ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
「いや…それは単に、君が多義的にしているだけじゃあないのかな?」
はっはっは、聞こえんなあ。
とりあえず、我田引水唯我独尊、俺定義を展開していこう。
「いや…定義するまでもなく、物語は、いわゆるストーリー性を備えたものじゃない? 漫画とかアニメとか映画とか小説とか」
ほう? なら、逆に質問だ。
小説と小説ではない文章との違いはなんだい?
漫画と漫画ではない絵の連続との違いはなんだい?
「そ、それは…難癖じゃないの?」
難癖だよ、確かに、基本的にはね。
でも、議論というのは、すべからく、こういうところで線引きをなす必要があるんだ。そうでないと、お互いに同じ言葉を使って全く別の議論を展開する危険性もあるからね。私が先に示したゲームだって、論理ゲームと交渉ゲームとでは随分と意味するものが違うでしょう?
まあ要は、ストーリー性を備えた文章を小説と呼ぶのであれば、人間は、何を持ってそれにストーリー性が付加されたと認識し始めるのかという問題なんだ。もちろん、そこには、個人差があるよ。それは間違いないけど、それでもなお、ある程度多くの人間がそこにストーリー性を感じ取る瞬間というものが存在するはずなんだ。その共通項を探れば、ストーリー性の本質、物語の本質も、自ずから明らかになる。
「………で?」
うん、じゃあ、結局、物語とは何かといえば、実は、紙面に写されたテキストではないんだ。
紙面に写されたテキストはしょせん、情報の連続に過ぎない。物語が物語足りうるのは、その、バラバラであるはずの情報に因果を見いだし、情報をひとかたまりとして認識する人間の働きなんだ。「桃」「吉備団子」「鬼」とくれば桃太郎。「鶴」「機織り」とくれば鶴の恩返しというように、ここそれぞれで見たときバラバラであったはずの情報カードを、ひとかたまりの物語として認識するのは、送り手たる作者ではなく、受け手である読者の恣意的判断に委ねられるんだ。
結局、物語とは、送り手が紙面などに著したテキストではなく、受け手の世界に対する認識そのものなんだ。言ってしまえば、物語とは、世界を認識するための様々なツール、定規のようなものだ。多くの物語を有している人物であれば豊かに世界を解釈可能になる一方、貧弱な物語しか有さない人間は世界をどうしても硬直的・独善的に解釈せざるを得ない。
「作者が、無力?」
無力だよ、作者は。「桃」「吉備団子」「鬼」とくれば桃太郎と言ったけど、かりに、その話を日本人ではない人間が聞いた場合、どうなると思う? その人が余程昔話に造詣が深くない限り、それを桃太郎という物語を連想することは不可能だろう。また、鶴の恩返しだってそうだ。少なくとも、ヨーロッパ人は、日本人が考えるような動物恩報譚を連想することは困難だろう。なぜなら、ヨーロッパ人は、動物と人間が結ばれるという物語を知らない。知らない以上、連想は不可能だろう。
「何だか、狐に包まれたような話だなあ」
うむ、書いていて私もだいぶんうさんくさいなあと思った(笑)。
ただ、ここで書いていることは、それほど間違ったことではないこともまた、確かなんだ。ここら辺の話は、昔話研究を通じた物語論のわりとスタンダードな理解でね。
うさんくさく聞こえるのは、単に私の理解が不正確なだけだろう。似たような話は「物語としてのN◎VA」でも書いていたんだけど、いまと比べてもあのころに理解はまだ不正確かつ不精査だったなあと思っている。
で、だ。問題はここから。
「物語とは受け手の認識である」という立論が、物語論からすれば常識であるにもかかわらずうさんくさく聞こえるのは何故か?
答は簡単。いまの人たちが物語を受動的に教授することに慣れきり、物語が送り手から一方的に送られる固定的な概念であると誤解していることに基づくんだ。
「………あー。それが、昨日話していた「われわれはいかにして物語性を獲得したか」での議論なんだ?」
そう。文字と紙といった記録媒体の登場によって、物語は固定化されてしまったんだ。
さらに、知産階級の発生など、知識の、物語の独占というような事態が生じ(まるでマルクスの階級闘争だなあ(苦笑))、ますます、物語は送り手から一方的にかつ固定的に送られることになった。
そして、とどめが、現代の科学的合理的思考だ。「えいえんの向こうに見えるもの」に書いたことだけど、感情移入を至上命題とし「情景描写・世界設定」を詳細にするというのが文芸の一派に過ぎないんだ。それも、ここ二三百年の間に発達してきた文芸の一派に過ぎない。彼らは、細やかな情景描写、心理描写が豊かな解釈の幅を奪い、ひいては物語そのものを受け手から奪ってしまうことに気がついていないんだよ。
「………長くなりそうだね。また、以下次回?」
だね(苦笑)。
「………また、始まったね。今度は、どんな奇想天外なことを言うつもり?」
うむ。世の中の認識として、いわゆるゲーム(恐らく、論理ゲームと同義)は多様な展開と結末があるのに対し、物語(ストーリー)は一本道で多様な展開も結末も存在しない、固定化された概念であるという認識が一般的だよね。それは、本当なのかな?
「………ねえ、じゃあ聞くけど、小説は、多様な展開と結末が保障されている? アニメは? 映画は? 漫画は?」
と、いうことを理由に、物語は固定的であると考えるのが、普通の結論だろうね。
でもね、たとえば、こういう研究結果もあるんだ。
「われわれはいかにして物語性を獲得したか」この論文によれば、物語とはすなわち情報系であり、世界に対する認識方法・手段にすぎないんだ。物語が固定化されるようになったのは、文字と紙という、情報記録媒体が開発されてのち、わずか二千年程度のことに過ぎないんだ。人類の歴史において、圧倒的な期間、物語とは固定化された概念ではなかったんだよ。
「………ねえ、なにか、うさんくさくない?」
…うむ、実は凄くうさんくさい。と思ったが、眠くなったので、詳しくは明日。そろそろ、物語の定義にある程度の決着を付けたいなあ。
むう、昨日の日記を見ると恥ずかしいなあ。
とはいえ、悔しさは本物なので、世の中にさらすことにする。
絶対に、先生を追い越してみせる。それが、唯一、先生に対する恩となるはずだ。
以上、ただひたすら食べただけの韓国旅行はこれにて終了。
まあいいです。『クイーンオブザハート99』を手に入れたし。
コリアンマンセー!(ぉ
追伸:日本に帰国後、そのまま、身内と中華料理を食すあたり、自分もなかなか頭が悪いなあと思うが、いかがだろうか?
