ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
そののち、新宿にて『ONE2』を買おうと思ったらあまりの高さに腰が退け、くそ! 7800! それだったら、となりにある「はじいしゃ」の方が! と手に取ってはみたが(5000ほど)、やっぱりアレでナニなので、ワイルドワイルドウエスト(980円)を購入した(腰抜け)。ワイルドワイルドウエスト、莫迦っぽくておもちろーい(死)。
………あー。深淵をプレイしてふと、思い至ったのだが、深淵というゲームは、実に最近の一連の作品群の先駆けとなったゲームだったと納得する。
深淵を特徴づける運命のルールなのだが、『LAND of The GUILTY』の因果律の祝福と呪いを連想させてくれる。
また、深淵は、運命を山引きさせるほかに、シナリオに合わせてあらかじめ運命を配るというプレイスタイルも推奨しているのだが、これは、天羅万象・零の宿業やテラのストーリー・フェイト、N◎VAのコネなどを連想させてくれる。特に、GMがシナリオをコントロールする自身がないときに運命の配布を推奨しているのは、最近のゲームにおけるシナリオ構造の基本的な考え方(無理に自由度を高めてシナリオを失敗させるよりは、制限を多くして失敗率を下げた方がよい)と見事に一致しているだろう。つーかまあ、深淵を先駆けとしたPC間でパーティーを組むことを前提としていないゲームにおいて、自由度を高めれば、“セッションの”失敗率は加速度的に高まることは火を見るよりも明らかなのだが(苦笑)。自由度が高いと言われた旧来のゲームだって、結局、パーティーという最大の制限を課していたわけだし(ただし、セッションを重ねた結果パーティーが分解する自由は保障されている。この点、パーティーを組むことを前提としていないくせに、最終的にチーム(パーティーとは別概念とする)を組むことを矯正する最近のシステム・シナリオの流れは、それはそれでいかがなものかとは思うのだが…)。
夢歩きは、実際のセッションの現場では、N◎VAなどの舞台裏判定や登場判定に近い機能を担うことになる。従来は複雑な手続を経て入手されていた情報が、舞台裏判定と同じく、抽象的な形とはいえ一回の判定で手に入るようになっている。意外に思うかもしれないが、深淵の夢歩きは、雰囲気作りだけではなく、セッションにおいて最も重要な情報入手手段として機能していることを忘れてはいけない。逆に、そのことさえ理解しておけば、GMにとって、夢歩きのアドリブは苦痛にはならないだろう。また、夢歩きが、舞台裏判定や登場判定と同じく、PL側で積極的にPC間の情報格差を生みだすための装置として機能することも忘れてはいけないだろう。
むー、一度ぐらい、深淵のGMでもやってみるか? いまなら、GMもできそうな気がする。
「………」
いや、何となく思いついたので。
十六日、十二日について、予想外なところから横槍を喰らったので、引用してみる。
黒緒氏あー、なるほど。確かに、定義など不要、関係を論じなければならないと、いつも強く主張していたなぁ、自分。自分自身、道具を使いこなせていない良い証左ですな。
件名:物語論、だめっぽいです> これは、「卵が先か鶏が先か」という議論と同じなので、
> そう言う分類の仕方はしない方が良いと思います
> (とか書くから、私の議論は一般的に理解されにくいのですよね…
> なんというか、機能論者・構造主義者の悪癖なのでしょうか?)何故、構造論者が術語を振り回すのでしょうか? 構造論者を名乗るなら、たくさんの術語を定義せずに関係で語るべきでしょう。この中途半端な折衷状態が、理解し難さの要因だと思います。
例えば、火塚先生は「発生する物語」と「記述される物語」を術語として提唱しましたが、
> なぜなら、「発生する物語」とは、「記述される物語」を観察することなくしては
> 成立し得ない一方、「記述される物語」も、「発生する物語」の理解なくしては
> 記述不可能だからです。
それをこのような用法で持ち出されると理解できなくても無理ありません。両者は「意味」で、差異の観察の末に見い出された「結果」です。構造主義の手法では、観察や理解はこの分類に到達する以前に行われているべき事です。そして、「指示部が同一であるからといって、それに属する意味を括り、序列を定義する事はナンセンスである。意味は両者の差異でしかないのだから」とするのが本手でしょう。
ただその文脈は常に偽です。両者を指示部としてとらえ、観察/理解すれば差異が生じます。それが序列と認識されたとしても不思議は無いでしょう。それを拒絶する事は構造主義では不可能なはずです(指示部の意味が対象にはよらない事を前提としていますから)。
まあ、意味を充足し得ない構造主義に興味はないので今のまま迷走してくれても私は全く構いませんが(ニヤソ)。
ぐるっと議論が巡ってしまっているので、正直、自分では立証する手だてがないのだが、「解釈された物語」が力を持たない時代(なんて、構造主義に相応しくない言葉なんだろう!)だからである。ならば、受動的に解釈するのではなく、能動的に発生させるしか手だてがないだろう、と。> 肝心なことは、物語を物語り続けるということです
> 物語ること、それ自体を目的としなければならないのです)で、この結論はどこから導かれるのですか? 理想論と言っていますが、これが真である事を保証する文脈が見つからないのですが?
