共有します!
共有って便利な言葉だなぁ…。
http://japan.internet.com/ecnews/20030127/12.html
古い記事でごめんね。
http://dir.yahoo.co.jp/business_and_economy/business_to_business/printing/small_press_comics/
夏に向けて。
http://kodansha.cplaza.ne.jp/digital/it/2003_06_18/index.html
P2Pの仕組みが良くまとまっている…と思う(詳しくないので…)。第一章も必見。
http://www.d-project.jp/advice/copyright/09/main.html
あたりまえっちゃああたりまえなのだが。
http://dotcomboy.hp.infoseek.co.jp/lec2.htm
ノーセメント………
http://hammer.prohosting.com/~kemkem/gen_m.html
個人的には、「ガンダムにお髭はありますか?」「ありません!」を名台詞に加えて欲しい。
http://www.asahi-net.or.jp/~ul1f-hk/stnikki.html
おもしろい。
ピセアダイという若者が
テナンという女の顔を見て
憎まれていると思い込み殺してしまう
そこに神が現れて
彼女の心臓を開いて見せると
彼への愛でいっぱいだった
テナンは愛する時と憎んでいるときの表情が同じだったのだ
http://www.interq.or.jp/jupiter/wilfred/haruna.html
http://areigainonanika.tripod.co.jp/haruna/
http://areigainonanika.tripod.co.jp/haruna/warn.htm
リクエストを解析していたら、懐かしの偽春菜問題を発見。仕事中に読みふける。
あー。問題になっていたのは、あくまでデザインの著作物性なのね。
って、春菜たん、ツインテールにもしていたのかよ!?
なるほど、春菜のツインテールバージョンと偽春菜、確かに似ている…というか、明らかにぱくったとしか思えないのは確かだが………ああ、原稿の判例の基準を用いれば、著作権侵害になる可能性が高いなぁ、確かに。…とはいえ、一部を参考にした結果、全部を著作権侵害にするのは…何となく抵抗を覚えるんだよなぁ。いや、うまく説明できないのがもどかしいんだけども。
http://www.amelia.ne.jp/project/precedentmenu.jsp?type=1&category=1
http://www1.odn.ne.jp/~aac13570/
「マテ」
教会でもまず神様、キリスト、地上の世界ではキリストの代理である教皇様がいらっしゃって、次に上級聖職位(メイジャー・オーダー)である主教(監督/司教)、司祭(長老)、執事(助祭、補祭)そして下級聖職位(マイナー・オーダー)である門番(ポーター)、悪魔払い(エクソシスト)、朗読者(レクター)、侍者(アコライト)が続きます。上級聖職者が三聖職位、下級聖職者が四つの職位です。
「悪魔払い」といっても癒しの賜物をもって奉仕するとか、「門番」と言っても教会の管理という役割があるわけです。
ということだそうです。勉強になりました。
あと、以下のようになっているらしい。
新約聖書時代 [エルサレムやアンテオケの]監督−[教会の]長老−[監督の]執事−信者
東方正教会 4大総主教(府主教・大主教)−主教(監督)−司祭(神父)−輔祭(執事)−信者
カトリック教会 ローマ教皇−枢機卿−司教(首都大司教・大司教)−司祭(神父)−助祭−信者
アングリカン[英国・国]教会(主教制) カンタベリー大主教−主教−司祭−助祭−信者
ルーテル教会(監督制) 教区監督−牧師−信者
改革派・長老教会(長老制) 長老会(主教ならびに執事の廃止)−[各教会の]長老(牧師)−信者
バプテスト教会(会衆制) 組合−[独立した単立の教会の]牧師−信者
http://member.nifty.ne.jp/bintaro/index.htm
http://member.nifty.ne.jp/bintaro/siryousitu.htm
中世の考察に役立つサイト。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Histoly_top.html
ほかの頁の解説も、いつか読もう。
「修道女がゲーゲルに興じて、ピンが倒れた倒れていないと、きゃあきゃあ一喜一憂するのって、可愛いかもー」
と、シナリオを思いつく。いや本当に、この演出をやりたい固めだけにシナリオ作ったようなものだし(爆死)。
新幹線の中、メモ帳にメモを取り、シナリオの細部を煮詰めていった。結構、こだわりのシナリオになりそう。後日公開予定。
http://home.interlink.or.jp/~5c33q4rw/
面白いサイトを見つけた。実に、挑戦的というか、意欲的というか。
このサイトに著作権などという軟弱なる護符は一切存せぬ!当方が徴せしあらゆる文章、画像の無断転載、盗用、すべからく無制限に自由である!!
但し!これだけの出鱈目を支え切れる絶望を裡に宿せぬ諸氏は、迂闊に真似るやたちどころに心身に崩落をきたす!!ご自愛召されよ!!!
