ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、hiduka@hotmail.comにお願い申し上げます。
その後、適当に飯田橋まで歩き、酒が足りないからと、また、適当な蕎麦屋に入って、酒と蕎麦を喰らう。銀ムツの焼き物とキスの湯葉巻き揚で、ビールを飲む。うまうま。
そして、いま現在、私は、自宅にて、三杯目の蕎麦を待っているのであった…。
追伸:自宅で食べた、鰊蕎麦も、乙でした。
追伸2:秋葉原では、物欲に負け、DVDを10本購入。計2万円也。…DVDも安くなったなぁ。七人のサムライを7000円で売るのではなく、邦画も、少しは見習ってもらいたいぞ。
その後、久しぶりにあった、TRPGの知り合いと打ち上げに行く。自由が丘の中華料理屋で食事をする。食い放題で、酒を入れても大体3000円で御名合羽衣食べられるってのは、なかなか良い感じ。店内も奇麗で、食事もそこそこ美味しかった。また、来よう。
「えっと、RARUです」
「ああ、RARU様ですか」
暫くのち…あれ? そういえば、桂氏の交友関係をよくよく思い返してみると…? って、もしかして、ARU氏ですか? ああ、もう、すみません。いつもいつも、オフラインでお世話になっているのに、もしかして、私、凄く失礼なことをしたかもしれません(涙)。しまった、ならばもっとじっくり話したかったなぁ(涙)。
C.F.氏「豆満江開発機構の旗を立てれば良かったなぁ『このスペースは豆満江開発機構が乗っ取りました』って。残念なことに、旗を忘れたんだよなぁ」
軒を貸して母屋を乗っ取るとは、このことか!?
「はいそこ、真っ白に燃え尽きない」
昨日の夜、酒を呑んだあと、自宅で夜10:00から深夜1:00まで、仮眠をとる。
その後、起き出し、最後の校正作業を始める。表紙や裏表紙、目次やあとがきなどのレイアウトを作成する。…気がついたら、朝だった。最後のチェックやイラスト描きなどをこなし、ついでに、思い出したように修士論文の構成もおざなりにすませて、2:00ごろ、コピーセンターに行く。無料配布を良いことに、大きく、シナリオ集80部、修士論文50部を刷る。
んで、Na3氏を呼びだし、製本を手伝わせ、そのあと呑みに行く(ぉぃ)。
昨日の、串キャベツが美味しい店。
店ではまあ、馬鹿話とか馬鹿話とか馬鹿話とか。そこでの謎会話。
「チェキはチェキらしく、兄やでも囲ってハァハァしていなさいってこった」
「兄や、戦争は数ですよ」
…うわ、すっげえ、むかつく。
「ところでNa3氏」
「ん?」
「あの、この、会計4600円とは、なんでしょうか?」
「安いな」
「え、うそ、まじ? だって、私、この間ひとりで呑んで、4800円ぐらい…」
「アンタは食い過ぎだ」
「キャラ設定に、バストサイズがAカップとか明記され、あまつさえ、それが裁判所に資料として提出されるあたり、どうにもこうにも(苦笑)」
どうにもこうにも(苦笑)。…ほー、ガンホーが、一枚噛んでいるんだ。ラグナロク以外にも、色々と手がけていたんだ。
ちなみに事件は、身内同士のつまんないいちゃもん話。はじめは別会社と協力して商品開発する予定が、結局、ガンホーと組んで販売することになった。そこで、元々の会社が激怒、企画初段階の著作物の著作権を侵害したと主張し、訴えた事件だ。
ふむ、私が今回書こうとしているティアリングサーガ事件と本質を同じくしているようだ。つーか、それは、著作権の問題じゃなくて、計画がある程度に詰まった段階でパートナーを帰ることがビジネスの仁義に適うか、どのようなビジネス慣行が適正か、という問題に過ぎないと思うのだが…(苦笑)。
(2003/01/04訂正)
バーチャルネット法律娘 真紀奈17歳:ここでいうガンホー社はラグナロクのガンホー社とは違います
とのこと、深くお詫びし、訂正いたします。
帰宅前に、例の物を購入。
しかし、年末までスケジュールびっちり故に、封印決定。
コミケに向け、同人情報を準備。
追記:いま思い当たった。そういえば、疲れが最高潮に達していたのか、集中力を欠いていたような気がする…。シーンの描写が、どうにもおざなりだった。シーン描写(特に、シーンの背景やシーン立ち上げの描写など、そういう周辺領域の描写)が雑だと、シナリオって盛り上がりに欠けるんだなぁ。
まぁいいや。面白いシナリオになるという確信は持てたので、先日作ってテストプレイしたっきり放置してあったイヌシナリオ「聖グラディウシア騎士団改め『犬と首輪と葬式と』」と合わせて、冬休み中に、一気に書き上げよう。
昼頃。N◎VAでPLで参加する。2時間程度のお手軽なシナリオだ。春子ジョースターで適当にぎらつきつつ、ワリといい気になる。
…春子は相変わらず、演出が安定していないなぁ。
どうにも、警官の仕事に対するスタンスが不明だ。
ただまぁ、前回学んだことと合わせて、今回わかったのだが、基本的に、春子は戦場の人間らしい。戦場の血しぶきと硝煙との香りが似合う女だ。ベリアルというハンドルに相応しい、戦場の悪魔だ。敵には苛烈に対処し、女子供でもそれが職務であれば情け容赦なく銃を向ける。
そんな女性が戦場から逃げ出すようにN◎VAに渡り、なぜ、警官となったのか?
