ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
帰宅してから突如毒電波を受信。
アルクェイドをモチーフに、アヤカシ=アヤカシ=アヤカシ◎●の“終末の姫君”“終わりの君”“えいえんの伴侶”ミリアリュージュというキャストを作る。終わりを看取るためにはじめから存在した女性であり(<血脈:悪魔の一族>)、終わりを看取るために不滅の存在であり(<血脈:龍の一族(大地:負)>〜<獣の一族>、<異形化>、≪霧散≫)、終わりを看取るためにすべてを崩壊させる能力を有する(<血脈:龍の一族(大地:負)>で地面を崩壊させ、業物“ハードボイス”により言ったことを現実化(笑)する)。経験点はこのままだと250点も消費することになる…むう。無いぞ、そんな経験点。はじめて「俺(E)病」ちっくなキャストになった。
という毒電波を仕事中に受信………本格的に疲れているようだ。
疲れているので、今日は難しいことは考えずに遊びます。
「また、へそ曲がりなことを書くつもり?」
断じて違う。私がへそ曲がりではない。世間が真実から目をそらしているだけだ!
「はいはい。それで?」
うむ、最近のFEAR作品のキーワードがなんであるかは知っているよね?
「共有だっけ?」
そう、共有だ。イメージの共有、物語の共有を如何に(それも出来る限り早く)成し遂げるかということだ。
「つまり、FEAR作品は、それらを共有していないと?」
………なんでそう、先を越すような発言をするかな、君は?
まあいいや。それだけ優秀な助手ということにしておこう。
さて、君の言うとおり、私が思うに、FEAR作品は物語の共有はなされていないんだと思う。というよりも、共有する必要がない構造を採用しているという方が正確だな。共有しなくてもセッションが崩壊しないように、構造を規定しているんだ。
「大好きだね、構造論」
私の十八番だからね。似非構造論は。
まず、TRPGとは、想像のゲームだ。いやまあ、想像のゲームとは、物語全般に言えることでもあるけども。
なんども言うように、物語りとはしょせん受け手の恣意的な解釈だ。これは、作者が存在し、ある程度作品世界を規定できる物語でも同じことだ。その状況で、物語の作者は恣意的な解釈を行う受け手の解釈を如何にコントロールするか、ということが重要になる。これが、すなわちイメージの共有、物語の共有の正体だ。
特にTRPGにおいては、この共有という概念が極めて重要になる。なぜなら、TRPGには、複数の人間が物語の作成に関与するからだ。映画は一人の監督では作れないように、TRPGも参加者全員のコンセンサスを勝ち得なければ物語を作れない。まあ、ぶっちゃけて言えば面白くないのよ、共有できないTRPGなんて。
「まあ、趣味が違う人間同士でプレイしても面白くないから」
で、これは、物語としてのN◎VAでもちょっと触れたけど、従来のシステムにおいてこの共有を担っていたのが、世界設定だったわけ。
「『物』語り、だね」
「物」語り、だよ。
欠点としては、知識の差が共有を阻害する危険性が高いってことかな? 特に、TRPGプレイヤーには設定マニアが多いからね。システム初心者にはきついよね。
もちろん、従来のシステムも、ルール部分で世界の共有をしている。
「D&Dは死にやすい」
そういうこと。だから、D&Dは生き残ることこそ英雄の絶対条件であり、生存こそ正義、という共有を作ることになるわけだ。
「一方、N◎VAやFEAR作品は物『語り』だと?」
そうだね。
最近のFEAR作品は、ルール部分に様々な仕掛けを用意しているんだ。
特に、「演出後付」の明示がされてからその傾向は顕著だね。解釈次第、演出次第で実に様々なことを描けるように出来ている。これは、「効果」のみが決定されており、「因果」を重視しないからこそ可能になっているんだと思う。
「さて、問題はここからだね」
ここからだ。
FEAR作品のそれが、はじめから予定されていたことなのか、それとも単に偶然の産物だったかは解らないが、この「『効果』のみが決定されている」ということは、物語の共有を早める効果を有する。意地の悪い言い方をすれば物語の共有を不要とする。
従来の「因果」「過程」を重視する作品よりも圧倒的に分かりやすくデザインされているんだ。
例えば、N◎VAのスタイルで言えば、PLが望む物語はスタイルを三枚組み合わせた段階ですでに提示されている。カタナ、チャクラ、カゲであれば、誰がどう見ても、人を斬り殺したい、命の危険を味わいたい、と、肉体戦闘を提示していることになる。このように、他の参加者にとって、スタイルを見ただけでそのPLがなにを望むのか、そのPCがなにを出来るのか、どんな立ち位置なのかが、一発で解るようになっているんだ。「効果」「結果」がはじめから見えているだけにね。
だから…意地悪な言い方をすれば、そのPCが本当にどんなキャラであるかなんてたとえ解らなくとも、他の参加者は問題なくプレイ可能になるんだ。人を斬り殺せる場面を提示したり、命の危険に味あわせたり出来れば、問題なく、活躍できるからね。活躍が保障されている。
「でもそれって…」
うん。もちろん、従来のシステムだって、そういう機能は備えていた。カテゴライズされた職業を選択することで、そのプレゼンテーションはある程度行われていたんだ。たとえば、戦士であれば、戦闘を望むというプレゼンテーションが行われることになる。
ただ、戦士というのは単機能だからね。戦士の中にあまり複雑な解釈は組み込めない。だから、あまり解った気になれないんだ。スキル制も考えられるけど、アレはあまりに細かすぎるので、全体像を直感的に把握するのには向かない。結果が規定されていない分、どうしてもイメージにずれも生じやすい。
もちろん、自由に解釈できる人は良いよ。ただ、そういう人はハナからシステムを選ばないから今回の議論の対象外になる。しかも、そういう解釈が出来る人であっても詳しいキャラ設定を聞かないとキャラの共有は不可能だ。