ちなみに、会食の場にて、例の2ch閉鎖騒動事件を聞く。なるほど、webの可能性を知らしめた、歴史的大事件かもしれない。
さて、数少ない自由時間を利用して、私はおみやげを買いました。てきとーに。
いやさあ、一二:三〇まで自由時間と“呼ぶのも”どうかと思うぞ?
とか何とかぶつぶつ文句を言いつつ、仕事に出かける前に食べたブランチは、ユッケ。生牛肉にニンニクやネギをあえたものである。思わずのけぞる人もいるかと思うが、牛肉のネギトロ、略して牛トロ(マテ)と思えば問題なく食すことが出来るのではないかと思う。
ナシをあえることで甘味を出しているあたりがなかなか洒落ている料理だった。うまし。
…ただ、一つ言いたいことがある。
ごめん、俺これ、ご飯と一緒に食べたかったわ。
………いや、韓国語ロクにならいもせずに韓国に旅行に行った自分が悪いんだけどね。店員に精一杯ご飯の注文をアピールするも失敗。もさもさとパプ(ご飯)なしでユッケを食す莫迦一人。
あまりにお腹が空いたので、屋台で焼き鳥食べていました(笑)。
ちなみに、屋台の食事も結構美味しい。日本円で二百円前後という値段みたいだ。
ただ、妙に味がアメリカナイズされているので、注意が必要と思う。
つーか、見ているだけでげんなりするようなフランクフルト出されてもなあ。
夜は焼き肉。韓国といったら焼き肉。たとえそれがアメリカ産の牛肉であろうが、焼き肉といえば韓国なのである。当然モリモリ食う。酒もがばがば飲む。途中の社交辞令も忘れずに。ふむ、どうやら、冷麺は、飲みのあとのラーメンのようだ。何だか妙にうまい。
観光は書いても面白くないだろうからパス。
あ、チヂミは美味しゅうございましたぞ。
夜は、石蘭という高級料理店にて宴会です。二日連続で宮廷料理だったが、メニューは一つも被ることがなかった。うまうま。
さて、韓国。
………あー、北京の町並みに似ている。低層の建物が並ぶ中、とびとびにむやみに立派な高層ビルが建ち並ぶその姿は、成長期にある都市に共通する町並みなのかなあとか思ったりした。
ぎちぎちに詰まったスケジュールの合間をくぐり、まずは昼食。といっても時間がないのでホテルの地下で冷麺を食す。いままで冷麺って、美味しいものとは思っていなかったが、前言撤回、うまいです、これ、マジで。しかし、いくらなんでも32000W(ウォン)(約三〇〇〇円)ってのは、どうよ。
自由時間も与えられることなく、我々はそのまま大法院(日本の最高裁判所にあたるもの)に取材に行く。なんか、むやみに立派なんですけど…。取材は長時間におよび、身柄の拘束が解けたのは七:〇〇。ホテルに帰ってそのまま食事に直行さ(涙)。あとでスケジュール見てみたけど、三泊四日のスケジュールで、自由時間なんてまともにありゃしねえ。一〇時間もないぞ、これ。しかもあったところで、午前中とか午後一〇:〇〇以降とか、ろくなものではなかった。
食事は、韓国の宮廷料理。次々に並んでいくメニューの多さに圧倒されつつ食べる。うまい。
食後、時間に追われるかのように(苦笑…っていうか、マジきつかったです)、東大門にショッピング。数少ない自由時間だ。東大門とは、東京で言えば、渋谷に相当するような街なのだが…何が驚きって、二四時間営業なんだよね、この街。デパートとかも午前五:〇〇頃まで開いているというのには驚いた。
さて、折角韓国に来たんだから、あの噂の首ゲー『マトック』を手に入れないとね、と、捜してみるが、見つからず。単純に時間不足というのもあるのだが、口惜しい。
しかし、ここで引いては男が廃る。
折角だから、俺はこの赤い扉を選ぶぜ!
と、むやみに取り出してみたのは、韓国語版『プリメ』でも『ガンドレス』でもなく………渡辺製作所の『クイーンオブザハート99』。
………同人ゲーム???
なんで???
という疑問と共にレジに運んで一万W(約一〇〇〇円)。
で、よく見直す。
…
うわ、パチモンだ(爆死)!
むう、このようなものをデパートで堂々と売るか…さすが、コピー天国コリアン。恐るべし。
突然ですが、火塚は明日から日曜まで、大韓民国に出張してきます。
出張と言っても、まあ、観光みたいなものらしいです。とりあえず、首ゲーを頑張ってゲットしてきます。うまく入手できたら何かください。
で、明日の集合時間を見ると、午前七:〇〇に成田………無理だっちゅうの。
仕方がないので、成田の近くで宿を取ることにしました。シャワーを浴びて、テレビを見るともなしに聞きながら本を読んでいましたわさ。
というか、数年ぶりにテレビって見てみると、こんなにつまらないものだったっけ? とか思ってしまったですよ。
「どうしたの?」
いや…今日、読み返して、さすがに危険すぎると判断してね。
「あの論考は、あちこちを敵に回しかねないからね(苦笑)」
ということで、今日はまだ比較的温厚に考察してみよう。
火塚は、一本道シナリオというものを否定しない。
「「鶴の恩返し」とか「愛しのユリア」とか「龍脈(レイライン)」とかそうだよね。新作シナリオの「ブレイクショット」もそうかな?」
いわゆるゲーム派という人種には、一本道シナリオは極めて不評だよね。曰く、シナリオの緊張感をそぎ、PLのやる気を失わせるとか。
この批判、結構強力で、いわゆるストーリー派は、一本道シナリオを肯定しつつも(曰く、美しい物語を作るには必要である)、一本道シナリオと認識させないテクニックについて色々論じられてきた。PLの道場といった感情を操作することで発想を縛り、決まり切った反応だけを導けるようにするとかね。
しかし、考えてみれば、「一本道シナリオと認識されないテクニック」ってのも、凄くおかしい話と言えないかな? それって、一本道シナリオを必要悪と認識しているということじゃない? 悪であっても、有効だから許される、みたいな。
「まあ、そうだね。君からすれば、一本道だろうがなんであろうが何も変わらないんでしょう?」
ご明察。交渉ゲームからすれば、一本道であろうが、マルチであろうが、何も変わらない。
交渉ゲームにおいては、多人数が交わった時点でそこにゲーム状況が立ち現れるんだ。それは、一本道であろうがなんであろうが関係がない。
もちろん、一本道シナリオよりもマルチシナリオの方が交渉ゲームと親和性が高いのは、あらためて言うことではないことだろう。マルチシナリであれば、展開の変化・結末の変化という形で交渉の結果が分かりやすく外化されるからね。
しかしだ、ここで視点をGMに移してみよう。一本道シナリオにおけるGMの(交渉ゲーム的な)勝利条件だ。それは、言うまでもなく、そのストーリーやテーマを伝達させることだ。GMは、一本道という過程を通じてPLにストーリーやテーマを伝達することを勝利条件とする。そのための資源が、一本道シナリオの随所に配置されたシーンであり登場人物であり、その他すべてだ。
このように考えた瞬間、一本道シナリオも極めて(交渉)ゲーム的と言えることにならないかな?