おそらくは、娘の為なのだろう。放任主義にも近いが、娘と春子との間には確かに親子の縁がある。それが、春子がここで警官をしている理由なのだろう。
春子はいま現在機動捜査課に所属しているが、元々、少年課に所属していた。それはきっと、戦場を思い出したくないからだったのだろう。それが、冴子の説得に負け、いまの軌道捜査課に所属している。はじめのころは牙を忘れ、平和ボケしていたが、様々な危険な任務に従事し、その腕前を取り戻しつつあるようだ(100点以上経験点を積み上げてしまった)。
なるほど、そこら辺に、春子の軌道捜査課に対する職務態度を理解する鍵があるのかもしれない。
「莫迦?」
うーん。莫迦だろうなぁ。
いやなにせ、参加者が部屋に入って開口一番、私に対して「ばーか」とお言葉をかけてきたので。
「…は?」
ああいや、実は、私が今度コミケに出展するシナリオ集収録の「月が、狂う」というシナリオを、昨日プレイしていたらしいのだが(テストプレイという奴だ)、その、シナリオ展開のあまりの莫迦さ加減(←誉め言葉)に、思わず昨日、全員で制作者である私に向かって「ばーか」とか言っていたらしい(苦笑)。
「携帯に電話して『ばーか』とか言おうと思ったけども」
「いや、その時間、おれ、仕事中」
「ええ、そのように窺っていたので、やめまして(笑)」
やまあ、なんでかっつーと、そういう、お馬鹿な演出がシナリオで何カ所かありまして。でも、その人も言っていたけども、シナリオ自体はとても面白いし、その演出ないとシナリオ面白くならないし。っていうか、シナリオとしては傑作のできだとは自負するわけでして(ごにょごにょ)。コミケで配りますので、みなさん、是非、遊んでやってください。
「ばーか」
ああ!?
閑話休題。
で、セッションなのだが…うーん、正直、ゴメンナサイ。
自分のテンションがいまひとつ低かったのか、シナリオにうまく絡めなかった。「他のPLを助けた」とは言ってもらえたけども、どうにも、不完全燃焼だった。やっぱり、セッションは隊長がよいときにすべきなのか…? いやでも、いままでも、体調が優れなくても、弾けて遊んだセッションなんて幾らでもあったしなぁ。…やっぱり、何か、弾ける物がなかったのかしら…? ああ、折角、久しぶりに、“あんきみ”安藤君子でセッションができたのに、残念だ。
先月に引き続き、バスの中、のんびりと考える時間があったので、つらつらと考え事。
「なに、考えていたの?」
や、番長学園の設定について、何となく思い出して、苦笑していた。
西日本の支配者たちは、帝国を裏切ってPC側に味方しそうだなぁとか、東北の支配者が一番最初に倒されて、あまつさえ、北海道のクラーク博士(支配者)によって復活怪人として復活させられそうだよなぁとか、そういう話。
「…莫迦?」
ちなみに、前回、主に考えていたのは、ブレカナのキャラで、首切り役人というキャラだったりする(謎)。
「ぉぃ…」
※ 落ちない原稿
おねぐら用語。その原稿が落ちた場合、本全部を落とすため、逆説的に、その原稿が抜けることは決してあり得ない、という原稿を意味する。
つーわけで、死ぬ気で打ち込んで、本日、投稿(死)。
ちなみに、テーマは、つい最近地裁で判決があった、ティアリングサーガ事件。それをネタに、不正競争防止法との関係で、著作権法の適正な保護範囲について考察してみた。GameDeepにて、コミケで販売される予定ですので、是非ともご購入お願いいたします。
「せっかくだから、年内に110セッションこなしたいのですよ(いま現在106セッション)」
「や、だったら、111セッションでしょー」
「そ・れ・だ・!」
「週末に1セッションやりますから、あと4セッション」
「おお、月曜日とか、がんばって遊べば、いけるかも!?」
はい、莫迦です、私。
朝まで色々と話を。お給金の話とか景気の話とか、夢も希望もロマンもない話などを。
…空しいので、TRPGなどの話を始める。
以下、箇条書きに。
・IRO氏のシナリオの作り方に対する批判を
いわゆるPCが自由に行動できるシナリオは、結局PLが何ができて何ができないのか良く分からないので、結局、GMが作ったと思われる流れに乗らざるを得ない。
例えば、前々回のセッションだが、宿屋の主人の殺人事件を調べるという動機に欠ける(基本的に、憲兵に任せてしまうだろう…いやまぁ、警察に任せても話が進展しないのはTRPGのお約束だが)。そこがシナリオの分岐点だったらしいが、正直、キャンペーンの背景情報・フレイバー程度にしか思えなかった。ぶっちゃけ、GMは、「ここがシナリオの分岐点です」と言っても良かったのではなかったのか?
