ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
「結局、考えるだけでほとんど執筆できていないし…間に合うの?」
聞くな!
「で?」
んー、もしかしたら、プロバイダー責任(制限)法で何か一本論文を書くかもしれない。ちと、思うところがあった故。
「でもいまは、TRPGで忙しい、と?」
うむ(ぉぃ)。
隣に座っていた綺麗なお姉さんが『ちょびっ』を読んでくすくす笑っているのがかわいくてたまりません。
「夏がくるたび、思い出してください」というのは、『火垂るの墓』のキャッチコピーとしては嫌がらせの部類に入るだろう、と思います。
つか、私はいままで、心理描写に力を入れており、女の情念を垣間見ることが出来る漫画だと認識していたのだが、どうもそうでもないらしい。
そもそも、少女漫画デビューが『ぼくたま』と『不思議遊戯』なのだが、これは身内に、それがデビューというあたりで既に駄目出しを喰らっている上、今日、おねぐらで、私にとっての少女漫画はウテナ(アニメ版)と高河ゆんのラヴィアンローズ・妖精事件と門井亜矢のヘブンズゲイトだと答えたら、
「レディコミでも読め」
という、身も蓋もないご指摘をいただいた。
ふうむ、少女漫画って、思っていたよりも普通の漫画なのね…分かりました。レディコミの世界に逝ってきます。
改めて紹介するまでもない本だけど、二十七日にある情報ネットワーク法学会との絡みで少し。
と言っても、web社会の在り方について自分が考えていたこととほとんど同じなんだけども。「個の時代の到来」「ユーザーすべてが情報発信局となる時代」「オリジナルの喪失」とか、まあ、そんな話。
ただ、その中でどうにも同意できないのが、携帯電話がweb社会の到来を促進したという書き出し。これは、正直いただけない。
私はむしろ、携帯電話はweb社会の到来を遠ざけると考えている。もちろん、携帯性に優れた携帯電話を用いれば、機動的な情報発信を可能とし、ユーザーをより積極的な情報発信局とする事も可能なのだが、それは、ごく少数のヘビーユーザがなすものだ。圧倒的多数は、携帯電話を、文字通り、携帯する電話として用い、携帯する情報収集ツールとして用いる。そこでは、1対1、あるいは大企業から情報を買うという1対多の情報モデルのみが想定され、ユーザーが多数に発信するという多対多の情報モデルは想定されていない。論文でも書いたように、web社会の本質は、多対多の情報モデルにあるわけで、この論調は、デジタル化とweb社会化とを混同するというミスを犯していると思う。
まあ、総論賛成各論反対ということで。
よりにもよって絶版本を紹介するのもアレでナニだが、社会思想社倒産記念だと思いねぇ。
「記念じゃねーだろうが」
いや、凄いよこの本。ヘラクレス伝説は、太古の母系社会における「母神信仰」時代の伝説を、男性優位のギリシア人たちが勝手に書き換えたもので、ヘラクレスはヘラの娘ヘラクレアを男性化したものだ、というトンデモ設定によって書かれた作品なんだけども。
「凄い話だな、おい」
トンデモ本と言えばトンデモ本だけども、あながち間違っているわけでもない。母系社会・母神信仰ってのは、根元的な人類のシステムだったらしいし。ギリシア人(の祖先)が母系社会を採用していたかは知らないけれども、その可能性だって、否定しきれるものではないから。まあ、トンデモ本であることには間違いないけどね。
しかし、そんなこと、この作品の大事の前の小事。この作品の真の醍醐味は、その清く正しく間違ったギリシア神話観にあるわけで。以下、私が惚れ込んで購入を決意した頁の引用(35p)。
ヘラは自分が身ごもったことに気づいた。最初、自分は愕然となった。が、やがて、嵐のような歓喜が押し寄せてきた。彼女は唄いながら、天の床の上を飛び歩いた。この陽気な騒音を聞きつけて、エロスが飛んできた。彼女は彼をかき抱いて、踊り続けた。それから彼を高く投げ上げた。彼は白い翼をひろげて羽ばたいた。………さすが、愛の天使エロス。堕胎を薦めるとは。愛の営みは管轄の内だけども、愛の結果の妊娠までは責任は負わないと(笑)。
「何かいいことでもありましたか?」彼は笑いながらたずねた。
「おお、あったとも」
「期待通りの相手だったでしょ?」
「素晴らしかったよ。私は身ごもった」
「それはまた早いこと。いつ堕ろすおつもりですか?」
「堕ろす?」
「ほかにどんな策があります?」
お薦め少女漫画ということで読んだのだが、いまいち。
テーマを読み違えているのかもしれないが、こういう、基本的に主人公が進級せずパラレルワールドで話が進展する傾向の学園ドタバタであれば、『うる星やつら』の方が、テーマ的にも演出的にもコマ割り的にも数段上のような気がするのだ。
個人的には、年度が替わった時点で作者がしゃしゃり出て、学年が上がらない旨断りを入れるあたりでかなり萎えた。この点、『うる星やつら』は徹底していて、夏が来るたびに海ネタを平気で繰り返したりし、最終的には、押井守にそれを「ビューティフルドリーム」と揶揄されるまでに昇華していた点、ポイントが高いと思う。
追記:
ということを、みっきい氏に話したら、グリーンウッドはまず第一義に、主人公のささやかな成長こそテーマだろうと言われた。まあ、そうか。
「ぉぃ」
つーわけで、みっきい氏のギアアンティーク。
今回から、ギアアンティークはマジェスティックスタンド(激動の時代)に突入する!