N◎VAが優れているのは、スタイルの組み合わせと、大まかな外見さえ訊けば、何となくキャラが解った気になれるところなんだよ。それを支えているのが、スタイルの多義性なんだ。自由に解釈できる人は良いけどなんども言うように、カタナと戦士とでは聞いた時点で受けるイメージの多義性には天と地ほどの開きがある。
本来なら、戦士という職業を作ってそれで騎士や侍を名のれば良いだけなのに、何故か、騎士や侍という職業を新たにカテゴライズするあたりに、そこら辺は既に実証されていると言っても過言ではないだろう。カタナってのは、殺し屋であり、剣士であり、騎士であり、侍であり、刃であり…それから凡そありとあらゆるものなんだ。
ここら辺は、GF誌で連載中の記事「Take Your Revolution」第18回「スタイル」と言っていることは全く同じね。是非、読んでみてもらいたい。あれは、良い記事だよ。
天羅万象のアーキタイプが優れていたのも、外見と代表的な技能と因縁を見ることで、大体のキャラの方向性が一目瞭然でありながらも、個々のアーキタイプが実に多義的に設定されていたからなんだ。複数ある因縁の中でどれに重点を置くかで、キャラのイメージは全く変わるように設計されている。
「ふうん」
TRPGにおいて共有を実現するためには、結局、職業から受けるレッテルを利用せざるを得なかったのが、現実なんだ。これは、たとえスキル制であっても、必ずキャラクターシートに職業の欄が置かれていることからも明らか。N◎VAのスタイルや天羅万象のアーキタイプだって、結局、そのレッテルの利用の仕方にバリエーションを持たせているだけとも言える。
これが、昔掲示板で紹介したふたばてい氏の『astazapote』の11月7日の日記の真意なんだと思う。
人間の想像力・創造力には限界があるんだよ。
「なるほどね…人は、解った気になっているだけ、と君は言いたいんだね?」
というのが、私の持論だからね(苦笑)。
ただ、FEAR作品にも弱点はある。「語り」が出来ない人にとっては、面白くも何ともないってことだ。分からないものだからね。
それから、FEAR作品は、分かりやすい分、本当の意味での共有を阻害するのかもしれない。解った気になれてしまう以上、それ以上つっこむ必要はないからね。つくづく、TRPGゲーマーを信用していないシステムの作り方をしていると思うよ、FEAR作品は。
………あ、ちなみに、旧・天羅は、FEAR作品とは全く別物だよ(会社が違うという表層的な理由ではなくね)。あれは、因縁によって本当の意味での共有を強要するシステムだから。心理学を囓った人間から見れば、医者の処方箋が必要なシステムだね、あまりに危険すぎる。
だからこそ、天羅零は、そこら辺反省して一般にも分かりやすいようシステムを大々的に作り替えたんだと思う。両作品は全く別の作品コンセプトで作られている。一部の旧作ファンに根強い批判があるのも伺えるよ。
「で、結論は?」
ま、出来る人は、別にどんなシステムでも構わないんだけどね(苦笑)。
でもまあ、全員が全員、出来る人ではないから。各人の考察のきっかけになればいいかなって、書いてみた。
「最後のは、黒緒氏に対する個人攻撃?」
ま、そういうこと(苦笑)。
夜、親に誘われて、イギリスのパブ風のお店に夕食を食べに行く。
ビール三杯でほろ酔い加減。お食事もそこそこ上品で美味く、一人あたり二千七百円なり。良いお店であった。また今度行こう。
その後、すぐに寝る。ぐー。
帰宅途中で祭を見る。今日は、近くのお寺(?)でお祭りがあるらしい。
よっぽど、ビールと焼き鳥片手に祭りを観賞しようかとも思ったが、疲労がピーク達していたので帰ることにする。来年は、絶対にお祭りに参加しようと決意した。
10:00から、チャットセッションに参加した。
交渉人をテーマにした“ザ・ネゴシエーター”レイモンド=フェイスで参加。満足がいくプレイングが出来た。やっぱり、交渉人チックなプレイはしていて楽しい。
うん。今日、執筆者と打ち合わせをしたんだけど、そのとき頂いたコピー。富山の「JACCS事件」判決の評釈だね。執筆者が他紙で書かれた記事なんだけど…。
「面白い?」
面白い。
立法論とか、読んでいてなるほどと思ったし。最近は…ちょっと安易な判決が多いんだよね。だから、読んでいてとても刺激になった。
「安易?」
安易。
安易に、既得権者の利益を守るような判決が多い。話は不正競争防止法から著作権法にずれるけど、「ときめきメモリアルメモリーカード事件」とか、良い例だよね。
これは、執筆者が話していたことなんだけど、サードパーティーの参入を阻害してよいものか?
「サードパーティー?」
例えば、自動車産業において、街の修理工場というのはあるよね? あるいは、マニア向けのチューンナップを行う会社やその部品を取り扱う会社。こういう存在が、著作権法上許されるべきか否か、という話なんだ。現状では、ゲーム業界においては、残念ながらサードパーティーの参入は十分保障されていないし、参入していない。
「自動車産業では、著作権法は関係ないんじゃない?」
例えば、町工場で修理するよね? じゃあ、その箇所に特許権を取得している技術が導入されていたら? 町工場は修理を断る? 町工場はいちいち特許権者に許可を得ている? いや、後者は知らないから、逆に聞きたいんだけど…。
「ああ、そんなことは…無いはずだよね」
そう。だったら、ときめきメモリアルにおいても、メモリーカード販売という形でサードパーティーが参入してもおかしくないのではないか? という話にもなるんだ。
「………難しい話だね」
うん、難しい話だよ。ここは、ちゃんとまとめて論じないといけないテーマだね。
というわけで、今日はここまで。さ、遊ぼう。
あー。それだけ。
「でも、どれもうまくいった例をあまり見ないよね」
それは、本末転倒になりやすいからだろう。
それらが、最終目標であるはずの「PLに興味を持ってもらう」という手段に過ぎないことを忘れてしまうことにあるのだろう。目的化してしまうんだね。
では、「PLに興味を持ってもらう」ためにはどうするか? どうやったら、高い確率で興味を持ってもらえるのか?