そのあと、難民を開拓村にとどける護衛の依頼を受けたけども、正直私はその仕事を蹴って、別の仕事を探したかった(仕事を探せるというのが、自由なプレイの条件だと思っているため)。もし、PLがそういう対応をした場合、GMはどうするのか? キャラとしても、そこまで面倒を見るべきではないという立場だったので、なおさらだ(GMには、キャラの不満が伝わっていたらしい)。聖職者(兼業ローグ)として、運命とは、自らの手で切り開かねばならないという立場なのだ。
ちなみに回答は、「善処します」「素直にPLに謝って依頼を受けてもらう」とのこと。
まあ、当然のごとく、自分のシナリオ構造も批判されたのだが…スマン覚えていない。
何か、結構重要な指摘だったような気がするのだが…(汗)。
・お前は、他の参加者を見下していないか?
私に対する痛烈な批判。思い当たるところがあるだけに、反省が必要なところ。
きっかけは、先日遊んだ「モンテギュールの翼」について。
セッションは70点という、私の発言が物議に。
ワリと驚いたのが、参加者のひとりが、思いの外、セッションを楽しんでいたことだった。シナリオ傾向とシステム選択からして趣味に合わないだろうと思っていただけに、あそこまで熱心に色々言われるとは思わなかった。面白いセッションは、シナリオ傾向やシステム選択を選ばないのかも知れないと、正直、感動した。
で、なにが問題だったかというと、「70点」という物言いが問題だったのだ。
私自身は、あのセッション自体はとても満足している。殺戮者を倒さないと言う選択肢を選んだ段階で、しかも、ああいうPC間の対立状況を抱えた場合において、あの、終わり方の選択は、他に考えられない、PLとしての最善の選択だったと思う。実際、私はとても満足している。シナリオ制作者として、PLにあそこまで悩んで考えて動いてもらって、とてつもなく感動している。
ただ、残念なのは、やはり、ブレカナというシステム…というよりも世界設定においては、“刻まれし者”は“殺戮者”を倒さなければならない。なぜならば、“殺戮者”を倒さなければ、ブレカナという物語は終わりようがないからだ。“殺戮者”とは、物語における障害の具現化であり、ウテナ風に言えば世界の果てである。世界の果てを乗り越え、物語を乗り越え、世界を、物語を革命するには、障害を除去するしか道がない。そこには、正義も悲劇も復讐もすべて吹き飛び、ただ、運命故に、物語故に決闘がなされねばならない。それこそが神の摂理である。…とまぁ、私は信じているのだ。
そして、ブレカナはまさにそれを再現するシステムであり、だからこそ、人間の摂理などをせせら笑う、ファンタジーと英雄の運命と神の摂理と信仰のカタチとを描いた、世界的にも希有なシステムであると思っているのだ。せっかくのファンタジー、人間の理由で振る舞って遊んだら、面白くないじゃん。ファンタジーは、人間たちの勝手で何とかなるような、そんな都合のよい物語ではない。
なので、「ブレカナ→英雄→正義→“殺戮者”倒す」を越え、「“殺戮者”が悪いとは限らない→倒さなくても良い→倒さない方策を考えよう」を越え、「でもなお、倒さねばならない」という領域にたどり着いて欲しかったと思ったのだ。
と言ったら、だったら、70点じゃなくて、「100点。でも、みんなで120点目指したいよね」とか言うべきだし、それは人を見下した言い方だろうと言われた。…確かに。
・イメージは伝わらない
ブレカナではワーグナーのラインの黄金とか、そういう感じのセッションがしたいという話をしてみたら、全員からわかんねーよと総ツッコミを受ける。
…え!? うそ。だって、みんな、『アーサー王の死』とか読んでいるじゃん(外の一般的な環境がそうであるとは思っていないけども)。だったら、ラインの黄金ぐらい、当然読んでいないの!?
