ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
で、真面目な話。
知り合いと話をして、先週、学生さんと話していたことについて、ひとつ思いついたことがある。ちょっと話が長くなるけど、順を追って説明してみたい。
「ご自由に。ここは、君の日記だからね」
ポストモダンという現代思想がある。
ポストモダンというのは、近代主義(モダニズム)の次(ポスト)という意味で、現代思想のある種のトレンド(もうとっくのとうにブームは過ぎ去っているけど(苦笑))だ。この、ポストモダンをどのように把握するかについては諸説あるけども、私自身は、モダニズムから解放する行為“それ自体”であると考えている。よく、ポストモダンは理論倒れで答えを出していないと言うけれども、むしろ、ポストモダンは答えを出してはいけない。ポストモダンとは、モダニズムがそもそも単純明快に答えを導き出しすぎていたことに対するアンチテーゼであり、モダニズム的回答に対する疑念そのものだ。もし、そこでポストモダンが王権主義や資本主義、民主主義に代わる単純明快な回答を導き出したとすれば、それは既にポストモダンではなく、モダニズムそのものであり、モダニズムの呪縛に囚われていることになる。だから、ポストモダンは、解放する行為それ自体であって、解放の先にある回答ではないわけだ。変な言い分だけど、ポストモダンにおいて重要なことは“個々人が疑念を持って生きる”ということ自体なんだと思う。
「ここら辺を話の大前提として」
じゃあ、ポストモダンが何を主張したかというと、「モダニズムの神話は死んだ」「大きな物語が終焉を迎えた」ということだ。
強力な共通認識として国家や民族を縛っていた従来の様々な物語・主義・思想が、もはや個々人に説得力を持てなくなった、そんな時代の到来を、ポストモダンは告げたんだ。国家主義・民族主義・国連主義・天皇主権・国際主義・民主主義・共産主義・資本主義・カソリック・帝国主義、そんな、様々な神話・大きな物語によって個々人の思想・行動が規律されていた時代が終焉を迎えたというのだ。実際、二十世紀ほど、様々な思想が生まれ、そして終焉を迎えた世紀も珍しい。共産圏は崩壊し、宗教は人々を規律する力を失った。多くの王国は民主主義にうち替わり、その民主主義も二十一世紀を迎えたいま、政治腐敗による倒壊の危機を迎えている(私を含めて政治に対して無関心な若者がなんと多いことか!)。帝国主義は二度の世界大戦により致命的な打撃を受けている。民族主義も、度重なる民族浄化という虐殺によって、限界を露呈している。国連主義や国際主義も、大国の思惑により翻弄されている。もし仮に、web社会により国際主義が反映を迎えると考えているのであれば、残念ながらソレはおめでたい考えだろう。唯一、資本主義が生き残り、繁栄しているが、それも、web社会の到来により、様々なひずみを露呈しつつある(いや、南北問題などによる限界が既にあったのだが)。
そして、ここでポストモダンの真に重要な意味は、このような様々な主義思想、すなわちモダニズムを、“大きな物語”“神話”にすぎない、それは幻想のようなものだと、切って捨てたことだ。…まあ、だからこそ、ポストモダンが、世間一般で受けが悪いということなんだけども(苦笑)。何せ、いままで多くの人間が当然の前提であるとしていたことを、たった一言、「神話です」と言い切ってしまったんだからね。
「我々は、神話を喪失した。我々は神話を取り戻さねばならない」
さながら、楽園から追放された人類が、原罪を背負いつつも楽園に憧れたようにね。だから、我々は物語を求める。新しい神話を求める。
「いや、失われた楽園は二度と戻らない。我々は、ソレを幻想と知りつつも、シニカルに生きなければならない」
そうだ。大きな物語なんて幻想に過ぎない。資本主義はひどくゆっくりとしたネズミ講に過ぎない。我々は、その恐るべき結末に打ち震えながらも、その虚構を見破りつつも、見なかった振りをして、踊り続けなければならないんだ。世界が、真に終末を迎えるその日まで。大きな物語は、酷い夢に過ぎないけど、人々に共通認識を与え、とりまとめるには便利な道具なんだ。
「どちらにしても、我々は、物語なくしては生きられない」
そのとおり、我々には、物語が必要だ。だが、大きな物語はもはや説得力を持たない。我々は、小さな物語に満足して、細々と生きていくしかない。大きな共通認識は不可能でも、小さな共通認識の積み重ねによってコミュニケーションを成立させなければいけないんだ。だから、映画は重要だ、小説は重要だ、アニメは、ゲームは重要だ。我々はヤマトに、ガンダムに、その他すべての物語に、共通認識を委ねていくしかない。いや、ガンダムが流通していた時代はまだ幸せだ。それは、国民的ブームであった。大きな物語の名残だった。だが、いまやもはや、ガンダムが国民の共通認識になることはあり得ない。ウテナや、ジャイアントロボ、ブギーポップと、本当に小さな共通認識しか得られないのだ。
