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アニメ版『To Heart』のマルチの回(第10話、第11話)を見る。
うぎゃあ、なんですかこれ、犯罪的です。
細やかなキャラの表情変化、お辞儀したときの服が擦れたかすかな音、それから色々アングルとか、完璧なアニメだ。すごいよこれ、すべてが「マルチかわいい」(萌えと言わないのが、せめてもの私の矜持だと思うように)と思わせるために設計されている。
ツーかやっぱりお前らアニメ舐めすぎ(誉め言葉)。
大阪の身内が上京、急遽カラオケ大会を開く。朝五時まで謡っていた。
「ダブルクロスがN◎VAの影響を受けたということ?」
いや、もっと深いレベルでの話だよ。
つまりだ、N◎VA以前と以降とで、TRPG界に決定的な差異が生じたことに気が付いているかな? ひとつ、決定的な概念が生じたんだ。
「?」
「登場」の概念だよ。
N◎VAは、はじめて、登場という概念を「判定」という形で明確に定めることに成功した。
もちろん、N◎VA以前、登場のルールが皆無だった訳じゃない。例えば、番長学園の番長フレームとかね。あるいは、うまいPLであれば、登場をロールプレイによってうまく活用していた。
でも、ここで気をつけるべきことは、N◎VAが「登場」を原則化したということなんだ。従来のルールでは、登場をルール化しても、その処理はヒーローポイントといった形で例外的に概念化されてきたに過ぎない。そういう意味では、従来のシステムはどこまでもパーティーの呪縛にとらわれていたんだ。そして、チームの概念が存在しないシステムは、極めて遊びにくいと考えられてきた。代表格はサイバーパンク2020だろう。他にも、蓬莱学園やクトゥルーなど、本来的にはパーティーを組む必然性が低いシステムも、やはり同じく遊びにくいとされていた。というよりも、どのように遊べばいいか分かりにくかった。そこで、様々なテクニックが開発された。館ものにするなどして無理矢理パーティーを組ませるとか、GMからはじめにはっきりとパーティーを組む旨伝えるとかね。でも、やっぱり、そういうテクニックを知らない人間にとっては遊びにくいシステムであったことには変わりがなかっただろう。上級者がロールプレイによって登場を活用するというのも、結局、登場という概念が例外的存在であることの証左だろう。
ところが、ここでN◎VAが登場を概念化するにあたり、状況は一変した。キャラをいつでも登場させることが出来るということは、キャラ同士がパーティーを組む必要が無くなったということだ。かくして、パーティーは解体され、TRPGはパーティーの呪縛から解き放たれることになった。
これは結局、N◎VAが、登場判定というものを、一般判定の延長線上で、判定という行為をともなう要素によって表現したことにつきる。それが一般判定である以上、N◎VAをプレイするすべての参加者は、登場判定というものを意識し、かつ、理解しなければならない(しかも、登場判定に成功できなければ、そもそもゲームに参加できない!)、かくして、TRPGゲーマーは、登場という概念を“意識的に”操ることを覚えることになった。まあ、私流の言い方をすれば、登場が交渉の資源(リソース)であるということが発見されたといったところか。
これはすなわち、パーティーを組まなくても、TRPGを遊ぶことが出来るということを覚えた、ということだ。パーティーを組む必然性が低いシステムにおいて、そのシステムの遊び方を理解したということだ(無理にパーティーを組ませる必要は無いという、偉大な発見だ)。
「おーい、もどってこーい」
うむ。そこで、ダブルクロスの話だ。
ダブルクロスには登場判定が存在しない。これをもってN◎VAの簡易版システムとして遊びやすいと考える向きもあるが、それは、いまや登場という概念が一般化しているからだろう。
仮にダブルクロスというシステムが、五年前に出たとしよう。間違いなく、遊び方は理解されず、くそゲーか色物というレッテルを貼られたに違いない。
だからこそ、我々は、N◎VA無くしてダブルクロスを遊べたのだろうか? という疑問を提起したんだ。私は遊ぶ自信はない。
「いまとなっては、いっそN◎VAからも登場“判定”を除外する?」
登場の概念が一般化した現在では、それもまた一つの手かもしれないなあ(苦笑)。
なにやら、網状言論Fのレポートを書くのが流行っている模様(事実誤認あり)。ということで、私も少しだけ書いてみる。
「大きな物語の喪失? データベース物語? パロディ? 萌え? ふん、そんなのは、我々ファンタジーが既に二千年前に踏破した行程に過ぎぬ(バキ風に…うろ覚え)」
…いや、マジ本当に、これだけなのだが…多分、分からないんだろうな(涙)。
っていうか、物語を議題に上らすのであれば、ユング心理学ぐらい囓ってこいと言いたい今日この頃。物語の豊かさは厳密を旨とする西洋思想では推し量れないと思うのだがねえ(いやまあ、ユングも西洋思想だけど)? つーか、ジェンダー論を語る時点で性差の概念に囚われているということに気が付いている?
