ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、こちらにお願い申し上げます。
私は別に、TVゲームにゲーム性が絶対に必要とは考えていない。
むしろ、例えば、ノベルゲームにゲーム性を問うことの方がおかしい話だ。ノベルゲームは、あくまで、ゲーム機によって再現可能な、絵と音楽とテキストという媒介及び、PLがコントローラーを使用するという特性を利用してPLに選択肢を選ばせるという、二つの自称を通じて開発された表現形態だ。そこに、彼らがいういわゆるゲーム性、例えば、選択肢の結果エンディングが変わるといったような―私にいわせれば薄っぺらくちゃんちゃら可笑しいゲーム性―を求める方が可笑しい。いや、それをゲーム性であると信じれる人間がいるとすれば、そいつはおめでたい人間だと思う。そんな物は、ただの総当たりであって、ゲームでもなんでもないからだ。そこには、ゲームの最大の特徴である創意工夫というものが消し飛んでいる。そんなものをゲームと呼ぶのであれば、それはゲームという表現に対する侮辱であろう。
閑話休題。
話が脱線しすぎた。
まあ、それはともかくも、現在のTVゲームという者が、どういう形でPL(受け手)に表現をなす表現形態であるか、この論考を通じてよく考えてもらいたい。
でまあ、いままでが前振りだ。
そう、『フォークソング』の話だ。
『フォークソング』は、ノベルゲームとしてみたときに、決定的に他のノベルゲームに比べて表現が優れている。
読んでいて、かったるくないのだ!
いや、これは、冗談でもなんでもない。真実だ。
『フォークソング』の優れている点、それは、デザインが優れているということだ。
もちろん、ゲームデザインは秀逸だ。三人称の視点で語られるテキスト、そこかしこで出てくる選択肢も完全に三人称視点で、そこには徹底的に、物語を操作する楽しみに満ちている。イラストも良ければ音楽も良い。
しかし、ここで取り上げねばならないことは、そんなことではないのだ。
経験はないだろうか? ノベルゲームをやっていて、テキストをクリックすることがかったるくなったことを? あるいは、こっちの方が経験として多いだろうが、HPの論考を読むのに疲れてプリントアウトして読んでみたらプリントアウトして読んだ方が圧倒的に読みやすかったという経験が?(←というか、私はクロフォード論考をプリントアウトして今回の話を思いついた)
ここで、我々はノベルゲームの重大な問題点に気がつかねばならない。
ノベルゲームは、そもそも読みにくいのだ。
もちろん、ノベルゲームにヘタレなシナリオが多いのは事実だ(ノベルゲームだったら楽できるしと考えて安易に流れるデザイナーのなんと多いことか!)。しかし、それ以上に、そもそもノベルゲームは読みにくいのだ。
すなわち、ノベルゲームの版面のデザイン(更にいえば、ディスプレイというアウトプットを利用したwebサイトやゲーム)は、まだまだ未熟である、ということなのだ。
これは、出版業界に入ってから分かったことだが、本や雑誌の(ページを開いた)版面には、高度な技術が採用されている。例えば、現在我々が普通に目にしている明朝体(ワープロソフトで標準に使われる書体だ)には、歴史的に発達を遂げ、幾つもバリエーションがある。版面をレイアウトするときは、写真や図の位置に気を遣い、文字も、それぞれに相応しい書体を採用する。タイトルと著者名と本文と注釈とが書体が異なっているのも、その方が見やすいからなのだ。また、読みやすい本は、行間や字間、文字の大きさも良く計算されている。文字は、大きすぎても小さすぎてもいけない。特に、横文字で二段組にする場合、注意が必要だ。フォントが中途半端に大きく、二十字ぐらいで次の行に移るとすれば、そのテキストは明らかに読みにくくなる。なぜなら、読み手がそれを行として認識する前に次の行に移行することとなり、隣の段の行とごっちゃに認識してしまうからだ。
このように、版面ひとつとっても、繊細なデザインが要求されるのだ。
ところが、ノベルゲームでは、未だに、書体やフォントの大きさ、行間の取り方、一行に入る文字数については、無配慮も甚だしい。これが、ノベルゲームが読みにくい原因の一つとなっているのだ。さらに、ノベルゲームの場合、文字が背景に溶ける危険性も考えられる(特に、実写取り込みの場合、荒い背景のために文字が読みにくくなる危険性がある)。
『フォークソング』はその点、書体やフォントの大きさ、行間、一画面に入るテキストの量をよく考えてデザインしている。更に、水彩画を思わせる柔らかな背景も、テキストの読み易さに一役かっているだろう。
特に、ノベルゲームのデザインで大きな問題となるのが、一画面に入る文字数だ。
ADVゲーム形式を無批判に取り入れたノベルゲームの場合、多くはここで失敗する。
良く、キャラの下に、三行から五行ほどテキストが入る形式を見かけるが、あれは、『ONE』のように、テキストをクリックするということそれ自体を、表現に組み込むという意識がなければ、表現として極めて冗長になる危険性を孕んでいる。多くのPLに経験があるだろう。テキストをクリックするという作業それ自体が、なんとかったるい作業であるかということが!