「………なんで、我々は物語なくしては生きられないと断言するのさ?」
そう、それが、学生さんの問いだったんだ。
私は、そのとき、その学生さんの問いの真意を測りかねていた。その問いに対して、「いや、物語は必要だよ」と答えつつも、何か、釈然としないものがあった。
その上で、今日、知り合いから、ふと、ある言葉が漏れ出てきた。
「どうやったら、生徒が学ぶことに興味を持ってもらえるのか?」
知り合いは、塾の講師のバイトをしているんだけど、講師としていつも悩ましく思うことは、その子がいかにして学ぶことに興味を持ってもらうかだそうだ。ただ、大学に受かるならば、そんなに難しい事じゃないかもしれないけど、人が学ぶ楽しみを覚えることはなかなか難しい。
いま、国家の方針として、ゆとり教育が主張されている。生徒にゆとりを持たせて、様々なことに興味を持ってもらおうというのだ。でも、それに対しては私は疑念を感じる。基礎体力がない人間に、泳ぎ方を知らない人間に、100mを泳ぐことは不可能だ。泳ぐためには、柔軟体操をして、フォームを矯正され、あるいは、自力でも良いから少しずつ修正し、そして出きれば、泳ぎ切るだけの基礎体力を鍛える必要がある。学生はまず、基礎体力として色々なことを知らねばならない。様々な知識を詰め込まなければならない。別に丸暗記をしろということではない。ただ、せめて、「ああ、聞いたことがある」ぐらいのレベルで知っている必要がある。知らないことについて考えを及ばすことはできないからだ。
じゃあ、ここで問題になる。
「学ぶ楽しさ」とはなにか?
それはおそらく、「考える楽しさ」だろう。ただ、教えられたとおりに、マニュアルどおりに実践するのではなく、一見共通性がない複数の事象に思いを馳せ、そこに思わぬ共通項を見いだした瞬間だ。あることについて考えを馳せる。切っ掛けは何でも良い。例えば、テストの範囲で、どうしてもうまく覚えることが出来ない。みんな、マニュアルどおりに丸暗記しているのに、自分ひとりだけそれができない。どうにも、そのマニュアルの記述の仕方は自分の思考方法に相応しくないようなので、自分なりの覚え方を見いだす必要がある。そこでうんうんうなっている、ある夜、ふと、思いがけない切り口を見つけてしまう。そのときの興奮。「ソレだ!」と心の中で叫び、思わず部屋の中を徘徊する瞬間、それが、まさに「考える楽しさ」(が報われるとき)なんだと思う(問題は、この瞬間というのが、ある日突然、前触れ無くやってくるものであり、予測ができないということなのだが…)。
「質問です。では、『学ぶ楽しさ』を知る必要性ってあるの? 『学ぶ楽しさ』って、そんなに重要なの?」
そこで見いだされた共通項や体系については、実は大した価値はない。なぜなら、それが本人にとって有用なマニュアルたり得ても(これだけでその体系は重要なものたり得るが)、それが世間一般で受け入れられるとは限らないからだ。
大切なのは、「考えること」「考え続けること」それ自体だ。手渡されたマニュアルが不便であれば、自分で書き換えればよい、そういう考え方をできるかどうかという問題だよ。学ぶ楽しさを知っていれば、幾らでもマニュアルを書き換え、環境の変化に対応できる。マニュアル改変の積み重ねの結果、新しい学問体系だって生まれるかもしれない。常に、現状に疑念を持っていればそういうことが可能になる。ただ、マニュアルを受け入れるだけではなく、本当の意味でマニュアルを使いこなせるようになるんだ。恐らくこれが、マニュアル人間とそうでない人間との差だよ。
気をつけて欲しいことは、通説と呼ばれる学説体系ってのは、所詮、多くの人間に受け入れられた世界認識に対するマニュアルに過ぎないんだ。そのマニュアル、学問体系が常に自分にフィットするとは限らないんだ。フィットしなければ、自分が使いやすいようにそのマニュアルを書き換えればよい。マニュアルなんて、学問体系なんて、所詮道具に過ぎないからね。まず必要なのは、自分にとって有用なマニュアルなんだ。他人がその自分だけのマニュアルを理解できるか何て、二の次に過ぎないよ。
「我々は、物語なくして生きていけるのかな?」
個々人にとっての物語(哲学)は絶対に必要だよ。ソレがなければ、世界認識が不可能になる。別に、世界認識といっても、そう大したことじゃない。「バターを塗ったパンは、バターを塗った面を下にして落ちる」ぐらいのものも含む。マーフィーの法則だって、個人的な体験に基づくのであれば、充分に重要な物語だよ。