まあ、こんなことを書いたところで、おねぐらの面々には、「tatuyaさんは論証出来ない人だから」とか、一笑に付されるだけなのだろうが(苦笑)。まあ、しゃあないでしょう。火塚たつやはそういう人間だ(開き直り)。
「ずいぶんと間が空いてしまったね」
気の向くまま風の向くまま。
結構、微妙な問題を孕むが、TRPGにおいて、詳細なデータやバランスが取れたシステムなどが、どれぐらい必要なのだろうか?
「火塚たつやにとっては、すべて不要という結論に至りそうだけどね…」
まあ、見えすぎた結論か。
これは結局、TRPGが、どれだけ論理ゲームである必要があるかという問題に絡むんだと思う。
「火塚たつやにとっては、TRPGが論理ゲームである必要性は全くない」
でもないんだ、これが。
結局は交渉ゲームに包含して考えるのだけれど、結局、それ(TRPG)をどのように認識するかなんて、受け手の恣意的判断にすぎない。それ(TRPG)をそのように(論理ゲームとして)認識する方が都合が良いというのであれば、TRPGは論理ゲーム性を大いに備えておくべきだし、論理ゲームの殻をかむっている必要すらあると考えている。
「論理ゲームの殻をかむるねえ。今日もまた(笑)、一段と過激な意見だね…」
なんども警告するように、交渉ゲームにおいては、ゲームバランスというのは全く考慮されない。
弱ければ弱いなりの戦い方を見つけるだけだ。だからこそ、よりいっそう、そこでは、弱者と強者との力関係の差が如実になる。一言でいえば、極めてアンフェアだ。アンフェアであるだけに、誰もが楽しめるというわけでもない。というよりも、むしろつまらないと思う人も多いし、どのように楽しめばいいか、遊べばいいか、そもそも分からない人も多いだろう。
だから、TRPGは、(交渉ゲームに一見似ている)論理ゲームとして殻をかむる必要がある。誰にでも分かりやすく、遊びやすくするためだ。…この言い方は、馬場氏のコンビニTRPGの発想にも通ずるところがありそうだね。
フェアであるフリをして遊びやすい遊技であると思わせておく必要があるんだ。
そしてね、フェア、公平性を再現するのに最も適した概念こそ、数値なんだよ。数値とは、万物を客観的に観察するために生じた概念だ。それだけに(客観的であるだけに)、また、数字は分かりやすい、理解しやすい概念でもある。これも結局、TRPGを遊びやすい遊技に偽装するのに一役かっている。んでまあ、世界設定も、SFチックな合理的な世界が好まれるのも、当然なんだろう。何よりも、分かりやすく、誰にでも理解されやすい。本当のファンタジーのように、平気で「幻想こそ真のリアリスティックである」と言い切るような分かりにくい世界設定が好まれるはずがない(畜生…誰か、私にファンタジーを遊ばせてください)。
「あのー。何だか、凄く危険な発言をしていませんか?」
うむ、しているぞ。すっげー異端な発言をしていて、ドキドキするほど大ピンチだ(笑)。でもまあ、少数有力説をとなえるのであれば、これぐらいのことは書かないとね(謎)。でも、ここで書いていることは決して間違いでもない、少なくとも、一抹の真実を備えていることもまた事実であると確信している。
システムをデザインする人間やシステムを批評する人間、システムで遊ぶに際してハウスルールを導入する人間に気をつけていてもらいたいことがある。
ズバリ言いきってしまえば、TRPGシステムにおいて、ゲームバランスを取る必要は必須条件ではない。むしろ、場合によっては、故意にバランスを崩す方がよい場合も多い。ハウスルールを導入するに際しても、はたしてハウスルールを導入してバランスを取る必要があるかどうか、もう一度検討してもらいたい。
確かに、数値とは、客観的な概念だ。多くの人間は、技能値が6の人間よりも10の人間の方が強いであろうと認識するはずだ。