「大きな物語」の不要を説いたあたりだろう。> いまの暫定的な結論からすると、共通認識なんて、不要なんですよね(極論)、
> ただ、お互いに語り続けるということをあきらめなければいいだけであって。どこでそういう結論になっているのですか?
なお、記号が共通認識されていないと物語行為そのものができなくなりませんか?
「お互いに語る」為には記号に対する共通認識が必要なのでは無いでしょうか?記号の共通認識を別とすれば問題は解決しそうですが…
> そして、我々は物語でしか物事を記述できない
というであればその共通認識も「物語」によってしか記述されない事になります。
従って
1.お互いに物語を語り続けたいが共通認識される必要は無い
2.記号の共通認識を記述するのも物語
3.記号の共通認識は仮定できない
という事になってしまいます。
Q:「お互いに語る」為には記号に対する共通認識が必要なのでは無いでしょうか?
A:不要です。
そこでなされているのは、お互いに理解できうるであろう記号を、手探りすることだけだ。送り手にしても、受け手にしても。人間が蝙蝠になれないのと同じように、他者は自分にはなれない。もちろん、「共通認識みたいなもの」を「共通認識」と呼ぶのであれば、話は別。
それから、「我々は物語でしか物事を記述できない」というのは、不正確な書き方だった。百科事典が物語ではないという事を前提とすれば、「我々にとって物語で記述することこそ最も効率的である」と言うべきなのだろう。
> 答えなきテーマは、真にテーマたり得ない。ウテナを観ろ、としか言えない。
>テーマを伝えたければ、解答を示さねばならないのだ(あえて、その論証はしない)。テーマは明確な答を要求します。
答が出ていないテーマは答を要求しています。従って、このテーマは別の物語によって充足される必要が生じます。
また、テーマに対して解答を示したとしても物語の非決定性/可変性によりその要求が確実に満たされるとは限りません。解答を示したテーマは、一見完全に見えますが、やはり不完全なのです(というより非決定性/可変性を前提にするのであれば、解答を示す必要性は全く無くなってしまいます)。
そして、どちらがより「自律的な物語」へ展開しうるか?と考えれば、より強く別の物語を要求している前者の方に軍配が上がるでしょう。
あとは、黒緒氏が嫌がりそうな説明をするのであれば、自律的な人間であれば、答えなど不要なんだと思う、はじめから。黒緒氏にとっては、ウテナよりもTRPGの方が自律的な物語となるのだと思う。
でもまあ、逆にこういう言い方もできるわけで。本当に自律的な人間であれば、「答え」が示されてもそこから更に自律的に物語を紡ぐことができる。とするのであれば、「答え」を示した方が、結果的により多くの人間を自律的に動かすことができるであろう(ここでは「答え」という言葉を敢えて安易に用いている)。まあ、答えを示されてから動いた人間を果たして自律的と呼ぶのかという命題は残ることになるけど。
ん、ああ、そうか。ウテナという表現を採用した時点で、前者(と思われるもの)よりも後者(と思われるもの)の方が、より自律的であるという、論証不可能な言い方も考えられるのか。それはさながら、『まりんとメラン』において、ウテナ以上により明確な形で答えを示すべきであったように、ね。
「なに、当たり前なこと、言っているのさ」
まあまて、この一言に思い至るには、それなりに経緯があるのだ。
いわゆる、妹属性というのは知っているな?