これが、ノベルゲームの問題点なのだ。
これはすでに、White氏も指摘していることなのだが、「本や漫画で読者が頁をめくる行為」と「ノベルゲームでテキストをクリックする行為」とが同じ行為であると仮定したときに、その版面から伝達される情報量を比較すると、ノベルゲームは一画面での情報量が圧倒的に少ないのだ。
もちろん、ノベルゲームは、絵と音声と音楽と効果音とテキストとで構成される複雑な総合芸術ではある。そういう意味では、ノベルゲームは情報の引き出しは、他のメディアと比べても圧倒的に多い。
しかし、それが、受け手が能動的にシーンを区切る(頁をめくる、テキストをクリックするなど)という単位で分割し、本や漫画とノベルゲームとで比較したとき、ひとつの版面において伝達される情報量は、明らかにノベルゲームの方が劣るのだ。本や漫画であれば、パッと版面を見た瞬間に、多くの文字や漫画のコマが自然と目に飛び込み、そこで総合的に大量の情報が一瞬にして伝達されるのに対し、それと同じ量の情報をノベルゲームで伝達しようとした場合、数回から数十回のテキストクリックが要求されるのだ。はっきり言って、これはかったるくて仕方がない。ノベルゲームは、本や漫画と比べて、受け手に要求される労力が明らかに過剰なのである。
ではどうするか?
『ONE』のように、テキストをクリックするという作業それ自体を表現の中に取り組むという手法が考えられるだろう。このような配慮をすれば、ある程度のテキストクリックをもって版面が変化したと受け手は認識することになる。
それに対して、『フォークソング』がとった手法は、(これはまだ推測の域を出ないが、おそらく)全体的な情報量を減らし、テキストクリックの回数それ自体を減らすという方法だったのだろう。テキストクリックの回数を減らすという手法は、例えば『やるドラ』にも見られ、この場合、アニメーションを組み合わせることで、情報量を維持しつつもテキストクリックの回数自体を減らしている。
ま、ノベルゲームひとつ作るにしても、これぐらいは考えられるってことです。
「まあ、落ち着けや」
すげえよ、俺天才、俺凄い!
「………大丈夫か?」
大丈夫だって! 俺天才だ! 凄いシナリオを思いついたんだよ!
テーマタロットカゼ「air」というシナリオなんだけど、このプロットは凄い! シンプルにして、それでいて奇抜で、シナリオ構造としても模範的なんだ! 俺天才! 俺凄い!
「………」
などと、仕事帰りの疲れた頭で絶叫していた。
まあ、それはともかく、多分、凄いシナリオになるはず。というか、これはあたる! という直感がある。ここまで、シナリオのプロット段階で興奮できたシナリオは久しぶりだ(テーマタロットチャクラ「フレンズ」も、かなり凄いものになるという自負があるけども)。
好、ご期待ください。
などとぼやきながら、次に『フォークソング』に手を出す。
…
……
………
…すげえ! なんだ、この完璧な表現は!?
ノベルゲームの完成体を見せつけられた気分だ。
あーあー、興奮して、何を伝えれば良いんだか分からない(涙)。
私かー!?