と、きたものだ。
いや、貶しているのではない。むしろ、誉めている。
昨今、著作権制度の意義をろくに考えず、「著作権を守りましょう」と、お題目のように唱えているサイトが多い中(しかも、“引用禁止”というような、とんでもない勘違いをして)、自分の意見と、それをなす実行力、そしてなによりも、無理を通して道理(現行制度)を引っ込ませるしたたかな政治力・交渉力を兼ね備えている。
ここで気を付けるべきことは、絶望書店で取り扱っている書籍のほとんどが、古書・希少本の類であること。もはや著作権を主張するような人間がほとんど存在しない以上、著作権侵害と言ったトラブルは発生しにくい。また、仮に、絶望書店のコンテンツを勝手に流用されたところで、絶望書店的には、むしろ、古書・希少本の宣伝となるだけで、何らデメリットが存在しない(その古書・希少本を手に入れたければ、結局、絶望書店にアクセスせざるを得ない)。さらに、「これだけの出鱈目を支え切れる絶望を裡に宿せぬ諸氏は、迂闊に真似るやたちどころに心身に崩落をきたす」という文句。これはすなわち、「無制限に利用したければ、自分で責任をとれよ。わたしゃ責任はとらないからな」という意思表示である。
なかなかどうして、曲者である(絶望書店の方、申し訳ございません。このテキストの文意において最上級の誉め言葉と思ってください)。
日本には版権と著作権というふたつの言葉がある。版権というのは福沢諭吉によるコピーライトの訳語らしいが、もともとは板権から来ているのであろう。板権というのは活字ではなくページを彫り込んだ板木での出版を行っていた江戸時代のその板木に伴う出版社の権利のことである」
「この板権はなかなか強力なもので、『徒然草』だとか『伊勢物語』とかの古典でも最初に出版して板木を持っている出版社以外は本にすることができず、注釈書なども類板として取り締まられるので、江戸初期は無数にあった注釈書が法律と出版社組合が確立した元禄以降はほとんどなくなってしまう」
「一方で弱いながらも著作者の権利はあり、江戸時代の日本には版権と著作権というふたつの概念が明確にあった。明治時代に福沢諭吉が欧米の法律を持ち込んでから、ふたつの概念は曖昧になってしまったが
勉強になった。日本でも似たような法制度があったのか。
「英語ではひとつの言葉しかないからなのか、著作者の人格と不可分と考える大陸法とは違って」とさらり書いているあたり、この方、法学についても相当の知識があるようで、なるほど、相当に博識のようだ。
著作権の話の本質は、創作に関わってないスーツ連中があたかも創り手のためであるのかの如くに主張しながら金とコントロール権を握っている点に尽きる。これは企業が芸術家を搾取しているなんて単純な図式ではなく、創作活動の本質に関わるなかなか厄介な問題ではある」
「より大きい問題は創り手の側がこのような体制に依存していることである。いまや物理的な流通基盤はいくつもあり、『コモンズ』で強調されているような妨害活動などないにも関わらず、旧体制のほうを選び取る創り手がほとんどなのである。レッシグが理想とするような自由な流通チャンネルやイノベーションだのをほんとうの意味で求めている創り手などいないのである
この指摘、実に、そのとおりなわけで。少なくとも火塚個人は、「現在の日本の出版界はブックオフやマンガ喫茶という物理的なインフラがすでに整備されている。ブックオフやマンガ喫茶はいろんな批判に晒されているため、多少の金銭的損失があったとしても既成の本とは別ルートの新しい形態の新刊を扱ったり自ら出版を手がけたりする潜在的動機付けがされている。ここに附け込んで、出版社も取り次ぎも取っ払って自分の本を売り込もうとする書き手がひとりもいない」ことに、非常に強いストレス、苛立ち、歯がゆさを感じている。webの登場によって、創作者は、もっと、自ら主導権を握って発言できるはずなのに、だ。
あるいは、従来の流通形態――出版→取次→書店――を利用するにしても、現在のような、出版社が出版、流通リスクを負担し、収益を回収し、その上で作者に印税を払うという形態ではなく、作者と出版社との、新しいつきあい方、作者と読者との新しい流通の在り方を模索しても良いはずなのだ。それも、作者の主導によって。
繰り返し言おう。現在のような、出版社が出版、流通リスクを負担し、収益を回収し、その上で作者に印税を払うという形態が、唯一でも、絶対でもない。それ以外の出版の在り方は、充分にあり得るのだ。
なにを莫迦な、なにを寝言をと、業界人は私のことを莫迦にするだろう。