「あのー、ギアアンティークと言えば、ほのぼの冒険ものでは?」
うむ、ファイブスターの世界をほのぼの冒険ものというのであれば、ギアアンティークはほのぼの冒険ものだ。前回の冒険で、参加者全員で魔術ルールを読み込んでみたら、凄いことが出来ることに気がついたのだ。
「願わくば、視野にありき、抵抗せしもの、継続して、液化せよ、さらに、衝撃あれ、かく為せ」
これで、魔力44、詠唱時間4ターン、成功率70%、暴走率40%で、三百メートル以内のひとりを、対象をゼリー状にしてその頭を吹き飛ばす魔法が出来るわけだ。当然、常識的には、そのキャラは死ぬことになる(効果があまりに強力すぎると考えるのであれば、効果を弱くして良いのは当然として)。
この呪文に対して、騎士は、
「イアイブレイド+エリアエフェクト+ハードブレイド」
魔導士が動く前に、居合い切りの要領で、通常の数倍の威力を持った斬撃を衝撃波にして飛ばすわけだ。
しかし、魔導士もそこら辺は心得て、準備をしている。
「願わくば、我は命ずる、自己へ、より強き力で、害を完全に禁ずること、維持せよ、かく為せ」
これで、魔力70、詠唱時間4ターン、発動率100%、暴走率−20%で、物理攻撃、魔術的干渉、空間のいっさいの干渉を退けることが出来るようになる。実際、今回のセッションで、ムーバー(オリジナル設定で、巨大ロボットを運ぶための運送機だと思ってもらいたい)に轢かれたが、生きていた(笑)。
こうなるとどうしようもないので、敵の魔術師は、
「願わくば、大量なる、視野にありき、より広い範囲、強き力で、継続して、液化せよ、かく為せ」
これで、魔力54、詠唱時間4ターン、発動率70%、暴走率−20%で、相手の足下を瞬間的に底なし沼にする呪文ができあがる。1D10ターン以内にでることが出来ないと、地面は元の土塊に戻るため、土の中に閉じこめられるという、世にも残酷な呪文ができあがるわけだ。
で、「願わくば、大量なる、視野にありき、より広い範囲、強き力で、継続して、液化せよ、かく為せ」を敵の魔術師に実際に掛けられそうになって大ピンチだった…のだが、他のPCの機転で事なきを得た。
「魔術師を! 投げたっ!?」
無敵化呪文を掛けていることを好いことに、PCの騎士(オリジナル世界ではロボット乗り)が、ロボットの手に乗った私を投げやがった(苦笑)。まあ、おかげさまで、底なし沼ができあがる地点踏み込む愚を犯さなくて済んだんだけども。
「凄い世界だ…」
まあ、あれだ、こういうフレキシブルなシステムだと、常に正しい解があるというわけではなく、PLの創造力が勝利の鍵になるわけだよ。
「んで、結論めいた極論は?」
極論すれば、TRPGがゲームであろうが表現であろうがTRPGそのものであろうが、関係ないのよね。そもそも、TRPGがコミュニケーションを軸にしている以上、それが「語り」でないはずがないし、多人数での交渉がなされる以上、そこにゲーム状況が立ち現れないはずもないから。ならば、ゲームであることを表現として利用すればいいし、表現であることをゲームとして利用すればいい。ただ、それだけ。交渉ゲーム的に言えば、各自、最適なリソースを発見して、適宜交渉すればいいだけ。
「書くだけ書いて、最後は随分となげやりね…」
(TRPG=交渉ゲーム論をふまえた上で、)TRPGとはTRPGであるとか書いちゃった時点で、どんなに精密に話を進めたところで(その、TRPGの要素を分析したところで)、最後は各自のセンスに委ねられる話だからなぁ。各自、センスを磨けって話になっちゃうのよね。センスを磨いて、面白いセッションをしよう。ただ、それだけの話なのよ。TRPGはゲームであるとか、そういう大上段を振りかぶるなら、色々事細かに話ができるんだけども、TRPGがTRPGでであるとする以上、それに(←既成観念ぐらいのニュアンスで捕らえてください)に囚われる必然性は全くない。思うように成せばいい、ということになるわさね。