「PCを主人公にする」
その通り。
これが、身内のセッションであれば、PLの設定を予め詰めてもらって、それを利用するという手が考えられる。しかしこれは、身内でのみ通用する手段だ。
メールなどで事前にやりとりをするというのも考えられる。緋氏の「マローズを越える日」なんてのが、その良い例だろう。緋氏本人は、アレを「RLの超わがままシナリオ」と呼んでいた。あそこまで決め打ちでシーンを作られると、いやがる人も出てもおかしくはないとも言っていた。
どれも、webでシナリオを発表する場合やコンベンションで使用する場合には不適切な手法ではある。万人に通用するシナリオにならないからだ。
「じゃあ?」
そこで考えられるのが、コンフリクトの提示だ。『PLに』シナリオ内におけるコンフリクトの存在を認識してもらい、PCの決断でコンフリクトを解決してもらう。PCが解決に乗り出さない限り、PCが望むような形でコンフリクトの解消は行われない。そういうシナリオを作ることだ。馬場論考で言うところの、意思決定だろう。
「なるほど、自分の決断が世界に影響を与えるとなれば、普通は興味を持つはずだものね」
そういうこと。上記の本末転倒な例ってのは、世界設定などに固持し、「PLに興味を持ってもらう」ことを忘れ、PCの決断が世界に影響を与えない形になっていることから問題が生じる場合がほとんどだろう。
「僕のNPCは最強なんだぞとか、君たちのような貧弱な存在では世界設定は揺り動かされないとか」
運がよいことに、そこまで酷いGMにはまだ出会っていないけどね。
ただ、レスポンスが悪いGMは時々いるよね。PLが面白くしたいと思って発言しているんだから、それぐらい認めてやれよと思うんだけど。
ただ、コンフリクトを提示するとしても、これがなかなか難しい。
PLに、そのコンフリクトの存在を認識してもらえなければ、そのコンフリクトは結局、提示していないのと同じなんだ。
「お得意の認識論かい?」
そう、認識。結局、受け手の恣意的解釈の問題だからね、コミニュケーションなんて(問題発言)。
じゃあ、分かりやすくコンフリクトを提示するにはどうするか?
早めに提示する。
繰り返し提示する。
理解できるだけの時間をもうける。
この三点に尽きるだろう。
早めに提示する。
これは私のシナリオの特徴だけど、私は常に先が読めるシナリオを作るように心がけている。
オープニングの段階で、PLに渡されたシーン情報をつき合わせれば、シナリオのコンフリクトはおぼろげながら見えてくるようにしている。あとは、PLがPCを動かし、そのコンフリクトの提示に向かってもらう。PLをコンフリクトの提示の共犯に巻き込むという手法だ。物語に造詣がある人間が見れば、序盤で2〜3パターンの展開が見えてくるんじゃないかな? で、だいたい、PCの対応次第で、その2〜3パターンに分岐するような構造になっている。
N◎VAなど、PCがバラバラに介入するタイプのシナリオに特に有効な手段だ。
「そのコンフリクトの提示に向かわないPLも多いよね」
身内にね(苦笑)。こういうコンフリクトを用意していますから楽しんでくださいと提示しているのに、それを回避するんじゃあ、私は責任の持ちようがないよ(苦笑)。私が用意したところ以外のところでシナリオを楽しもうとしても、困るんだよなあ…。
………あー、ここは、一度ちゃんと分析する必要がある箇所だから、後回し。「TRPGはトイかゲームか?」とかいう題目で考察することにしよう。
「(ボソ)TRPGはトイでありゲームである」
そこ、要らぬ突っ込みはしない!
「でもさあ、この早めに提示するという方法論、謎解きが好きなPLを排除していない」
うん、しているよ、思いっきり(苦笑)。
私は、ミステリーだったらコロンボの方が好きな人間だからねえ(苦笑)。
謎解きをメインに据えたい場合は、謎解きがメインであるというコンフリクトを早めに提示する必要があるんだ。
………ただ、謎解きセッションはPLの能力に依存しており、しかも、閃きがないとどうしようもないか、ただのお使いセッションになりがちである、という事実には注意した方がいい。謎解きはコンフリクトを提示してからゴールに到達するまでが長い道のりになりやすく、だれやすいということには注意すべきだ………っていうか、そこが分かっていない奴がおおすぎなんだよ(うがー!)。
PLがだれているのまるわかりなのに、そのことに気が付かないGMも多い、本当に。時間の無駄だ、そんなセッション。
「だから、謎解き型のコンフリクトは嫌い?」
嫌いだね。改氏のシナリオのようによっぽど出来が良くない限り。
繰り返し提示する。
とかいうと難しく聞こえるけど、要は、調査を進めていく段階でオープニングでそのPCに手渡されなかった情報が渡され、PCが事件のコンフリクトを認識する段階だ。N◎VAで言えば、リサーチフェイズだよ。
ただ、ここで重要なのは、なんのために、PLに、『PCを使って調査をさせる』かなんだ。
「究極的には、PCを主人公とするため。結果、PLに楽しんでもらうため」
その通り。どうやら、私が言わんとする事が分かってきたみたいだね。
「ま、分かりやすい人間だから、火塚たつやという人物は」
む…屈辱だなあ。
そう、結局、リサーチフェイズにしても、調査にしても、『PLにコンフリクトを提示する作業』に過ぎないんだ。だから、情報の出し惜しみはいけない。必ず渡さなければいけない情報とそうでない情報とを分け、最低限必要な情報は必ず渡さなければいけないんだ。
これは、シナリオのコンフリクトをどこに設置するかによる問題だ。調査すること自体がコンフリクトではなく、調査した結果明らかになった状況を『どのように解決するか』がコンフリクトであるということ。そこをはき違えてはいけない(もちろん、調査それ自体、謎解きそれ自体をコンフリクトにするのも自由だ。最近、そういうシナリオ作っていないなあ(苦笑))。
両方楽しませようという発想も持ってはいけない。そんな複雑な構造(一つの構造が二つになれば、それはすなわち複雑な構造である)を管理できる人間なんて、まず存在しないんだ。特に、TRPGは既存のメディアと異なり、受け手(PL)の物語構造に対する関与を当然の前提にしている以上、ますます複雑な構造は避けなければいけない。どんなに、GM自身がその複雑な構造を管理できたとしても、関与者、すなわち管理者にもなりうるPLたちがそのような複雑な構造を管理できるだけの能力を有していなければ、結局、意味がないんだ。高い確率で管理が出来なくなって破綻を起こす。
「悲観的だね」
当然のことだよ。構造の管理というのは、それだけ難しものなんだ。
理解できるだけの時間をもうける。
参加者のレベルにもよるんだろうけど、理解できるだけの時間はもうけないといけない。
というか、良くできた物語というのは、必ず、そういう時間を用意している。あるいは、先に示したようにテーマを相を変えて繰り返し提示することで理解させるような仕掛けをもうける。