「ギャルゲー三本やればウチ一本は、必ず主人公を“おにいちゃん”と呼ぶキャラが登場するとかなんとか」
確率はともかく、それだ。
世の中には、こんなサイトもあったりして、なかなかどうして、妹属性というのは根強い人気を誇るらしい。
そこでまあ、問題となるのが、“妹”とはいかなる存在か、という命題なんだな、これが。
単純に言えば、「妹、あるいは妹のようなもの」を“妹”と呼称するようだが、ギャルゲーに登場する妹キャラってのにも結構バリエーションがあるらしい。
「一般的に多いのが、実は血が繋がっていない“妹”だよね」
やはり、血が繋がっていると倫理的にアレでナニでソレなようなので、色々問題があるらしい。
………む、個人的な意見なのだが、それ、そんなに問題なことかな? 法律的、道義的な問題としても、妹と懇ろになるとかいうよりも、嫌がる女性を無理矢理レイプする方が百倍問題のような気がするのだが。別に、実妹を攻略対象にしようがなにしようが、陵辱に比べれば、問題になるとは思えないのだが、のう。陵辱を表現することが許されている以上、実の妹と懇ろになることもまた、表現として許されてしかるべきかと愚考する。
「あー。やめよう、そういうのは、やめよう。そういう、社会の基盤となるような部分に疑問を投げかけるのは、やめよう。結構、洒落にならないから。少なくとも、世の中の大多数の人間が、それで問題ないと考えているんだからさぁ」
…そうだな(苦笑)。
んで、話を戻すけど、じゃあ、“実は血が繋がっていない義妹”が“妹”のすべてか、というとそうではなく、どうやら、主人公のことを「おにいちゃん」と呼称するキャラ全般、“妹”キャラとして認識されている節があるようなのだよ。
で、昔読んだ日記に、「血が繋がっている妹など、本当の妹ではありません!」というような趣旨のことが書かれていて、「ああ、なるほど、妹属性というものはこういうものなのか」と、妙に納得した過去があったのだな。
ところが、最近になって、その認識を改めざるを得ない状況を目撃してな。
「月渡ねこ劇場とか、妹にお願いできませんとかね」
業が、深いよね(遠い目)。
というわけで、妹属性のいまのトレンドは、血が繋がっている実妹なのではないかと思ったわけだよ。
「ははあ、面白い話じゃない。日記に書いたら?」
そうだな、じゃま、まずは参考文献ということで、「血が繋がっている妹など、本当の妹ではありません!」の引用元をgoogleで捜してみるか。
「便利な世の中になったよね」
まったくだ。………あ。
「………」
………。
多くの人間は、『少女革命ウテナ』を観て、「卵の殻を破らねば雛鳥は生まれずに死んでいく、我らは雛だ、世界は殻だ」という言葉にドキリとするだろうけど、私は、それよりも「ボクが王子様になるって事だろ!」という言葉の方にドキリとした。確かに前者は、ウテナのテーマかもしれないが、それはテーマとしてただ示されているだけで、本当の意味で心に届くものではない。答えが出ない問いかけには、意味がないからだ。答えなきテーマは、真にテーマたり得ない。それは純小説家の戯言に過ぎず、意味をなさない。テーマを伝えたければ、解答を示さねばならないのだ(あえて、その論証はしない)。ウテナは、後者の台詞を持って簡潔に解答を示している。悩みに悩んだ末に導き出した、簡潔な解答。そこに至までの作者の葛藤に思いを馳せつつ、その簡潔な表現に私は打ち震えるのだ。