ま、誰か一回、偏見抜きで、私の議論を下敷きに、TRPGの構成要素の分析を進めてくれると嬉しいんだけどね。きっちり分析できれば、センスの問題という論理放棄に陥ることもないかもしれないし。交渉ゲームとしてのTRPGという方向でもっと議論を精密化できるかもしれない。私は、そこまで議論する気力は、いまのところ、ないな(苦笑)。
「道の道は常に道ならずというか、なんというか…」
それは、悟りであり、道であるから、各自体得していくしかないのじゃよ。私を含めてみんな、きっと。
「あんまり、やりすぎないように」
「じゃあ、TRPGがゲームである必要がないとすれば、TRPGってのは、いったいなんなのさ?」
TRPGってのは、TRPGだよ。それ以上でも、それ以下でもない。それをひとつの枠に押し込めようとするから変な話になるんだろう。敢えて定義するならば、「TRPGとは、GM(ゲームマスター)とPL(プレイヤー)という二人以上の参加者によって構成され、GM主催の元、参加者全員によって逐一採択される統一的な不文律によって運営される遊戯である」ということになるんだろうけども。
つーわけで、昔、“TRPG=ストーリーゲーム”という論法で押し進めていた議論はあっさりと撤回する。
「マテ」
間違いは間違いなので。
ただまあ、個人的には、“TRPG=ストーリーゲーム”であって欲しいとは思っているけどね。そういう遊び方が、自分には一番しっくりくるから。
自分にとっては、TRPGってのは表現手段、すなわちメディアの一種なんだ。
こういう書き方をすると、必ず、
「なら、小説書けよ」
というツッコミがあるだろうけども、それは、間違い。私はあくまで、TRPGという表現手段で表現したいんだ。小説という表現手段では表現できないことを表現したい、だから、TRPGという表現手段を選んでいる。そうだな、演劇屋が小説ではなく演劇という表現手段を選択するのに似ているんだろうな。小説はひとりで書けるけど、演劇は複数人によってはじめて成し遂げられることを原則とする。小説は言語著作だけを選択する単一の芸術だけど、演劇が選択できる表現手段は発声・音楽・動画など多岐に渡る複合芸術だ。そして、TRPGは演劇とも微妙に異なる。結局、TRPGで表現されることは、TRPGでしか表現できない。私がTRPGという表現手段仁拘るのは、そこなんだよ。
「そう言えば、昔、昔、二年ぐらい前に、チャットでTRPGと演劇との類似点について議論していたね」
じゃ、ついでに紹介するか。さすがに二年前となると、用語の使い方(テキストとテクストとを峻別していなかったり)とかあやふやであやしいんだけども、敢えて原文のまま掲載する。私としては、ゲームの観点からの研究だけで、表現からの研究が一行に進んでいなかったのが不満だったりしたんだよね、当時は。最近は、FEARが頑張っていて、そこら辺の研究も急速に進んでいるようだけど…
「だけど?」
GMが強力な監督権限を持って単一的にセッションを運営するという方法論ばかり紹介するのはどうにかして欲しい。
例えば演劇や映画の世界であれば、そういう演劇の仕方はひとつの方法論にしか過ぎない。
演劇や映画を知らない人には意外かもしれないけども、台本の解釈について監督のみが権限を持ち、監督が強力なリーダーシップを持って役者全員に台本解釈の意思統一を図るという方法は(TRPGで言えば実に最近のFEARっぽい方法だと思うのだが)、ひとつの方法に過ぎない。他にも、役者の自由な解釈を認め、稽古やディスカッションの過程で摺り合わせを行うという方法論も存在する。これが極端な例になれば、講演一週間前まで台本がろくに出来ず、役者の即興劇からイマジネーションを刺激し、事実上劇団全員で台本を作るという方法に行き着くことになる。ここら辺は、私の友人が役者を勤めたこともある『努力しないで出世する方法』という演劇に詳しいのだが…さすがにマイナーすぎるか?