「………詭弁?」
違う。ちゃんとした研究結果(笑)だ。
これは、「『Kanon』構造分析」の頃からずっと論じ続けていたことだよ。私から言わせれば、『ONE』も『Kanon』も『Air』も『銀色』も『月姫』も極めて(交渉)ゲーム的だ。これらはすべて、(結末は変わらないかもしれないが)個々の選択肢をPLに選ばせることでPLを物語内に巻き込んでいく。ここで言う「選ばせる」という行為および「巻き込む」という行為は、まさに、ありとあらゆる資源を活用する交渉ゲームの文脈で理解することが可能だ。本来ならば、映画や小説のようにテキストを垂れ流しするだけで良いはずなのに、それを敢えてワザと、「選ばせる」というところに、作者の交渉ゲームが存在するんだ。経験がないかな? 結末が見えているはずの選択肢の前で五分ぐらいうんうんとうなった経験が? これこそ、作者とPLとの間で行われる交渉なんだよ。
一方、TRPGにおける一本道シナリオは、交渉ゲームとしての性格がより露骨になる。
うまいGMは、一本道シナリオにおいても、選択肢を用意するんだ。もちろん、一見、選択肢の余地が残されているように見えながらも、実際はそれしか選びようがないことの方がほとんどだけどね。
で、これこそまさに、「一本道シナリオと認識されないテクニック」の正体なんだよ。
「あーなるほど。君から言わせれば、一本道シナリオはGMからの交渉の一つの手段に過ぎないと」
まさに、その通り。一本道シナリオで表現するのに相応しいシナリオを思いつけば、躊躇わず一本道にすれば良いんだ。
さらに、より極悪なGMであれば、『ONE』のように、結末は見えているのに、その選択肢の前でうんうんうなって考え込んでしまう状況を用意するんだ。
「なんかさあ、節操がないよね、君が言う交渉ゲームって。要は、なんでもありなんでしょう?」
ははは(苦笑)。そうだね、節操がない。ごついシナリオがしたいという交渉が行われるのであればGMは気合いを入れてシナリオを作ればいいし、質よりも量というのであれば安易なシナリオであっても良いという結論になりかねないからね、交渉ゲームという概念は。難しい選択肢の前で一時間うなるよりも、さくさく進めて一日にシナリオをニ本三本プレイしたいということだってあるだろう。
まあいいや、話しがとりとめもなくなったところで今日はここまで。眠くなってきた。
N◎VAのシナリオに一本道シナリオが多い理由とか、謎解きシナリオやダンジョンシナリオは実は一本道シナリオであるとか、一本道シナリオの技術的な優位性とか、いわゆるゲーム派が一本道シナリオを嫌う本当の理由とか、そういう話は後日に委ねよう。
「お休み」
ちなみに、昨日は漫画喫茶にて『うる星やつら』と『修羅の門』を読んでいた。『修羅の門』は、カノソ対策である。そろそろ、山積みになっているゲームに再び取りかからないといけない。
喜ばしいことだよ、議論が活性化するということは。
「なんだか、けちょんけちょんに言われているけど、再反論は?」
いまのところは、あまり反論する気にはなれないね。まだ、向こうの駒が出そろっていないから。今の段階で再反論をして完膚無きまでに叩きつぶすことは、政治的(笑)には正しいことなんだろうけど、それをやっては議論としてはつまらないからね。そもそも、反論を試みるぐらいならば、自説を補強した方がはるかに望ましいんだ。
「そんなのこと言って、ただの様子見なんじゃない?」
実際、その通りだよ。
さっきも言ったように、黒緒氏はまだ、戦力をそろえている状態なんだ。その状態に批判を試みることは簡単だけど、それじゃあ、議論としては意味をなさないんだ。
そういう意味では、黒緒氏がこのタイミングで火塚を批判していることはいただけない。
黒緒氏と同じく、私もまだ、戦力をそろえている途中なんだ。特に、「ゲーム」の定義については、黒緒氏は、『意図的に』誤読している節が見受けられる。黒緒氏ほどの読み手であれば、私の「ゲーム」の定義を「交渉ゲーム」と読み間違えることは絶対にあり得ない。
「?」
いや、悪いのはどちらかといえば私なんだけどね。
定義が固まっていない段階で議論をはじめているから。
ただ、私は今回、日記で自分の思想を吐き出すことで段々と理論を構築していくというスタイルを採用しているから、初期の議論に定義の混乱があることは当然の前提なんだ。であればこそ、その時点をついて、論理破綻を指摘し、鬼の首を取ったように振る舞うのは、あまり、誉められたものじゃないよね?