一方、大きな物語は、なくても何とかなるかもしれない。
確かに、世界を共通に認識することは難しくなるけど、もし、聞き手が辛抱強く語り手のいう物語に耳を傾ければ理解できるかもしれない。少なくとも、学ぶ楽しさを知っている人間は、そうやって辛抱強く学んできた。別に、学ぶ人間のすべてが常にマニュアルを書き換えているわけではない。そのままマニュアルを受け入れることだって多いし、受け入れることの方が多いだろう。
しかし、問題があるとすれば、我々に学び続ける時間がないということなんだろう。そういう意味では、大きな物語は、社会を動かすために絶対に必要だ。…大きな物語を絶対視する必要性はないけど、ね。
「でも、火塚たつやの結論はこれだけじゃないんだよね」
そうだね。これだけじゃない。
人は、物語を求めてしまう、物語に救いを求めてしまう生き物だ。
ここでは、物語というものを実に多義的に捉えてしまっていて恐縮だけど(しかし実は、物語の多義性は私の論ではそれほど問題とならない。なぜならば、ここで物語とは世界認識だから。世界認識である物語は、ありとあらゆる事象を物語と呼称することを可能とする)、人は、常にある種の物語を麻薬のように求めるんだ。
「それはなにか?」
いわゆる、ストーリー。映画や小説や、その他娯楽と呼ばれるすべてに共通した物語。
「英雄の誕生とその死」という物語群だ。
物語論や神話学、民話学を勉強すればわかることだろうけど、物語とは実はすべて「英雄の誕生とその死」しか描いていない。物語は導入され、展開し、帰結する。その過程で、主人公は難題を突き付けられ、それを乗り越えるべく英雄的な活躍をする(娯楽作品の多くがそうだ)。もしここで英雄的な活躍を出来ずうじうじと悩んでしまえば、物語の呪いを一身に背負い、物語によって呪い殺される(純文学やギリシャ悲劇に多い展開)。ここでは別に英雄を特別な意味で捉える必要はない。英雄とは主人公の別称に過ぎないし、英雄的といっても魔王から王女様を救い出すことだけを意味するものではない。ささやかな日常を守る「私だけの英雄」だって、充分に立派な英雄なんだ。
結局、物語で描かれていたのは、英雄の勝利、そうでなければ英雄の敗北、このふたつだけなんだ。ハッピーエンドとはすなわち英雄の勝利であり、バッドエンドとはすなわち英雄の敗北だ。これが「英雄の誕生とその死」と呼ばれるものの正体だ。
昔話にハッピーエンドが多いのは英雄の誕生を多くの人間が必要としそれを求めるからだし、文学の世界で娯楽作品を軽視し純文学をもてはやすのは英雄の誕生の価値に気がついていない結果だろう。人間描写も結構だが、多くの英雄を無意味に殺すのは、人々の心に闇を宿す結果にしかならない。我々が物語を通して学ぶことは、生き残りたければ英雄になるしかないということであり、もし英雄になることが出来なければ死ぬしかないということだ。我々は、英雄の誕生によって英雄になることを覚え、英雄の死によって敗北の危険性を学ぶことになる。
ただ、ここで問題となるのは、物語に逃避を求める人間がいるということなんだ。
英雄であることを放棄し、逃避のために物語を求める人々だ。
確かに、物語は現実ではない。だから、物語に逃げ込んでしまう人も多い。
しかし、いまの話を聞けばわかるだろうけど、物語とは決して逃避先ではない。楽園でもない。ただ、現実という荒波の中ひととき翼を休めるような避難先だ。我々はそこでもう一度現実を知り、再び現実に向けて飛び立つ必要がある。そして更に極論すれば、物語も現実であることを、我々は物語の中でも戦い続けることを知らなければならない………だから、ウテナのテーマは「物語から現実に旅立とう」じゃないんだっつーの(謎)。
「物語の英雄を崇め、物語に安易に逃げ込む人々の存在…か」
そういう人間にとって、物語は絶対に必要であり、依存すべき存在となる。そういう人間は、安易に大きな物語に取り込まれ、その物語が自分の尺に合っているか深く考えることもなくそのマニュアルを受け入れてしまうだろう。
物語は必要だ。ありとあらゆるレベルでね。娯楽作品は必要だし、自分だけの物語(哲学)も必要だ。神話は人の心を豊かにする。議論を進めたければ比較的共通認識を得やすい物語を受け入ればいい。それを大きな物語と呼びたければご自由に。ただ、それら物語は、本来等価に位置していることを知る必要がある。物語に大小はないんだよ(これこそ、東氏のデータベース論の本当の正体だ。大きな物語など、はじめからなかった)。そして、もっと重要なことは、物語に囚われないことだ。物語に依存しないことだ。物語とはしょせん世界認識のための道具に過ぎないんだから。