まあ、『努力しないで出世する方法』はさすがに極論として、監督や役者がディスカッションを通じて意思統一を図る(さらには、舞台設定そのものの変更すら促す)という方法論に、私はTRPGとのシンパシーを感じ、親近感を覚えるのだ…って、だからこそ、N◎VAのような世界設定が希薄なシステムが好ましく思えるのね。
ちなみに、ややこしい上に、自分もすぐ誤解するので、備忘録としてここに記述。
私の考え方で重要な物のひとつに、テクスト論という考え方がある。
気を付けなければならないのは、「テクスト=テキスト」ではない、ということだ。
テキストとは、従来から使われてきたもので、印刷などによって固定化された文章などを意味する。必ず正しい答えが一つ用意されているというイメージだ。その文章が“テキストである場合”、解釈の変更はいっさい許されない。多くの人間は、このような文章の描き方読み方になれ、単一の解釈を書き、捜そうとするだろう。良くもめる、N◎VAのルール論争なんてのは、まさにこれだ。「N◎VAのルールは多義的に読めてしまうから駄目だ」という論調も、このテキストの発想そのものだろう。
テクストとは、確かにテキストと同じく固定化された文章などだが、そこでは正しい答えが一つ用意されているわけではない。確かに文章という同じ材料が用意されても異なる解釈が発声することを認めるのが、テクストだ。テクストとは常に生成し続けるものであり、異なる解釈を拒否したテクストはそのときテクストとしての死を迎え、テキストになる。
ここではテキストを、死を迎えたテクスト、文章として薫らない淡泊で魅力がない文章であるとして、批判の対象とすることになる。まあ、ぶっちゃけた話、唯一絶対の答えを覚えるだけの受験国語よりも、あーでもないこーでもないとうだうだ考えながら読み進める方が、余程面白いし余程健全だ、という話だ。
なお、ここでテキストまたはテクストというと、文章だけをイメージすると思うが、ここではそういう限定された意味では用いられず、もっと広く、表現すべてを意味する。漫画も映画も講談も、すべて、何らかの形で固定化された時点でテキストとなる(固定化されていない会話などは、発話と呼び、分けて考えるべきだろう…ん、そうなると、TRPGはシナリオというテキストまたはテクストだけではなく、参加者間の交渉という発話によって構成されている以上、テクスト論だけでは分析できないことになるのか)。
んで、ここでは、テキストを“固定化された文章など”ととらえ、テクストを“テキストに対する恣意的な解釈”と誤解しないよう気を付けねばならない。というか、正直に告白すれば、誤解していました(涙)。違うのです。テキストもテクストも、“固定化された文章など”なのですな。
ということで、昔GameDeepに投稿した記事を引っ張り出してくることにした。
「『交渉ゲームの勧め』改め、“TRPG=交渉ゲーム”論・試論」
まあ、とっくの昔に、こういう議論がなされているようだから、なにを今更、って気もしなくはないけどね。
んでまあ、結論から言っちゃえば、私は、「ダイスのランダム性や、選択による各種修正など」といった要素にゲーム性は感じないのよね。これが、カードゲームとかになれば少しは話が別になるのかもしれないけども。もし仮に、TRPGにゲーム性があるとすれば、その本質は「TRPGが多人数交渉である」というところに求めざるを得ないだろうし、だとすればTRPGは間違いなくゲームだと思う。まあぶっちゃけ、「ダイスのランダム性や、選択による各種修正など」ってのが、火塚が個人的に大して面白いと思わないだけなのかもしれないんだけどね(苦笑)。
「んでまあ、読者のみなさんに結構本気で質問」
火塚の言うことは間違っている! TRPGのゲーム性ってのは、そうじゃないんだ! って人は、具体的にTRPGのどこにゲーム性を感じるのか、教えて欲しいのです。別に論破するからとかそういう話ではなく、純粋な興味として聞きたいです。
「TRPGはゲームなんだから…」
まあ、割りと良く聞く台詞ではある。
例えば、ダイス目の悪さは我慢すべきだとか、ゲームに物語性は不要とか、そういう論法に良く使われる物言いである。
ここでふと、私が疑問に思ってしまうのは、
「TRPGはゲームである」
ということを、所与のこととして取り扱うことが正しいのか? ということなのだ。
「だって、TRPGはテーブルトークロールプレイングゲームじゃないか」
と言うが、ゲームと呼ばれるからそれがゲームとしての特性を備えているとするのは、議論としても、考え方としても、乱暴だと思う。そもそも、そういう物言いであれば、ノベルゲームなど、およそゲームとは思えないTVゲームが、ゲームと呼ばれている現象を、どのように理解するのだろうか?