だから、私は、ウテナを観てそこに社会問題を見いだす論者の論調はあまり好きになれない。あるいは、そこから世界観、テーマを導き出し、声高に物語を主張する人間を信用できない。
そんなことは個々人が考えれば足りることであって、人に教えられることではないからだ。
それよりも私が興味があるのは、それをどうやって伝えるか、ただその一点だけなのだ。
ウテナは、「ボクが王子様になるって事だろ!」という言葉に物語のすべてを集約させた。
私が求めてやまないのは、そういう、美しい「語り」、なのだ。
我々は、物語ること、それ自体を目的化せねばならないのだ。
まー、これやりすぎると、コミュニケーション不全を起こしかねないんだけどね(苦笑)。
そして現に、おこしているかと思う。つーか、読者の何割がディスプレイの前で私の日記に頷いてくれるのだろうか(爆死)。
なんか、珍しく自分の心情、パッションを暴露した日記になったなぁ。
>松岡正剛さんの物語は、知識と知識の編集に力点を置いた記述で、物語の機能にはこういう面もある、ということだね。物語には世界認識に関わる軸の部分に加えて、松岡さんの唱えるように断片的な知識や情報を体系的に結び付けるという機能もある。
>
>神話なんかを考えれば、すぐに納得行く話だろう。
凄く合点がいった。
確かに、そうだ。物語とは本来、何かの記述である以上、そこに編集行為は当然介在する。
物語は従来、世界認識機能のみに着目されていたが(それが「記述された物語」「解釈される物語」の正体)、そもそも、その認識した世界をどのように記述するか、そういう技術が問題となってしかるべきだ。そして、我々は物語でしか物事を記述できない(もちろん、百科辞典的、データベース的な記述方法もあるが、充分な検索システムが構築されていなかった過去においては非常に効率が悪かった)。物語の物語の世界編集機能・情報保存様式が問題となるのは自明の理だろう。
そして、編集の結果、構築・体系化されて物語こそ、次の時代の「解釈される『大きな物語』」となるわけだ。
>どちらも略すと「物語」になってしまう。音読が同じ、などで全く違う言葉を使用した方がいいかも知れません。
確かに…つーか、こういうところで厳密に言葉を分けないと、術語ってすぐに誤解されるんだよね…ゲームの定義もそうだし…。考えてみよう。
ちなみに、基本的にここでの議論ってのは、結構、他人を相手にしていない。
結局、新しいこと(そして、無茶苦茶古くさいことなんだけど)を模索しているので、言葉の定義が特殊すぎるし(本人は全然そうは思っていないけど(苦笑))、あまりに形而上学的に過ぎる。いま現在に置いては、他人が読んでも役に立たないかもしれない。
ただ、覚えておいて欲しいのは、自分にとって一番役立つ物差しは、自分が作った物差しであるということ。だから、他者から見れば凄くナンセンスな議論であっても、(そのずれっぷりも含めて)自分にとって役に立っているのだ。
あー、だからと言うて、他人の話をまるで聞かない、という訳じゃないから。自分の頭では人から与えられた術語は理解できない、一度自分の頭で咀嚼して、自分の言葉に変換しなければ理解できない、ってだけの話だから。要領悪いのよ、自分。
一本目「タイランドの憂鬱」
PL全員、『憂鬱』が漢字で書けなかったのはここだけの秘密だ!