「君の言葉を借りれば、政治的には正しい行為だけどね」
その通り(苦笑)。まあ、黒緒氏も、そこら辺は分かっているから、二人がケンカすることはあり得ない。読者の皆様は安心してお読みください(笑)。ちなみに、火塚は「ゲーム」と「交渉ゲーム」と「理論ゲーム」と三つの言葉を使い分ける予定だ。黒緒氏は、「ゲーム」と「交渉ゲーム」とを意図的に混同している。
しかしだ、その上でなお、「0」はいただけない。というか、卑怯だ。
「火塚がアジテートしているという話だね」
その言葉、そっくり黒緒氏に返したいね。
私が、TRPGの定義をしていないのは、理論的な問題からなんだ。私の理論では、黒緒氏のような厳密な意味での定義は必要ないんだ。
私が(今の段階であえて)TRPGを定義するとすれば、以下のようになる。
TRPGとは、GMとPLという二人以上の参加者によって構成され、GM主催の元、参加者全員によって採用された統一的なルールの元運用される遊技である。おそらく、黒緒氏は、この定義を許してくれないだろう。彼の論理においては、このような定義はおよそ許されるものではない。でもそれは、あくまで黒緒氏の理論・古典的理論においてのみ妥当するテーゼだ。私が立脚するのはあくまで構造主義(というよりはむしろ、スエーデン学派か?)であり、認識論であり、ユング心理学であり、ファンタジーだ。黒緒氏のような古典的理論は採用していない。
MURAMASA FACTORY'sにて、改氏の新作シナリオ“バーニング・コート”が公開されました。久々の更新です。
今回はかなり捻ったシナリオで、今まで以上に(笑)人を選ぶシナリオですが、相変わらず、改氏のシナリオは面白いです。読んでいて思わず遊んでみたいと思うシナリオでした。
とにかく、見事なのが、PLのモチベーションを高めるための手法です。
改氏はゲーム性を重視しているため、そこら辺はあまり意識していないかもしれませんが、とにかく、PLのシナリオに対するモチベーションの高め方が上手です。キャラの生死というぎりぎりの極限状態でPLを確実に困惑させる魅力的な謎を提示するというそのやり方は、多くのシナリオライターに見習ってもらいたいところでしょう(←えらそう)。ミステリー好きと自称する改氏に相応しいシナリオ構造です。
過去三作で例示すれば(“吸血鬼が笑う夜”は除きます(笑))、“RING of YOG-SOTHOTH”では「第7章 時の円環」、“バージニアへようこそ”では「仮装パーティー」、“バーニング・コート”では「第8章 1日目 ■ 蘇生」がそれぞれ挙げられるでしょう。どれも、驚きと恐怖に満ちており、シナリオの実質上の幕開けとなるシーンです。PLは、己のキャラの生存とPL自身の知的好奇心のためにシナリオの謎に挑むことを決意する瞬間でしょう。
シナリオを作るにあたって重要なポイントの一つに、PLのモチベーションを如何に高める仕掛けを内包するか? ということがあります(七月二十一日、七月二十日の日記参照)。PLに如何に興味を持ってもらうかということです。PLはTRPGをプレイしに来たのだから、GMはそのようなものを用意する必要はない、という論者も時々見受けられますが、私はそうは思いません。
例えば、観客は映画を見たいと思うからこそ映画を見に行きますが、だからと言って、映画製作者はその映画に興味を持ってもらう仕掛けを用意する必要はない、とは言いません。
もちろん、私人の作品と商業作品という差異は存在しますが、人に作品を見てもらうには(そして、正当に評価してもらうには)、作品を見てもらうための仕掛けを用意しておく必要が必ずあるのです。映画で言えば、スリーアクトストラクチャに則り、映画開始30分以内に観客の興味を引きそうなシーンをもうける、などです(詳しくは、映画シナリオ作成の教本をお読みください)。
そして、TRPGにおいて、セッションに参加させるための仕掛けこそ、「PLのモチベーションを如何に高めるか?」という概念なのです。ここで重要なのが、「『PLの』モチベーションを高める」ことです。『PCの』モチベーションは、そのPCを操作するPLの責任です。GMが考慮する必要はないでしょう(もちろん、PLはそのPCをロールプレイするために参加しているので、あまりにPCの設定を無視するようであれば、やはりPLのモチベーションは低下しますが…)。
これがキャンペーンであれば、PCの設定に絡めてシナリオを作るという手法が考えられます。『ランド・オブ・ギルティ』導入後のアルカナであれば、因果律を生かしたシナリオを作ることが考えられるでしょう。プレプレアクトを入念に行い、GMとPLとの相互認識を高めるという手法も考えられます。改氏のシナリオのように、キャラの生存本能に強烈に訴えかける方法もあります(現代物のシナリオで特に有効でしょう)。PCはともかくもPLが興味を持たざるを得ない魅力的な謎を提示するというのも考えられます。(特にN◎VAであれば)PLの目を引くような派手なルーラーシーンを用意するというのも考えられます。とにかく、シナリオを象徴するようなシーンをもうけることが、セッション成功の鍵と考えられるでしょう。
なお、私のシナリオ「追跡者たち(仮)」は、生存本能と謎の提示とを組み合わせることでPLのモチベーションを高めるように設計されていますし、「龍脈(レイライン)」はPLが活躍できるような派手なシーンを用意することでPLのモチベーションを高めるように設計されています(ただし、後者は成功したとは言えません。詳しくは後述)。
そして、単発シナリオで最も有効かつ多用される手法こそ、コンフリクトの提示なのです。あちらが立てばこちらが立たず、PLは自分が望むシナリオ解決に向け、真剣にシナリオに取り組まざるを得ません。そして、だからこそ、七月二十日の日記で、コンフリクトが明確に提示されていることを良いシナリオの条件としてあげていたのです。ただ、コンフリクトの提示は、上記から明らかなように、PLのモチベーションを高めるための手段に過ぎません。そこが、七月二十日の日記の考察の不十分なところでした。
…さて。
火塚はTRPGをストーリーゲームとして認識している。
「なんだい、藪から棒に?」
火塚のTRPGに対する定義あるいは認識だ。
あるいは、どのような認識のもとプレイングしているかだね。
