ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
「黙れ、チェキ」
ふーじこちゅわぁぁん
「黙れ、うぐぅ」
ルパン三世セカンドシリーズのDVDボックス買いました。
「うわ! 莫迦がここにいる!」
だってなぁ、秋葉原に立ち寄ったら、五万九千八百円で売っているんだもん。私でなくとも、当然買ってしまうだろう?
「で、今月どうやって生活するつもりだ?」
さあ?
今日のついでのお買い物
古本の指輪物語。全六巻。二千円也。
ボロミアがブロボに飛びかかる挿し絵を確認し、安心する。指輪かくありき。
さりげなく『ONE』の箱とリンクを更新。
リンク先は、朧太夫氏の今申楽朧座。古い友人のひとりである。
それにしても、我孫子武丸の腐れたテキストはどうにかならないものか?
あの、どうにも説明的なテキストは我慢がならない。私の美意識が、どうにもそれを許さない。つーか、ミステリ作家の書く文章はみんな、あんな感じなのか?
で、知り合いの卓につく。システムは知り合いのオリジナルシステムだ。おわり。
「セッションレポートは?」
(顔を背けつつ)やっぱりさ、思うんだよ。TRPGって、GMのみならずPLの質も要求されるよね?
「つまり、君以外のPLがあまりにうざいと?」
うざいというレベルを通り越していました(涙)。
たのむから、少し黙れ。発言量をいまの五分の一にしても十分にキャラを立てることは出来るはずだからさ…。
「映画版、ね。素直に『Lord of the RING』を観てきましたって言おうよ?」
字幕作成者死刑
「『愛しい物』は『いとしいしと』と訳すべきだろう、と?」
ガンダルフ萌え
「アレはどこからどう見てもガンダルフだよね〜?」
つり目エルフと三つ編みドワーフはメリケン文化の極み
「あそこまでお約束をやってのけてくれると、感動すら覚えるよね?」
バルログは違う
「なんだかんだ言って、炎の鞭の表現はスキらしい?」
ボロミアも違う
「ブロボに飛びかかるボロミアの挿し絵を正確に再現してもらいたかったけどねぇ?」
かったるい展開まで指輪物語
「原作ファンが原作の再現度をチェックするのが正しい見方だろうというのが、(極めて歪んだ)火塚の見解だそうです」
あ、サーバーが復帰したらしい。ダウンしていたHPサイトを見られるようになった。
ちなみに、私のTRPG観には大きな問題点がある。
「分かりにくい」
うん。「物」語りと物「語り」とを峻別しているからね。普通、分からない(苦笑)。
でも、そこで私を単なるストーリー指向と誤解されると非常に不本意なので(笑)。
「あと、君のスタンスは結果的に物「語る」ことを相手に強要することになる」
…正解(苦笑)。私のセッションでは、PLは物「語る」以外に選択肢がなくなってしまうんだよね(溜息)。
「君がガンパレに対して感じた憤りと同じ憤りを、君のマスタリングに対して感じるPLが出ても可笑しくない」
うん。私の「語る」ことは、関係を持つことを強要する。関係を持たないと面白くも何ともないんだ。旧来のように単純に戦闘をこなしていればそこそこ楽しめるというわけではなく、最近のFEAR作品のようにマスターシーン主導で物語が無理矢理動くわけではない。PLからのより積極的な働きかけを常に要求しているんだ。私のシナリオは、自由度が低い割には自由度が高く、自由度が高いわりには実に不自由なんだよね。
ガンパレはよく、自由度が高いと言われる(私から言わせれば、あれほど不自由な作品も珍しいが…その批判は、私のシナリオにそっくりそのまま当てはまるのだ)。
しかし、以下のようにも考えられるのだ。
jesus 点を繋げようとする作業が面白いとか思うですな>ガンパレ
tatuya そこです。わたしがガンパレに不満を感じているのは>点を繋げようとする作業が面白い
jesus Aという点とBという点だけでは繋がらないし面白くもないが、間にCという点を交えれば繋がるし面白いということがありますな