しかしそれは同時に、非常に根拠薄弱な認識でしかないこともまた、理解してもらいたい。
特に、100%ロールを採用しているシステムの場合、その傾向はより顕著になる。はっきり言って、55%と52%との間には大差はない。むしろ、ルールの簡素化の観点から見たとき、このわずか数%の差は無視して構わない差でしかないだろう。事実、ペンドラゴンなどケイオシアムの後継のような作品群は20面ダイスを採用している。ここでは、5%程度の差は無視して構わないという判断が働いている。
で、この考えを推し進めれば、技能の差、能力の差は、もっと単純化可能だ。そもそもキャラの数値は、キャラの表現の一形態に過ぎない。戦士は戦士らしく、魔法使いは魔法使いらしく。そうであれば、天羅万象のように、技能を無級・初級・中級・上級・特級の五段階(事実上四段階)に分けると割り切ることだって可能だろう。
もちろん、システムを単純化するほどバランスは損なわれ論理ゲームとしては単調になりやすい。
しかし、そもそも、TRPGにおいてゲームバランスとは、要は、つまらないところを如何に論理ゲームとして描くことで面白く描くかという作業に過ぎない。
TRPGにおいて肉体戦闘が論理ゲームとして充実しているのは、参加者がその場面を想像しにくく、特に、一進一退の攻防というのを感覚的に理解しにくい処があるためだ。まとめて理解できないのであれば、細分化して理解させよう。かくて、肉体戦闘はラウンドに細分化され、一進一退の手に汗握る攻防が演出されることになった。
となれば、戦闘ルールに(ハウスルールで)オプションをつける場合、非常に注意が必要だ。
別に、論理ゲームは、細分化すればするほど面白くなるわけではない。ある程度の細分化は必要だが、それ以上細分化するかどうかは、システムデザイナーがどのようなコンセプトを持っているか否かにかかっている。
また、このように考えたとき、多くのTRPGシステムに交渉のルールが明確化されていない理由もよく分かるだろう。参加者が交渉を試みる場合、その参加者は少なからず交渉ゲームを意識している。そのため、その部分においては、TRPGは本来の交渉ゲーム性を取り戻す。そのため、論理ゲームによる偽装は必要ないともいえる。
さらに、このように考えれば、最近のFEAR作品のコンセプトもよく分かるだろう。
FEAR作品は、故意にゲームバランスを放棄している。一見、膨大かつ詳細かつ緻密なデータを保有しているが、その実、ゲームバランスは皆無に近く、即死コンボや抜け道などが横行している。これは結局、戦闘に興味を持たせつつ、本当に描きたいものが他にある、ということだろう(そして、本当に楽しませたい部分に気がつかない場合の保険として働く)。N◎VAであれば、どんなにデータを詰めたとしても、神業の一発ですべてがご破算になってしまう。これは、N◎VAが戦闘を楽しませつつ、本当に描きたいのは、神業によるシーン支配にあるということなのだろう。また、ある意味(どういう意味かは聞かないこと)FEAR作品の原点であるペンドラゴンも、そのゲームバランスは非道いものだった。貴婦人に勝利を誓った騎士の戦闘力はすさまじく(成功率が50%も上がる!)、また、戦闘は一撃で勝負がつくことが多い。戦闘以外の一般技能はあまりにスキルが低く、成功することなど滅多にありえない。ところが、実は、ペンドラゴンは、如何に判定に失敗することで物語を盛り上げていくか(誤解やすれ違いなど、騎士ものの王道のような演出)、あるいは、いかにして貴婦人の愛をつかみ取り、戦場に赴くかを描くことに主眼が置かれ、実際の戦場での戦闘は重視されていない。
貴婦人が無垢なる者(イノセント)であるとき、貴婦人の言霊は騎士に力を与える。それは、無垢なる者を守る騎士の願望である。したがって、無垢なる貴婦人のリボンは敵を滅ぼす力を持っていても、敵の刃から騎士を守る力はない。