しかし実を言えば、現在の形態とはまったく異なる産業・流通の萌芽はすでにある。webプロバイダである。HPがどのように作られるか思い返して欲しい。HPでは、それが有料スペースであれば、作者が、プロバイダに、お金を払って、スペースを借りてコンテンツを公開している。面白いことに、出版に比べプロバイダは、編集もなにもしていない。すなわち、仕事をしていないのに(いやまあ、サーバーの保守という重要な仕事はしていますが)、作者から収益をあげている。これは、出版から観ると、とても考えられないことではないか? プロバイダを出版に置き換えると、出版が、編集作業もせず、(印税を渡すべき)作者からお金を受け取って、コンテンツを公開しているのである。さらに、プロバイダによっては、htmlを組むと言った編集作業を引き受ける代わりに、追加料金を作者から徴収する。ここでは、コンテンツを公開したい作者が、自らの管理の元で金銭支払いを含めたすべてのリスクを背負い、自らの責任によってコンテンツを流通させている(そして、場合によってはそこから収益をあげている)。
であれば、作者が、従来の流通形態を利用して作品を世に問うにしても、自らが金銭支払いを含めたすべてのリスクを背負い、数社の編集プロダクションと交渉し、安くて信頼が置ける編集プロダクションに編集料(コンサルティング料)を払って編集を委ね(信頼が置けるコンテンツを公開したい場合、編集という第三者によるコンサルティングは絶対に必要だ)、数社の印刷業者と交渉し、安くて期日を守る印刷業者に印刷料を払って印刷させ、コンテンツにフィットした営業展開ができる流通に営業を委託して流通させるという方法だって考えられるはずだ。考えてみれば、著作者が、自分のリスクで投資をし、編集料その他の必要経費を支払うという、このようなやり方の法が、余程著作者のための著作権制度という理想に近しいと言えるだろう。記憶が確かであれば、京極夏彦が、上記に似たような体勢を試験的に導入していたはずだ。
http://www.apple.co.jp/solutions/designprint/kyogoku/index.html
http://artifact-jp.com/mt/archives/000102.html
http://www.osawa-office.co.jp/
(うーむ、どこかで、大極宮がイニシアティブを取って出版社と交渉に当たっているという記事を読んだのだが…)
もちろん、現状において、このような流通をなしえるのは、京極夏彦のように、資金・実力・信頼を兼ね備えていないと難しいだろう(あるいは、著作と出版が一体化した法人著作)。だがしかし、現在のように出版のみが出版リスクを負うのではなく、例えば、流通主導でコンテンツを配信したり、書店主導でコンテンツを配信したり、もちろん、作者主導でコンテンツを配信したりしても良いはずなのだ。流通主導でコンテンツを配信する場合、例えば、財団や組合、委員会のような組織編成をして、作者に作成から流通までの資金を投資するといったようなやり方もあっても良いはずだ。従来のように出版社が作者に印税を払うのではなく、流通自身は作者からの流通の委託を受けコンテンツ配信で収益を上げる。この際、収益を上げ、リスクを背負う主体は、あくまで作者自身である。…という、新しい流通の在り方はないものかと、一時期考えたことがありまして、もし、使えそうだと思われる実業家の方がいましたら、是非。
以上が、私が妄想する世界なのだが、現実社会はそう甘くはない。生きていくためにはパンを食べなければならないわけで、作者といえども、その日を凌ぐために小銭を稼ぐ必要がある。結局、博打など打てるはずもなく、現在の流通形態に頼らざるを得ない。その点、高橋氏の指摘は実に、その通りだと思うわけだ。私が高橋氏に論争を持ちかけつつも、決定的なところで強くものを言えなかったあたり、そこら辺に起因する。「明日からペンじゃ食べていけなくなるかもしれないけど、頑張ってください」なんて気楽には言えない。特に、ペンで食べている人に対して。
絶望書店は、「無駄に多いスーツ連中を喰わせるためにより多くの部数を掃かなくてはならなくなり、そのためには最大公約数的な無難な内容に中身を薄めないといけないという問題もある。もともと、本などというのは1000部も売れれば採算が取れるはずなのだが無理を強いられることになるし、またいろいろ口出しをされることになる」と言う。それは、もっともな話だ。
しかし、だからと言って、「それ以上、儲けることを諦めろ」と言えるわけではなく、また、自分の作品をより多くの人々に知らしめたいという、作者の欲望を否定する気にも更々なれない。大部数の生産は、それぞれの単価のコストをそれだけ引き下げているという事実は忘れてはならない。その意味において、作者が「無駄なスーツ連中」と連む意義と実益が存在するわけだ(これは、皮肉抜き)。
高橋氏の「【既得権益】先人が長い時間をかけて築き上げ今たくさんの人間を養っている経済構造を、ただ古いという理由で否定したいときに使われる万能のレッテル。それに変わる新しい構造が具体的にどのようなもので何人を養うポテンシャルがあるのか示されることは、きわめて少ない。ただ乗りしているインフラもまた既得権益に支えられているのだということについては、たいてい見ないふり。」という物言い。人によってはカチンとくるかもしれないが、私自身は、いまだ良策を思いつけていない自分に対する自戒の念として受け取っている。バランスがよい解決策を思いつくか、創作業によって禄を噛んでいる人々を切り捨てる決断をするその日まで。