んで、こういう、物語に依存しない発想ってのが、まさにハッカー倫理じゃないかなぁとかなんとか(私信風に)。
「じゃ、まとめてみようか」
・ポストモダン=解放する行為それ自体
・解放の先の答えは、個々人が見つけるしかない
・大きな物語は終焉を迎えた
・物語に厳密な定義は不要
・学ぶ楽しさ=考える楽しさ
・マニュアルを使いやすいように書き換えよう
・物語=英雄の誕生とその死
・物語に依存してはならない
・ハッカー倫理じゅーよー
…とかやろうと思ったら、体が動かないこと発覚。
さすがにここ二日で無茶をしすぎたのか、今日は素直に帰ることにする。
一度は引き受けた仕事を一件断る。
つーか、単行本やって、単行本やって、増刊号出して、特集組んで、特集組んで、連載を三本抱えるのは、無理、だ。
他に、二、三本ほど論文もあるし、な(鬱)。
火塚たつや、萌えを語る 投稿者:tatuya 投稿日: 3月26日(火)01時19分46秒
>千鶴さんはともかく、佐裕理さんが勝ち上がってきたのはちと意外でした。
萌え研究家(マテ)の私から言わせてもらえれば、さゆりん準優勝は順当です。場合によっては優勝しちゃうかもとさえ思っていました。セリオや秋子さんといったサブヒロイン(秋子さんをサブヒロインというのはアレでナニでソレですが…)が勝ち残ったのも、極めて順当な話だと思います。
ここら辺、物語でものを見る人にはわかりにくい感覚でしょうが(いや、私も萌えはよーわかりませんが)、いまの萌え文化を理解するには、作品単体では決して評価することが出来ず、同人活動を含めた総体を持ってキャラ萌えを考察する必要があるのです。
で、そういう視点から見たとき、さゆりんは、ニヤソ(『Kanoso』)やマジカルさゆりんなど、同人活動から得た様々な萌え文脈を有しており、そんじょそこらの萌えヒロインよりもはるかに萌えの高みにあったと思われるのです。この点、シナリオがかっちりしているメインヒロインたちは、単一の萌え文脈しか持てず、逆に不利な立場に立たされるでしょう。
決勝トーナメントに勝ち残ったセリオや秋子さんが様々な萌え文脈を持っていたことを考えれば、これは納得してもらえることかと思います(いや、納得できないと思いますが(苦笑))。
ちなみに、千鶴さんが優勝した理由を考えてみたとき、これも結局、千鶴さんというキャラが特段立っていたわけでも、シナリオの出来が傑出していたわけでもなく、同人活動から得た様々な萌え文脈(『ないちち』『鬼』『お姉さん』『年増』『偽善者』など)を使い分けた結果だと思います。少なくとも、web小説などで培われてきた膨大なイメージを無視して千鶴さんを語ることはいまとなってはもはや不可能でしょう。ここで特に注目すべきは『偽善者』という萌え文脈であり(そこ、これが萌え文脈になり得るのかと、絶望しないように…私も絶望しているのですから(苦笑))、この出典が裏シナリオにあるという事実は、時代を感じさせてくれるものでしょう。
つーか、あれです。萌えることさえできれば、『偽善者』だろうが『うぐぅ』だろうが『食い逃げ』だろうが萌えの対象になるのですよ(笑)。
で、ここから考えると、実は、萌えにおいて一番重要なのは、萌えるキャラがいることではなく、キャラに萌える人間がいることではないかと思うのです。で、あまつさえ萌えた人間が職人さんであれば、萌えの再生産が起こり、萌えの萌えが萌えを呼ぶというサイクルができあがるわけなのです。
しのさいかが一回戦を勝ち上がったのも、由起子さんが勝ち上がるのも、吉井がその由起子さんに勝ってしまうのも、みんなそれなりに理由があるのです(笑)。………そう言えば、松本もみちるに勝っているんだよなぁ(ぼそり)。個人的には、ポニ子(←長森シナリオのラストで窓の外を眺めている少女…ファンクラブが、“実存”します)にも参戦してもらいたかったです。どんな戦い方をしたか、凄く気になります(謎)。
………つーことを書くから、火塚は萌えの人であると身内からつっこまれるんだろうなぁ(ぼんやり)。
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「はにゃ?」
とある掲示板への書き込み。例の葉鍵最萌選手権の分析だよ。
多分、そういうことなんじゃないのかな〜と。
「やーい、萌えのひと〜」
まあ、それならそれでよし。
「昨日、一緒に花見をした学生さんたちだね」
メールがね、十通ばかり来たのよ。それも、結構長文のヤツが。
でさあ、質問して良い?
「ご自由に」
なんで、私、仕事しているの(死)? なんで、私、社会人なの(血涙)? なんで、終電なの(爆殺)?