久しぶりに“あんきみ”安藤君子でプレイ。それだけでもう満足な上、悪役台詞を吐けたので大満足。
火塚:
スタンドグラスだけが灯る薄暗い部屋。“あんきみ”は、レオン・アズマ(CFC社長)の膝の上に座っています。
「それで、首尾は?」
「内戦の結果、タイの耕作地の20%が焼失。インディカ米からジャポニカ米への作付けの転換は順調に行われているわ。すべて、貴方の計画どおり」
ステンドグラスのあかりを消して、囁きます。
「ニューロエイジの闇は、深いわ」
「………びょーきだ」
二本目「月が、狂う」
明日会社に関わらず、「あそぼー」と囁く斜怪人が約三名(含む、自分)。結局、五名+家主=六名で、(はた)×弐氏のお宅におじゃました。終電ちかくまでプレイする。つーか、終電だった(あたまワル!)。
テーマタロットマヤカシ、火塚の新作のテストプレイだ。
まだテキスト化していないため、リサーチの舞台裏で処理がもたついたりしたけど、よきPLたちに助けられ、楽しいひとときを過ごせた。N◎VAで、久しぶりに心に残ったセッションだったかも。けっこー適当に出したはずの周防景昌(すおうかげまさ。SSS11で追加されたゲスト。日本軍人)が、個人的に大ヒット。また、どこかで使おうかなぁ。
火塚:
周防を訪ねたいと? わかりました。では、演出から。
深夜のストリートをコツコツと歩く周防。注意深く周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると、体を壁に預ける。すっと、壁にとけ込む周防の身体。<※裏読み>相当の<※透過>つーことで。
煉瓦建ての薄暗い地下廊を歩く周防。天井にパイプ管がはり巡らされている感じだ。
扉の前に立ち、ノブに手を掛けようとして、それをやめる。
「疾!」
周防のかけ声と共に扉が吹き飛ぶ。
部屋の中には、木製の机と、椅子が三つ。じゃ、君のキャストは椅子のひとつに座ってふんぞり返っているわけですな。
「煮えすぎ」
今日一日で、経験点を32点稼いだ。
「それで?」
ギア・アンティークの世界の闇は深かった。
「は?」
ゼリー爆散と液化蒸発、この二つは忘れてはいけない。
「?????????」
や、凄いよ、ギア・アンティーク。
「………はあ(溜息)」
くそ! ただの電波だと思っているな!
しかし、そうではない! 私はようやく、物語の定義に成功したのだ!
………あー、なにを今更とか、当たり前のことをとか、そういうツッコミはナシね。たとえそれが当たり前のことだとしても、それを己の血となし肉となす行為ってのは、それなりに大変なんだから。で、そうやって苦労して己のものにした技術こそ、本当にいざというときに、自分にとって最大の武器となるものだと思うのよ。
「弱気だ…」
じゃ、以下、メールの再編集版。
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ここら辺の話について、参考になりそうな文献を紹介いたします。私のサイトからもリンクを結んでいるのですが、「われわれはいかにして物語性を獲得したか」という論文です。
ここでのキーワードは、「情報保存様式としての物語」です。語り部の情報保存モデルを参考に、情報保存として最も効果的な保存方法こそ、「物語化」であると結論づけています。物語化とは、「構造化による順列記憶」と「マジックワードの結合による記憶の喚起」の二つによって構成されています(←これは、私の言葉です)。
「構造化による順列記憶」とは、物語を、導入し・展開し・帰結するという、おおざっぱな構造に分解し、それぞれ、導入・展開・帰結に対応する場面を記憶するという方法です。この方法を採用することで、ひとつの場面を論じれば、その前後の記憶が喚起できるようになっています。
例えば、「きびだんご」という場面があれば、その前後には「大きな桃」「鬼退治」という場面があるという次第です。さらに、優れた語り部であれば、前後に「転がる団子」「博打をする鬼」という場面を連想できるでしょう。
「大きな桃」「きびだんご」「鬼退治」であれば、桃太郎ですし、「転がる団子」「きびだんご」「博打をする鬼」であれば、ねずみ地蔵です。ここでのポイントは、ねずみ地蔵で通常論じられる物語は、「きびだんご」ではなくただの「だんご」であるということです。
しかし、転がる団子が「団子」か「きびだんご」か、ということは本質的な問題ではありません。
優れた語り部であればこのことを本能的に理解しています。ここで重要なのは、「転がる」「団子(食べ物)」であって、この二つの条件さえ満たせば、ソレはなんでも構わないからです。