(2003/06/23追記:「そうじゃなくて 他人の収益モデルを破壊していると言うことが問題なのだと。ピッキングツールや盗聴マイクがどれだけ売れてようが、それはそれこれはこれだろう。俺たちはエロゲを作りながらP2P違法ファイル交換ソフトを作って生計を立てなきゃいけないのか?」と、ご立腹の模様。そーなんだよなぁ。それが、問題なんだよなぁ。いっそ、コンテンツビジネス全体を既得権益と一刀両断した方がいくらか楽か(苦笑))
著作権制度とは、詰まるところ、著作物流通をコントロールする制度である。本来、占有という状況が発生せず、そのため、占有権を前提とした所有権という概念も成立し得ないコンテンツ情報において(したがって、私個人は、知的所有権というものの言い方は的はずれだと思っている)、占有状態が生じ得ないが故に著作権という制度を擬態し、利益の独占を認めたものである。占有という独占状態が発生しないが故に、著作権制度によって利益の独占を認めているのだ。
「人からものを盗むのが犯罪であるのと同じように、著作権を侵害するのもまた犯罪である」という論調を最近耳にするが(著作権団体などが好んで使うフレーズだ)、そもそも、有体物の窃盗と異なり、著作権の窃盗は規範意識を喚起しにくい。有体物の窃盗は占有という独占状態に対する侵害であり、占有を奪われれば占有者はその有体物から利益を上げることは叶わず、占有権原を持たない窃盗者が一方的に利益を上げるという意味で、その侵害形態は一目瞭然であり、規範意識を喚起しやすい(違法と認識されやすい)。有体物から利益を上げるには占有が必須である以上、窃盗者によって占有を奪われれば、本来の占有者の利益は0になり、窃盗者は100丸々の利益を得るため、窃盗の違法性は素直に受け入れられるであろう。
一方、著作権制度がなくても、(著作物の占有という状態が発生しない以上、)著作者は著作物から(利益の独占はできなくても)利益を上げることは可能である(0ではない)。著作物とは本来複製が容易であり、著作物の占有という状態はそもそも考えられず、著作物から収益を上げるためには著作物の占有という状態を作り出す必要もない。したがって、有体物の窃盗のように、本来の占有者の利益は0になり、窃盗者は100丸々の利益を得るような状況はおよそ発生し得ず、そこでは、著作権の窃盗の違法性を是認するにはいささかの抵抗を覚える人間が一定数発生しうる。特に、独自のルートから同じ情報を入手した人間にとって、自分を盗人と呼び、その情報を著作権によって独占させる著作権制度に対しては強い抵抗感を覚えざるを得ないであろう(法的に言えば、独自のルートから同じ情報を得た人間には窃盗の故意はなく、当該著作権は及ばないのだが、それを裁判所で証明できなければ意味がないため、このように敢えて言うことにする)。
現行著作権も、板権、版権の時代から大して進歩しておらず、結局のところ、複製権中心の把握、複製のコントロールによる流通管理という仕組みから離脱していないということなのだろう。この、複製権中心の著作権法制を何とかできないかと考えているのだが…さて、うまい方法が一向に思いつかないあたりが非常に憂鬱である。
もちろん、複製権中心主義のなにが悪いという意見もあるし、現行法上それ以外あり得ないし、ほかによい代案が思いつかない以上、どうしようもない。
しかし、なんども言うように、コンテンツ創造とはすなわち、模倣であり、複製であり、アイディアの拝借である。著作物がコピーしコピーされることが宿命的なものと言えよう。重ねて、情報コンテンツの独占は表現の自由にとって重大な問題となる。金銭を払わないと反論すらままならないというのは、大いなる問題だろう。素朴に思うことは、デットコピーは問題だけども、もうすこし、現行よりも広く複製を利用者に認められないのか? ということである。コピーすることって、そんなに悪いことなのだろうか? 私的複製という形で日常的に行われているのにもかかわらず、だ(いやまあ、要件が違うと言われればそれまでだが)。
ああそうか。ここで、「複製」という言葉の意味がずれているのかもしれない。
いわゆる、著作権者側が「複製」という言葉を使うときは、デットコピーの意味に近く使っているのに対し、私が「複製」という言葉を使うときは、利用の意味に近く使っているようだ。………ふむ、どうりで、話が噛み合わないものだな…。しかし、著作物の一部複製の問題を考えたとき、その複製の態様は、利用の意味に近づくこともまた事実であり、留意しなければならないことなのである。
http://www.linkclub.or.jp/~soreha/wrindex.htm
http://sheepman.parfait.ne.jp/20030501.html
忘れないようにクリップ。時間ができたら調べよう(そしてそのままお蔵入り…)。
『プラトーン』
物語的にどうこうとか言う前に、ドキュメンタリータッチに優れた映画って奴なのかしら? 普通に為になりました。
独白台詞があまり胸に刺さってこない。ベトナム戦争を体験していないから、だろうか?