もちろん、世の中には原理主義者がいて、ノベルゲームはTVゲームとしては邪道である、もっとゲーム性を備える必要がある、と言う人もいるだろうが、それは極論であろう。「ゲームでなければならない」ということを所与のこととしすぎて、TVゲームが備えた他の特性、可能性を看過するという罠に陥っているように思えるのだ。
考えてみると、TVゲームにおけるゲーム性とは、TVゲームの特質の一部に過ぎない。例えば、最近のヴィジュアル重視のゲームをプレイすれば分かるとおり、画像と音楽とテキストと音声の相乗効果という、総合芸術としてのTVゲームの可能性に気がつかされると思う。『鬼武者』『FFシリーズ』とか、色々あるだろう。“その善し悪しはともかくも、”総合芸術としてのTVゲームの可能性は、充分、評価対象になり得るはずだ。あるいは、コントローラーを介したインタラクティブ性なども、評価対象として考えられるだろう(『メタルギア・ソリッド』で、敵ボスに、「念動力を証明してやるから、コントローラーを地面に置け」と言われ、アナログコントローラーを置いてみたら、敵ボスが念じるたびにコントローラーが振動するという演出があって、いたく感動したことがあった)。
初期からTVゲームに関わってきた人間であるほどなじみにくいことかもしれないが、その本質がゲーム性ではなく、総合芸術であることなどが本質であるTVゲームも存在するのだ。TRPGも同じく、初期からTRPGに関わってきた人間ほどなじみにくいだろうが、ゲーム性よりも、語りという表現技法を介した遊戯であると理解することも不可能ではない。
もちろん、反論も考えられる。
「しかし、多くの市販システムを見ろ。多くの市販システムは、ダイスのランダム性や、選択による各種修正など、ゲーム性を備えている場合が多い。このようなシステムを遊ぶ場合、その本質はゲームである」
しかし、以下の点で、再反論が考えられる。
では、ゲーム性を排除したTRPGシステムが開発された場合、どのように考えるのか? もちろん、それをもはや「TRPGではない」と言うことは可能だが、それはやはり、「ノベルゲームはTVゲームではない」という暴論と同義であろう。
また、GM経験者であれば分かることだと思うが、TRPGはおよそシステムだけでは運用できる物ではない。シナリオがあってはじめて運用できる物であり、シナリオはTRPGに不可欠の要素だ(ここでシナリオとは、ストーリーラインまで決めている必要はない。GMによっては舞台の決定や大体どのようなことをやらせるかという方向性の決定だけの場合もあるだろうし、そもそもテキスト化していない場合もあるだろう。しかし、それらはすべてシナリオと呼ぶべきだ)。となれば、TRPGを論じる上でシナリオの要素を抜きに、システムだけで判断を下すのはおかしいという話になるだろう。
そもそも、「ダイスのランダム性や、選択による各種修正など」は、ゲーム性の本質なのか? それがゲームの本質とするならば、「ダイスのランダム性や、選択による各種修正など」が最も頻出する戦闘シーンを毎シナリオごとに挿入する必要がある。しかし、戦闘シーンをTRPGの本質とするのはためらいを覚える。それは、戦闘を回避することに美学を感じるプレイングの否定であり、戦闘シナリオの推奨に他ならないからだ。なによりも、戦闘シーンをTRPGの本質とした場合、戦闘シーン以外のシーンは、すべてTRPGにおいてはおまけであるという結論にたどり着かざるを得ないが(←もちろん、極論だ)、その結論に強力に異を唱える人は多いことだろう。
そこでそもそも、“TRPGにおける”ゲーム性とは何か、という話になっていくことになる。
「まあ、火塚的には、TRPGのゲーム性など、どうでもいいのだが」
「で?」
んー。わりと、ふつー。というか、主人公以外、聞き分けよすぎるので、問題が予想以上にこじれないあたりが何とも。私はもっとヘビーな奴が読みたいのだが。
水色時代も結構なのだが、なにが一番イタイって、この漫画を描いた作者の思想それ自体かもしれんなぁと思ったのは、ここだけの秘密だ(苦笑)。後書きとか、書き込みとか読んでいると、「ああ、純正培養なんだなぁ」というのが、そこはかとなく納得できる訳なのだな、これがまた(苦笑)。なにがどう純粋培養なのかは、秘密だ。
「そりゃ、あるだろう」
Na3氏が、マスターをやりたがっているので、つき合うことにする。
「いまひとつ、乗り気じゃないね?」
なんかなぁ、設定がねぇ、趣味じゃない。
「身も蓋もないね」