貴婦人が魔女(ウィッチ)であるとき、貴婦人の言霊は騎士を滅ぼす。それは、人ならざる力、圧倒的な呪いである。その呪いは人の器では操りきれるものではなく、騎士の敵ごと、貴婦人ごと騎士を滅ぼす。たとえそれが貴婦人の行為による祝福であっても、ファンタジー世界では、祝福は呪いと同義である。魔女の祝福を受けた騎士は妖精騎士として悲劇的な死を迎えることだろう。
貴婦人が貴婦人(ミストレス)であるとき、貴婦人の言霊は騎士を守る。貴婦人の仕事は、騎士を見送り、騎士が再び帰ってくる家を守ること。貴婦人は日常の守護者である。帰ってくるべき日常がある騎士は、貴婦人と己のために生存を試みる。生きている限り負けることはないのだ。
これは、貴婦人の台詞に良く現れる。イノセントは騎士に「必ず戻ってきてください」とか「また明日」という。それは、根拠のない約束を強いることである。イノセントは、不確定で不安定なはずの未来を純粋に信じてしまう。騎士は、不確定な未来に戦いを挑み、破れる運命を決定づけられることだろう。一方、ミストレスは違う。ミストレスは「いってらっしゃい」と言う。それが困難で絶望的な戦いであることを知っている。知っている上で、自己に出来る最善をなす。すべてを日常のまま、何事もなく騎士を送る。そこには余計な言葉はいっさい無く、無為な約束を強いるものではない。それは、騎士が思うがままなす事を許容する優しさである。貴婦人は、騎士がなそうとすることをすべて見通し、その上で余計な介入をしない。すべては、騎士の選択である。騎士は、自己の判断で、日常へと帰宅する。
こう言うとジェンダー論者やフェミニストは色めきだつのだろうが、昔話において女性の多くは妖精性を有する。それは、女性に対する男性のおそれの現れなのだろうか、それとも、女性が生まれながらに持つ不思議(生殖能力)からなのだろうか。とはいえ、昔話的には由来はどうでも良く、昔話に登場する女性、それが貴婦人であるとき特に顕著に妖精性を獲得するのは純然たる事実であろう。
妖精の最たる力とは、呪い(魔法)の力である。昔話においては、すべてが両義的・多義的に語られる。魔法もまた、祝福であると同時に呪いでもある。だからこそ、ガンダルフは魔法の使用にためらいを覚える。したがって、貴婦人は、すべからく呪いの力を騎士に行使する魔女と言えよう。魔女とは、東洋の山姥であり、グレートマザーである。魔女性が顕著な貴婦人の庇護を受けた騎士はいつか、その貴婦人に呪い殺され、取り殺され、喰い殺される。グレートマザーとは母性であり、それは子供を庇護すると同時に、子供をかわいさのあまり喰い殺すことになるだろう。母性にとって、最高の愛情表現とは、相手と「一体になること=喰い殺すこと」だからである。鬼子母神などが良い例だろう。
警告者とは、物語の序盤に登場し、主人公に物語の境界線上で警告を発する助言者の一種である。そこを一歩踏み越えれば、主人公は妖精の世界に足を踏み入れることになり、いやが上にでも物語に取り込まれるだろう。一度踏み込めば、主人公は妖精世界で成功を収めない限り引き返すことは敵わない。警告者は、主人公にルールの変質(人間のルールから妖精のルールへの変遷)と生命の危機と引き返す旨の警告を発する。
そして、警告者の仕事はそれで終わりである。警告者はそのまま物語から登場するのが原則だろう。
………なんか、電波な日記だなあ(苦笑)。
Na3氏と別れたのち、池袋に出向く。目的は、網状言論Fの視聴。パネリストはジェンダー論が好き過ぎた罰が当たっているというのが、おねぐらの面々の共通見解となった(謎)。つーか、今更ジェンダー論を展開されてもなあ(笑)。
とはいえ、自分もファンタジーが好きすぎた罰が当たっているので五十歩百歩というところか?