『ロッキー』
シルベスター・スタローンのあれ。「エイドリアーン!」のあれ。
1976年度…うへ、私が生まれた次の年に公開されたのか、この映画?
内容は…つまんないですな、これは。いかにも、ベタベタなアメリカンドリームの勉強にはなりましたが。
個人的には、きれいになる前の、いわゆる眼鏡ブスのエイドリアンの様に仄かに思うところがあったり。うひ。
http://www.asahi-net.or.jp/~yy2k-mrt/boycott_konami/#20010120B
懐かしいお話ですなぁ。
会社が終わって、速攻で、横浜におじゃまする。
「背広着たまま」
なにか、文句ある?
「いえ、なにも?」
クレアータSSSやりたーい。
「莫迦だ………」
のち、RLをせがまれたので、N◎VAの新作「スナッフ」をプレイ。
反応は上々。よしよし。
隣では、N◎VAのタタラSSSをプレイ中。
茶々を入れながらセッションを鑑賞してみたり。あ、PLのひとりが暴れ出した…。
「SF気取るんなら、嘘のつき方を一から勉強し直してこい!」
あー。まあ、理系の人だからなぁ。その主張、わからなくもないぞ。
好意的に受け取れば、N◎VAの最後の公式シナリオでよくぞSF的ネタを扱ってくれた(一応、自分はこの立場)。
悪意を持って解釈すれば、「そりゃ、ガジェットとしてのSFであって、テーマ、文脈としてのSFじゃない」といったところか。私がファンタジーに対して辛口評価に成らざるを得ないのと、同じ理屈かしら(苦笑)。
………うーん。あんまり筋の良い判決じゃないかも…骨太じゃないんですよ、書き方が。
損害論の根本に遡ってとか、そういう判決じゃなくて、条文の文理解釈で門前払いした感じ。こういう判決の書き方だと、「なにもそこまで厳密に解釈しないでも」という反感を買いそう(確かに厳密な解釈すぎるのは問題ではありますけど……)。
立法の経緯に触れているけども、「立法は、こういう風に作られました」と言うだけで、何故、その立法過程にしたがわなければならないのかってあたりにきちんと答えていない。ていうか、経緯に触れるのなら、きちんと説明が必要でしょうに。。。
まあ、「これら憲法上の権利に係る守秘義務の解除については明確な規定を要し、安易な拡張解釈は許されない」としているのは評価できますが。。。判決を否定する人間にがつんと届く理由付けになっているとは到底思えません…。
以上、判決に対する愚痴でした。
追記:件の判決が金融商事判例1168号8頁に掲載されていました。興味のある方は、各自、要チェキりゅん☆
『CHAINS of FORTUNE』の話を少し。
ヘレナ、いい女じゃん。享楽的で、虚栄心に飛んで、家庭的で、友達思いで、権力的で、自尊心が強いけども、宗教家としての慈愛に満ちている(まあ、部下になる方としてはたまったものじゃないけども)。どうせ宗教家キャラをやるなら、ああいうキャラをやりたいと思った。血が通った人間らしくて好意が持てるし、破戒僧というほど世を疎んでいないし、狂信者のような人の話を聞かない奴でもない。人格者、聖者というほど清らかな人間ではないけども、神の威光の前にひれ伏す感性を持っているからこそ、聖職者をしている。ひとりの矮小であると同時に、尊敬できる立派な人間がそこにいる。
ちなみにヘレナ、一応新派であるが、その思想信条は、典型的な旧派の聖職者に近いと思われる。キリスト教においては、教会>聖典(←比喩的なニュアンスで捕らえてください。もちろん、思想信条としては聖典の方が常に優先します)である旧派は、ある意味、現実的な発想になるのに対し、新派は、本来はがちがちの聖典主義(教会<聖典)になり、どうしても現実と乖離しがちである。したがって、公娼制度や公式賭博を認めるのは、かなり旧派に親近する。「旧派の高位聖職者のような服装を好む」とか書いてあるし(195頁)。
そもそも、現実のキリスト教で旧派に異端審問が発生したのも、自己を正当化し、理論立て、新派との抗争に勝ち抜くために先鋭化した結果である。異端審問の苛烈さならば、アメリカの実例を観てみればわかるが、新派も負けておらず、むしろ苛烈な側面もあった(確か、史実で最後の火炙りはアメリカの新派だったはず…)。