それと同じように、N◎VAで言うところのリサーチフェイズというのは、コンフリクトをPLに再発見させるために機能させるのが理想的なんだ。別に難しいことじゃない。リサーチフェイズをこなしていく段階で自然にPLはコンフリクトを再発見していくのが普通だ。
そしてね、重要なのはここから。
リサーチフェイズにコンフリクトを再発見させるためにも、早めに、できればオープニングの段階でコンフリクトを、『PLに』提示しておく必要があるんだ(PCに提示する必要性はない)。たとえ、その段階で気がつかれなくても、リサーチをこなしていく過程で気が付けるように仕向けるべきだ。そして、理想を言えば、リサーチで渡される情報も、その渡されるであろう順番まで気を付けて、コンフリクトの発見に役立てるように注意して配置すべきなんだ。
「はー、君、いつもそんな難しいこと考えているんだ?」
意外とね。
といったことをつらつらと書いたのち、午後からセッションを執り行う。
IRO氏のD&D3rdと私のペンドラゴンだった。
どちらも楽しませてもらった。
私としては、PCの騎士に円卓の騎士(!)と決闘をさせることに成功したので満足(笑)。やっぱり、ペンドラゴンは優れたシステムだ。単純に、面白い。セッション時間も最大二時間程度だし、手軽で良い。
そのあと、本日のメインイベント。
みんなで寿司を食いに行く。一人一万七千円。冗談のようだが、本当の話。脂がのった鰯とか、実に危険な(笑いが止まらない)食べ物ばかりだった。どうしようもなく、うまい。幸せ。
で、今日、寝る前につらつら考えていたこと。
良いシナリオの条件というものだ。
ここで重要なのは、「良い条件」であって「楽しい条件」ではない。
そのシナリオが楽しいものであるか否かなんて、しょせん、面子ですべてが決まる。面白い奴と遊べば、なんであれそれは面白いし、つまらない奴と遊べば、なんであれそれはつまらなくなる。
ここで良い条件とは、そのシナリオ単体で十分に楽しめるシナリオとなっているか、ということだ。まあ、良くできたシナリオだと言われるためには、なにが必要か? という話しだと思ってもらいたい。良いシナリオであれば、かなりの確立で、そのセッションは楽しいものとなってくれるだろう(希望的観測)。
まず重要なのは、形式。
これは、『Lady Twilight』の掲示板に書き込んだことだが、シナリオも、『webなどで公開するのであれば、』シナリオとしての形式を満たしていることは極めて重要である。逆に、公開を前提とせず、個人的にプレイするだけのシナリオであれば、そのシナリオが形式を満たしている必要はない。
ただ、人にそのシナリオを読んでもらい、更に、評価を受けたいと望むのであれば、シナリオは必ず、一定の形式を満たしている必要があるであろう。
シナリオの前提やシナリオの概要などを詳細に記述することは当然として、NPCの正確や行動パターンの記述、PLがとりうる手段に対する対抗策(特に、シナリオの流れから逸脱したときの対応策…マルチエンドであればシナリオの分岐点の記述、一本道シナリオであれば回復方法の記述)も必要である。更に余裕があれば、PLに渡すべき情報の整理もすべきであろう(演出部分との分離がなされていればベストである)。
ここまでやれば、一見して評価に値するシナリオとなるであろう。
………いや、素人がやるようなことではないのだが(苦笑)。
次に、実質。
昔、「シナリオとはコンフリクトの提示である」みたいなことを書いたと思う。
コンフリクトが提示される瞬間とは、すなわち、一本道であれば倒すべき悪と救うべき善を提示する瞬間だし、マルチエンドであれば利害関係の状況を把握する瞬間である。
こういうと難しく聞こえるが、要は、PCが、主人公として活躍できる状況を用意するということだ。結局、そのセッションが面白かったか否かなど、(ほとんどの場合、)PCが主人公として活躍できたと実感できたか否かにかかっている。
一本道であればPCがその道筋に乗るだけの動機付けが必要だし(「お前だけは許さない!」)、マルチエンドであればPCに決断を突き付ける必要がある(と同時に決断しなければならない動機付けを与える必要がある)。
この条件を満たさない場合、参加者は何故、このセッションに参加しているか、その動機を失うであろう。
散漫としたセッションの多くが、GMがコンフリクトの提示に失敗したことに尽きる。
そして、前回も書いたが、重要なのは、PLが、そのコンフリクトを実感することであって、GMがコンフリクトを提示することではない。あくまで、これは受け手であるPLの問題である。
逆に言えば、GMとしては、受け手がどのようにその情報・コンフリクトを受け取るか、見越した上でコンフリクトの提示の仕方を考えなければならない。
む………書いている内に色々意見がごっちゃになってきた。一回し切り直すべきかも…というわけで、今日はここまで。
…そうか、「コンフリクトの提示」と言うよりも、むしろ、「如何にPLにシナリオに興味を持ってもらうか」という説明の仕方の方が適切なのか。コンフリクトの提示は、あくまで、後者の手段に過ぎないんだな…。
今ひとつだった。
ここ一年の判例の解説とか、う〜〜ん、あんまり価値がない話だなあとか思ったね。
いやまあ、ヒントにはなったけどね、発表の中で出てきたキーワードを聞いているうちに。
「………なるほど。って、それだけかい?」
それだけ。発表の後、職場に戻って残業までしたからね。機嫌もそれほど宜しくない。昨日は、連日の残業の疲れが吹っ飛ぶほどよい話だったのになあ。
「まあ、裁判官を悪くは言えないんだけどね」
うん。裁判官も、仕事で発表しているようなものだからね。
職業倫理上、あまり突飛な、個人的な意見は述べることが許されないから。仕方がないといえば仕方がない。
というわけで、今日はもう寝ます。
「おやすみ」
「それで、今日はどうだったの?」
大収穫。
編集著作物・データベース著作物って、今まで興味がなかったけど、今日の講義を聴いて凄く興味がもてた。
「あーた、編集著作物って、まさに貴方のお仕事そのものじゃない」
と言ってもねえ。編集著作物を保護するのに、著作権法である必要はなく、むしろ不正競争防止法の方が保護の在り方として相応しいと考えている人間にとってはねえ…。
判例も、実務の悪影響を受けてか、無意味に複雑難解な理論をうち立てているし。
「発表者は、蘆立順美(あしだてまさみ)助教授…美人?」
美人だよ…って、そういうのは関係ないでしょう。大切なのは、発表の中身。
「ご立派なことで…」
で、まさにどんぴしゃり。私が考えていたことをズバリ言ってのけたのよ、この発表で。
しかも、編集著作物・データベース著作物の本質を、判例の研究で明らかにしてくれたし。
………たぶん、というか、間違いなく、この発表を論文にすれば、今後二十年は編集著作物・データベース著作物についての論文で引用され続けるんじゃないかなあ? それぐらい素晴らしい発表だった。
「なるほど、だから機嫌がいいのね」
もう一つの(別人の)発表も、書かないけど凄く役に立ったし。仕事においても役に立つ話だったよ、二つとも。
ところで、White氏、それはさすがにやりすぎだと思うのだが…いかがだろうか?