ちなみに、増刊号は無事、最終工程を終了した。あとは、印刷所に印刷させるだけ。
「物語は?」
うむ、書いていて、議論が行き詰まったので(笑)パス。
「うわ! 無責任!」
いいんだよ。しょせん、自分の日記だ。
能力値とか、判定とかって、いったい、なんだろうね?
「………はい? 何言いたいデスカ?」
うむ、ここ最近の、身内とのチャットでの議論とか、他の掲示板での議論とか、思い返しているのだが、つくづく、能力値とか判定とか、その存在が不明なんだ。
あるいはね、TRPGにおいてバランスが取れている必要があるか? という問題にもなるんだ。
「ランダム性の確保じゃない?」
それは、どうだろう? ランダム性を確保することによるメリットって、何かな?
「………なんか、そう正面切って質問されると答えにくいんですけど」
まあ、先が読める勝負なんて面白くないからね。あと、先が読める物語という物も面白くないというのも定説(笑)だ。
多分、そのとおりなんだと思うんだ。ランダム性を持たせることでどうでもよい行動に一喜一憂できるようになる。黒緒氏が言う、「そのPCの物語(小さい物語)」が発生する瞬間だね。先が読めないからこそ、真剣に取り組めるとか何とか。
「じゃあ、それでいいジャン」
やだ。結論としてあまりに安易すぎる。耳障りが良すぎるじゃないか。私はごつい議論がしたいんだ。
「………タチ悪いね、君」
よく言われるよ(爆)。
さて、話をちょっとN◎VAに移そう。
黒緒氏に限らず、N◎VAを批判する人間は、決まってカード判定を批判するんだ。
N◎VAがカード判定を採用した理由は、これも公式でも良く言及されることなんだけど、物語(大きい物語)をコントロールするためと言われている。カードは手札が見える時点である程度成功不成功を読めるし、判定の成功失敗をコントロール可能だ。
しかし、彼らは言うんだ。カード判定と言っても、ある程度成功に導くには、カードを操作する必要がある。失敗すべきところで失敗し、成功すべきところで成功する。N◎VAの場合、更にスートを合わせることにも注意する必要がある。これは、物語(大きい物語)を目指すN◎VAの欠点と言っても過言ではないだろう。完全に物語をコントロールできるものではない。
「で、欠点なの?」
まあ、欠点かもしれないね。
テラ・ザ・ガンスリンガーでは、パワーチップによるスートの操作を採用していることを考えればね。もしかすれば、次のN◎VAではそこら辺、改良されるかもしれない。
「あれ? えらく素直だね?」
私は、常に素直だよ。十分に議論を尽くし、相手の主張がもっともだと考えれば、相手の意見を了解する。
…ただね、彼らもまた、致命的な間違いを二つほどしていると思うんだ。
一つは、物語を固定的なものとして認識していることだ。
一つは、N◎VAが(TRPGが)交渉ゲームであるということ。
「結局、難癖つけているジャン」
んん、きこえんな〜〜〜あ(笑)。
物語が固定的ではないというのは、八月三十日、八月三十一日、九月三日で言及したとおりだ。物語において重視されるべきは、常に受け手の認識であり、物「語り」であるべきだ(何故、あるべきなのかの論証は…待ってください(爆)…三日の論証では全然不十分だろうし)。世界をどのような物として認識するかを物語と考えれば、物語とは決して固定的である物ではない。物語を固定的に考えるのは、「物」語りにすぎない。(少なくとも)TRPGにおける物語とは決して固定的な物でも、GMの一本道でも、(論理)ゲームと対立する概念でもない。それは、どのように世界を(自分が)認識し・(他者に)認識させるかという問題だ。
TRPGは交渉ゲームだ。交渉ゲームにおいては、判定の失敗も交渉の一要素となるに過ぎない。失敗は失敗ではなく、成功へのプロセスの一つであるに過ぎない。PLは、最終目標を見据えた上で、より積極的に失敗をなし、状況を操作するすべを覚えなければいけない。カード回しがうざったいというのは、単に、そのような手法になれていない、鍛錬が足りていないだけだよ。
ただまあ、こういう言い方をすると、次のような疑問を持つかもしれない。
じゃあ、N◎VAは本当にカード判定でなければならなかったのか?