setta 点を置ける場所は自由だけど、範囲は完全に制御制限されてますから。
tatuya 我々PLには、点を繋げるという作業以外の選択肢が許されていません
jesus 自分で点を作れると思いますが?>ガンパレ
tatuya ああいや、「点を繋げる」という作業ではなく、「点を繋げるという作業」を憎んでいるのです
jesus おお(苦笑)
tatuya ほら、ウィズやマリオは、そこら辺、無自覚なので「点を繋げるという作業」を強いられているという感覚はないのですが………
setta 点を繋げる作業の面白さのプロバガンダでありチュートリアルでもあるからなぁ
tatuya ガンパレはそこら辺、製作者やる気満々なので
jesus ふむう
setta ああ、なるほど。確かにtatuyaさんにわたしは禿同だ(笑
jesus わーい、にたものどうしー
setta でもだがしかし。製作者はtatuyaさん同様に、「点を繋げるという作業」を強いるしかできないことを苦々しく思ってるとも思われ
setta だからAIRと一緒なのよー
tatuya やな結論だな、ぉぃ…>『Air』と一緒
setta おんなじ事考えて、見せ方が逆だったっていう
jesus プレイヤーを育てる必要があったのでしょう
ガンパレも、私のシナリオと同じく、PLに物「語る」ことを強要する。物「語る」以外に選択肢を与えないのだ。
「………で、結論は?」
どうしようか(苦笑)?
「自分で考えなさい」
「こほん。意味不明」
意味不明だね(苦笑)。
ええとだ、「TRPGというメディアは、どのようなことを表現できるか?」というのが、いま自分の中で一番熱いトピックスなんだ。何かを表現することにおいて、何故私はTRPGというメディア形態にこだわるのか? これって、自分にとっても結構不思議なことではあったんだ(一月二十一日参照のこと)。
「まあ、君は直感で動く人だからね…」
自分でも良く分からずにとりあえず考察してみたり動いてみたりするよね(苦笑)。
で、だ、私がファンタジーに惹かれるのは、そこに倒錯表現があるからだと思うんだ。
愚か者が王子様となり、王様は乞食となり、動物は変身し、人間は動物となる。そんな、すべてがあべこべの世界。その世界は、強者が英雄となるような単純な世界ではない。ファンタジーや昔話は、キャラクターに役割(英雄、ヒロイン、助言者、敵などなど)を明確に要求する一方、(本当に優れたファンタジーは、)その役割を倒錯表現により易々と否定する。英雄はトリックスターとなり、己に向けられた呪いをうち破り、終局的な栄光を手に入れる。そこには、ハッピーエンドを越えた、魂を揺さぶるご都合主義がある(素直に認めよう、これはご都合主義だ)。
(ここは話がまとまっていないので凄い論理の飛躍があるのだが、)ファンタジーってのは、実にゲーム的に分岐する物語なんだ。すべてが示唆的に語られ、登場するすべての事象が有意味的に語られるファンタジーにおいては、そこに登場したすべてが主人公にとって物語を動かす資源足りうる。そこで、どの資源を利用するかは、主人公の、更に言えば語り手の恣意に委ねられ、物語はそこで無限の分岐を生むことになる。これこそ、ファンタジーが自律的な物語とされる由縁のひとつなのだろう。ここで、物語の主人公は、語り手は、すべての資源を利用し、ときに自らの役割を英雄からトリックスターへとダイナミックに変容させ、生き残る必要がある(さもなければ、その先に待ちかまえているのは死と虚無だけだ)。
このように、ファンタジーというのは、登場人物の役割が明示的・固定的でありながらも、いや、明示的・固定的であるが故に一層、激しく役割・立ち位置を変化させ、物語を紡いでいくという特質を持っていると考えられる。あーんー。ここら辺、心理学を囓ったことがある人間であれば結構同意してもらえると思うのだが…(苦笑)。