ぶっちゃけて言えば、オタクくさくて、微妙に痛いんだよね(苦笑)。
「特に、スクール水着の夢使いとか」
あれは、なぁ(遠い目)。最近の『天羅・零』や、SSSの演出重視の一本道シナリオや(まあ、演出重視の一本道シナリオは、私も良く作るけどね…)、今度発売される『アルシャード』などは、どうにも、趣味じゃないのよね。FEARのシステムそれ自体はそこそこ評価しているだけに、なんだかなぁと思うよ。
「まあ、火塚は、ブレカナで湖の貴婦人とか妖精の女王とか暁の魔女とか出してハァハァ言っているような奴だからね」
だまれ。
「んで、セッションはどうだったの?」
んー、田中天氏にあやかって、聖職者でハァハァすることにした(ぉぃ)。
「渾名は“疾風(はやて)のバッタ”だったけどね」
感じとしては、重戦士。30ぐらいの防御力で攻撃を弾き、40ぐらいのダメージを易々と叩き出す。
Na3氏の設定によると、世界には魔王認定委員会というものがあり、火山とか、地震とか、飛来する隕石とか、黒死病とか、蝗の大群とか、そういうもろもろの人の手に負えないを、魔王とレッテルを貼ることで、人類の脅威から排除してきた。我々はそのエージェントとして、魔王認定された魔王を退治することになる、らしい。
「んで、今週のびっくりどっきり魔王は?」
倫敦の霧。
これは、倫敦に行ったことがあるNa3氏の体験らしいが、倫敦では霧がでると、街に人気がなくなるらしい。これはきっと、倫敦の霧がフォートレスで、魔術師ではない一般人は霧のなかを出歩くことが出来ないからにちがない、のだそうだ。
以下、セッションのハイライトの箇条書き。
「我らが唯一なる主のために!」←部屋に入って第一声がこれってのは、どうよ?
「君を呼んだのは、他でもない、あの、倫敦の霧が、日本に上陸しようとしている」
「あの、倫敦の霧ですか!?」←上司に“あの”とまで言ってしまっている以上、「倫敦の霧とは何か?」というお間抜けな質問ができなくなっている
「…で、その、倫敦の霧ってのは、どこから日本に上陸するんですか?」
「(肩に手を置きつつ)いいかい、君は、勇者だ。勇者あるところに魔王あり、魔王あるところに勇者あり、勇者と魔王は表裏一体の関係なんだ。魔王は必ず、君のところにくる」←どこから倫敦の霧が上陸するかをすっかり聞き忘れたPL
アホっぽいプレイって、おもしろーい。
「シネマティックを目指すって、明言しているしね」
そう、問題なのは、そこなんだ。N◎VAシステムは、良くも悪くも映画的なので、良くも悪くも、映画しか作れない。N◎VAは確かに、派手なアクションを描けるし、日常のたわいのない情景を描くこともできる。だけど、どうがんばろうとも、N◎VAは、映画しか描けないんだ。N◎VAが描くアクションも、日常も、すべて、アクション映画であり、日常の映画なんだ。N◎VAはすべて、オープニングで導入され、リサーチが展開し、クライマックスからエンディング、そしてスタッフロールが流れて終わりを迎える。フェイズはかならずシーンで区切られ、有意味的にのみ語られる。キャストは映画の登場人物として振る舞うことを要求される。その、最たるものが、神業であり、登場判定だ。
「N◎VAは、映画的ではないものを作ることができない、と?」
そう。
じゃあ、映画的でないものってなによ、と聞かれると口を紡ぐ以外にないのだけども…。
まあ、少なくとも、N◎VAじゃあ、D&Dのようなダンジョンアタックの体験をすることはできないし、旧天羅万象のような肌にまとわりつくような焦燥感を味わうことはできない。あるいは、いわゆるキャラクタープレイと呼ばれるキャラに成りきって遊ぶと言うこともできない。N◎VAでは、常に、キャストが、アクトの中の一役割であり、PLの操る駒であることを常に強く意識されると同時に、PLは役者としてそのキャラになり着るというか生き様を体感することを強要していると思うんだ。
もちろん、上記の遊び方ができない訳じゃないし、実際、そのように遊んでいる人もいると思うけども、多分、何かしらの違和感は残ることになるんじゃないかと思うのだ。どうにも感覚的でうまく説明できていないんだけども…。
「歯切れ悪いなぁ」
既に話したことだと思うんだけども、身内だと、N◎VAってすごく評判が悪い。FEARのシーン制のシステム全般評判が悪いんだけども、その中でもダントツ、評判が悪いんだ。