ああ、この問題は、「構造化による順列記憶」とは分けて、「キーワードによる本質的連想ゲーム」とでも名付ける問題かもしれません(←まだ、議論が煮詰まっていないもので…)。以上は、論考では「世界モデル」「アーキタイプ」として論じられていますが(ここで、例として歌舞伎の「世界」が論じられているのは、『動物化するポストモダン』を連想させ、興味深いです)、「世界モデル」に固執することは大きな物語論に陥りかねないので、私自身は意図的に体系から除外すべきと考えます。
むしろ重要なのはキーワードにより「アーキタイプ」が交錯し、そこで物語モデル間で乗り換えが行われる可能性があることです。喜劇は一瞬で悲劇となり、悲劇は一瞬で喜劇となる。「世界モデル」に固執すると、このような、価値観が乗り代わる瞬間を捉える事が不可能になります。
物語(り)とは、後に論じるように、本質的には非決定的であり可変的なのです。さて、「マジックワードの結合による記憶の喚起」とは、「むかしむかしあるところに」とくれば、「おじいさんとおばあさんがいました」というように、言葉が連なって連想されることです。実を言えば、語り部たちは物語を逐一性格に記憶しているのではなく、このようなざまざまなキーワードの断片を記憶し、適宜、必要に応じて、キーワード同士を結んでいたです(そしてだからこそ、数百という物語を記憶できたのです)。
論考で言うところの「自己編集性」「物語文法」です。
竜は、倒されなければなりませんし、お姫さまは、王子様にキスをしなければなりません。そういう理解です。
そして、その裏として、倒されなければならない竜が倒されないという物語や、キスをすべきお姫さまがキスをしないという物語が存在しうることも理解されなければなりません。
これは実は、なされている作業自体は、先に挙げた「構造化による順列記憶」「キーワードによる本質的連想ゲーム」と同じ問題ですが、議論のレベルが違うのと分けた方が理解するのに便利であることから、私は別トピックスとして扱っています。また、論考では、以下のような重要な問題が提起されています。
http://www.csl.sony.co.jp/jsai/cdrom/articles/pages/a8-3-7/html/5.html
我々は生きた知識を百科事典のようにはしゃべれないのである。では、何故知識は物語様式を少し放棄してバラバラになったのか。この責任は学問そのものの発達の仕方にある。http://www.csl.sony.co.jp/jsai/cdrom/articles/pages/a8-3-7/html/5.html
かつて、このような物語の構造や特徴に注目した物語学という研究分野があった。
(中略)
これらは、物語が人間の文化活動の根幹にひそむものだということをつきとめ、物語の類型、物語の文法、話者の役割、物語時間の研究などを試みたのであったが、
(中略)
物語の文化的本来性ばかりが重視され、それを別の領域、すなわち数理的な構造や技術的な方法に活用する方法が見つからなかった(後略)。http://www.csl.sony.co.jp/jsai/cdrom/articles/pages/a8-3-7/html/7.html
我々はこれらの知識を様々な場面や機会で使い分け、また連動させている。本来、知識ベースというものは、これらの知識の着脱自由な多層連環構造を持っていなければならない。物語構造にはこの連環構造がある。物語は、これらの知識をプロット、シーン、キャラクタ、ナレータによって巧みに繋いでいるばかりか、一連の知識をタテにヨコに自己編集する仕組みを持っている。個人的には、二番目の指摘が実に歯がゆいところだったりします(苦笑)。
重要なのは、物語を解釈すること(世界観の把握)ではなく、物語を語ること(技術としての物語論)だからです。物語る技術論を磨くことを忘れ、従前の物語を解釈するのに満足すれば、なにも発達しないでしょう。それに伴い、議論として、以下のような言葉の使い分けを提案いたします。
「物語」と「物語り」あるいは、「記述された物語」と「発生する物語」
「物語」「記述された物語」とは、解釈の対象となる、紙などの記録媒体に固定化された物語(ストーリー)です。
物語には様々なものが存在します。
いわゆる物語のみならず、論文やエッセイも物語となるでしょう。そのなかで、物語の中から解釈された共通の価値観が、大きな物語と呼ばれることになります(そう言う意味では、「記述された物語」と「解釈される物語」とを分けた方がいいかも?)。多くの人間は、この、「記述された物語」から「解釈される物語」をくみ取ることに満足します。一方、「物語り」「発生する物語」とは、もっと自律的なもので、「記述された物語」(←「された」と、過去形で記述されていることに注意)から「解釈される物語」をくみ取った上で、物語記述のための方法論、物語るための方法論を学び、自分が語りたい物語を“他者に伝えようとする行為”それ自体です。