ファンタジー好きというのは、こういう「物語が変化する」という事象に惹かれるものを感じるのではないかと思うのだ。最近の、科学的な因果・作者的な因果のみで作られた一本道の作品とは根本的に違う作り方をしている(そして、科学的な因果・作者的な因果のみで作られた作品が全盛の昨今においては、物語とゲームとは対立するという誤った認識がまかり通るわけだ)。思うに物語とは決して、決められたものではない。物語とは本来、極めて可変的・非決定的な存在なのだ。
「………(苦笑)」
で、だ、TRPGってのは、PLが介在する分、物語の変動が激しいことこそ面白さの源流たり得るし、そういうのを楽しむのに適したメディアだよなぁと思うわけだ。だから、推奨スタイルによる縛りや神業の使いどころをあらかじめ用意するという、最近のN◎VAの方法論はあんまり好みではない。PLをやる分にはともかくも(←これ、結構、重要)、RLとしては、よっぽどのことがない限りそういうシナリオを作ろうとは思わない。
せっかくのTRPG、美しく物「語り」たいじゃないか、とかなんとか。
うん、私は、「物」を語ること、すなわち、世界設定を語ること、歴史を語ること、固定的なストーリーを語ること、キャラクターを語ること(すなわちロールプレイ、あるいはキャラクタープレイ)には興味がないんだ。ただ、物を「語り」たい。語るという行為、それ自体を目的化したいと思っているんだ。
「やりすぎ…ちゅうか、それに誰もついてこない時点で敗北だろう、アンタ」
今日の標語:語るという行為それ自体を目的化せねばならない
例えば、二十話において、放課後の帰り道、ウテナは若葉に問う。
「最近、何か好いことあったの?」
若葉は振り返り、ただ、「え?」と問い返す。
その瞬間、街灯のランプはぱっと灯る。
なんと、完璧なのだろうか? 若葉がただ顔を赤らめるよりも百万倍も若葉の心情を観客に見せつけてくれる。私も、これぐらい美しく物語りたい。
ウテナは何故、世界を革命出来たのだろうか?
最終話の展開を交えて、少し考察を試みてみよう。うむ、読者の興味なぞおいてきぼりだ(笑)。
もちろん、通常の解釈であれば、答えはすでに与えられている。思春期のイニシエーションになぞらえて解釈されるだろう。そして、ウテナは最後まで誇りを、気高さを忘れなかったが故に世界を革命出来たと考えることだろう。
しかし、この解釈には欠点がある。ウテナは最終話で消えなければならなかったのかという根本的な命題だ。ウテナが、本当に、最後まで誇りを、気高さを忘れず、世界を革命出来たとすれば、ウテナはこの世界から消え去る必要はなかった。これは、『ONE』で浩平が最後に消え去るのと同じく、多くの論者の頭を悩ませてきた命題だろう。
そこで、次に考えられるのが、『ウテナ』が実は最初から最後まで、姫宮アンシーという少女の物語であったという解釈だ。これは、最終話で、アンシーが薔薇の花嫁という役割を捨て、ウテナを捜すべく広野に向けて一歩踏み出すことを考えれば、実に説得的である(そして、『ウテナ』全話を見返してみると、確かにアンシーには成長の跡がしっかりと見られる。明らかに他律的であった第一部に比べ、第二部、第三部ではアンシーは確かに自律的に行動をしている(第二部で枝織はなにも変わっていないとウテナに言うシーンや第三部でウテナに毒の話をするシーンなど))。ウテナが鳳学園から消えてしまったのも、あくまで、暁生の世界から消えてしまっただけで、本当の現実社会にウテナは存在すると考えれば、ウテナが消えてしまった理由は案外とスマートに解決できる。実際、私も基本的にこの説を採用している。
しかし、ここでの問題は、むしろ、ウテナ“のみ”が何故、世界を革命出来たか? その結果、ウテナが“何故”鳳学園から消えなければならなかったのか? ということである。
なぜ、ミッキーでも冬芽でも樹璃でも西園寺でもディオスでもなく、ウテナ“のみ”だったのか?
そして、世界を革命した結果、“何故”ウテナが消えるという“事象が発露”してしまったのか?