以上、今日のショックでした。
ううむ、ああいう、異端と正統との関わり、神と人との関わり、妖精と祝福と呪いと報復、愛憎相まみえる、そんなシナリオをやりたいのだが…そうか、イメージが伝わらないか…。
セッション後、少し時間が余ったので、6ニムトとククをプレイする。
6ニムトは、評判どおり、面白いゲームだった。運と読みと実力とが良い感じに混ざり合ったシステム設計。そのすべてがそろわないと安定して勝つことが難しく、運がなければ、玄人ですら素人の前に敗退する。スリリングで楽しいゲームだった。
ククは危険なゲーム。はじめ、ルールを勘違いして、「盛り上がりに欠けるなぁ」とみんなが言っていたのだが、ルールを読んでいた黒緒氏が、「げ! すげえ! 総取りかよ!」と叫んだところから、状況が一変した。
はじめは、1ゲーム1ゲームごとに、チップを決済すると思っていたのだが、そうではなく、チップは中央に積まれたまま、ゲームの敗者がゲームから脱落。最終的に生き残ったゲームの勝利者が中央のチップを独り占めにするというシステムだったらしい。
この、ククというゲーム、もとは16世紀だかのイタリアのゲームらしい。ゲームを始めるときに「どうぞ」という一言から始めるとか、儀式がかっているのがその名残のようだ。
で、当時は傭兵の時代。イタリアは群雄割拠し、小競り合いが続いた時代だ。傭兵たちは明日も知れぬ我が身、酒場で酒を呑み、日頃のうっぷんを晴らしながらかけに興じたのだろう。そこで作られたゲーム。当然、掛け金は少な目だがリターンは大きいという、極めて高い射倖性を備えている。ゲームの参加者は参加料1チップを払い、ゲームに参加する。ゲームの敗者はゲームから脱落し、生き残った者だけ参加料を積み上げていく。そして、最後に生き残った勝者だけが、中央に積まれたチップを独り占めできるのだ(なお、最初の三ゲームは、敗者は復活料3チップを払ってゲームに復帰できる)。
実際、計算してみればわかると思うが、ひとりひとりの損失は大したことがないくせして、勝者が手にするチップはとんでもない額になる(6人でゲームをして、チップ40枚以上だった)。これは、敗者は、勝者を羨望の目で見つめ、射幸心を煽られ、そんなに損失がないことに気を大きくして、もう1ゲーム、もう1ゲームと、ゲームをついつい重ねてしまうことになる、ということだ(そして最後に得をするのは、酒場と娼婦ということになる)。まさに、悪魔のゲーム。このゲームで、一帯何人の傭兵が破産したのだろうかと、参加者全員で思いに馳せた。
それはともあれ、このクク。ブレカナやペンドラゴンの小道具としてはとても良い感じのゲームだ。是非とも、購入しよう。
夜は、かねてからの希望であった、冬の寿司屋に赴く。
さまざまな貝と、4種類に味付けされた穴子、絶品でございました。
…
……
………。
うぉ!? すげぇ! 久しぶりに、すげぇ莫迦シナリオ思いついた。
テーマタロットカブトのシナリオなのだが、まず、神業の使わせ方が素晴らしく莫迦だ。
その上、オープニングから飛ばしすぎ。シナリオの背景はワリとどろどろしている癖に、シナリオ上に現れてくる事件自体は単純明快なアーバンアクション! ネタもてんこ盛りだ!