この答えも簡単。別に、カードである必然はどこにもない。
ただし、これはそのままそっくり、他のTRPGシステムに返すことも可能だ。ランダム性を確保するのであれば、別にダイス判定である必要はない。カードを山引きするという手法だって考えられる。
しょせん、そんな物は、カードが良いんじゃないかとか、ダイスが良いんじゃないかとかいうデザイナーの恣意的判断だよ。ただ、物語を重視するN◎VAの場合、ランダム性をPLのカード操作で「ある程度」排除可能なカードの方が望ましいと、「直感的に」思えたから、そうなっただけなんだ。TRPGシステムはしょせん人間が運営する物だからね。別に、論理的に厳密にそうである必要はない。ゲームの参加者が直感的にそうだと思えるような幻想さえ抱けば良いんだ。
批判者は、そういう幻想を抱けなかったから、批判するんだろうけど、N◎VAが好きな人間は、多くがそういう幻想を抱くことに成功している、という事実は忘れてはいけない。多くの(いやまあ、本当に多くかはマーケッティングする必要があるけど)人間が幻想を抱くことに成功しているシステムが失敗していると批判することは、ただの難癖と言われても仕方がないんじゃないかなあ?
「はーい、質問です。物語は固定的な物ではないのでは? ならば、N◎VAもカードによって直感的にでもランダム性を廃止する必要はないのでは?」
はい、大変良いところに気がつきましたね。
でも、もう一つのテーゼ、(N◎VAというよりも)TRPGが交渉ゲームであることにも気を付けてみましょう。
もちろん、交渉ゲームでも、偶然の失敗は交渉の一材料になる。うまいPLであれば、ファンブルでウケを取ったり、状況をうまくコントロールしたりすることが可能だ。そういう意味では、N◎VAがランダム性を廃止する必要性はそう高くもないかもしれない。
ただし、忘れてはいけないことは、(そのPLにとって)失敗とは多くが望まれない要素であるということだ。余程の熟達者でもない限り、失敗を交渉材料にすることは難しいだろう。
結果、余程のことがない限り、失敗は交渉材料になり得ない。多くの場合、単に不利な方向にしか働かないだろう。
とすれば、結局、判定失敗とは、TRPGにおいてその多くは、無意味な物になりがちなんだ(まあ、ペンドラゴンの紋章学判定など、失敗することを当然の前提としてデザインされている場合は話が違うが)。
それに比べて、N◎VAは、失敗をかなり高い確率で予測可能だ。というか、手札を見れば、当然のごとく失敗が内包されていることを理解できる。
そのため、N◎VAをプレイすることで、参加者は段々と失敗も交渉材料になりうることに気がつくことになるだろう。というよりも、その事実に気がつかなければ有利に事が進められないということに気がつかざるを得ない(気がつかない限り、円滑なプレイは不可能となる)。故に、N◎VAでは通常のシステムよりも比較的・相対的に高度な交渉ゲームを展開することが可能であり、結果、より流動的な物語を刻むことが可能になる。
N◎VAってのは、ランダム性を廃止することで、交渉ゲームの幅を(熟達者でなくても)広げることを選択したシステムと言えるんじゃないかな?