それは、ウテナがファンタジーであったからだろう。
すなわち、倒錯である。
ファンタジーは、極めて記号化された文芸表現である。そこではキャラクターは極めて記号化され、抽象化される。キャラクターは一個の人格ではなくひとつの役割であると捉えられる。
さて、ファンタジーには、他の文芸表現には見られない特異な役割が登場する。勝利する主人公、すなわち“英雄”という役割だ。
ここで、多くの人間が“英雄”の“英雄”たる由縁が強さにあると誤解している。
確かに、ジークフリートも、ヤマトタケルも、強く気高い偉大な英雄だ。
だが、強いばかりが英雄ではない。昔話においては、徹底的に愚かであるとか、人よりも劣っているということが英雄の条件になることの方がむしろ多い。
力太郎は強い英雄だ。しかし、力太郎が冒険行に出るまで二十年の間、赤ん坊であったことを忘れてはいけない。
三人兄弟が冒険に出れば、栄光を勝ち取るのは愚図でのろまと莫迦にされる末っ子であると相場が決まっている。
愚か者ハンスは、突飛もない行動で援助者の援助を得、魔王を倒し、王女様の愛を勝ち取る。
花嫁の横暴な父親の無理難題を切り抜けるのは、青年の知恵ではなくいつも花嫁の機転である。
このように、昔話を紐解けば、勝利する主人公、すなわち英雄が強者であることは珍しく、むしろ徹底的に劣っていることの方が多いのだ。
では、改めて、“英雄”の条件とはなんであろう?
思うに、まれびと(稀人)性にあるのであろう。
すなわち、人よりも徹底的に強いだけではなく、人より徹底的に劣っている、人よりも徹底的に莫迦である、人よりも徹底的に生まれが稀である(捨て子であったり、貧民であったり、貴人の生まれであったり、人間ではなかったり)、というように、明らかに通常の人間とは異なる生き様をしている人間こそ、まれびとであり、英雄であるのだ。英雄とは、明らかに社会不適合者であり、社会のつまはじきものであり、であるが故に、存在することそれ自体が社会システムを破壊・変革する可能性を持っている存在である。存在そのものが害悪であるが故、昔話の英雄には、往々にして、本人がなにもせずに、周りが勝手に変化を起こし、幸運が転がり込んでくるのである。
力太郎は二十年間赤ん坊であったが故に、本当にその力が要求されるときに強者へと変化を遂げる。
三人兄弟の末っ子は、長男ではない、すなわち、社会を統治する力を持たない、あぶれものであるが故に、さらに、愚図でのろまと莫迦にされるが故に、通常の人間とは異なる感性を持つ。であるが故に、妖精の助力を勝ち得て栄光をものにする。「ならなし」で、笹の葉の助言を聞き入れたのは唯一末っ子だけでなのだ。愚か者ハンスも似たようなものだろう。
花嫁の横暴な父親と花嫁という、閉じた小さな社会を破壊したのは、花嫁の愛を勝ち得てしまった幸運な(不幸な?)青年という存在そのものである。青年自身がとりたてて能力があるわけではないのにもかかわらず、世界を革命してしまったのは、まさに、青年が花嫁の愛を勝ち得てしまったというまれびと性に尽きる。
ファンタジーにおいては、ただの一個の人間では、(すなわち、社会の常識に捕らわれた人間では、)勝利を勝ち取ることは出来ない。ファンタジーにおいて勝利したければ超越し、まれびとになるしかないのだ。
では、ここで『ウテナ』をファンタジーの英雄と捉えた場合、ウテナのみが何故、世界を革命したのであろうか?