久しぶりにC.F.氏の日記を読む。
………たしかに、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし、重要なことはただ一つ。物語はそこにあるということだ。
作者が何を考えたか、読者が何を考えたかなんて問題ではない。物語は、ただ、そこにあるのだ(謎)。
まあ、ちょっと、電波チックにものを書くと、物語とは、物語を受け手に想起させることにこそ価値がある。物語にとって、送り手の思想信条は重要ではなく、ここの受け手の思想信条すらも問題にしない。物語とは、ただ、想起し、想起されるだけの存在に過ぎないのだ。肝心なことは、物語を物語り続けるということだ。物語ること、それ自体を目的としなければならない。
…とか書くと、多くの人には分かってもらえないんだろうなあ(苦笑)。
他にプロットを組んでいるのは、チャクラ「フレンズ」、マヤカシ「月が、狂う」、トーキー「ボディ・トーク!」。ここら辺は、一通りプロットを組んだあと、一二週間寝かして、プロットが好い感じに醗酵(笑)するのを待つ。
とりあえず、全タロット22(+4)を目指してぼちぼち活動を再開してみる。
出来るだけ多彩なシナリオが作れるといいなぁ…似たようなシナリオ構造ばかりだと、いい加減、発想が硬直化するしね。
完成しているカブトワリ「ブレイクショット」、アラシ「Sturm und Drung」とあわせて、七本。あと、十九本か。
ええといま、他に考えているのってたしか…。
カブト…6年前に解き放たれた弾丸を巡る話、完全一本道の予定(マテ)これで、6本か…13本。あと半分…大変だあ。
マネキン…酒と薬とにまみれた娼婦の話。二人のマネキン
クロマク…クロマクの影武者とされたがために命を狙われた少女を巡る話。キャストたちはクロマクたちの陰謀の渦中に投げ込まれる。熾烈な社会戦と裏切りの果てに、キャストたちは何を見るのか?
ミストレス「パラダイスカフェ」ある喫茶店の一日
ハイランダー…記憶喪失のキャストを巡る陰謀劇。イワサキ、千早、BIOS、真教浄化派などと、名だたる組織が錯綜する
ニューロ「WORLD」…を没にして、新しいシナリオを考えようかなあ(苦笑)
………というよりも、そもそも、TRPGを表現と呼ぶ人間の方が珍しいのだろう。
通常、TRPGはゲームと呼ばれ、表現とは呼ばれるものではない。
別に、TRPGが芸術であると考えているわけではない。
しかし、TRPGが表現であっても良いじゃないかと常々思う。
いやむしろ、そもそも、ゲームは(小説といった)表現に対立するものではなく、それなりの思想信条を暴露する表現の一形態であるとさえ思っている。
私にとっては、ゲームとは、なにも表現(そして物語)と対立するものではないのだ。
いや、そもそもの始まりは、私にとって表現・物語とは、作者自身の思想信条の暴露ですらないのかもしれない。それは、明確な形を持つものではなく、受け手が明確な感情を抱くものではなく、もっと漠然とした、イメージを伝えるものであり、イメージをくみ取るものであると思っているのだろう。ただ、その表現に、鮮烈な何かを感じ入れば、それで十分だ。私が、物語とは、受け手の恣意的な解釈であると考える由縁であろう。それは、(Na3氏流に言えば)力動だ。別に、物語は共有される必要はない。相互理解がなされる必要はない。ただ伝え、ただ受け取る。それは、送り手と受け手との真剣遊戯なのだ。
受け手の自由な解釈に委ねられる領域が大きいファンタジーを好む由縁だろう。
私は、GMとPLとによって構成された参加者が、相互に深く影響しあうという(これは、他のメディアではなかなか難しいことだ。どうしても、送り手と受け手とが分化してしまう)特徴を兼ね備えたTRPGというメディア・表現において、“何か”を表現したいんだと思う(それは、PL・GM、どちらの立場であるにもかかわらず)。
私のような人間からすれば、いわゆるストーリー派によくなされる批判―そんなに物語が書きたければ、小説でも書いていれば良いんだ。TRPGにはPLという参加者がいるんだから―というのは、極めてナンセンスな批判となる。
違うのだ。
私がやりたいのは、あくまで、他の参加者が存在するというTRPGにおいて、どのような表現が存在するのか、まさにそれを模索することなのだ。小説では出来ないこと、それを表現したいと思っているのだ。