ここでは物語は自己完結せず、自分と他者との“関係が重視”され、非決定的に、可変的に、そして、自律的に他者に語りかけることになります。(ただし、個人的には、物語が相互理解される必要はないと考えます。物語とは、物語を受け手に想起させることにこそ価値があると思うからです。肝心なことは、物語を物語り続けるということです。物語ること、それ自体を目的としなければならないのです)
「解釈された物語」が自己完結的であるのに対し、「発生する物語」は、受け手に語りかけることそれ自体を目的にし、どのように語りかけるか、(「発生する物語」の体現者は)その方法論を日々探求することになります。ちなみに、ハッカー倫理とはまさに、この、物語を発生させる方法論を探求しようとする行為なのではないかと思うのです。
だからこそ、ハッカー倫理は、大きな物語にはなり得ないのだと思うのです。
また、「発生する物語」こそ、先に挙げた論文で言うところの、「自己編集性」を備えた物語です。ここでは物語とは、自己編集性を備えるが故に非決定的であり、かつ可変的であるとされます。そして、私は想うのです。
大衆は物語(ストーリー)すなわち「記述された物語」に満足します。英雄の誕生とその死のストーリーに感動して終わりです。モダニズムは、そこから「解釈された物語」を導き出しました。そして、「解釈された物語」に陶酔し、自己犠牲も厭わぬ活動をした人間たちがいた結果、はからずも「英雄の誕生とその死」というサブストーリーが体現され、結果、それが「大きな物語」としての地位を得たのでしょう。
しかし、ポストモダニズムの現在、そんなサブストーリーを知らない世代の人間たちは、大きな物語に虚構を見てしまいます。
我々がいまやらねばならないのは、「解釈された物語」に満足することなく、個々それぞれ、個人個人が、「発生する物語」をみいだし、他者に語りかけ続ける、すなわち、個々人が英雄として自立することではないかと(←理想論、180%入っています)。
いまの暫定的な結論からすると、共通認識なんて、不要なんですよね(極論)、ただ、お互いに語り続けるということをあきらめなければいいだけであって。注意:
「発生する物語」と「記述される物語」との間に序列を求めてはいけません。
なぜなら、「発生する物語」とは、「記述される物語」を観察することなくしては成立し得ない一方、「記述される物語」も、「発生する物語」の理解なくしては記述不可能だからです。
これは、「卵が先か鶏が先か」という議論と同じなので、そういう分類の仕方はしない方が良いと思います(とか書くから、私の議論は一般的に理解されにくいのですよね…なんというか、機能論者・構造主義者の悪癖なのでしょうか?)。
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やあ、長らく懸案となっていた物語の定義に、ようやく決着を迎えられそうだ。
今日は、色々と作業をする。
おざなりに『ONE』の箱とマジカルN◎VAを更新。第八期アクト「Sturm und Drung」募集開始。
三月の日記の続きはこちら。
三月三十日と三月二十六日とのギャップに苦しんでもらえると嬉しい(マテ)。
今日は、ブロッサムの日。
SSS11「ツキニフルユキ」をやる。
黄・金・伝・説
つーか、他の導入が大義とか復讐とか、カッコイイエフェクトがかかっている中で、ひとりフェイト導入だけレルムが違うってのは、どうよ?
「最近、妙にドラゴンアームズづいているね」
GMの準備がほとんど必要ないから、とりあえず集まって遊ぶには便利なのよ。
それに、システムの特性上、全員の協力なくして腐れMISTを倒すことは不可能だから、遊んでいると否応なしに連帯感・達成感が生まれる。なんだかんだ言って、遊んでいて楽しいシステムだね。
いままで二回が防衛戦だったのに対し、今回初めてMIST勢力圏に攻め入った。
…といっても、やったことは、ヴァイツグラード軍が首都を奪回する間、増援MISTを叩くべく要塞に陣を引いただけなんだけどね。結局、やったことは防衛戦だった(苦笑)。敵は前回と同じく二個中隊。ただ、前回と違うことは、ヴァイツグラード軍の要塞駐屯軍が共に戦ってくれた事かな。
「おお、頼もしい」
邪! 魔!
アポカリプス・クエイクが使えないじゃないか!!