ここまで話を進めていれば、薄々理解できるであろう。
ウテナが世界を革命出来たのは、ウテナがまさに女の子だったからである。
本来ならば、女の子であるウテナは薔薇の花嫁の王子様にはなれない。アンシーが言うように、「貴方は私の王子様にはなれないわ。だって、(貴方は)女の子(後略)」だからである。
しかし、ウテナは、女の子であるにも関わらず、王子様であろうと決意した。
女の子であるウテナが、本来男の子しかなれない、王子様という役割を目指したことにこそ、ウテナの英雄たる由縁、すなわちまれびと性の獲得の本当の原因があったのだ。ただ薔薇の刻印を持つだけなら、ただ気高き心を持つだけならば、ただ強いだけならば(単純に剣の腕前だけならば、生徒会執行部のメンバーの方が明らかに格上であった…これは、全編通して描写されている事実である)、他のキャラクターでも出来たことである。ウテナが真に世界を革命出来たのは、ウテナが女の子であるにもかかわらず、王子様であろうと思ったことにこそあるのだ。
薔薇の花嫁という世界においては、男の子が王子様となり、アンシーがお姫さまとなるのは、ある意味当然の結末だ。それは、当然として受け入れられた瞬間に社会の基本構造となる。男の子がただ王子様となっただけでは、ディオスの力は発動しない。すなわち、世界を革命する事は出来ないのだ。男の子が王子様となるのは、薔薇の花嫁の世界においては当然の結末だからである。男の子がただ王子様となるのは、世界の革命ではなく、世界の秩序そのものだ。
思うに、ウテナが女の子であったことこそ、ファンタジーの倒錯表現であり、世界を革命する原動力となり、『ウテナ』を他に類を見ない極上のファンタジー表現と昇華した理由なのであろう。
これは、ウテナのトリックスター性と言い換えてもいいかもしれない。
すなわち、本当の英雄とは、トリックスターなのである。
思い出してもらいたい。ジークフリートやヤマトタケルなど、ただ強いだけの英雄が、実は体制側の人間であったという事実に。彼らは、神々の計略のコマとしてあるいは王朝拡張のための兵として戦いに赴く。彼らは実は、世界を革命していないのだ。彼らは、トリックスター、すなわち社会の破壊者になりきれないが故、世界の呪いを受け、死の定めから逃げることが出来なかった。
死にたくなければ、本当の栄光を勝ち得たければ、英雄は社会を笑い飛ばす必要がある。英雄が生き残るには、本当の意味で突き抜け、社会そのものを破壊するトリックスターになる必要がある。さもなければ、世界の呪いを受け、死ぬことになるであろう。卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らは雛だ、世界は殻だ。
さて、では、その上で、何故、ウテナは世界から消え去らねばならなかったのだろうか?
それもまた、ウテナが女の子だったからである。
(ここはまだ考察を詰めていないが、)ウテナは、女の子であるが故、お姫さまでもあった(「それはまだ、女の子の誰もがお姫さまであったころのお話」だ)。アンシーは、薔薇の花嫁であることをやめた。薔薇の花嫁の世界において、薔薇の花嫁とは、世界中の憎悪を一身に受ける生け贄だ。薔薇の花嫁がいなくなれば、世界は憎悪に満ちてしまう。となれば、憎悪が次に向ける矛先は、アンシーを解放した女の子であるウテナ以外にはあり得ない。かくして、ウテナは薔薇の花嫁となり、世界の贄として、捧げられることになった。これこそ、ウテナが鳳学園から消えてしまった本当の理由だろう。間違えて欲しくないのは、薔薇の花嫁という生け贄を必要とするのは、鳳暁生でも、鳳学園でもなく、ただ、漠然とした世界であるという事実だ。ウテナは、漠然とした世界を革命したが故に、世界の敵となり、消え去ることとなったのだ。
おそらく、ウテナとアンシーが、本当に世界の呪いから解放され、(自分たちの)世界を革命し終わるのは、十年後、二人が笑ってお茶を飲むときだろう。
劇場版『ウテナ』を観る。
………
金返せ(爽)。
っていうか、なんですか、この、ウテナの哀れな残骸は? ウテナが本来備えていた様式美が欠片もない上に、ウテナが本来備えていた豊かなテーマが見事に曲解されているんですけど…(涙)。
なんというか、ウテナのテーマ、表現の本質を見事に誤解したファンが何となく作ってしまった二次創作みたいな出来でした(血涙)。
『ジャンヌダルク』
………
すばらしい。何て清く正しく間違った中世なんだ(感涙)。
「たっちゃんなんて、中世に萌えていればいいんだ」と言われようがなにされようが構わない。いまこそ声を大にして言うべきだ。
『ジャンヌダルク』じゅーよー
あまりに頭痛がいたかったので、午前四時頃に、タクシーで帰宅しました(無駄遣い)。
さすがに、一日に三回もノアに逝けば、色々なトラブルに見舞われるのでしょうか?