火塚は、先に明らかにしたとおり、TRPGを交渉ゲームであると捉える。そこでは、ありとあらゆるものが資源として流用されることになる。キャラ設定、ダイス目、何気ない一言、さらには、実際の人間関係(苦笑)。このようなありとあらゆる資源(トークン)を利用し、自分が望むストーリーを織りなす、ストーリー(交渉)ゲームであると考えるわけだ。
したがって、この認識の元では、ゲームと物語(ストーリー)とは対立しない。掲示板2のNa3と同意見になる。
そもそも、TRPGにおけるゲームが交渉ゲームであることを考えれば(TRPGはどこまでも交渉ゲームであることから逃れられない。七月五日の日記を参照のこと)、Na3氏が述べているように、そもそも(交渉)ゲームと物語とを対立項として認識すること自体ナンセンスなんだ。
「どうして?」
交渉ゲームには明確なルールが存在しないことは先に示したとおりだ(十日の日記)。そして、交渉ゲームにおいては、ありとあらゆるものが資源(トークン)たりうる。当然、物語だって、資源になりうるんだ。
そして、TRPGに限らず交渉ゲームにおいては、物語こそ最も強力な資源たりうるんだ。
「………なんで?」
うん…ここは、話し始めると相当長くなる上に、私自身、まだ、整理がついていないからなあ。
完結に言えば、「物語としてのN◎VA」で示したとおり、人間は、物語る生き物だからだよ。
「君のお得意の物語論だね」
物語論だ。人間は、生まれながらに、物語を求めてしまう、物語に対して指向性を持つ生き物だ。
人間は、なんでもかんでも物を語ることで「物語」としてそれを認識しようとする。人間にとって、「物語」が一番記憶し易いんだろう(「われわれはいかにして物語性を獲得したか」という研究発表もある)。人間がお涙ちょうだいに弱いのも、結局、物語を指向するからだとも言える。
以上の通り、物語こそ、人間の感情・理性その他に最も強く働きかけるんだ。
であればこそだ。すべての状況を資源として活用して交渉を繰り広げる交渉ゲームにおいて、物語ほど、有効な資源は存在しないと言えないかな?
「あー、なるほど。例えば、戦時下の戦意向上で英雄を求めるのと同じかな?」
そのとおり。英雄の誕生とその死は、あまたの物語の中でもとびきり人間の情感に強く訴えかけるものだ。
で、だ、ゲームと呼ばれるあまたのものの中で、TRPGはとびきり交渉ゲームとしての側面が強い。そうであるとすれば、TRPGで物語が重視され、ストーリーゲームとして機能することは、それほど不自然ではない、ということにならないかな?
「………なるほど、ね。でも…」
そ、『でも、』だよ。ここで私が「物語」と呼ぶものの正体・定義は未だ明らかじゃないんだ(苦笑)。Na3氏の問いかけの核心にだいぶん近づいたところで、今日はここまで。実は、私もまだ完全に論理を詰めていないからね(爆死)。
「相変わらず、行き当たりばったりだね、君は…」
余計なまでの追記:
火塚が、TRPGをストーリーゲームと呼ぶ理由は、TRPGにおいて、物語(ストーリー)がもっとも強力な資源足りうるからである。ダイス運がゲームの最大の資源となるゲームのことを運ゲーと呼ぶのであれば、物語がゲームの最大の資源となるTRPGをストーリーゲームと呼ぶことはそれほどおかしなことではないだろう。
「ほう? それで?」
うむ、今日の議題は、論理ゲームと交渉ゲーム。二つのゲームの差異についてだ。
「どちらも、ゲームと呼ばれているよね」
そう、それがくせ者なんだ。両者は、純然たる差異が存在するにも関わらず、同じ『ゲーム』と呼ばれる。そして実際、『ゲーム』と呼ばれるだけあって、両者はとても良く似ているんだ。
「いかように?」
まず、相違点から。
論理ゲームには交渉相手の存在は不要であるのに対し、交渉ゲームにおいては必須条件である。交渉ゲームにおいては、ゲーム状況という状態の成立が必要条件だからだ。
また、論理ゲームには明確な利得・勝利条件が設定される(勝敗)のに対し、交渉ゲームには明確な利得・勝利条件は設定されない。
さらに、意味不明かもしれないが敢えて言うと、論理ゲームは効用最大化原理に理論の基礎を置き、交渉ゲームはゲーム理論に理論の基礎を置く。
以上、三点が相違点として考えられる。
「専門用語のオンパレードだね? 読者、ついてきていないんじゃない?」
まあ、ここら辺は、日記を書き貯めて再編集するときにでも補筆するよ(苦笑)。
「でも…せめて、論理ゲームの定義ぐらいしようよ」
あー。そうだね。交渉ゲームの定義は過去の日記を参照してもらうとして、論理ゲームぐらい定義しておかないと、まずいね。
とはいえ、大体想像は出来ているとは思う。
論理ゲームとは、数値をこねくり回すゲームだ。様々な数値・方式を組み合わせ、最適化された戦術を模索する。代表的なもので言えば、囲碁・将棋。最近であれば、TCGが分かりやすい例になるかと思う。コンボが効率よく発動するようデッキ構築をするという作業がそうだ。デッキ構築によって、カード単体は効率が悪くても、複数のカードとの組み合わせによって効率を劇的に向上させる。この、効率を向上させ最適化を目指すという行為が、論理ゲームが効用最大化原理に基づいていると呼ばれる由縁だ。
ただし、間違えてはいけないことがある。
別に、論理ゲームと交渉ゲームとが対立項に立つわけではない。多くの(特に多人数でプレイする)ゲームといわれる物が、両者を含んでいないことはあり得ない。
論理ゲームの代表格である囲碁・将棋・TCGでも、PL間での心理戦という形で交渉ゲームは行われる。相手のミスを誘うために悪手を打つ場合だって珍しくない。
逆に、交渉ゲームの代表格であるTRPGにも、論理ゲーム的な側面が存在することは、もはや論じるまでもないだろう。論理ゲームは、世間一般で言われるゲーム派と呼ばれる人間が重視する側面だ。
「ふむ…まあ、いいとしよう」
次に、共通点だ。
これは、一目瞭然。両者とも、ゲームと呼ばれるだけの特性を備えていることが共通点になる。
ゲームってのは、(最近は、戦闘付き映画もゲームと呼ばれるけれども、)「PL」が「資源」を「用いる」ことで自身の「勝利」に導くという行為だ。アクションゲームであれば、自機のライフを維持しつつ、有効なアイテムを回収し、それによって最終的な勝利(ゲームクリア)を目指すことになる。博打は、自身の金銭と運とイカサマの腕前とそれからゲームそのものの実力を資源としてプラス収支を目指すことを勝利条件としている。政治外交であれば、まあ、およそありとあらゆる状態を利用して、最終的に自国の得になるような条件を相手にのませることを目的としている。