「あのー、失敗から成功を掴むシステムであるというN◎VAの主旨を理解せず、失敗を怖れ、表舞台にしゃしゃり出た上でカード回しを繰り返す困ったPLは?」
交渉ゲームが出来ていないただの莫迦。それ以上でもそれ以下でもないよ。それでもN◎VAシステムは円滑に運営される以上、別に無視しても良いんじゃない?
「………」
あ、それからもう一つ。N◎VAがカード判定によってランダム性を排除している理由がある。
物語とは固定的であるという参加者の思いこみに迎合するためだ。ランダム性が排除しているから、より物語を作りやすいだろうという思いこみを利用しているんだね。わかりやすいということは、良いことだよ。
「………。君、結構、極悪人だろう?」
割と。ま、FEAR作品は共有が不要なゲームなので。
「なげやりだ…」
十月十二日追記
交渉ゲームの幅を広げる…む、しかしあれか、
「敷居を高くする一方、上限を設けてしまっていることを考えればやはり失敗作だ」
という批判も可能だな…。問題は、
「敷居は低いかもしれないけど、結果混沌として遊び方がよく分からないシステムとどちらがマシか?」
という話になるのか…なんだ、随分と常識的な結論だな。つまらん。
更に詳しく考察すれば、面白いと思ったのが、セッション運営をサポートするルール群。
シーンプレイヤーを明示するカード、シーンごとに増えていく浸食率など、どれも、プレイアビリティを前提に組まれており、かなり出来がよいと思われた。あまり、難しく考えるプレイには向いていないが、お気楽に遊ぶには最適なシステムの一つであることは間違いない。
………買ってみようかな?
自宅に戻って、借りてきた『ONE』のDVDを見る。身内からは、イタイから覚悟しておけと言われていたのだが………イタ…いや、まあ、いいよ、もう(涙)。
つーか、私には、監督が何をやりたかったのかさっぱり分からなかったです(泣)。ここ、日本ですカ?
いやまあ、多分、自業自得なので、会社に対しては悪口を言うつもりは全くない。
社長の温情で、三時頃に帰宅、そのまま爆睡をした。
「ええと、とりあえず、物語としてのN◎VAを参照してください、みなさん(苦笑)」
フォロー、ありがとう。
いままで(八月三十一日、三十日)の議論から明らかなように、物語とは、世界に対する個々人の認識方法だ。物語とは、方法であるが故に、様々なパターンが存在する。人によって当然、尺度も異なる。人が衝突、すなわち物語が衝突すれば、そこに揺らぎが現れることも当然だ。物語は互いの優劣を競い、物語はお互いに影響しあう。結果、物語は流動的になる。
また、個人レベルでも、その人が内包する物語の数だけ差異が生じ、やはり物語は流動的になるだろう。昔読んだときといま読んだとき、作品に対する印象が異なる由縁だ。
これは、解釈の差異と言うほど生やさしいものではない。確かに、字面、すなわちテキスト自体には変化が現れることはないが、そこで描かれる物語は、人の認識の数だけ、(全く性質が異なるものとして)立ち現れることになる。
これが、私が物語とは固定的な概念ではないという理由だ。
「あああああああああ。でもやっぱり、何だかうさんくさい香りがしますです(涙)」
ははは(苦笑)。そうだね、私もさっぱりまとまっていないから。未だ電波の状況を脱していないよ。うさんくさいとか論理飛躍とか言われても仕方がないね。自分も、書いていて、どうにも物語の意味を二重取りしているような気がして仕方がないんだよ(苦笑)。
ま、とりあえず話を戻そうよ。
でもね、物語は、流動的なだけではいけないんだ。“ある程度、”固定化されなければならない(完全に固定化されてはいけない)。いつまでも流動的では、まとまりがないからね。まとまりがなければ、共通認識を有することも、その物語作品について批評などの交渉ゲームを始めることも難しいだろう。
あとは…物語作品を世に放つ人間として、他人に影響を与えたいという当然の欲求が存在するだろう。