とまあ、調子に乗って、酒をあおったのだが…串キャベツうまい! キャベツに味噌を付けて食べるだけの食い物なのだが、安い(120円)うえに、酒が進む。酒も安め(290円)なので、なかなかお得。うん、ここ、良いな。焼き鳥も美味しいし(種類が少ないのが玉に瑕だが)、今後、ちょくちょく利用することにしよう。
今更ながら、White氏と高橋氏とのやりとりに気づく。
一応、大学院で専攻していたんだから、一声かけてくれてもいいのに(図々しく)。
んで、なにか、高橋氏が勘違いしているっぽいので、少々つっこみ。勘違いというか、両者の前提が違いすぎるため、話がかみ合っていないだけですが。
>活版印刷術は、海賊版の横行をもたらし、文学芸術に深刻な打撃を与えた。だから著作権が制定された。
なにやらすごくどうでもいい細かい揚げ足取りですが、この文章はおかしいです。
なぜかというと、「海賊版=違法複製」ってのは、それが違法行為と認定されて初めて成立する概念だからです。「海賊版の横行をもたらし、……だから著作権が制定された」ってのは、話が逆転しています。
ああいや、言いたいことは大体わかるので、「だからおまえは間違っている」なんて言うつもりはありません。先の文章だって、「出版業者に打撃を与える複製の横行をもたらし、……だから著作権が制定された」と言い直せば良いだけの話です(揚げ足取りかっこわるい)。
ん、ああでも、そこら辺の感覚からすでに両者に致命的なずれがある訳か。
高橋氏の論は、「なぜ、現行著作権法が、現行のような法体系になっているのか?」という前提がすっぽり抜けているのですよ。現行法体系による著作権者の保護を当然の前提にしてしまっているため、現行法の前提条件に問題があるとするWhite氏と議論がかみ合っていないのです。
では、現行著作権が想定している投下資金の回収の仕組みがどのようになっているか、改めて歴史的経緯を交えて説明します(ここ、重要です。現在の著作権法に関する問題点のほとんどがここに集約しています)。高橋氏が参考にしている白田先生のコラムだけだと不十分なので、私の修士論文も参考にしてください(といっても、ほとんどが、白田先生の単行本の受け売りなのですが)。
いまさら、著作権法の歴史なんて学ぶ価値があるのかって話もあるかもしれませんが、法律では往々にして、何でそんな法律が生まれたのか、よくわからなくなる場合があり、そういう場合の問題解決の糸口として、法律の歴史的経緯が役に立つことが多いですから(余談ですが、現在の司法改革なども、もう少し、現行日本の司法制度の歴史的経緯に注意を払うべきだと思うのですが…)。
1 活版技術成立前(近代著作権法成立以前)とまあ、以上です。
かつて著作者たちは、国王をはじめとした多くのパトロンたちによって経済的に養われていた。あまたのパトロンの中でもっとも強力であったのが国王で、国王による特許によってもたらされる年金により、著作者たちはその生活を保障されていた。特許著作権である。
かつては、著作者には、著作物自体によって収益をあげる方法は皆無だった。なぜならば、識字率が低く、しかも、物品の流通も少なかった時代、そもそも、著作物が流通するだけの市場自体、存在しなかったからである。このような時代において、著作者が著作物から収益をあげるとすれば、支払いの良いパトロンを捜すしか方法がなかったわけだ。
ここで、パトロンが支払う年金と著作物の価値とが資本主義市場における等価交換の関係に立っていないことには留意する必要がある。すなわちこれは、著作物の無断複製が何ら犯罪を構成しないことを意味するからだ。パトロンが支払う年金は、あくまで著作者個人に帰属し、著作物に対する対価として支払われているわけではない。そのため、著作物を無断複製することを違法とする根拠は、少なくとも経済的には存在しない(根拠なしにそれを自由を制限できない。それを違法とし、自由を制限するには、制限して尚勝るだけの理由が必要だ)。そこには、著作物の流通によって、著作活動に対する資本投下を回収しようという発想が、そもそもないからだ。仮にそこで経済的な違法状態が生じるとすれば、ブランド侵害、フリーライド(ただ乗り。いわゆる偽ブランド)の問題であって、著作権侵害という代物ではない。
このような時代においては、著作物の無断複製は、むしろ、模写や写本といっためんどくさい複製コストを引き受けてくれる善意あふれる行為と評価されよう。2 活版技術成立後(近代著作権法成立後)
さて、パトロンの零落と共に、従来のパトロン層に代わって著作者たちの面倒を見るようになったのが、出版の世界で言えば書籍業者だったわけである。
書籍業者が新たなパトロンとして著作者たちの生活を保障するには、資金が必要である。ここに、書籍業者(=出版社)の経済的利益を保障する必要がでてくる。ここで登場してきたのが、世界初の著作権法である1709年アン女王法(イギリス)である。アン女王法は、「著者に存する財産権」ではなく「著書に存する財産権」を保障しており、著書を著作者から買い上げた書籍業者の財産的利益を保障するような仕組みになっている。これを、ドイツ風に言えば、出版著作物に一種の所有権が生じ出版社に帰属するという、出版所有権論ということになる。その後、著作権法の理論は発展し、大陸ではついには、著作者の人格から著作物が生じたという理論が通説となり(自然権論)、1791年のフランス著作権法その他に繋がっている。