論理ゲームは、各種数値という「資源」を用い、数値の操作という形で効率を高め(「用いる」)、自身の「勝利」を目指す。
交渉ゲームは、あらゆる要素を「資源」化し、あらゆる要素を「用いる」ことで、個々人の「勝利」を目指す。
結局、効用最大化原理もゲーム理論も、目的に対する手段の選択、手段の複雑化に伴う目的の多様化という、似たような基礎概念を有しているからね。
「………ごめん、途中で、何を言っているのか分からなくなったんだけど(苦笑)」
んじゃあ、結論だけ。
両者は資源を用いることでPLを勝利に導くという行為であり、その点、両者は似通っている。
「それだけ?」
それだけ。そして、ここからが本当に言いたかったこと。
故に、
「故に?」
似ているが故に、機能が複雑で勝利条件が不明確な(個々人ごとに勝利条件が違えば、それは不明確にもなろう)交渉ゲームの存在は、機能が単純で勝利条件が明確な論理ゲームと混合されやすく、かつ、交渉ゲームは論理ゲームの裏側に隠れその存在を忘れ去られやすい。
結果、論理ゲームのみがゲームであると認識され易い。
論者が「ゲーム」を交渉ゲームという意味で用いたとしても、読み手はそれ(「ゲーム」)を論理ゲームと誤読する危険性は常につきまとうんだ。
「そういえば、馬場論考でも、似たような話があったね」
うん。馬場論考は、(論理)ゲーム派の聖典として持ち出されることが多いんだけど、アレはきっと、本人にとっては不本意な引用のされ方だろうね。馬場氏はTRPGをゲームと定義しているけど、それは論理ゲームという意味ではなく、むしろ交渉ゲームという意味で用いている。馬場氏はのちに「別にルールを尊守する必要はない」という愚痴をこぼしていたけど、これはまさに、交渉ゲームとしてのゲームの言い分だろう(十日の日記を参照のこと)。
まあ、理屈ってのは、常に分かりやすい形にゆがめられやすいからね。それが、根拠薄弱な俗説が発生する由来だよ。
ということで、火塚はこれから出来るだけゲームという言葉を使用することを止めて、論理ゲームと交渉ゲームという言葉を使い分けることにする。
十四日追記:
論理ゲームと交渉ゲームとの差を見分ける良い例を思いついた。賭博で考えてみよう。
論理ゲームにおいては、イカサマは絶対にしてはならない行為だ。イカサマはルールの外に置かれ、イカサマをした者には厳しいペナルティ(ゲームからの退場)が待っている。
交渉ゲームにおいては、イカサマは重要な交渉手段・資源の一つである。交渉ゲームのルールの中においては、イカサマも当然に想定されるべき行為であり、同時に、イカサマを発見するテクニックおよびイカサマを摘発するテクニックも重要な交渉手段・資源になりうる。『カイジ』『哲也』の例を見るまでもなく、ただ、イカサマを発見・摘発するだけでは不十分であり、イカサマ師にとって最も致命的な瞬間(観客がイカサマ師を絶対悪と認識してしまう瞬間であり、かつ、イカサマ師が言い逃れが出来ない瞬間)にそのイカサマを摘発する必要がある。ここで、イカサマの摘発が、交渉ゲームにおいて有効な交渉材料・資源となるのは、論理ゲームにおいて「イカサマが許されざる行為である」ということを資源として活用した結果である。
シャワーを浴びたのち、日が沈むまで(といっても今日は曇りだが)だらだらと蒲団の中でうたた寝。どうにもこうにも、疲労がたまっているらしい。クーラーに当てられたのか、およそ人間らしい活動ができないでいる。はあ、今日は外が涼しくて助かるね。
で、今日は、TRPGにおける大前提について。
割とよく言われることだが、GMはPLに対して公平であるべきというテーゼが存在する。
なぜなら、審判が公平でなければ、ゲームとして面白くないからである。
…はい、もう、私が言いたいことは分かりましたね?
論理ゲームにおいては、ルールの尊守こそ論理ゲームの担保であり、面白さの源泉たり得る。ノールールの状況において論理ゲームは成立しない。故に、ルールを裁定する審判は絶対でなければならない。
しかし、そのテーゼは、論理ゲームにおいて正しいテーゼであるに過ぎない。故に、絶対視するのは危険である。
交渉ゲームにおいては、厳密な意味でのルールの存在を必要としない。
交渉ゲームでは、審判の絶対性は論理ゲームほど要求されない。交渉ゲームにおける審判の絶対性は、権威化という形で保障され(るにすぎず)、交渉ゲームにおける一交渉材料、すなわち、資源にすぎないことになる。交渉ゲームにおいて、審判とは、「建前としての権威」を利用されるトークンに過ぎない。
交渉ゲームにおいては、ルールの発見すら重要な交渉材料になるに過ぎず、そういう意味で、ルールの存在を絶対視していない。逆に、ルールが曖昧だからこそ、そこに交渉の余地が生じることになる。
たとえば、外交は、裏切るのも自由である、といったことである。
しかし、そこには同時に、裏切りは建前として常に許されないという不文律がつきまとう。
ルールとはあってなきが如しだが、純然と常にそこに存在し続ける。それが、交渉ゲームというものである。ルールを無視した方が有利だったり面白かったりするならば、躊躇うことなくルールを破ればいいし、公平さを欠いてもかまわないのだ。
交渉ゲームに重点を置いた場合のTRPGでは(もちろん、論理ゲームに重点を置いたTRPGも存在する)、GMは裁定者である必要も審判である必要もない。GMは、交渉ゲームの一参加者として、そのGMとしての権威を最大限利用すればよいだけである。
交渉ゲームでは、バランスは全く重視されない。
強者には強者の資源の利用の仕方(戦い方)、弱者には弱者の資源の利用の仕方(戦い方)が存在する。
GMが他の参加者のことを省みず権威を振りかざせば、必ず報復がつきまとう。交渉ゲームにおいては、なにもGMが(厳密な意味で)公平である必要はない。
そして、実はここに、私が交渉ゲームとしてのTRPGを重視する理由が存在する。
もし仮に、TRPGが論理ゲームだったとして、GMは、なにを楽しめばいいのだろうか?