「ああ!? 実も蓋もないことを!」
つーわけで、今回は敵を一機も撃墜できなかった。やった仕事は、射撃をカバーリングして、味方を守ったことぐらい(涙)。ああ、せっかくのスマッシュ30ダメージが…。
「何を言う、バスターランチャーを調達するという重大な仕事をこなしたではないか」
30ダメージの射撃武器ね。確かにアレがあったおかげで、射撃のひと薙ぎで敵MISTの第一波を退け、かつ、コマンダー一体を1ターンキルできたと言えるか。
しかし、もう一体のコマンダーの一撃で友軍は壊滅、第二波で完全に包囲されたわけだ。
もはや打つ手無しと、全力で集中攻撃をコマンダーに掛け、なんとか退けた。
「コールドファイアのサウザンドキルって、やっぱり凶悪だよね」
しかし、腐れMISTは今日も元気にサイコロを13個振って3以下で成功とかほざくわけだ。
「で、話が変わるけど、バージョン3.00って?」
うむ、アクションで登場することで場面の雰囲気を変えるというルール、あと、任意のNPCを登場させることでイベントを仕掛けるルールが追加された。
「身も蓋もなくガンパレ」
エアルが段々と女の子になっていくのがほほえましかったね、今日は。
恋人が出来たり、友達が出来たり。
「発言内容を誤解されたままてきとーにすすめるからでしょーが」
いいんじゃない、それはそれでおもしろいし。
今日の撃破数:00機…絢爛舞踏まで、あと、202機
………GWなんて嫌いダー!(ただいま絶賛GW進行中…GWはこぞって印刷所が休むので、締切が一、二週間前倒しになるのだ(涙))
………空しくなってきた。
つーことで、メールとか日記とか、サイトとか、なにやら整理していたらもう2時半………むなしい(涙)。
「“のに”って、なによ?」
ガンダムにおヒゲがありますか!? ありません!
「反語かよ…」
ターンAガンダムじゅーよー
「火塚語辞典でいまのコメントを以下に翻訳してみます」
ターンAガンダムというと、おヒゲがアレ(笑)なガンダムとして有名だ。正直、私も地雷としか認識していなかった。
ところが、最近、あちこちで面白いという評判を聞き、気になっていたところ、先日Na3氏が手に入れたとのこと。会社をさぼって(ちゃんと、一週間以上前に休暇届は出しました)DVDをむさぼり見る。
はじめは、二、三話ほど見たら帰るつもりだったのだが、あまりの面白さに結局、ほとんどを見てしまう。
富野節というか、電波で意味不明な会話(←会話がかみ合わず対話になっていない、富野独特の台詞回し)は相変わらずだが、何故だか妙に面白い。なにが素晴らしいって、感動的なシーンをことごとく台無しにしているあたりだ。ついに富野は開眼したのか、ヒゲをネタにして笑いをちゃんと取っている。偽ターンAは出るは、しかもその偽ヒゲがアイスラッガーのごとく宙を舞うわと、やりたい放題だ。他にも、カプルは今日も元気に転がるし、ブルーになって膝を抱えたカプルはラブリーだし、感動的なシーンのはずなのに、カプルの愛くるしさがすべてを見事にギャグにしている。ヒゲはヒゲで、月をバックに宙を舞う。幻想的なシーンのはずなのに、ヒゲがすべてを見事に台無しにしている。アステカ王の世代交代(生け贄にされる王の話)が二話をかけて感動的に描かれているのはよいのだが、その話だけ抜き出すと自分がいったいどんなアニメを見ているか思わず忘れてしまう。…こう書くと駄目なパロディの手本のように聞こえるが、実際は、上品と下品とを危うくバランス取っている、娯楽作品の傑作として仕上がっているのだ。
ストーリーは、うり二つなお嬢様と月の女王様とが入れ替わることで周りが混乱するという内容だ。本来、混乱の原因にしかならない入れ替わりが、二人の女性たちの言動の“偶然の一致”により、悲しいすれ違いにより拡大する戦線を収束に向かわせていくという物語の描き方は見事。物語が本来ご都合主義であるということを良く理解しているとうなってしまう。この話の筋の描き方だけでも見る価値があるかもしれない。
他にも、登場人物が全員良い奴で、見ていて凄く気持ちがいいし、見ているだけで気持ちが救われる。こういうところでも、良くできていると思う。
つーか、見ろ。
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