感想だが、志保がかわいい。無茶苦茶かわいい。先輩とかいいんちょとかマルチとかあかりとか目じゃない。志保と浩之とあかりとの微妙な三角関係を見るだけでも価値があるのではないかと思う。
ボクハモウ オナカイッパイデス
実に贅沢な間の使い方をしている。この間の使い方はアニメを知っている人間の間の使い方だ…が、気にくわない。視聴者がゲーム本編を知っていることを前提に作っていることがその理由の一つだが、それ以上に、制作者はアニメに精通しているが故にアニメを舐めているような間の使い方をしているのだ。うがー!
で、映像特典。
あーやっぱり、制作者も琴音を「出来ちゃったから責任とってね(計画的犯行)」と迫るようなキャラとして認識しているのね(謎)。
で、今日はなにがあったかといえば…やっぱり残業していた(涙)。
今日は『央華封神』をプレイ。
我が愛すべきキャラ、桜花は今日も我田引水唯我独尊プレイを敢行。禁呪のくせに食い意地が汚く、詐術をなによりも愛するというふざけたキャラである。というか、火塚のデフォルトのようなキャラであろう。大丈夫、ちゃんとTPOをわきまえ、『律令は、』守っている。それ以外の人間として大切なことはたくさん捨てているような気もするが…(苦笑)。
ハラグロイキャラッテ タノシイデスネ
「また? しつこいね、君も」
うん、TRPGって、なにが楽しいかって話を黒緒氏としていたんだけど…結局、そんな物は受け手の恣意的な判断に委ねられるんだなあと。
「??????」
TRPGになにを求めるかと言えば、黒緒氏も結局、物語だろうと言うのよ。
ただ、私と違うのは、物語が発生するタイミングなんだ。
「いつもながら、君の言わんとすることは意味不明だね」
そのとおりだね(苦笑)。
昔、私は物語は事件によって発生するって言ったよね。事件の発生とその解決、それを恣意的に語ることが「物語り」であり、それを一定の記述としてまとめたものが「物語」であると。
で、私は、どちらかといえば大きな視点で物事を捉えるんだ。シナリオに一貫する事件の発生とその解決を「物語」と考えるんだね。だから、事件、すなわち対立状況(コンフリクト)の定時こそ、重要であると考えるわけ。私のシナリオ構造は結局、クライマックス直前にコンフリクトが明らかになることを目的にしている。
それに対して黒緒氏は、「物語」をそのような大きなレベルでは捉えない。小さいレベルこそ(TRPGにおける)物語として認識するんだ。たとえば、判定に(ファンブルで)失敗して溝にはまることも事件、すなわち物語の提示と捉える。そういう小さな事件の積み重ねの結果、セッション後、シナリオを振り返ってみたときに一つの物語として提示されていればよいだろうと。
「あー、それは、視点の差だね」
うん。視点の差だよ。
私はどうしてもGM視点、PL視点でものを見てしまう。セッションの参加者として、シナリオがどのような物語を奏でたかを考えるんだね。
それに対して黒緒氏は、あくまでPC視点なんだ。“この”PCの人生はなんであったか、どんな物語を歩んできたか、歩むのか、そういう視点なんだろうね。だから、物語に巻き込まれる必要なんて無い。むしろ、物語を生み出すきっかけさえあれば足りる、ってことなんだろう。
どちらが正しいって訳じゃないんだけど…どちらも楽しめればベスト…なのかなあ?
「んー、ドラゴンブレスで比較すると良いかもね」
はい?
「火塚氏の立場であればシナリオのクライマックスでドラゴンブレスで焼き殺されるのは物語にならないけど、黒緒氏の立場であれば焼き殺されることもまた一つの物語になる」
ああ、なるほど。けど…
「その逆もまたあり得る。火塚氏の立場であれば焼き殺される方が物語になる場合もあるけど、その状況に置いては、黒緒氏の立場であれば物語にならないこともある」
………読者、ついてきているかな? 「物語」が随分と多義的に使われているからなあ…。
「多分、ついてきていないんじゃないの? 君だって、イメージだけの条件反射でもの書いているんでしょう?」
そのとおり(えっへん)。
追記
そういえば、また聞きそびれてしまったけど、じゃあ、黒緒氏の物語の場合、GMにとっては、なにを楽しめばいいのか? それが疑問なんだよなあ。明日、聞こうかな?