「諦めろ。諦めきれないなら、睡眠時間を削れ」
…睡眠時間を削ります(涙)。
「だめだ、毎回毎回、ついていけない…」
まあ、そも相手にしていないので(問題発言)。
今日、花見に行ったんだけど、そこで、学生さんと討論をしたんだ。
「人は合理的である」という神話がどこから来たのか? というのが討論内容。
「神話、ね…」
そう、これは、神話だよ。そこには、人間に対する無条件の信頼と、合理性というものが優位性を持つという、神話が必要だ。一番の問題は、なんで、「人は合理的である」という神話を言ってしまったのか? そしてそれをみんなが信じてしまったのか? ということなんだろう。
「ちなみに、ここで『合理的である』ということの定義は?」
無駄がないこと、だろうね。で、これを悪意を持って表現するならば、要は、マニュアルどおりに動く、ということなんだ。大きな世界観(すなわち科学)、大きな物語を無条件に信頼し、それをなぞるという人間像だ。でも、それを合理的人間というのであれば、合理的人間とはなにも近現代ではじめて生まれてきたものではない。たとえば宗教が大きな世界観、大きな物語であった時代の人間(すなわち、中世という時代に生きていた人々)は、宗教というマニュアルに沿って生きていたのであり、そう言う意味では極めて合理的なんだ。
「いや、世間一般では、宗教こそ、非合理的なものだろうよ」
それは、宗教へのアンチテーゼである科学に対し、“科学が合理的である”という信頼があってはじめて成立する言い方なんだ。
しかし、科学とは決して合理的なものではない。いや、科学を志すという運動それ自体は合理的かもしれないけど、科学という結果は、決して合理的なものではないんだ。大体、科学が前提としている合理的人間像それ自体、いかにもファンタジーじゃないか? なんども言うように、科学も宗教も物語も、世界に対する認識の仕方の一手法に過ぎないんだ。
で、そこから話が進んで、北欧のオープンソースの思想について話をしていたわけなんだけど…。民話学のスエーデン学派も、オープンソースも、まあ、その他色々、北欧諸国の思想って、凄くいい加減な考え方なんだよね。
いわゆる、学説の体系を必要としない。厳密な定義すら必要としないんだ。
なんとなく、こんな感じ。こんな感じに分類すると、“自分がわかりやすくて”良い感じ。
という、割とどうしようもない考え方なんだ。分類といったって、その分類は全然体系だっていないし、平気で重複させてしまう。でも、それで良いし、その方が自分にとっては分かりやすい。
そうだな、webの検索エンジンみたいな考え方なんだ。“でじこ”と“キリスト教”と“特許権”と“人権問題”と“知的財産”とが並列で扱われてしまうような、そんな感じ。“特許権”が“知的財産”の下位のカテゴリーに位置づけられる、なんてことは決して考えないんだ。なぜなら、そんな風にカテゴリーしたところで、“そういう風に分類した当事者にとってはともかく”“自分にとっては役に立たないから”なんだ。あるいは、たとえ“知的財産”というトピックスが社会的に重要であったとしても、“でじこ”あるいは“キリスト教”を検索している人間にとってはそれは重要ではない、すなわち認識の外にあり問題化していないんだ。それは問題化していない以上、それを階層化する必要性はどこにもない。
おそらく、北欧諸国の思想ってのは、そういう、どこまでも醒めた視点なんだ。
というか、従来の認識では、それは思想ですらないだろうね。なにも、問題を解決するものでもないし、解決するためのヒントを与えるものでもないから。
「なんか、話がポストモダンだね…」
うん。私も、ポストモダンについては良く分かっていないけど、近い、とは思うよ。
ただ、ポストモダンと違うのは、ポストモダンがモダニズム、すなわち近代の“大きな物語”をうち倒すことに躍起になっていたのに対して、北欧思想ってのは、モダニズムもポストモダンも問題にしない。それよりもまずはデータベースを作ろう、その上で、そのデータベースを使って自分で問題を解決していこう、ってことなんだろうと思う。
我々は、物語に守られていた。いまこそ、物語から解放される必要があるんだ。
(いや、解放されなくてもいーけどね(苦笑)。)
ま、私も頑張ってそういう強い人間になりたいね。
「そうか、火塚はただ萌えているだけじゃないんだね」
屈辱だ…。
ふと、仕事中に思いついたフレーズ。
いまの著作権法制の問題点のひとつだろう。
著作権において保護されるのは表現だが、そも、その表現に選択する余地がなければ、その表現は、創作性を満たしたとして保護すべきではない。
それは、データベースを作るときに、「あいうえお」順に並べるしか選択肢が存在しない場合に、その並び順を創作性として保護できないのと同じ事だ。
「………」
もとい、ドラゴンアームズ。驚愕のハウスルールヴァージョン2.00を携えてNa3氏が帰ってきた!