ここで気を付けなければならないことは、著作権法の成立において、著作者の人格から著作物が生じたという理論がはじめから採用されたわけではなく、元々の発生は、出版社のインセンティブ、パトロンである出版社の利益を保障することにより著作物文化を保護するところにあったということである。著作権法の発生において、重視されたのは、著作者の利益ではなく、まずは出版社の利益であった。
では、なぜ、著作権法によって(著作者ではなく)出版社を保護する必要があるのか? そこで問題となるのが、複製コストの問題である。
それは詰まるところ、法規制の技術的な制約に求められる。@いま現在、使用の度に対価を徴収することができるような権利を構成することは技術的に不可能であり、A複製のところで対価を徴収せざるを得ない事情がある。B仮に、大量の人間によって頻繁に行われる行為について逐一許諾を求められたとしたならば、権利者にとっても煩雑で耐えられないであろう。C他方で複製は、出版社など相当の資本投下をなした者にのみ許されるものであったから、複製を行う者は、読書をなす者の数に比べて極めて少ない。都合がよいことに、D複製の数は、使用の数にそれなりに対応するので、複製のところで著作権者に対価を支払うようなシステムを採用したとしても、著作物の使用価値に応じた対価を著作権者に還流させることが可能である。その複製が行われるところで、複製者に著作権者と交流させることにより、著作権者に対価を還流させるシステムの方が、読書のところで交渉させるシステムよりも効率的かつ現実的であることは明らかだった(以上、田村善之・著作権法概説103頁…現在は第二版)。
この時代において、著作物流通についてもっともコストを支払うのは、複製機に莫大な資本を投下する、複製者・出版社である。著作物を流通させ、結果、著作活動に対する投下資本を回収させるには、何よりもまず、著作物を流通させる複製者・出版社を保護する必要があり、しかも、複製者・出版社が資本を回収できれば、それに対応する形で著作者も資本を回収できる。複製者の数が限られた社会においては、限られた複製者の下で一括で権利処理するのが、最も効率的なシステムだったと言えよう。ここに、複製者(=出版社)の下に権利を集中させる実益がある。だからこそ、近代著作権法は、第一義に、著作者ではなく、出版社を保護しているのだ。そして、近代著作権法が選んだ保護のあり方こそ、著作物の無断複製を違法とし、著作物複製に対応する形で収益をあげるという手法だったわけである。理論的には、複製を自由とし、複製物を販売した者すべてから販売料を回収するという方法だってあったわけだ。もちろん、先もふれたとおり、販売者を把握するよりは、複製者を把握する方が容易であるため、そのような選択は、現実にはなされなかったのだが。
3 現行著作権法の問題点
現代著作権法は、出版社保護を脱し、著作者の人格的な保護と著作文化の健全な発展をその目的としている。学説では争いがあるものの、少なくとも日本著作権法は、いわゆる自然権論をその前提としていると考えて間違いないだろう(著作者人格権の存在)。
しかし、現行著作権法もまた、この、近代著作権法の前提を基本的に踏襲している。それが、「複製権中心主義」と「1対1の利用許諾システム」である。
すなわち、複製権(21条)とその侵害を中心に立法的手当をなす立場、すなわち複製権中心主義と、1対1、すなわち著作者と出版社との交渉を前提とした利用許諾(63条)のシステムである。@ 複製権中心主義
日本著作権法は、21条に複製権を定め、それ以外の上演権(22条)その他をすべて複製権の派生原理として捉えている。公衆送信権等など、複製権の範囲で捉えきれないが故に改正で追加された権利も多い。その上で、日本著作権法は、引用といった、著作物の使用を著作権の制限として把握し、例外的に複製権その他を侵害しないと考えている。まさに、複製権先にありきの複製権中心主義的な発想である。日本著作権法の基となったベルヌ条約も、同じように複製権先にありきの複製権中心主義を採用している。11条以下の権利の多くが、複製権の範囲で捉えきれないが故に改正で追加されている。このように、条文の構造を見る限り、近代著作権法は、複製権中心主義を当然の前提としている。A 1対1の利用許諾システム(北村行夫「情報化社会と著作権」コピライトNo.456(1999年)11〜12頁)
日本著作権法は、原則、利用許諾(63条)によってのみ著作物の能動的使用を可能とし、著作権を巡る法律問題を、著作者と出版社との交渉にゆだねている。