新派は、人間主義的で戒律が緩い、という印象を持っている人も多そうだが、現実のキリスト教をモチーフにする限りはその印象は誤りだろう。いわゆるカルト教団(理論的にはプロテスタントである)が原書主義、聖典主義に走り、しばしば極めて厳しい戒律を持つことは、言うまでもない。
その一方で、プロテスタントから人間中心主義的な発想が生まれたのは事実だが、だからといって、プロテスタントの戒律が一律に緩やかなことは決してない。プロテスタントは、カトリックのように権威主義に落ち込まない一方で、原理主義になりやすいのだ。
もちろん、旧派に比べて新派の方が明らかに緩いところはある。新派においては、聖典に書いていない事項については、そもそも戒律が存在しない。だからこそ、階級制度は、旧派に比べれば驚くほど緩やかになるわけだ。
プロテスタントの場合、信徒と聖職者との間に厳密な区別はない。すなわち、耕す人と祈る人という分化がなされない。神へいたる道として、信徒にも使徒的生活を求める。結果、厳格な戒律を求めることになる。カソリックなら、信徒が酒を呑んでいても小言程度で終わることが多いのに対し、プロテスタントは、戒律を破った! とかいう話にもなりかねない。例えば、アメリカの禁酒法も、プロテスタントの一派の市民運動が引き金になっている…はずだ(ソース確かめられず)。
まあ、そもそも、ブレダ国教会は、実体としては、旧派に近しいと思うのだが。
すなわち、現実の、英国国教会とカソリックとの関係のように、ブレダ国教会は明らかにガイリングの政治的目的を達成するために造られた教会と思われる。実際は、ブレダが正真教会の守護者であるエステルランドの王であると宣言した方がより確実なのだが、おそらく、旧体制を毛嫌いする変革の王ガイリングのこと。次善の策として、旧派に対抗するために、旧派教会の財産を没収しつつ、旧派教会に思想・精神的に対抗すべく、ブレダ国教会を起こしたのであろう。したがって、ブレダ国教会は基本的にどこまでもガイリングに都合がよいものであり、王権の宗権に対する優越を確立する一方、効率よく組織運営をする関係上、その組織形態は、かなりの部分、旧派を模倣していると思われる。ヘレナの一連の改革運動も、一応は新派的に信徒に賭博の自粛などを求めたもののうまくいかず、盟友ガイリングの政治的要求に応えるべく選択した妥協の産物なのであろう。
んで、その、新派であって新派的じゃないヘレナの振る舞いに僕はもうノックダウンさ。
「とか言うから、例の女学院因果律『tatuya御用達だなー』とか言われるの」
しくしく…。
結論から言えば、ことさら否定する気はないな。こと、ブレカナにおいては。
「ぉぃ」
だってなぁ。ほかが、普通に格好いいキャラを作っていようが、俺(E)だろうが、関係なく、中世騎士道物語なキャラとか魔女キャラとかカルヴァン派司祭とかファンタジーストライクなキャラしか作らない男だぜ。GMの時も、どんな萌えキャラが持ち込まれてもゴーイングマイウェイで中世の城や晩餐会の描写を始める男だからな。じっくりと時間を掛けて貧相な晩餐会を描写したらPLたちからストップが掛かったこともあった(苦笑)。
「 少 し は 空 気 を 読 め 」
もちろん常に、最大限の譲歩はしている(はずだ。最近は(苦笑))。少なくとも、人のプレイングを否定するような言動は慎んでいるし。とはいえ、ファンタジー、英雄譚、中世ヨーロッパ、中世騎士道な雰囲気だけは絶対に譲れない。さながら、自分がシーンプレイヤーになった途端に、シーンセッティングで森の中の泉を出して中世騎士道物語を始めたように。そういう雰囲気に浸れるゲームはブレカナだけなので、更々譲る気はない。ペンドラゴンって手もあるけど、アレはアレで、騎士しか原則できない上にキャラメイクがかったるい(苦笑)。普通に格好いいキャラや俺(E)キャラや萌えキャラだったら、アルシャードやD&Dでどうぞ、と思うわけで。
「難儀なやっちゃなぁ」
ブレカナだけですよ? 神の名の下に殺戮者を殺せるようなシステムなんて?