「二十分ほどね」
………あう。
で、今日、つらつらと考えたことなのだが、TRPGゲーマーの多くが、TRPGにゲームを求めていないのでは、と思うのだよ。
「また、随分と唐突な話しだね…どういうこと?」
面倒なんだよ、(交渉)ゲームという作業は、極めて。
「その人の全能力も試されるしね」
そのとおり。
交渉ゲームって、理屈や利益だけじゃないんだ。ときには、泣き落としなどが有効になるときもある。情につけ込むことさえ利用しなければいけない。
「あんまり誉められたことじゃないけど、人間関係を持ち込むことも出来るよね…というか、実際の政治外交なんてそんなものか」
場合によっては、その人本人の軍事力だって利用できてしまうんだ。交渉ゲームというのは、言ってしまえばその人の全人格をかけた戦いなんだよ。
「敷居高すぎ」
だからこそ、人は、物語を受容することや理論ゲームであるTCGなどに流れるんだろうね。『ONE』や『月姫』などが優れてゲーム的であることに誰も気が付いていないし(溜息)。
「で、なに?」
うん。今日、テラ・ザ・ガンスリンガーの解説を読んでいたんだ。残業の合間に。
「駄目人間」
いいじゃん。残業していたの私一人だし。
…ストーリーフェイトというのは、どうにも好きになれないなあというお話。
「一本道は嫌い?」
問題ないよ。特に、PLをやる分には。
「ふつーぎゃくでは?」
プライドの問題だよ。GMやる以上、安易に一本道にはしたくないってだけの話し。TRPGがゲームであるという特性を殺しかねないからね。それこそ、『銀色』のようなシナリオを用意しないと(謎)。そういうのを用意できれば、逆に躊躇なく一本道シナリオを作るね。
「それで、ストーリーフェイトってのは?」
要は、GMがストーリーを進行させるのに必要な感情をPLに渡すという行為をルール化したもの。好きになれないのは、そこに交渉ゲームが介入する余地が極めて少ないってことなんだ。
いったんルール化されてしまった以上、PLが手渡されるその感情を拒絶できないんだよね。交渉ゲームの理屈からすれば、なんだかんだ言っても、一対一である限り、PLよりもGMの方が圧倒的に強い立場に立つのが普通なので。
「ルールに書いてあることは拒絶できないと?」
いや、スマートじゃないってだけの話し。
私だったら、プレイング・演出で『PL』が自然そういう感情を抱くように仕向けるし、場合によっては、「こういう感情を抱いてくれ」って、はっきりと宣言する。「シナリオが進まない」と泣き落としもするだろう。
「それって、すまーと?」
…思いっきり無粋かも(笑)。でも、これが交渉ゲームって奴だと思うから。
まあ、こういう回りくどいことをするぐらいならば、はじめからルール化、外化しておけっていう話しになるのは至極当然の話だろうね。だから、好きになれないけど、テラの方法論は正しいんだろうね。少なくとも、初心者には優しい。
結局、私のやり方だって、感情を抱くよう仕向けるのに失敗すれば明言するという形で外化が図られるだけだから。
「ふうん? でもそれって、結局、参加者のセンス次第では? ストーリーフェイトだって、PLが自由に解釈可能なんだし」
結局…そうなんだよなあ。
どっちでもよいってことなのかな? あるいは、失敗確率が下がる分、テラ方式の方が優れているってことなんだろう。
まあ、黒緒氏ならば、どっちでもよいなら無い方がよいって言いそうだけど。彼は、玄人好みだから(苦笑)。
あ、ちなみに、N◎VAのコネも神業も登場判定も、ランド・オブ・ギルティの因果律も、結局、すべて、この、交渉を固定化・外化する作業の一環なんだと思う。従来、GMのマスタリングテクニックとされていたものを明示したものに過ぎないんだろうね(デザイナーも、実際その通りだって明言しているし)。
「…なるほど確かに、黒緒氏ならばいらないって言いそうだ(苦笑)」
きょうは しごとでだいがくきょうじゅにあいました
いろいろ 「せんもんてき」なはなしをしました とってもじゅうじつしたいちにちでした まる
いや、本当に。私はおかげで、いま、仕事がとても楽しいです(謎笑)。
ああ、著作権法勉強していてよかった…(感激)。
ところで、日曜日の日記に書き忘れたこと。
『ペンドラゴン』RPGはモンティーパイソンであり、『クトゥルフ』はドリフのコントである。
この命題は恐らく正しいであろう。シナリオ中、PCがその作品世界でいわゆる正しい行動をすればするほど、PLは馬鹿笑いしながらプレイするものである。っていうか、実際、そうだったし。
しかしまあ、それが楽しいんだ。実際、うん。
今日は、本当に、そう思った。
今日は、おねぐらの面々に挑発され、制御判定に失敗。『君が望む永遠』の体験版が収録された『カラフルピュアガール』を買わされるハメになる。
で、ついでに『甲殻機動隊2』を買おうと思った。本屋で探して見つからなかったので、店員に聞いてみた。
「本棚にある奴しかないんですよ」
っていうか、あんた、本棚を見ずに答えるなよ。せめて、捜す振りぐらいしろ。商売って奴を舐めていないか? つーか、見せ自体広いのに、店員を一人しか配置していないし。
漫画本一冊をついでに買い、レジに持っていった。
すると、店員、半透明のビニール袋に入れて渡してくれた。
私は思わず涙が出たね。本当に(苦笑)。
本気で、商売というのを舐めていないですカ?
………むう(しくしく)。
ところで、内山氏のシナリオに感じたこと。
実に、手堅い、スタンダードな、まさに王道のお手本のようなシナリオであったということだ。そこに、魅力的なキャラと魅力的なシーンとを実に丁寧に配置し、結果、魅力的なシナリオに仕上げている。一見なんでもないようだが、実は凄い技術であると、改めて痛感した(そして、いまの自分に一番足りない能力でもある)。
さて、今日の日記で絶対に書かなければならないこと。
プレイ後、緋氏といくらか話しをした。火塚は基本的に7以降のFFシリーズは趣味に合わない。物語としても(論理)ゲームとしてもお粗末の一言に尽きるからだ。
しかし、今日、緋氏と話しをして少しだけ、考え方が異なってきた。
なるほど、ストーリーラインは陳腐でアレであっても、あれだけの壮大な話をあれだけのグラフィック・演出で作品としてまとめ上げたということは、それだけで十分に評価に値すると考えるべきのようだ。聞いていてなるほど納得した。しょせんマイノリティーはメジャーには勝てないという悲しい現実も突き付けられたが、素直に現実を受け入れることにしよう。その上で、私はなにが出来るか? なにをすべきか? それを考えていくことにしたい。
火塚、若干、初心に戻る。
しかし、とはいえ、FFがスピルバーグか? と言えば、「No」といいたくなる私の気持ちもくんでもらいたいとか思ったり思わなかったり(苦笑)。
家に帰ってから、シナリオ執筆の続き。特に、殺戮者のデータを詰める。チキチキ。火塚は一見、物語の人だが、こうやってチキチキ音を立ててデータを詰めるのも結構楽しんでやる。
アルカナを論理ゲームとして遊ぶ場合のコツは、如何に“刻まれし者”側の暴虐的なクリティカル値とアダマスの受けによる防御力を突破するかにある。まあ、頑張ってみよう。
今日は忙しいので、難しいお話はなし。
明日が楽しみ。
「いい加減だね…」
…そういう君は誰?