他の参加者であるPLと、どのような形で楽しさを共有すればいいのだろうか?
少なくとも、論理ゲームにおいては、GMとPLとは対立構造を有するか、全く教諭できないラインで楽しみを見いだすしかないだろう。GMとPLの視点(利益)が交差することはあり得ない。ここで、現在のTRPG論は論理に行き詰まりを感じているのだと思う。
一方、交渉ゲームであれば、GMとPLとは、同じ参加者としてテーブルに席を設けることが可能になる。そこには確かに、力関係の差が存在するが、交渉ゲームにおいては、その力関係の差すら交渉の一材料に過ぎない。そして、これこそ、私はTRPGの(とても古くて)新しい突破点ではないかと思うのだ。
追記:ちなみに、ルールは破っていいし、公平さを欠いてもいいと、上記で散々あおっているが、実際は、交渉ゲーム『だからこそ』ルールは守るべきであるし、GMは公平であるべきだろう。
なぜなら、それが、交渉(材料)というものだからだ。交渉ゲームにおいてこそ、本音と建前を使い分けなければならないし、使い分けるべきタイミングを心得なければならない。交渉ゲームというものは、かくも難しいものなのだ。
屍は是非拾ってやってください。
『真・瑠璃色の雪』アイルまあ、それはともかく、『瑠璃色』、なかなかどうして面白い。
「ああ、楽しかった。さぁて、どこに行こうかなっ。」瑠璃は、(意識無意識に関係なく立場として)主人公に幸福をもたらし、妖精として正当の取り分を得て(「ああ、楽しかった」)、家から、物語から退場することになる。妖精の本質を的確に捉えた見事な台詞だと思う。
「妖精の訪問」は、時に「動物婚姻譚」に変化することもある。「動物婚姻譚」とは、妖精(動物)と家人とが結ばれることもあるが、その最後は悲劇的なものがほとんどである(不条理な離別である。一方、または双方の死によって離別を迎える場合すらある)。したがって、訪問してきた妖精が美人の異性である場合、注意を要する(笑)。
この文脈で捉えたとき、『うる星やつら』は「動物婚姻譚」に分類される。
ここで、『うる星やつら』が卓越していたのは、最終話でのあたるの言動。あたるは、最後まで、ラムに「スキだ」という一言を言わなかった。これはよく、男性原理の発露として捉えられることも多いと想像するが、それ以上に、ラムの立場・役割というものを(作者が)良く理解した上での行動であったと思う。ここで仮に、あたるがラムに「スキだ」と言えば、それは同時に物語の終焉を意味することになる。「スキだ」と言われたラムが取れる行動は二つしかあり得ない。あたると一緒にいるために宇宙人(妖精)であるという自分の特性を捨て去るか、宇宙人(妖精)という本質を維持しつづけるためにあたると別れるかあたるを殺すか地球ごと破壊するかしかない。そして、みなさんもご存じのように、ラムは事実、後者の選択肢を選択する素振りを見せていた(はず…うろ覚え)。
とにもかくにも、『うる星やつら』が名作とされるのは、「終わりなき物語」という形で物語を終わらせたという、その一点に尽きるのではないだろうか(意味不明)?
さて、『瑠璃色』の瑠璃シナリオも、「動物婚姻譚」だ。その終末は恐らく、瑠璃の妖精性の喪失ではないかと想像する。…いや、まだプレイしていないんだけどね。
というわけで、『瑠璃色』終了。
んー。まあ、大体予想通り。残念なことに、瑠璃はアヤカシとしての能力は喪失しなかった。
ただまあ、こるりの消失により、瑠璃の妖精性は喪失したと考えるのが無難だろう。ということで、予想通り。瑠璃のアヤカシとしての能力は喪失しないということも大体想像していたしね。
………多分、私がなに言いたいんだか、さっぱり分からないんだろうなあ(苦笑)。ファンタジー知らない人間に、いきなり「妖精の訪問」といっても、どんな昔話を想定しているのかさっぱり想像つかないだろうしなあ(苦笑)。
いいです。この日記は基本的に火塚のやりすぎ思考実験の場ですので、人がついてくることは基本的に想定していません(苦笑)。
さて、午後から仕事をこなしたのち、夜は接待。花火を見てきました。奇麗なものです…が、渡しは何故かそこに「夏の終わり秋の訪れ」を感じ取り、妙なもの悲しさを感じました。そうか、これが、江戸の風流という奴なのか…。
何が言いたいかというと、つまり、
あー、星山氏のおっしゃるとおりです。趣味はかなりの部分被っているかと思います(遅)。
………読んでないよなあ、今更、この日記(苦笑)。
SSS7を読む。火塚はSSSに対して基本的に辛口だが、なんだかんだ言って楽しみにしている。
で、今回のテーマタロットはカブトワリ。「KILLING JOKE」と「明日に架ける橋」。どちらも、N◎VAというシステムの特性を良く捉えた良質のシナリオである。歴代SSSの中では、一番出来がいいと思う。
「KILLING JOKE」は、まあ、どちらかというとテーマタロット・カタナと思うのはご愛敬というところか? タイトルとシナリオのコンフリクト状況とを美味く引っかけているのが素晴らしい。
「明日に架ける橋」は、“The Red Man”河野氏のシナリオ。実に、河野氏らしいシナリオであった。
………あー、正直に言おう。完敗だ(苦笑)。私がいままで見たN◎VAのシナリオの中で一番出来が良いと言っても過言ではない。この出来映えは実にドラマチックであり、かつ、N◎VAのシステムの特性を良く捉えている(シーン概念、神業)。その上、テーマタロット・カブトワリというのに相応しいクライマックスを用意しているあたり、実に心憎いシナリオ。
「見えてさえいれば届くわ。構えて――撃ちなさい」そう、見えてさえいれば、届く。それが、物語というものだろう? チューマ?(意味不明)
サイト更新のため、ごちゃごちゃ作業を行う。
今回の更新は、マジカルN◎VAの再開。みなさま、お待たせしました。
七月の日記も更新しました。是非見てください。
毒電波受信状況良好。
N◎VAのキャストを思いついた。
スタイルがクロマクで、腹心がカゲムシャ。二人はまるで別人だが(実際データ上は別人だし)、実は二重人格で、性格が入れ替わることで性格や能力(はては性別まで!)が入れ替わるという特殊能力者。データ上は単に<派遣>と≪神出鬼没≫によって入れ替わっているだけ(笑)。なかなか「俺(E)」なキャストではないかと思う。思いついただけで作るつもりはまるで無い。
いやまあ、今週の『ゲッドパッカーズ』を流し読みして思いついたんだけどね。
キャストを二人ほど作る。
“ザ・リアルファイト”“ザ・ボディガード”“ザ・ディティティブ”“ザ・ネゴシエーター”“ザ・ハンター”レイモンド=フェイス(カブト◎●、カリスマ、エグゼク)と“終末の姫君”“終わりの君”“えいえんの伴侶”ミリアリュージュの二人だ。
先の日記で既に紹介済みの二人だが、ここでデータ構築に入る。結果、ザ・リアルファイトが166点、ミリアリュージュが170点経験点を必要とすることが判明した………一度に二人を作ることは不可能だ。この前、“幼き盾”キールに50点ほどつっこんだ手前、そんな経験点は存在しない。マジカルN◎VAは、現在の参加者の顔ぶれを見る限り、経験点の回収は絶望的である。むう、地道にお外で経験点を稼ぐしかないのだろうか?