最近は、実は、ブレカナのGMはほとんどしていない。ファンタジーの雰囲気を伝えきる自信がない、より正確に言えば、そういう雰囲気をPLに楽しませる自信がないからだ。批判されたとおり、自分のシナリオは殺戮者を殺す“人間的な”動機に欠けるシナリオが多い。
自作シナリオと言うと、「人魚姫」「英雄の勤め」「竜殺し」「モンテギュールの翼」「ヴァングリートの狼」「ギーゼブルクの空」「リューデスバーデンの槍試合」「リンデンブルクの騎士」「ノーゼンホルムの魔女」「セノビアの異端」か…おや、結構あるな。
そのなかで、完全に失敗したのは、「英雄の勤め」「セノビアの異端」。殺戮者を殺す殺さないどうこう言う前に、シナリオが破綻していた(苦笑)。なので、このシナリオをプレイした方はゴメンナサイ。
問題は、人間的動機の欠如。実はこれ、私、結構故意的にやっている節がある。なんでかと言うと、神の善悪と人間の善悪とは異なるもので、それがブレカナの魅力であると同時に、ブレカナの主題のひとつであると考えているためだ。殺戮者は、殺戮者であるが故に、物語を終わらせるために殺される。そんな、理不尽な存在だと思っているのだ。“殺戮者”と“刻まれし者”との差は紙一重にすぎず、その差は、それこそ、NPCかPCかの差でしかないほど、理不尽なものであると考えているのだ。それこそが神の神秘であり、人が決して近づけない神の領域であり、私は、そういう何かを体験、体感、再現、表現したいと常々考えているのだ(PL、GM関わらず)。…ほかの参加者が、そんなものをブレカナに求めていないことは承知の上でね。だから、最近はGMをあまりやら(れ)ないのよ(苦笑)。
GMよりは、むしろPLで参加した方がほかの参加者に実害が少なくてすむ。PLが影響を及ぼせるのは、己がシーンプレイヤーである範囲にとどまるからだ。だから、最近は専らPLしかしていない。色々と逝けてるキャラを投入していたおかげで、どんなに難しい立ち位置でもこなしてみせる自信もついた。真面目な話、導入らしい導入がない導入でも、殺戮者の友人で殺戮者を殺す動機が乏しい導入でも、殺戮者側の立ち位置から始まりあとで悔悟して(なので、最初はむしろ悪役)殺戮者と戦うような導入でも、社会的地位に縛られて身動きができないような導入でも、導入が前世で現世で動く動機が全くないような導入でも、こなします。むしろ、やらせてください(笑)。嬉々としてやりますぜ、“気狂いジョアンナ”で(笑)。
「マテ」
別に、“聖女”マドレーヌでも“女騎士”アンネローゼでも“次期枢機卿候補”アンジェでも構いませんぜ、旦那。
「だから、そこら辺の時速300キロを振り切るようなキャラはヤメロ」
大丈夫。どのキャラもブレーキはあるよ。神の声とか、主に外部パーツを用いて。
「キャラ内部で反省するとかしないのね…」
うひ。
『CHAINS of FORTUNE』については、ひとつ、言っておかねばならない、重要なことがある。
ふたなり重要。
ファンタジーにおける極めて重要なファクターだ。故に、彼の因果律は絶対的に正しい。というか、私は大好き。ファンタジーとは倒錯の文学だ。倒錯。白は黒となり、黒は白となる。真実と虚偽の区別はあやふやとなり、下手な考え休むに似たり、身も蓋もない事実だけが世界を改変する力を持つ。だからこそ、ファンタジーでは男が女装し、女であるはずの身体には男の男性器が付き、お髭のホワイトドールの操縦者は「ローラ! ローラ!」と呼びかけられ、ウテナはアンシーに恋愛奉仕をなすのです。「永遠はあるよ、ここにあるよ」と言われるだけで永遠の世界は存在し、千尋は「駄目だよお婆ちゃん。ここにはお父さんもお母さんもいないもの」というメタな会話をするのである(錯乱中)。
「落ち着け。何が言いたい」
『CHAINS of FORTUNE』を読み返した結論として、因果律、嘆くほど出来が酷い訳じゃなく、薫り漂う因果律は半分ぐらいはある。魔神の項や年表、ヘレナをはじめとするNPCリストを合わせて考えれば、充分にお買い得なサプリメントと言えるだろう。
先日は、因果律は本当にぱらっと観ただけだったから、不正確なことを書いたなぁと反省しています。いや、先日の日記も、因果律はどうかなぁとかいた記憶はあるのだけども、サプリメント全体をそう酷く貶した記憶はないのだが…(苦笑)。どうかしら? 某巨大掲示板の方々?
確かに、白田先生の指摘のとおり、これからの時代、世界派より中世に近づくのではないかと思っている。国家というコミュニティの解体により、人々の意識、規範は解体され、たくさんの、小規模なコミュニティの緩やかな繋がりによって世界は構成される。それを可能とするのがまさに、webの存在である。
しかし同時に、コミュニティの緩やかな繋がりは、人々の意識に、細やかな、しかしであるがゆえに決定的な意識・認識の相違を生み出す。世界は、幾万もの地域コミュニティ、思想コミュニティに分断され、その、世界認識、法規範、倫理観を異にする。
それは、さながら、地域コミュニティが重視され、国家帰属の意識を持ち得なかった中世ヨーロッパ、封建社会に酷似するであろう。
そして、中世ヨーロッパの法律において最も重要だったのが、異なる法規範、異なるコミュニティに属する旅人などを、いかにして裁判で裁くかであった。法廷地主義。法廷が存在するテリトリーの中では、その法廷の法規範によって処罰するという考え方もあり得るが、中世の法規範はそれを採用しなかった。なぜならば、法とは、市民に知らしめてはじめて実効性、説得力を有するものであり、そのコミュニティに存在しないもの、すなわち、法を知り得ない者をその法規によって裁くことは、自らのアイデンティティ(「法を知らしめよ」)の否定にも繋がるからである。また、法廷地方を採用することは、異なるコミュニティに旅した同胞が、自らが知り得ない異なるコミュニティの法規範によって罰せられるという可能性を承認することに繋がる。これは、恐怖である。そこで、ヨーロッパでは、準拠法という概念が発達し、その法律行為が準拠すべき法規範を確定する作業が発達することになった。そしてこれは同時に、多の法規範、多のコミュニティの尊重にも繋がる。これは、コミュニティが解体されつつある現代web社会にも妥当するであろう。
んで、真紀奈たんが現在、webの慣習法を集めているようなので、一点、アドバイス。
初期ネットに仲裁機関みたいなものは存在したか? 例えば、掲示板でのトラブルとかの仲裁を専門でなすような、機関…でなければ個人がいたか?