印刷のような有形的再製技術においては、著作権をめぐる権利関係は、直接には著作者と印刷出版業者との間の問題として考えれば足り、1対1で権利関係をどうするか考えれば良いからだ。なぜならば、複製機の購入には莫大な資本を必要とするため、自然、複製者の数は限られ、著作者は1対1の交渉さえ考慮すれば足りるからである。そこで、無体財産を財産として尊重するというルールを承認すれば、あとは従来からの有体物である商品の交換に関する社会的仕組みを、ほぼそのまま使えた。
時代が下り、放送技術が登場しても、放送局という著作物伝達媒体が、誰でも所有できる媒体ではなく、電波をどうやって管理するかという国家的な統制の問題とされ、著作権者と放送局との権利処理関係は、先行した出版業におけると同様に1対1であり、印刷と同じように処理されている。しかし、@Aのモデルが常に妥当するわけではなく、違うモデルの定律も、先に論じたとおり(非効率的ながらも)考えられた。現在の、「複製権中心主義」「1対1の利用許諾システム」を金科玉条のようにとらえねばならない必要性は欠片もない(というのは、最近の若手著作権法学者の大勢を占めるところ、らしい)。
そして、いま現在進行中のweb文化においては、「複製権中心主義」「1対1の利用許諾システム」という、現行著作権法が当然の前提としていた立法事実がまさに覆されつつある。
複製コストが高価であるが故に、複製者が限られている。その限られた複製者に権利を集中させると同時に、利用許諾を一元化させる。それが、現行法の狙いであったわけだが、複製コストが低額化、結果、複製者が増大してしまった。ここで、現行著作権法がもくろんでいた前提、立法事実が崩れ去り、著作物流通のコントロールが不可能になり、結果、著作者は投下資本を回収できなくなった。ここに、問題が潜んでいる。間違ってはいけないが、複製コストが定額化することも複製者が増大することも、“違法”ではない。結果、著作権法制が機能不全に陥ることが“問題”なのだ。
このような現実において、機能不全を起こしている著作権法制を維持することに果たしてどれだけのメリットがあるのか。もしかすればほかに、著作者が投下資本を回収する方法があるかもしれない。
そして、身も蓋もない言い方をすれば、著作者さえ保護できれば、著作者が投下資本を回収できれば、出版社などの複製者を保護する必要性、複製者の投下資本の回収を保護する必要性なんて、欠片もない(という自分自身の職業は出版社勤務の編集者。駄目じゃん)。コストがより低額ですむ複製技術(すなわち、有体物に依存しないデジタルコンテンツ)があれば、旧来の書籍などの複製技術が淘汰されるのは自明の理である。それを違法だというのは、かつて鉄道が登場したときに、馬車業者が自身の既得権益を侵害すると声を荒げたのと同じことである(もちろん、馬車業者に特権が認められていたわけではないので、簡単には比較できないが)。
勘違いしてほしくないのだが、私は別に、著作者を保護する必要はない、と言っているわけではない。複製者の投下資本の回収を保証する必要もなければ、複製行為を起点に把握する現行著作権法を維持する必要性もない、と言っているだけなのだ。
>工夫次第で儲かるはずだから革命を否定するな、というのは多分逆なのです。社会に受け入れられてもいい革命であることを具体的に証明する責任は、革命派にあるのです。
夢物語と言われればそれまでです。だからみんな必死になって考えているわけで。考えて、考えて、考え抜いて、うまい方法を思いつかなければ、結局、いままでどおり複製を中心に把握するしかないわけです。とはいえ、今回は触れませんでしたが、ここに表現の自由の問題とかエンドユーザーの権利とか絡むと、やっぱりどうにも複製中心という把握の仕方には問題があると私は思いますが。物言う前にパンを食べられなければ飢え死にするだけですので、今回はあまり大きな声では言いません、はい(やさぐれ)。
ただ、私は割と楽観主義者なので、ある日、名もなきハッカーがぽっと出で思いついたアイディアが世界を席巻してしまうんじゃないかとか、そういう風に思ったり。
>違法コピーを防いでいたのはコスト問題ではなく、著作権でした。
コストはなにも違法コピーを抑えてくれていません。そうではなく、コストの問題がまさに、“いまの著作権法を形作っている”、ということなのです。活版技術と“そこから収益をあげる業界団体の登場”が、「複製コストを引き受けてくれる善意あふれる行為」を「違法行為とみなすべき行為」としてしまったのです(と言って、別に出版業界が悪であるというわけではありません。彼らは彼らで、当時、しごくまっとうな主張をしていただけですから)。
そして、いままさに把握すべきなのは、収益モデルの変化の波なのです。
って、ここら辺、すでにWhite氏が、
>重要な示唆。現行の著作財産権モデルは、配信技術(活版印刷)が先行した結果、規定されていったものです。
指摘しているじゃん。ううむ、高橋氏に意味が正確に伝わるか、不安です。
>でもそういうのが嫌な人、別にイベントのプロモートや下敷きのマスコットキャラのプロデュースをしたいわけではない人、そもそもグッズ商売が出来ない鬼畜凌辱系とか書きたい人は、今の流通機構を無法者に破壊されては困るわけで。