昼は、(恐らく新米の)店員さんが、カルピスウォーターをひっくり返してウォーターハザードを起こしてくれました(ルールブックびしょぬれかよ…)。
夜は、店員さんに慣れた口調で「カラオケは使われますか?」「使われないのであれば電源を切っておきましょうか?」とか言われました。
あーうー(涙)。
四時間後、私は池袋のノアにいた。
ュゥィ氏を交えてのアルカナ2セッションである。十日に広告を打っていた、アレだ。
SSSなぞをまったりとプレイする。
…まあ、所詮SSSか…(酷い)。
「いや、今時、ウテナを知っている読者がどれだけいるのか…」
さあ? 何せ五年前の作品だからなぁ(しれっと)。
まあ、備忘録みたいなものだと思うと好いさね。
どの姉妹も、妹が微妙にアブノーマルな視線を持ってお兄様を観ている。特に、暁生とアンシーは、実際に肉体関係まであるので、とびきりアブノーマルだ。近親相姦というヤツだ。
しかし、それ以外の二組は、実はそれほどヤバイものではない。というよりも、、暁生とアンシーのように一線を越えることはあり得ないと思われる。
暁生とアンシーとの情事を目撃した七実のリアクションを考えれば、それは明らかであろう。
幹と梢との間にあるのは、年が近い兄妹の自己愛に近い。それはさながらよく似ている双子がじゃれ合うようなものだ。だからこそ、梢は、汚れた自分の姿を見て心を動揺させる幹の反応を楽しんでいるし、幹を汚す人間をヒステリックに排除しようとする。
冬芽と七実との間にあるのは、重度のシスコンだろう。七実は、あまりにカッコイイお兄様に恋しているのだ。ただ、それはどちらかといえば、少女漫画における「恋への憧れ」に近いもので、それが恋愛に発展することはあり得ない。あこがれはあこがれでしかないのだ。
「は?」
だから、ウテナのDVDを全巻購入しました。
「いや、だから、一日の、日記は?」
ああ、あれは、1,2,3,8巻だけ。今日、秋葉原に出かけたら、未開封全巻セットで売られていたので、つい、買ってしまった。
「…莫迦?」
ああ、莫迦だろうな(さらりと)。
………やっぱり、『フォークソング』は和むなぁ。
特に凄い物語展開があるわけではないが、しみじみと、“お話”を楽しませてくれる。この、“語る”あるいは“語ってくる”あるいは“語らせる”感覚こそ、物語の醍醐味だよなあと、分かったような分からないようなことをつぶやいてみたりする。
「うん。やりたいね」
因果律「エリクトーの膏薬」であこがれの女性って、やっぱり、エリクトーだったりすると良い感じだよね。
「え? エリクトーが横恋慕するってパターンもありじゃない?」
修道院の同性愛ネタなんかもシナリオになるよね。レズだよ、レズ。
「中世って、厳格なくせして意外と性に関しては鷹揚なところがあるからね」
因果律「血染めの戦旗」を持った少女の野盗騎士をやりたいなぁ。コロナ、アングルス、ルナあたりで。
「ジャンヌ・ダルクあたりをモチーフに? 毒とか火矢とか使い放題だね」
ああ、そうだ、北伐に行こう。
「豚は死ね!」
ブレイド・オブ・アルカナ2やりたいね。
「じゃ、メンツ集めたら?」
つーわけで、突発企画。二月十五日深夜から十六日深夜にかけてスタジオNOAHでアルカナ祭りを開きます。私も、市販シナリオを含めて何本かシナリオを抱えていきます。
「詳しい内容はこちらをご覧ください」
人、集まるかなぁ?