で、そういう人のプレイングを見ていると思うのは、ぶっちゃけ、悪口になるんだけども、映画作りができていないのよね。つーか、下手。例えば、キャラも、どうにも極端なキャラしか作れず、シリアスなシナリオ展開に対する耐性もない。話してみると、やっぱり、キャラに成りきることは当然、キャラを演じるということにも強い抵抗を覚えているみたいなんだ。あるいは、GMをやらせても、シーンの作り方がものすごく下手だったり(情報を伝えるためにシーンが存在するという観念を理解していないっぽかったりする)。もちろん、抱えている理由は人それぞれで、これはその一例なんだけども。D&D3rdで、カッコつけに命を懸けるウィザードをロールプレイされた時なんて、どう会話をして良いか正直分からなかったし(現在進行形で困っている)。格好いいマジックミサイルの撃ち方を研究している嘆美キャラ、という設定なんだけども、それだけでキャラの味付けをしようとするから、正直、見るに耐えられないときがあったりするのよ。正直、そんな変態野郎に話しかけたくないし、冒険を一緒にするのはもっとイヤダ(涙)。
つーか、昔よくいたよね、TRPGマガジンとかに、「僕のキャラ」とか投稿してくるイタイPL。吟遊詩人で魅力度が18あって、「ふっ」とか言いながら楽器奏でます、みたいな奴。そういうクールキャラってのは、突っかかってくる熱血キャラがいないとただの嫌な奴になることを分かっていない奴。つーか、TPOわきまえていない変態さんだろう、そういうキャラって。
「あ、本音が出た」
まあ、このことは、この間そのPLに言っておいたし。弁護しておくと、じゃあ、その人が全くTRPGが下手なのかと言えばそういうわけではなく、向き不向きなだよね。それ以外の点であれば、結構うまいと思う点はあるので。
んで、ワリと一番問題なのは、どんなシステムであろうが自分の流儀でごり押ししようとするところなのよね。映画を作ろうとしているところに、ガチンコの勝負を持ち込めばそりゃ、ぶちこわしになるわな。ドキュメンタリーがおもしろい、ガチンコがおもしろいことは認めるけども、だからといって、映画作りを否定して良い訳じゃないわけで。
まあ、(推測だが)彼らの主張、「俺たちは映画を作りたくてTRPGを遊んでいる訳じゃない」という主張は、よくわかるんだけどもね。
「だからと言って、映画を作りたくてTRPGを遊んでいる人たちを否定する理由にはならない」
うむ。そこら辺で、身内でコミュニケーションエラーをしょっちゅう起こしているっぽいのよね、私。なので実を言うと、身内で遊ぶよりもコンベンションで遊ぶ方が気が楽だったりするのだな、これが(苦笑)。
例えば、「SSSのシナリオが一本道であるのは良くない」という批判をよく聞くけども、今日の話の文脈で読み解くと、そもそも、そういう批判それ自体不適切だ、ということになると思うのよね。
「まあ、火塚的には、“映画的=一本道”ってのは、発想として安直にすぎるので大嫌いなのだが、な」
火塚「ブレイド2見たよ」
Na3「ほう? で?」
火塚「なんつーか、メリケンのマチョニズムの本質を垣間見た映画だったな」
結局、メリケン人は最後は、筋肉質の漢ふたりで裸で殴り合うのが好きなんだなぁ、と思ったわけだ。どおりで、メリケン人、北欧神話とか大好きなわけだ。
…というところから派生した話。
Na3「日本で、北欧神話書かせて一番似合う漫画家というと、原哲夫かなぁ」
火塚「ってーことは、オージンとかが、『見抜けなんだ! このオージンの目を持ってしても!』とか叫ぶわけだ」
Na3「主人公は、当然トールね」
火塚「そういや、トールって、花嫁に女装したことがあったな。『こんな女がいるかー!』って巨人につっこまれて、『自信があったんだけどなぁ』とか、言うわけだ(笑)」
Na3「んで、ライバルの巨人を倒して、『お前もまた友だった!』とか言ってトールが号泣するの」
火塚「あと、トールと言えば、兄妹の従者がいたな」
Na3「バットとリンに決定だな」
すげえ、はまりました。原哲夫先生、是非、書いてください。
火塚「そうだ、そうだ、そういや、社会思想社が潰れたって話、聞いた?」
Na3「え、社会思想社って、現代教養文庫出しているところ? 修道士カドフェルシリーズとか」
火塚「うん」
Na3「………大変だ!」
火塚「む、じゃ、いまから、現代教養文庫保護に、本屋にでも出かけるか?」
出かけてきました(笑)。
ふたりで三万円弱ほど文庫を購入(←莫迦)。なんか、現代教養文庫の棚が一段消滅しているし(汗)。「これは、断固たるテロ行為である!」とかなんとか。
tatuya そう言えば、宿業とか因縁とかボーナスコネとかプレアクトといったFEARのルール群は、Na3氏的にはどうなの?