でだ、そのような欲求に答えるには、「物」語りでは不十分なんだ。物「語り」、すなわち、受け手の認識まで考慮して物語作品を設計しないと、必ず破綻する。ただ、設定やいわゆるストーリーを追いかけているだけの「物」語りなんて、受け手にとって理解不能な、ただのオナニーだ。
「それだけ? 何だか、なげやりな、いい加減な議論だね」
色々考えているんだけど、未だにここら辺はまとまりがないんだよね。とりあえず、書き散らかしていくしかないのかなあ? だから、今日は中途半端だけどここまで。
ん…ああ、物語と物語作品とで定義を区別するというのもありか…。もう少し、考えてみよう。
で、『千と千尋の神隠し』を二人で見たりする。
正直に告白すれば、実は私、『千と千尋』は全然期待していなかった。ここ最近、力を失いつつある宮崎作品の中で、無難にまとまってはいるだろうが、それほど面白みはないだろうと思っていたからだ。『もののけ姫』もなあ、なんだか、全然消化不良というか、軽かったからなあ。
というわけで、実は私としては、レッドシャドーを見たかったりしていた。赤影ではなくレッドシャドーというあたりで既にB級の香りがするし、レッドシャドーのくせに赤くなく、とどめに舞乃海秀平がポーズを決めている。なんというか、『アタック・オブ・ザ・キラートマト(殺人トマトの逆襲)』を彷彿させるへたれさ加減が逆にそそるものを感じたりしていたのだ。
………ゴメンナサイ、私が悪かったです。認めます。完敗です。宮崎監督は間違いなく天才です。っていうか、まさか、映画で、マジもののファンタジーを見られるなんて、思っていませんでした。
しかし、同時に考えたこと。きっと、この映画が見て激怒する人間も多いんだろうなあ。演出は凄いがストーリーがなっていない。伏線を回収していないとは何事だ。事実、隣で見ていた友人も、つまらないと言っていたし。特に、映画人にそういう批判をする人が多そうだ。
で、帰宅後ネットを巡回してみたりする。予想通り。一見論理的にレビューを書いている人間の多くが、『千と千尋』に対しては批判的だった。『千と千尋』に肯定的な人は、感情的に面白いと言うだけであって、どこが何故面白いか全く説明できていない。なんだかなあ…。
ううむ、彼らに、「いや、君が伏線として認識しているそれは伏線じゃあないんだ。それは、君の認識不足だよ」と言っても、絶対に分かってくれないんだろうなあとか思ったり思わなかったり。
だいたい、たった一つの物差しだけを使って、森羅万象物事すべてを押し測ろうなんて、傲慢にもほどがある。SFにはSFの作法があるように、ミステリーにはミステリーの作法があるように、ファンタジーにはファンタジーの作法がある。その作法を知らずに、分からないから駄目と断じるのは、実に愚かしい振る舞いではないだろうか? はっきり言ってやろう。ただの勉強不足だ。顔を洗って出直してこい(含む、ご大層な映画評論家)。「理解できないから駄目」というのは、“評論家がする”評論ではない。そういう場合、沈黙を守るか、理解する努力をすべきだ。
む…ちと感情的になってしまったな。
でもね、どうしても言いたいことが一つある。
これは本来は宮崎監督が作るべき映画ではなかった。この映画は、右も左も見えない血気盛んな若手が、「勢いだけで作っちゃいましたてへ」的な映画であるべきだ。そうであってはじめて、日本の映画界の未来に希望がもてる。それが、宮崎監督という映画界の重鎮にして、もう先がない老体が作ってしまった。私は、ただその事実に日本の映画界の行き詰まりを感じた。
いやまあ、宮崎監督じゃなきゃ、これだけ記録的なセールスを出せなかっただろうことも確かだけどさあ。
とゆーわけで、『千と千尋』の意味解釈を試みてみようと決意する。近々コンテンツを上げよう。
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