また、こういうスタンスからすると、GMとPLとの違いをあまりに強調するのは考えものとなる。TRPGにおいては、初期の資源格差を除けば(←これが一番大きいのだが(苦笑))、GMとPLとは、対等な立場に立ち得る、同じ参加者だからだ。TRPGにおける物語とは、シーン管理とは、GMにのみ許された特権ではない。GMだって、一参加者に過ぎないし、一参加者としてセッションを楽しむ当然の権利を有するのだ。
あと、たとえにつっこむのは実に不適切であるが、例として「小説」を持ち出すのは極めて不適切だろう。当たり前だ。小説には、小説家以外、物語構築の参加者は存在しない(もちろん、例外は幾らでも存在する)。そこには、はじめから物語に対するネガティブな評価が存在している(批判である以上、そこにネガティブな例えが持ち出されるのは当たり前だが)。TRPGはむしろ、演劇―役者という多数の物語を構成する参加者がいて、かつ、送り手(演じ手)と受け手(観客)との距離が近くコミュニケーションを取りやすい―と比較すべきである。
まあ、何が言いたいのかと言えば、TRPGだって、ひとつの表現形態である以上、その特徴を十分に考慮して表現の方法を選択すべきであるということだ。なにも考えなく小説の表現方式を取り込んでもうまくいくはずもない。なにも考えのない自称ストーリー派と一緒くたにされるのは不愉快だなぁということ。TRPGにはTRPGに相応しい表現の組み方、物語の組み方がある。私は、常に美しく物語りたいのだ。
けっこう、面白かった。
シナリオ自体、演出を中心によく練られていたので、展開を見ているだけでなかなか面白い。それに加えて、キャストたちが生き生きと動いていた。
なるほど、テーブルの中にいると分かりにくいが、こうやって一歩引いた視点でセッションを見学してみると、色々細やかな動きが見えてくる。勉強になる。
今日、著作権の論文を校正して気が付きました。
先生、「ときめきメモリアル事件」を「とりめきメモリアル事件」と書くのはやめてください。『ときめきメモリアル』をプレイしていないことがバレバレです(注、ふつうはプレイしません)。
ついでにもう一つ。
ときめきメモリアル事件で訴えられた作品『どぎまぎイマジネーション』について、タイトルの誤りなどないかgoogle検索をかけていたのですが、そこでこんなサイトを見つけてみたりしました。
イイネ!
(テンパっていて、すでにテンションがおかしい)
まあ、こういう阿呆なタイトルで検索して学者先生のサイトがヒットするなんて、著作権法だけでしょう(笑)。
シゴトオワンナーイ(涙)
シンジャウー(血)
一時間後、私は帝国ホテルにいた。
今日は、社長の代理として、司法書士会の新年会に出かけてきた。
富士の間というでかいフロアひとつ貸し切っての、立食パーティーである。
…完全に場違い。間違いなく、自分が一番年下だろう(汗)。まともに声も掛けられそうもない(笑)。
仕方がないので一人黙々と飯を喰らう。
なんか、山崎幹事長のご挨拶とか、どっかで聞いたような名前が出ているが、タダひたすら喰らう。メニューは、刺身やステーキなどがあって、通常の立食パーティーよりは幾分豪華だ。まあ、定番お寿司・お蕎麦とかあったりもしたのだが(笑)。やはり、寿司・お蕎麦は人気が高い。人だかりが出来ていた。
ふむ(もくもく)。まあ、通常であれば五千円(本当に本当であれば三千円)ぐらいの味だな…ま、メニューだけは豪華だから、一万円。帝国ホテルという立地条件を考えれば、さらに倍の二万円というところか…? 食事は、なんというか、立食パーティーにありきたりな味だった(笑)。そんな平凡な味の中で、パティエが頑張っているのか、デザートはなかなかいけた。
しかし、まずいのは、酒。大衆飲み屋と大して変わらないようなお酒を出すのはどうかと思ったぞ(苦笑)。一番飲めたのがアサヒビールという状態は、かなり終わっていた。
寿司も、正直、回転寿司レベル。身内と行きつけの寿司屋とは遠く及ばない味であった。
いや、ネタがいまいちなのはともかく、握りがまずい。米が水分を含みすぎている上に、握りが堅く、口の中でしゃりがほどけないのだ。なんだかなあ。
再びダンジョンに潜り、リベンジを試みる。
ゴブリンどもは、新規参入のドワーフ戦士の大活躍によりあっさり全滅、なんだか我々の出番がまるでなかった(笑)。
まあ、先に戦死した二レベルレンジャーよりも強かったりしたので、当然なのだが(笑)。
とはいえ、ゴブリンプリンスをオーガアクス(!)の二刀流で瞬殺し、返す刀でゴブリン二体を屠ったその腕前は見事。
意気揚々と更に地下に潜った我らを待ち受けていたのは、オーガども!