「あまりに突発的な企画だからねぇ…」
あ。ついでに、いい加減うざったくなったのでカウンターを取っ払った。
「………」
「と、言いながら、遊びには行ったんだよね?」
うん。オウカホウシン。
今日の戦闘もやばかった。私のキャラ、死んだし(苦笑)。
つかGM、このレベル(技能数22程度)で多頭蛇を相手にするのは、かなり辛いんですけど。
「1ターンに全体攻撃三連発ってのは、いただけなかったね」
勝利したのが奇跡だったよ。
「っていうか、奇跡だったけど」
自殺させる仙術が決まらなければ確実に全滅していたからなぁ。
まあ、せっかく早く帰ってきたのだから、色々と作業をしなければね。ここのところ残業続きで、まともに作業が出来なかったから…。
今日は、実に編集っぽい一日だった。
出力センターに二回も出かけたり、大量の校正に途方に暮れ、泣きながら残業をしたり。
…疲れた。ツーか、日記書く気力無いんですけど。
今回の更新は、リンクを大幅に改装。デッドリンクを消したりしていた。
『ONE』の箱にも新作を配置。
マジカルN◎VA、再開しました。
とゆーわけで、日記も三ヶ月分更新したことになるわけだ(苦笑)。これじゃあ、読む気力失せるだろうから、最近の火塚的トピックスとして下にまとめてみる。
・まりんとメランじゅーよー 十一月一四日、十一月十五日、十一月一九日
・ウテナじゅーよー 二月三日
・芝村(制作者)をぐーで殴りたい 十二月六日、十二月十六日、一月十一日、一月十二日
・『ONE』『銀色』『月姫』『ガンパレ』はギリシア悲劇である 十二月七日、十二月八日
・フォークソングじゅーよー 一月三十一日
・やりすぎTRPG論考 十一月五日、十一月六日、十一月三十日、十二月十日、一月六日、一月二十一日
・スーパーギャルゲープレイヤー俺さま 十二月三十一日
・ちょっときいてくれよ、この日記と関係ないけどさ 十二月一日
………ふぁんたじー、だ。
改めてみると、ウテナは実にファンタジーだった。
気高き心を持った少女は王子様に憧れ、王子様を目指す。王子様になるために少女は、薔薇の花嫁に恋愛奉仕(ミンネディーンスト)を唄う。
しかし、薔薇の花嫁の心は他の男の物。少女の心も段々と、その男に引かれる。
薔薇の花嫁は、王女であり、貴婦人であり、導き手であり、魔女である。
薔薇の花嫁は少女を一度は裏切るが、少女の、最後まで気高き心に打たれ、少女を捜す旅に出る。
『少女革命ウテナ』は、「世界を革命するために」決闘を繰り返す。革命されたのは、薔薇の花嫁の弱き心。薔薇の花嫁の世界は革命され、薔薇の花嫁は少女を捜す旅に出る。
なんだそりゃ、というかもしれないが、ウテナのあらすじは間違いなくこれである(苦笑)。
特に、薔薇の花嫁が魔女であるということは間違いない。最終話近くで、世界の果ては薔薇の花嫁のことを魔女と確かに呼んでいるのだ。
とにかく、ウテナは、テレビアニメシリーズとして展開されたファンタジーとしては最重要作品のひとつとしてあげられるべき作品であることは間違いない。ファンタジー作品を作りたいと思う人間や、ブレカナで女騎士をやりたいと思っている人が見れば得られる物は多いはずだ。
それに、ファンタジーの重要なファクターのひとつ、「女の戦い」を余すところ無く描いている。女の戦いを描いた作品としてはやはり傑作の部類に属するであろう。
その他、ウテナは、作品の演出、魔の取り方、観客への情報の伝達の方法についてやりすぎなぐらい重要な提言を再三繰り返している。演劇的手法をアニメに意欲的に取り込み、アニメで出来る表現の最先端を我々に見せつけているのだ。物語表現について真剣に考えているのであれば、やはりはずせない作品だろう。
家に帰ってからは、かたかたとテキストを打つ。更新再開に向け、準備は着々と進む。
ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。