「あのね…こういう内容は、コンテンツとして積めて書くのは難しいから、相方を用意して対談形式にしようって考えたの、誰?」
ああ、私か…まあ、ほら、読み手にそういう事情を予め説明しておかないと分かってもらえないからさ、ついね。
「まあいいけど…それで、書きたいことって?」
うん。TRPGって、ゲーム性と物語性を対立項として捉えるのが一般化しているじゃない。
ゲームを立てれば物語性が薄れ、物語性を立てればゲーム性が薄れるって。
「それは、当然の話じゃない? それで、結論としてはどちらに偏りすぎても駄目だから、両者をうまく融合させようって話しじゃない?」
…なんか、それって、凄く安易な話しじゃないの?
どっちも重要だから両方ってのは…ねえ?
「気にくわない?」
理屈として美しくない。
「美しいって、あーた…」
私の行動原理の一つだよ。
で、話し戻すけど、やっぱり、この立論って、凄くおかしい気がするんだ。
この話って、結局、TRPGがゲームであるか物語であるかよく分からないからこそ生じてしまう問題点だよね?
「まあ…そうだね…」
色々と考えてみた結果ではあるんだけど(一時期、TRPGがゲームである必要はないとか言っていたこともあるし)、私から言わせれば、TRPGはどこまでもゲームだ。TRPGがTRPGである限りTRPGはゲームであることから逃れることは不可能だよ。
それと同じく、TRPGはどこまでも物語だ。TRPGがTRPGである限りTRPGは物語であることから逃れることは不可能だよ。
「………あの、言っていることがよく分からないんですけど?」
やっぱり(苦笑)?
ここら辺の話しって、GameDeepで議論してきたことの応用なんだけど…やっぱり…
「やりすぎ」
なにおう! やりすぎこそ我が人生! 我が人生に一片の悔い無し!
…莫迦な話しはここまでにしよう。
じゃあ、テーゼを一つ一つ検討していこうか?
「まずは、TRPGがどこまでもゲームであることだね?」
うん。TRPGは間違いなくゲームだよ。
「…待った、君の議論は信用が出来ない。まずは、ゲームの定義からしてもらいたい」
…賢明な判断だよ。
とは言っても、日常用語のゲームはかなり多義的に使われているからね。囲碁や将棋、ゲーム理論、テレビゲーム…
「確かに、テレビゲームのノベルズをゲームと呼ぶときのゲームの定義と、囲碁や将棋をゲームと呼ぶときのゲームの定義となんて随分違うよね」
ここでは、ゲームは本来の意味に比較的近く、ゲーム理論でいうところのゲームとして定義している。いわゆる交渉ゲーム。実際の政治外交とか、マルチゲームとかを想像してもらうと分かりやすいな。
「交渉を通じてお互いに最適化を目指すっていうアレね?」
そう。例えば、シミュレーションゲームであれば、戦闘という交渉を通じてお互い自軍の勝利を目指すわけ。まあ、この例はゼロサムゲームだから、あまり適当な例じゃないけど。
「で?」
つまり、ゲーム理論で言えば、人が二人以上いるところで交渉ゲームが発生しないことはあり得ないんだ(うろ覚え)。
だとすれば、TRPGはかならずゲームになる。
ちなみに、馬場論考の意思決定も基本的に同義。視点は違うけど。
「しかしそれは…」
まあ、一般にゲームというと数値をこねくり回すものと認識されているからね(論理ゲーム)。
しかし、交渉は優れてゲームだよ。交渉の極意って、相手の要求を飲むことを交換条件に、自分の要求をどこまで通すかっていう、極めて政治的な活動なんだ。
TRPGってのも、参加者間でダイス目やルール、一般常識、世界設定など、様々な資源を有効に使って、自分の意見を如何に通すかというゲームだと言えるんじゃない?
「…まあ、わからなくは…ないよ」
ただ、ここで重要なことは、TRPGが交渉ゲームで「ある」と言っているだけで、TRPGが交渉ゲームでなければ「ならない」とは一言も言っていないこと。
「?」
つまり、TRPGはゲームから逃れることは出来ないけど、ゲームであり続ける必要もないんだ。ただ、ゲームとしてTRPGを認識しない場合でも、TRPGが「ゲームであるという現象」それ自体には留意している必要があるんじゃないかってこと。
「物語としてのTRPG?」
んー。そこまでは考えていない。というか、理屈を詰めていない(無責任発言)。
まあ、TRPGがゲームであるのであれば、物語の表現手法としてそのゲーム性を利用しない手はないだろうってことだね。
映像を使用しない映画がナンセンスなのと同じだよ。もちろん、それを逆手に取ることも出来るけど、それは結局、例外だからこそ意味がある。TRPGゲーマーはもっとTRPGが交渉ゲームであるということに留意すべきだろう。
………ということを、仕事中に考えていた。
「駄目人間だね。それがオチかい?」
今日の発見。
なに、綺羅氏のBOSSもエヴァファンなの? なら、私もエヴァファンに戻ろうかなあ(謎)。
さて、昨日に引き続き、シナリオ論のお話。
シナリオにおいて一番重要なのが、コンフリクト(対立状況)の成立とその解消。
物語とは、すべからくコンフリクトの成立とその解消によって構成される。コンフリクトが解消せずに悲劇の結末を迎える物語も存在するが、それは「コンフリクトが解消しない」という形でコンフリクトが解消していると考えることにする。私が、「物語としてのN◎VA」で言及した、「事件の成立と解決」と同義だ。
また、ゲームも同じく、対立状況が生じて初めてゲームが発生する。これは、言うまでもないことだろう。
従って、シナリオにおいて重要なことは、如何にこのコンフリクトの成立をPLに認識させるかにかかっている。
たとえ、シナリオの背景として重大なコンフリクトが成立していたとしても、PLにそれが認識されなければ意味がない。GMがやりがちなミスの一つとして、ここら辺の認識不足がある。例えば、個人対全体というコンフリクト。一般常識に押しつぶされそうな個人という演出をしてしまうが、こんなことをすればPLは間違いなく個人に同情してしまい全体を軽視することだろう。結局、コンフリクトは認識されず、散漫なセッションとなる。よくあるミスだ。この場合、必ず、全体や一般常識を「代弁する存在(個人)」が必要となるのだ。
このように、意外とコンフリクトをPLに認識させることは難しい。
で、私は、シナリオでのリサーチを、コンフリクトの発見・認識と捉える。