まさに、そういう収益モデルがこれからの時代、否定されるだけなのかもしれない、ということなのです(否定されないかもしれないけども)。困る、と言うのは簡単ですが、そうではなく、じゃあ、どうやって自分たちのビジネスを守るべきか考えるべきですし、さらに言えば、守るのではなく、より積極的に攻め込むにはどうすればいいのかとポジティブに考える方がよほど健康的なわけで。
んでたぶん、いま、webで生きる多くの人の声を代弁すれば、次のようなことが言えるんじゃないかと思うわけです。
「我々はもう、コピーなしには生きられない」
我慢しろって言われればそれまでですが。
ということで、著作権法コラム第二回を掲載。
夕方から、友人と会う。なにやら、焼き鳥をご所望故、池袋の鳥良に出かけることにした。焼き鳥、うまうま。
「つーか、俺、スーパーロボット大戦とか、ああいうはっちゃけた奴、趣味に合わないし」
そして、私が如何にブレカナが如何に正しいファンタジーであるかをとくとくと語る。
「やっぱり、中世といったらアーサー王の死とか。ブレカナは、そういうのが香ってくるのが素晴らしい」
「つーても、せんせ、アーサー王の死なんて、当時のライトノベルですぜ」
「う…確かに」
「しかも、時代背景ぶっちして、サラセン人(ムスリム)騎士とかまで登場する有様。なんつーか、スーパー騎士道大戦」
「うう、容赦ないお言葉だが、まさにそうだ」
ところで、著作権関係で最近見つけたサイト。ここ数年、更新が止まっているようだけども、97〜8年当時で既に、エンドユーザーについてある程度言及しているあたり、驚きだった。
「サボり癖つきすぎ」
あーまー、っはっはっは、気にするな。
んで、だ、恒例のここ最近の火塚的トピックス。
・日曜日 東地区“E”ブロック―28b 十一月十二日 コミケ受かりました更新は、トップ絵(と画廊閲覧)といつものごとく『ONE』の箱。最近、更新に捻りがないな(←不要です)。
・芳ばしいブレカナの英雄たち
十一月二十七日 “銘なき剣匠”ニコラス・ハング(レクス=グラディウス=フィニス)
十一月二十二日 “運命の少女”ヴィルギニア・ノーゼンクロイツ(アングルス=マーテル=ステラ)
十一月二十二日 “神に愛された剣”エルフィン・ウィヴリニアヌス(アクシス=ディアボルス=フルキフェル)
十一月二十一日 “プリミティブ”テムジン(イグニス=アダマス=マーテル)
十一月二十日 “護法官”エカテリーナ(コロナ=ファンタスマ=フルキフェル)
十一月十五日 “ライオン卿”アルトゥス・マクベイン(アルドール=アダマス=エルス)
十一月十三日 “氷雷(アイスブレイク)”ゲイタ(フルキフェル=エフェクトス=エフェクトス)
十一月十三日 “色無し名無し(ノーカラーノーネーム)”ドゥ(アングルス=クレアータ=エフェクトス)
十一月八日 “女騎士”アンネローゼ・ゲッテンヴァイハ(グラディウス=ディアボルス=ウェントス)
十一月七日 “鋼の”マリアンヌ(ファンタスマ=マーテル=レクス)
十一月六日 “フォーゲルヴァイデの緋き華”“次期枢機卿候補”アンジェリーヌ・フォーゲルヴァイデ(デクストラ=コロナ=イグニス)
九月十八日 “闇の翼”レーベンヴィント(フルキフェル=ステラ=エルス)
・芳ばしいセッション
十一月一日、十一月二日、十一月三日、十一月四日
十月五日、十月十二日、十月二十日
九月十九日、九月二十日、九月二十一日、九月二十二日
・著作権のお話(小一時間ほど) 九月二十四日、十一月十四日、十一月十九日
・物語分が足りません 九月二十五日
・物語が好きすぎた罰 十月三十日
ちなみに、TRPGは、今日までで105セッションこなした計算になる。
おお、はじめてじゃないのか? 年間で百セッション越えたのは? すごーい。
二時ぐらいに、じゃあ、そろそろ帰るかと席を立つ。地図を見ると、京都駅までそれほど遠くない。鴨川の河川敷を歩き、京都駅を目指すことにした。散歩している人、つりをしている人、いちゃついているアベック、そして、橋の下に住む浮浪者たち。
京都タワーは、よい目印になった。道に迷うことなく、約一時間後、京都駅に到着。そのあと、新幹線で東京に戻る。
のんびりとした、良い、一日でした。
追記:大阪駅のトイレで見かけたプレート「人を傷つけるような差別的落書はやめましょう 駅長」、京都のお寺で見かけた標語「み仏の教えは差別なき心」…ああ、関西では、いまもなお、部落問題、差別問題はリアルな問題なんだなぁ。
追記2:東京に帰ったあと、秋葉原に立ち寄ったときの話。そういえば、『七人の侍』が再販されたんだよなぁと、DVDコーナーに立ち寄ったらアンタ、「特価7800円」とか、書いてあるんですよ。………んな殿様商売やっているから、エンドユーザーがどんどん離れていくんでしょうが。著作権の保護期間を70年にとか言う前に、もっと努力をしろってえの。
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