Na3 宿業とか因縁は重要です。ボーナスコネというのはよく知らんけど…プレアクトは重要だよ。
tatuya ふむ。。。肯定的なのね。。。
Na3 セッションを運用する場合において介入は重要です。
Na3 逆にいえば、介入がなければマスターは必要ありません。
tatuya ああ、カウンセラーによる介入として処理するわけだ、そこら辺のルール群は
Na3 実際のところ私のセッション運用はカウンセリング等の理屈が既に染み付いてしまっています。善し悪しは別にして…
tatuya そーいや最近、シナリオ製作段階で色々取り組んでいるけど、セッションマスタリングでの実験はしていないなぁ
Na3 マスタリングは色々できて面白いです。失敗も多いけど
Na3 マスターがどう介入するかは方法論や状況によりますが、カウンセリング的に考えるなら、まずいる事それ自体が介入です。
tatuya すべて交渉なのよーと言ってみるテスト
Na3 マスターが物語を持っているようにプレイヤーも当然物語を持っています。そこで、単純にプレイヤーに納得できる物語を作るなら、一番簡単な方法はプレイヤーに物語を作ってもらう事です。
tatuya うむ。
Na3 マスターはそれを引き出すための介入をすればよいのです。
tatuya でも、それだとGM的にしょんぼりなこともある
tatuya そーか、他の参加者をとにかく誉めるというのも、スキルのひとつたりえるのかぁ>カウンセリング繋がりで連想
Na3 そうだよ。いい介入だと思います>誉める
tatuya FEARのコラムを書いている人がそういう話しを書いていてね>とにかく誉める
tatuya http://www6.airnet.ne.jp/yanio/trpg/letter.html
Na3 誉める事ひとつで人はかなり動きやすくなりますから。
Na3 昨日久しぶりに講習会受けて、頭が臨床屋にもどりました。そして、思った事は、ああひょっとして「お地蔵さん」を減らすスキルって結構簡単にあるんじゃなかろうか…と
tatuya 結局、カウンセリングのスキルだって、気づかれたら終わりなんでしょう?
Na3 いや、意識させる、させないの問題もある。あと、気づかれるぐらいに知ってたらそもカウンセリングなんぞ必要なくなるという側面も(笑)
tatuya カウンセリングなら、ね(苦笑)
tatuya TRPGには、常に必要っぽいので
Na3 マスタリングもそうだと思うけどね…
Na3 最終的にはプレイヤーもその気になるかどうかというものもある。
Na3 TRPGでもプレイヤーがスキルに気づくレベルならスキルをスキルとして使う必要がなくなるのではないかと思うけど。
Na3 それが、あたりまえな事になってくれるのが一番いいんじゃないかとも思います。
tatuya んー。まぁ、Na3氏のシナリオ記述だと、そうか>スキルでなくなる
tatuya 世の中には、一本道シナリオとかあるので
Na3 一本道もそうだよ。
tatuya 道からはずれたがる人は、どうする?
Na3 道を良くする
tatuya 良くするとは?
Na3 再構成。という意味もあるし、乗りやすい道を作るというのもある。シナリオはすべからく物語であるわけですから
tatuya 難儀な道だな(苦笑)>再構成という言葉がさらりと出てくるあたり
Na3 まず、人に受け入れやすい物語を作るというのは、一本道を用意する時のマスターの義務だと思います。
tatuya (ぎく)
Na3 その上で、プレイヤーのオリジナリティーを尊重する…と
Na3 問題を表面的な部分で処理してしまえば道は一本でも行けるのでは?
tatuya あとはそこら辺のさじ加減やーね
Na3 要は結果が変わらなければよいのでしょう? 一番簡単なのは物語と結果を切り離してしうというのは?
Na3 一本道は難しいぞ。シナリオ段階で例外をコントロールする仕組みが必要になる。
tatuya うむ、最近の研究課題のひとつだ>例外をコントロールする
Na3 結果とシナリオをすっぱり切り離しちゃうのはだめなの?
Na3 「竜殺し」とか>結論と切り離した一本道
tatuya 一本道か、あれ(苦笑)
Na3 一本道です。あるいみで。どう歩いても、最終的に龍と戦う事になるでしょ? あれで、見とめられない例外は「龍と戦わない」だけで、その選択肢はシステム的に排除されているのでありえませんし。
Na3 ほぼ同じ構造がドラゴンアームズにも当てはまります>竜殺し
Na3 むう。一本道の新しい形だと思ったのだが…
tatuya いや、分かるんだけどね、言いたいことは
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