「帰ってきたって…昨日、一緒に遊んだじゃん」
気分の問題。
で、ハウスルールなんだけど、かなり凄いシステムだよ。ロボットアニメのノリをまんま遊べる感じだ。
「シーンをカットに分けて、PCのアクション/リアクションの一行動を“一言”に限定するというルールね」
アクション権はシーンプレイヤーにある。で、シーンプレイヤーはリアクションする人を指定できる。カット数は、大体四回程度になる計算だ(説明がめんどくさいので今回は省略)。テンポよく、小気味よく進むので好い感じだ。戦略・戦術的な状況は、戦友の活用で再現でき、軍事ものの雰囲気もばっちり。
「舞台裏では、偵察兵に偵察してもらって敵の能力を明らかにしたり、武装を換装したり、新兵器の申請をしたり」
今回の勝利の鍵は、戦略オペレーター・ミザリー。進軍中の二個中隊のMISTの分断を図り、一個中隊を壊滅後、残り一個中隊と戦闘するという戦略(本当は、戦術)を実行してもらう。
エアル(私):(舞台裏)GM、次のシーンに戦友・ミザリーを登場させます。
GM:次のシーン、場所はシミュレーションルーム。部屋には何故か、『ミザリーのお部屋』という看板が…(笑)。
エアル:(アクション)ごくりと唾を飲みつつ。性格は…勇敢。では、勇気を振り絞って(笑)声を掛けます。「ミザリー?」
幻操士(司令):(リアクション)私は既にオペレーションルームにいたということで。くるりと振り返り、少し明るい表情をします。助かった(笑)。で、がくりと項垂れ、視線をミザリーに向けます。
エアル:(アクション)「………調子は?」
幻操士:(リアクション)「調子と、言われても、ねえ」どよーんとした感じで答えます。
エアル:(アクション)「あの、ミザリー、ちゃん?」
ミザリー(GM):(リアクション)そう聞かれると、もう、返す答えは決まっています。なにも答えずにかたかたとキーボードを叩く音だけが部屋に響きます。無視(笑)。
エアル:(アクション)泣きそうな顔で振り返ります。だれか、助け船をください(笑)。
聖騎剣士:(リアクション)「まあ、最悪の状況を想定していれば、大抵大丈夫さ!」と、むやみに明るい声で答えましょう(一同爆笑)。(←助け船になっていない)
GM:落ちが付いたところでシーンカット(笑)。
「今日のセッションで気に入ったシーンは?」
上のシーンの他だと…。
聖騎剣士:「整備! ショックアブソーバーを急いでくれ!」
機甲士:「こっちは、エンジェリックコアを至急!」
聖騎剣士:「あ、いや、そっちが重要なのもわかるが、こちらも出来れば急いで…」
エアル:では、リアクションさせてください。とびきりのオチがありますので(にやり)。「おーらい、よーし、換装終了。次、シールドパイロンいくぞー!」(←先の舞台裏で武装の換装に成功していた)
聖騎剣士:「………」
機甲士:「………」
(中略)
幻操士:遠くから見やりつつ「一番壊す人から換装しても、ねえ(溜息)」
GM:シーンカット(笑)。
エアル:オペレーションルーム。前回の戦闘記録を再生しています。はじめはふんぞり返っています。無様な姿を露呈するにしたがって、段々と身を縮こまらせましょう(笑)。ロザリア、ツッコミどーぞ。
整備士(ロザリア)(GM):(笑)「見事なものね」
エアル:「し、しかし! 三分で25機! 大戦果だぞ!」
幻繰士:「確率から言えば、平均値以下ね」
エアル:「戦争を確率で図れるか!」ダン、と机を叩きます。
聖騎剣士:「そうだな、確率で考えたら、今頃おれは生き残っていないからな」と、リンドブレムの攻防戦を思い出し、暗い表情をします。
エアル:「そうだ、確率がなんだ! 我らが力を合わせれば勝利は確実ぞ! みんな! 行軍歌を唄おう!(←「芸術:歌唱」持ち)」と、暗い表情に気づかず、場違いに明るく(笑)。
幻操士:そうくるか(笑)。では、背景に縦縞が描かれると共に、状況、絶・体・絶・命という極太文字が(一同爆笑)。
GM:シーンカット(笑)。
「気持ちよいぐらいのぼけっぷりだな、おい」
コミックス版芝村ゆえ(マテ)。からかわれ役なのだ。
今日の撃破数:73機…絢爛舞踏まで、あと、202機
追記:十三日の日記の続きだが、今回の、通常シーンの行動もアクション/リアクションで規定するというハウスルールは、TRPGの編集として機能するかもしれない。
ようやく、メリケンダンジョンを突破だ。長く辛い戦いであった。被害はあまりに甚大だ(PCふたり死亡)。さすが、メリケンダンジョン。
「あともう少しだろうと思ってから、更に二、三回戦闘があるあたり、いかにもメリケンダンジョンだね(苦笑)」
生き残ったウィザードと共に生き延びたことを喜びつつ、ダンジョンをあとにした(笑)。
教訓:シールドのスペルじゅーよー
「は、い?」
編集だ。
ここで仮に、TRPGを、映画と同じような総合芸術であると考えるとしよう。
TRPGのセッションは、小説などの比較的ひとりで創作可能な作品よりは映画といった多人数で創作される総合芸術に近いと思う。まあ、いまはそう仮定することにしよう。
で、そういう仮定に立ったときに、TRPGにおいて編集という作業・行程は存在するのだろうか? これは特に、TRPGのストーリー性(という、あやふやな言葉を敢えて使おう)を重視する立場の人間からすれば大きな問題となるだろう。まさか、ストーリー性を重視するのに、映画のような編集作業がまったく存在しないとするわけにもいかないはずだからね。
