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というわけで、今回のお題「著作権法改正にまつわる三段オチ」をお送りしたいと思います。
ハイテクを理解していない議員が考える海賊行為やハッキングの取り締まり法案は、とんでもないものばかり。今こそハイテクに詳しい政治家に投票するときなのだ。ハイテクに詳しいとか詳しくないとか、そういう問題ではなくて、きちんとした利益考量ができるかどうかというだけの話だと思うんですよ。つい先週にはP2P技術と国家安全に関する公聴会で、オリン・ハッチ上院議員が、インターネットから著作権付き作品をダウンロードしたコンピュータを破壊しても構わないという見解を表明した(6月19日の記事参照)。しかし公聴会の後、同議員は自身の発言に多少の修正を加え、「極端な策を奨励しようというわけではない。穏やかな策が見つからない場合に限っての話だ」と語った。
著作権になんらかの自力救済的な制度を認める必要性があるのは、現実問題として認めよう。少なくとも、いま現在、それ以外に、違法複製による著作権者の損害を防止する方法が提示されていないからだ。
問題は、許容性である。他人の財産権を侵害する(ここでは、違法複製をしたPCの破壊を意味する)権限を認める許容性があるのか?
正直、それを認める緊急性は認められないし、その手段・方法に正当性・相当性があるとも思えない。いまここでPCを破壊しなければ著作権者の利益の回復がはかれないわけでもなく、PCの“破壊”という行為は手段・方法として、適切、正当、相当ではない。違法複製データの削除や利用停止というのであればわかるが、破壊行為とは、明らかにやりすぎである。PCの中には、件の違法複製以外のデータが入っていて、PCの利用者は、違法複製以外のデータによって生活しているはずだ(たとえば、文筆業など、もはやPCがなければ仕事ができないのと同義だろう)。
そしてなによりも、著作権者の利益の回復とPCの破壊との間には、対応関係が認められない。
物が盗まれたから盗まれた物を盗み返す、というのであれば、まだわかる。それは、一般人の素朴な法観念に合致する。いわゆる、自力救済という奴だ。
しかし、例えば、物を盗まれたからといって、(相手との取引交換を持ちかける目的で、)相手が大事にしている別の物を盗み出すことが許されて良いものか? それはまるで、現代の法治国家ではなく、どこかの西部劇を見ているかのようだ。問題なのは、それを認めたところで損害の回復が図られるわけではないということだ。自力救済を認めるのであれば、まだわかる(例えば、違法複製を削除するプログラムとか。少なくとも、目的と手段とが合致している………まあ、こんどはそれはそれで、プライバシーとの絡みでどうかとは思うが)。
しかし、私刑執行を許容する必要があるとはとても思えない。なぜ、ほかの法益においては私刑執行が認められていないのに、著作権者に私刑を認めるのか?
例えば、現行法では、親族が殺されたからといって、のちに犯人を追い詰め、犯人を殺すなんてことは、絶対に認められない。確かに世間は同情してくれるかもしれないが、法は報復を許さないであろう。現代社会において、さらに、きざったらしい言い方を許してもらうのであれば、理性的、民主的な国家において、私刑は認められない。
しかも、私刑執行を認めるとしても、違法複製に対するPC破壊は、明らかにバランスがとれていない。先も書いたとおり、PCの中には、件の違法複製以外のデータが入っていて、PCの利用者は、違法複製以外のデータによって生活しているはずだ。PC破壊による損害と、違法複製による損害との間では、その損害額のバランスがとれているとは、とても思えない。さながら、親族のひとりが殺されたからといって、一族郎党皆殺しにするかのような熾烈さだ。何度も言うように、法は、理性的な法は、必要性があるからといって、それを無条件に許容したりはしない。目的のための手段を選ぶ。法理論においては、マキャベリズムは明確に否定されているのだ。
なに? これからのIT時代、知的財産の保護は急務であり、知的財産の保護こそが国家百年の計につながる? たとえバランスが悪くとも、著作権者に私刑執行権や自力救済権を与える必要性は尚高く、許容性もまた認めるべきである?
ご立派だが、しかし実は、著作権者の保護のみが、国家の知的財産政策のすべてではなく、著作物の利用者に留意を払うこともまた、知的財産政策となる。ここで、現行の著作権法体系、すなわち、複製権中心主義を前提に著作権者の保護を図ることは、既存の流通形態の保護に他ならない。現実問題、P2Pといった、全く新しい流通形態が誕生しているいま、(極端な話、著作権者の利益さえ度外視すれば←なので、あまり現実的な話ではないのだが)既存の流通形態にこだわる必然性はどこにもない。
それはすなわち、既存の制度の尊重であり、既存の社会構造の尊重である。もし仮に、既存の社会構造を前提として物事を論じたいのであれば、個人に私刑執行権や自力救済権を与える方策を検討すべきではない。言うまでもなく、私刑執行権や自力救済権の否定は、近代国家の基本的なアイデンティティであり、そのよって立つ基盤であるからだ。近代国家は、私刑執行権や自力救済権を否定することで行政概念、統治概念を発達させ、巨大化してきた。私刑執行権や自力救済権の肯定は、現行制度の否定以外の何者でもない。著作権者はいま、パンドラの箱にその手を伸ばそうとしているのだ。
グーで殴ればグーで殴り返されるもの。私刑執行権や自力救済権を認めれば、それは長い目で見れば、著作権者と著作物の利用者との仁義なき戦いを引き起こす引き金にしかならないだろう。何事にも、節度が要求されるのだ。…まあ、そういう意味では、P2Pという、既存の制度を否定するパンドラの箱を最初に開いたのは著作物の利用者の方であり、著作権者が危機意識を持つのもわからなくはないのだが。
と、ここまでが、現在の法理論を前提としたお話である。
じゃあ、今後のweb社会でも、自力救済や私刑が認められないのか? というと、実は私はそうは思っていない。良くも悪くも、組織が介入することなく、個人と個人とがwebによって直接結びつけられる時代が到来するのではないかと危惧している。悲しいが、世界はいま、分断されつつあり、近代国家が成立してから200年、個人を庇護してきた組織や国家は急速に権力を失う可能性がある(逆に言えば、巨大な組織や国家が個人を庇護してきた歴史は、近代国家が成立した200年程度しかない、ということだ。いわゆる近代国家のイデオロギーは、長い人類の歴史の中では、例外的状態にすぎないのかもしれない)。超個人主義時代の到来である。このような社会の有様は、むしろ中世のそれに近く、自らが所属するコミュニティの力を頼りつつ、最終的には自らの力によって、自分の権益を守っていく必要があるだろう。そのような時代が到来したときはもはや、自力救済や私刑の禁止といっている余裕はないと思われる。
問題は、いまの政治家が、そういうところまで見通して、自力救済や私刑の制度を著作権者に認めているとは、とても思えないということだ。そもそも、自力救済や私刑を認めるということは、近代国家にとって自己否定以外の何者でもないし、それは、長い目で見れば明らかに政治家の利得権益を損なう行為である。
あー。それはそれで、結局、どっちに転んでも、いまの政治家がいかに駄目っぽいかがよくわかるわけで。ハイテクに詳しいわけでもなく、利益考量ができるわけでもなく、長いヴィジョンを持っているわけでもなく。
………こういうとき、どういう言い方をすればいいか、わかる(爽)?
「 も う だ め ぽ 」
そして、あれっぽいオチ。
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