なぜ、そんなことを聞くかというと、以下の通り。
学説次第だけども、結局、法とは裁判所(仲裁者)の規範である。あるいは、裁判所(仲裁者)で認定されてはじめて法規範となる。裁判所がない村でも、慣習法に則り、長老が仲裁していた。法ってのは、そういう仲裁者の周りに集積されるものではないか?
私はそう考えるので、そういう、ネットの仲裁者を捜し出して、インタビューしてケーススタディを聞き集めると良いかもしれないと思う。
もしかすると、そこでの仲裁者のケーススタディは、恣意に満ちていて、とても規範たり得ないと思うかもしれない。
しかし、その、恣意でよいのだ。
恣意であっても、その場はそれで収まった以上、その場ではその恣意は妥当な判断だったはずであり、そこには必ず、(意識無意識はともかくも)説得的な理由が存在したはずである。その、恣意の蓄積の中から、法規範を発見できるのではないかと思うのだ。
多くの人間は、法規範とは、与えられるものだと思うだろう。だがしかし、(学説によって異なるけども)本当は、法規範とは、裁判官や市民たちが、蓄積し、発見し、発明するものなのだ。そして、それこそまさに、白田先生が連載で言おうとしていることではないかと思うのだ(「もちろん、私が自分自身を偉大なブラクトンに並び立つような法律家だと思ってるわけじゃない。たぶん、ブラクトンの前に100人(てきとーな推定)くらいの平凡な修道士やら哲学者あたりが自分の知る限りの法をチョコチョコとノートしてたりしたに違いない。そして、そうした人たちのバラバラの仕事を、その卓越した学識でまとめたあげたのがブラクトンなんだと思う」)。
「と、調べもしない男が無責任な発言を試みてみる」
うひ。ちょっとね。自分の興味とは微妙にずれるので。…いや、興味自体はあるんだけども(苦笑)。
まあ、これは、私の「法規範=仲裁者の恣意の蓄積」というイメージによる提言なのだが…それほどはずれているものではないとは思う。
ん…ああでも、微妙に、白田先生が考えていることとずれているかも(「ここでやろうとしていることは、法律学の世界で絶対の「禁じ手」である立法論、すなわち法律を作ったり改正したりしましょうという提案どころか、さらに立法論からも相手にされないような「法ですらない慣習」に関する法的な、あくまでも「的」な考察でしかないから」)。ふうむ。法ですらない慣習を集めようとしているのであれば、仲裁者にインタビューをする必要はないのかしら?
…どうなんでしょう? 白田先生?
「tatuyaの中の人も大変だなぁ」
在庫一斉処分セール? と思わんばかりに、重要なコネクションが次々と敵ゲストとして死んでいく。ちょっと、おざなりすぎませんか(苦笑)。
でも、シナリオそれ自体は面白いです。半角カタカナになりますが(苦笑)。SSSの集大成、N◎VAの十年を振り返るに値する、そんな、壮大なシナリオでした。
「FEARの中の人も大変だなぁ」
追加アウトフィットが凄いことに…。
…つか、なに、この、100点以上の業物の数々は? これってやっぱり、4thに移行する前に経験点を使いきれって、FEARのお達し?
如何にも時間がなかったんだろうなぁという、おざなりなデータ群。「サポートシステム」などネーミングに捻りが無く、まんまなネーミングなんだものなぁ(苦笑)。いつもであれば、業物の由来とかで雰囲気を出しているのだが、今回はそれすらない。…本当に、時間がなかったのね…ちなみに、貶していない。むしろ、出版をやっている者として、そのつらさ、修羅場っぷりが何となくわかる感じ。
ふと、時計を観ると、まだ6時前。昼前にはじめて、二本で6時間弱…うわ、はやっ!?
時間が余ったので、もう一本。火塚の新作テーマタロットヒルコ「スナッフ」。
最低で、低俗なシナリオ。大切な人がスナッフムービー(殺人ビデオ)に出演した(要は、殺された)ヒルコ。ヒルコ密売など、最低のファッキンなビズをこなすフィクサーの相棒。家出少女たちの補導にかり出されるやる気のないイヌ。どうしようもないグズどもの、最低でくだらない即興曲。まさに、低俗と呼ぶに相応しいセッションだった(鮫笑)。セッションも、二時間も掛からなかったし(苦笑)。
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