「幾つか対処手段は考えられる」
ひとつは、GM側から完全にコントロールしてしまうことだ。いわゆる、一本道シナリオだね。最近のFEARも、この手法を推奨している。シナリオコネとか、推奨スタイルとか、宿業とか、ストーリーフェイトとかだね。この手法は、セッション開始前に釘を差すということで、編集を容易にしている。計画的に作業を進めなかった場合ほど、後々編集作業がめんどくさくなるのは世の常だ。
ひとつは、ストーリーなんて参加者の認識の問題だと割り切る立場だ。いわゆる(笑)ゲーム派に多い考え方だろう。この場合、編集作業なんて必要なくなる。スポーツやポーカーに編集作業を求めることはない、という考え方だ。ここで編集をすることは、逆にイカサマと呼ばれ非難されることになる。
ひとつは、参加者全員(GM、PLの別を問わず)を編集者に仕立て上げてしまう方法がある。(最近はそうでないシナリオを作ることも多いけど)私のシナリオや紙魚砂氏のシナリオに見られる傾向だ。これらのシナリオ・セッションは、TRPGを交渉ゲーム、コミュニケーションゲームと捉え、参加者間の交渉を重視する。ここでは、GMもNPCのPL、セッションの一参加者としてセッションに挑むことになる。参加者は、それぞれが望む展開に導くために、ありとあらゆる事象(脅迫、恫喝、ダイス目、PL知識…なんでも良い…まあ、マナー違反だけは御法度ですが(苦笑))を資源化し、利用し、互いに交渉をなす。その、交渉、ディスカッションという行為それ自体が研鑽の過程となり、TRPGにおける編集作業として機能するように思われる。
「それで?」
分類して終わり(苦笑)。
ただ、ひとつの視点で切り直してみても、このように立場が随分別れるんだなぁと思う。
ゲーム派の人間にとってTRPGに編集作業は不要だと思っているのに、FEARゲームは編集済みの台本を渡してくるし、私のようなシナリオはPLに編集作業を強いてくる。同じストーリー派と目される(かもしれない)FEARゲームのやり方は、私にとっては、PLの編集作業を奪うのでいただけない(ただ、私自身は“PLやる分には”あまり気にしていない。“GMをやるときに”PLの楽しみを奪ってしまうのではと危惧してしまう)。
ま、色々遊び方を試してみるべきなんだろうなぁ。
「酒を飲みながらまったりとルールブックを読む」
マスター、スクリュードライバーをもう一杯。
「飲んべえがここにいる………」
読んでみた。驚いた。細かいところでルールが結構変わっている(笑)。
ということで、RL諸氏は是非購入するように。世界設定やコネクションに変更があるのは当然として、ルール本体の変更に限っても、解釈で争いが多かったルールが明らかになったり、明らかに使えない特技が使えるようになっている(あと、アウトフィッツのデータがこっそりと変更されていたり)。
思いつくままに変更点を列挙するので、ルールの変更を確認ののち、各自諭吉さんを握りしめ、ホビーショップに突撃するように。
うむ。世界の中心で魔王と花嫁がダンスを踊っている。魔王は世界を滅ぼそうとする。では、世界を救うにはどうすればよい?
「魔王と花嫁を倒す」
ところが、ここで問題がある。花嫁と私のキャラとには絆があった。
「花嫁の助力を得て魔王を倒す」
…それが出来れば楽だったんだよなぁ(溜息)。
完・全・敗・北
以後暫く、私の称号は、“フェアリードクター”から“スーパーギャルゲープレイヤー俺さま”に格下げだそうです(涙)。
最萌選手権しゅーりょーおめでとー(濁った眼で)
なんとなく、『ONE』の箱を更新してみたり
帰宅後、『ダブル・キャスト』をだらだらと。
………ああ、何て正しいアニメーションなんだろう。動いていないのに良く動く(意味不明)。
「コンセプトは?」
三十分ロボットアニメ。
1セッションを12シーンに分けて、出撃までの風景を描くって形式。GMは楽そうだった。
「ああ、12シーンで強制的に…悪くない形式じゃない?」
うん。どうせまともにリサーチするようなゲームじゃないからね。通常パートは、エーテリックを貯めるためにあるわけだし。
で、他に、特徴的なハウスルールに、戦友というのがある。
「戦友?」
つーか、ガンパレ。
ある程度感情を結ぶとPCの役に立つお便利NPC。舞台裏(もハウスルールで追加した)での感情ロールに成功すると、偵察してくれたり、武装を換装してくれたり、武器を調達してくれたりするんだ。
その代わり、失敗すると戦友が戦死したりとペナルティが降りかかる。
「ああ、『LAND of The GUILTY』の因果律ね」
そ。因果律。
で、GMが戦況表ってのを用意して、まんまガンパレのノリで戦況が刻一刻と変化するようになっているんだ。キャンペーンの目標は、戦域での最終的勝利。
「ああ、ガンパレだ…」
キャラは、ローマディアの大騎士、エアルフリード・ロンゲニア(愛称エアル)、十七歳。聖職者=英才教育=活動家だ。
「ああ、芝村ね」
オーヴァードライブエフェクト(以下、エフェクト)もアポカリプス・クエイク。全エリアを問答無用で巻き込む全体攻撃だ(笑)。
「突撃型仕様なのね」