いやまあ、私がキャストを作ると、どうしてもリサーチと戦闘、両方を一通りこなせるキャストを作ってしまうからなのだが…。特に、高達成値環境であれば、達成値を確保し、勝つ、一通りの攻撃力と防御力とを備えるために最低50の経験点が必要となる以上、仕方がないであろう(←いやまあ、つまんないキャスト作るのであれば、そんなには必要はないのだが、それなりの芸を持ったキャストにするには、それなりの経験点を必要とする)。
というわけで、現在のお外向けの布陣。
“幼き盾”キール。マネキン◎●、フェイト、カゲ。消費経験点103点。<■魔女のさけび>でボディガードと主張する14歳のいたいけな少年。マンチキン一号。
“あんきみ”安藤君子。ミストレス、カリスマ◎、カタナ●。消費経験点70点。<ジャンヌ・ダルク>と<七光り>でリサーチの支配者を目指す妙齢の美女。<ジャンヌ・ダルク>に<七光り>を重ねるあたり、経験点の無駄遣い。カタナのくせして、直接の戦闘能力は皆無。
“百円ライター”リザベート=キャッツ。フェイト◎、チャクラ、トーキー●。消費経験点45点。<虚言>使いのフィクション作家。≪暴露≫は小説を出版するために使う。でも、いつも赤貧。故に、探偵やルポライターとして小銭を稼いでいる。結構お気に入りなので、将来的には<■生還><浮身>で生存能力を高める予定。
工藤あすか。フェイト◎、カタナ、マヤカシ●。消費経験点10点。自称助手の妖精さん“ジャンヌ・ダルク”(エニグマ)にいいようにからかわれている(<ジャンヌ・ダルク>)へっぽこ探偵。お気に入りだが、今ひとつ性能が悪い。マンチキン二号。
“パラサイト”アーシア。エグゼク、クグツ◎、マネキン●。経験点50下駄を履かせてもらったときに作ったキャスト。フリーの産業スパイというふざけた設定(<産業スパイ>)。潤沢な報酬点(<太鼓持ち>)によるリサーチが得意だが、戦闘能力は皆無。おそらく、お外でプレイする機会はもう二度とないだろう。
“ザ・リアルファイト”レイモンド=フェイス。カブト◎●、カリスマ、エグゼク。経験点166点消費の予定。<交渉><根回し><ゲシュタルト崩壊><サブリミナル><名声>ハード・ボイスでアタック、<一心同体>または<狂信者>でブロックするというマンチキンキャラ。オーバーが二つもあるが、消費経験点に相応しく、肉体戦、フルオート、精神戦、社会戦、すべてに対応可能な高性能なキャストである。ストリートの伝説的な何でも屋。遊び倒してみたいキャストの一人である。
“終末の姫君”ミリアリュージュ。アヤカシ=アヤカシ=アヤカシ◎●。経験点170点消費の予定。スタイル三枚持ちが如何に強力かを痛感したキャストである。真アヤカシのくせして<■始祖>を持っていない。しかし、その戦闘能力は侮れない。<血脈:龍の一族:溶融侯><血脈:獣の一族>のコンボで30ダメージぐらいならば瞬時に治癒する。<血脈:鬼の一族>をとらなかったのは設定故とせめてもの温情である(やれば50ダメージぐらい叩き出せる。モルフェウス10+血脈10(5+5)+差分値10+気合10+カード10…マンチキンもいいところである…が、真カブトであれば、それぐらいのダメージ楽に無効化できるのもまた事実)。攻撃手段は<畏怖>+ハードボイスのみだが、それでも達成値は25まで出せる。結構お気に入りだが、遊ぶ機会はまずないだろう。
ふむ…アヤカシ三枚は別として(火塚は基本的にマイナススタイルは大嫌いである)、カブト、カリスマ2、マネキン2、ミストレス、フェイト3、エグゼク2、カタナ2、クグツ、カゲ、チャクラ、トーキー、マヤカシ…か。確かに、火塚好みのスタイルが多い。レッガーがないことは少々意外だった。高達成値環境だと今ひとつぱっとしないスタイルだからだろうか。<イカサマ>など、今ひとつ決め手に欠ける特技しかない(いや、十分に強力だけどね)。フェイトが多いのは、高達成値環境でリサーチ能力を確保しようとするとフェイトの存在が絶対不可欠だからであろう(<オシログラフ><シャーロック・ホームズ><超回想>)。まあ、楽だしね、フェイトのプレイング。
凹んだので、今日はサイト更新のために作業を行ったのち、寝ることにする。
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