オープニングでまず第一にコンフリクトの発生を認知させ、リサーチにおいてコンフリクトの発生を重ねて強調する。そして最後に、クライマックス(あるいはその直前)で、コンフリクトの根本的な部分を突き付けるようにしている。そして、訪ねるのだ。
「どうする?」
馬場論考の言葉ではないが、これこそまさに、ゲームだろう。意思決定という奴だ。
そして、なによりもドラマチックな展開であり、自己が参加している物語ではなかろうか。
私が提唱するストーリーゲームとは、このような構造を基本としている。
重要なことが一点。
この場合、GMは少なくとも必ず二通りは解決方法を考えておくこと。
解決方法を予め考えておいた方が、(その解決方法に囚われない限り)アドリブは利きやすい。必ず、考えておく必要がある。
複数の可能性を提示することは、PLのモチベーションを高めてくれる。
卑近な言い方をすれば、バットエンドとハッピーエンド。特に、ハッピーエンドの提示は重要である。もちろん、何事にも代償は必要だが(バットエンドに近い)、出来るだけ代償が少なくてすむ方法(ハッピーエンド)は必要だ。それこそ、「たった一つのさえたやり方」であり、トリックスターによる大団円、ハッピーエンドというものだ。それが用意されていない場合、PLは満足しないだろう。満足するようなPLはマゾだ。そして、世の中、マゾばかりではない。
ただし、『なにも』失わなくて済むような解決方法は用意するな。それこそ、ご都合主義という者だ。何かを得れば何かを失う。相でなければ、世の中不公平だと思わないかい? たとえ、その失う者にそのキャラクターが価値をみいださないとしてもだ。
ちなみに、火塚がどうやってシナリオを作るかというと、以下の通り。
キーワード、シチュエーション、キャラクターを最初に思いつき、それを膨らます(妄想をたくましくするとも言う)。その過程で、大体の事件の起こりを考える。
次に、細かい演出は抜きにして大体のエンディングあるいはエンディング周辺(コンフリクトの提示)のラインを考える。
これで、始まりと終わりが出来ることになる。
そうなれば、後は作るだけ。始まりと終わりとを繋げるのに必要な情報を考え、それを配置するようにする。この段階で、情報の設計図を書くことが多い。実際に情報の流れの矢印を引いて図式化する(この立場のキャラならばこのように情報が流れて、ここでこのキャラと交流するだろう)。ここら辺は、GF誌のN◎VAの記事で紹介されていたキーワードリンクと発想が同じである。設計図は最低でも三回は描く。ここでうまく設計図を描けないシナリオは没になる。
さらに重要なのが、オープニングの決定。オープニングとはすなわち、キャラクターの視点である。ここで、魅力的な視点を提供できればしめたものである。なにより、ここでしっかりとキャラの立場を明確に出来なければ、PLはプレイ中にプレイの動機を失いかねない。セッションを事故らせないためにも、はじめが一番肝心である。情報の設計図が自然に描けるよう、気を付けてオープニングを『配置』する。故に、火塚が最も時間を掛けて考えるところである。
で、校正の段階で全体をなんども見直し(大体4〜5回…それだけ誤植も多いの(涙))、全体を整える。他人と特異な点は、必ずテキスト化することであろう。めんどくさいが、テキストという形で外化すれば見えない問題点も見えてくる。読者ならばどのように読むだろうということを常に考えることになるためである。重要なことは、テキスト化する段階で、必ずNPCやシーンの本質を明らかにすることである。キャラ設定やシーンの演出に囚われることなく、『セッション内における』キャラが担う役割・立ち位置、シーンによってPLに渡すべき情報がなんであるか、そのことを常に考え、テキスト化する必要がある。こうすれば、PLが予想外の対応をしたときに幾らでも対応可能になるし(演出通りにならなくても、要はそのシーンで渡すべき情報さえ渡せばよい)、PLの設定に合わせたシーンセッティング、NPC演出も可能になる。
是非とも、一度チャレンジしてもらいたい。
あ…書くことがない…むう、さい先が不安になる展開だ。
今日は、とくそん氏上京記念としてミニオフ会を開いた。
参加者は火塚、White氏、then-d氏、とくそん氏の四人。
その前に、『月姫』のおまけディスクと聖書と聖書辞典を購入。
聖書はらんぎるプロジェクトに備えての購入である。それは人としてどうかと思うが、過程はそれほど重要ではない、大切なのは結果であると自分に言い聞かせることにした。
オフ会は、イタ飯屋にて執り行われる。
火塚が如何にファンタジーでしか物を語れないかを看破される。完敗である。
そののち、さらにWhite氏と二人で喫茶店にて議論を交わす。
議題は、「『銀色』のゲーム性」、「『ONE』が売れた理由」、「ゲームは子供にやらせて良いものか」の三点であった。
どうも話を聞くと、『銀色』にはバットエンドが存在するらしい。であるとすれば、銀色は確かに選択肢を有効に使いこなせているとは言えない(理由は、「『月姫』に嫉妬した私」を見よ)。個人的に『銀色』の評価が下がる。
『ONE』が売れた最大の理由は、『ONE』がジュブナイルであったからだというのが暫定的な結論であった。それだけ、良質なジュブナイルが消失しているのだろう。あるいは、ゲーマーという人種が、如何にゲーム以外のメディアと接触をしないということだろうか?
右に関連して出てきた話題として「ゲームは子供にやらせて良いものか」というのがあった。
『ONE』が売れたというのが物語の喪失にあるとすれば、ゲームを無批判に子供(小学生以下)にやらせてよいものかという私の問いに端を発する。
思うに、ゲームとは能動的に物語を発見することを要求する優れた特性を備えるメディアであることを考えれば、逆に子供にゲームをさせるべきではないだろう。
子供にまず第一に必要な物は物語のパターンである。多用な物語を自己内に消化して初めて、人は多用な解釈を、物語の発見を可能とする。知らない物語を発見することは不可能である。
故に、物語の発見が必要であるゲームに貴重な時間を消費することは、物語の蓄積を阻害する結果となるという結論に至った。ゲームは二十歳をすぎてから(謎)。
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