まー、そんな感じ。
腐れMISTどもとの戦闘はいつも心臓に悪い…。今日も、HP残り2だった。射撃を反らすのがコマンダーの特殊能力ということで、こちらの攻撃手段がだいぶん制限されていたからなぁ。
1ターン目
機甲士、ソルジャー級を破壊。
幻繰士、戦友による敵兵力の分析に失敗。敵ソルジャーに自爆能力が追加される。
エアルの私は、アポカリプス・クエイクによりトループ4部隊を破壊。
敵、進軍。
2ターン目
コマンダーが魔導を使用。エアルにダメージが行く(エアルは特にリアクションをしなかった…理由は、ソルジャーや生き残りのトループの射撃(があればそれに)に備えるため…結局なかった)。
機甲士、エフェクト<クーテグラ>を宣言。コマンダーにダメージ。クーテグラはリアクションをスキップするため、コマンダーの特殊能力は発動しない。
敵の攻撃。エアルがダメージを少々喰らう。
幻繰士、エアルの私に回復呪文を使用。
エアル、一歩前へ。
敵、進軍停止。ソルジャーの一体、機雷を放出(この時点ではまだ機雷であることに気がついていない)。
3ターン目
コマンダーとエアル。1ヘクスの距離でリアルファイトに突入。コマンダーの魔導とエアルのエアリアルブレイドが激突する。エアルの獲物はツヴァイハンダーである。
エアルのエアリアルブレイド(ダメージ増加のエフェクトも合わせて使用…計34ダメージ)に対し、割り込みで魔導攻撃。さらに、ソルジャー級の吐き出した機雷が巻き添えで爆発(コマンダーの魔導はエリア攻撃である)。エアル、ずたぼろになる。幻繰士、エアルを回復。
なお、機甲士は地道にソルジャー撃破。
敵ソルジャー、機雷を放出。
4ターン目
ターン頭、機雷爆裂。そこに合わせるようにコマンダーの魔導! 幻繰士、エフェクトで割り込み、コマンダーの行動を止める(まあ、成功数1だったので、最悪、私が回避すれば何とかなったのだが…とにかく助かった)。
機甲士、機雷を吐き出すソルジャーを撃破。
エアルの渾身のエアリアルブレイドが炸裂。辛くも勝利する。
機体を壊さないという整備兵(戦友)との約束を破り、戦友に大目玉を食らう(苦笑)。
今日の撃破数:25体
絢爛舞踏まで、あと………275体(マテ)。
貧乳メイドロボ、これ最強。
確かに良くできている。
でも、アニメとして動くからこそ改めて痛感させられるのは、大きなお友達の妄想をそのまま120%実現したかのような内容だった、ということ。
つーか、女子高生、メイドロボ、眼鏡………優(すぐる)はまるでギャルゲームの主人公のようだ。
今更何をと思うかもしれないが、私は、『まほろまてぃっく』に、近年まれにみる上質のジュブナイルの香りを感じていたのだったりするのだ(苦笑)。それで、こーゆー身も蓋もない内容を見せられるとしょんぼりとしてしまうわけだ。
ちなみに、アニメ版、極めて良くアニメしている。
…いや、全然動いていないけどね。
なんというのか、アニメだからこそ出来る嘘をうまく作品表現・演出までに昇華しているという感じがするのだ。
これは確か、『動物化するポストモダン』で触れられていたことなのだが、アニメにはリアル指向というか、リアルに対する一種の信仰が存在するらしい。
まあつまり、動きをなめらかに、どこまでも現実に近い動きを、という信仰である。これが極まったのが、ついこの間盛大にこけてしまった『FF the Movie』だろう。ノアールなんかも、そこら辺に挑み、アニメで豊かな感情変化を表現することを目的に作られた…らしい。
確かに、ここら辺の方向性を目指すことそれ自体は立派なことだとは思う。
しかし、ちょっと考えてみれば、リアルアニメの指向が如何に困難というか、そもそも原理的に不可能であるということに気がつけるかと思う。
アニメはそもそも、嘘を付くことしかできないのだ!
なんのことはない。どんなにリアルに描き出そうとしても、アニメは人間の表情をトレースすることは不可能だ。どこかで確実にデフォルメは起き、そこでいくつもの重要な情報が抜け落ちることになる。どんなにパースを正確に取ったとしても正確に遠近感を再現することは困難だ。だいたい、あの現実世界の渾然とした街の風景をいちいち再現すれば、アニメーターは今頃生きていないだろう。
まあ、そんなリアル指向は、テレビドラマか何かに任せておけばいいのだ。
アニメの場合、むしろ重要なことは、嘘を付くことが出来ることをより前向きに捉えることだろう。アニメであれば、平気で嘘を付くことが出来る。そのシーンに不要な背景があればそれを取っ払うことが出来る。キャラが遠くにいるためにそのキャラが映えないのであれば遠近感を無視すればいい。細やかな感情表現を再現出来ない? なら、ウテナのように、代わりに、背景や小物が彼や彼女の心理を代弁するだけだ。
アニメならば、幾らでも嘘を付くことが出来る。
思うに、アニメの、アニメーションの本質は、その、動きにあるのではなく、嘘を付くということにあるのではないかと思う。そして、上手に嘘を付くアニメこそ、(たとえ止め絵が多くても)本当に良くアニメーションしているアニメということが出来るのではないだろうか?
『まほろまてぃっく』には、それがあったのだ。
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