貴様らへの対処方法は分かっている! と、シールドの呪文でアーマーを堅めたところ、なんといきなりクリティカル。PC側のモンクが一撃で昇天してしまった。ひどいよDM、本来ならば、前衛が前線を支えているうちに後衛が弓矢なりで射殺す予定だったのに(涙)。
なし崩しに総力戦に突入し、辛くも勝利する。
PLのテンションが下がったところで、またダンジョンをあとにする。
恐るべし、メリケンダンジョン。
………四時過ぎ!?
昨日、確かに遅くに寝たけど、これは幾らなんでもあんまりだ。あわてて着替えて出かける。
なんとか少々の遅刻で済ませた(ゴメンナサイ)。
このゲームは、ダベリながら和気藹々と遊ぶゲームのようだ。勝つ気満々で遊んでも面白くない。逆に言えば、槍込むようなゲームでもない。空いた時間に、ちょっと息抜き程度に、会話を促進させるような軽い目的で遊ぶようなゲームだろう。
個人的には、イラストが奇麗なので、気に入っている。もしかしたら買うかもしれない。
プレイ後、ゲーム表現について色々話をする。
ノベルゲームの中で“表現それ自体が”評価されるべきゲームは、『弟切草』『カマイタチの夜』『街』『雫』『痕』『プリズマティカリゼーション』『ダブルキャスト』ぐらいだろう。そういう意味では、『弟切草』『カマイタチの夜』『街』を作ったプログラマーの功績は極めて大きい。というよりも、ノベルゲーム自体、彼一人のためのジャンルと言っても過言ではないという話。
ガンパレは、確かに従来のゲームからすると人間関係の構築の仕方として画期的なシステムだが、所詮、アレがいまの限界だという話。これは、私が、ガンパレの人間関係は、話にのぼるほど複雑ではないし(喧嘩する奴は大抵決まっているなど)、十分にコントロールできる(あるいは、完全にコントロール不可能)という話をしてみたら出てきた話だ。まあ、TRPGをやっている人間にとっては、アレよりも複雑な状況は幾らでも目撃できるからこその感想なのかもしれない、とWhite氏に言われてみた。
おねぐらIRCチャットで出た話(下らない上に、まったく役に立たない)。
01:27 ucch_vaio 最大の問題点
01:29 ucch_vaio http://www.tinami.com/x/review/02/page4.html
01:29 ucch_vaio これは「イベント特化型シナリオ」を乱立させ(『卒業旅行』『修学旅行』『同 窓会』などイベント名が即タイトルとなったゲームを見よ)イベント とリンクさせなくては恋愛が始まらないような閉鎖性を残したとし て、むしろ否定的にみなせる。
01:30 ucch_vaio 「同窓会」のどこが「イベント特化型シナリオ」よ?
01:31 tatuya やったことないからわからないなぁ(笑)>同窓会
01:32 then-d 同窓会<イベントはただ積み上げられまする。とにかく逢え、逢え合え会え(ぉ
01:33 tatuya やったことがないから検証のしようがないけど、同級生のシステムはむしろ、鬼畜ゲーに継承されているような気がすると言ってみるテスト(思いつき)。ま、同級生も、ゲーム的には、ゲームというよりは、総当たりで最適化を目指すパズル、デスカね?
01:34 ucch_vaio そうよ。DQの早解きとかといっしょ
01:35 setta ノートとってるやつ結構いたなぁ>同級生
01:36 tatuya 私も、ネットに繋ぐ前にやったピア2、ToHeart、ホアルバは、メモを取ってプレイしていました(笑)。で、最後にプレイしたホワイトアルバムが、ランダムであることに気が付いて、やってられるか! と思った(笑)
01:36 ucch_vaio つーか、実の所「ときメモ」って“高嶺の花”である藤崎詩織を落とすという攻略ゲームであるという向きもあるっていうかそうなんじゃないの?(で、その途上で他のキャラの魅力に気がつく、と<ぉ)
01:38 ucch_vaio アレは奇跡のバランスのよさだと思う>ときメモ
01:38 ynkt_home 違う。バランスのよさを目指してデザインされたのだ。ギャルゲー作ろうなんて開発者は多分考えてなかった。
01:39 ucch_vaio (でも、そのバランスのよさに言及している文献ってほとんどないのねぇ)
01:38 tatuya ………う、いま、ホワイトアルバムとガンパレって、設計思想がもしかして同じかもしれないと一瞬思った自分がいやだ(笑)
01:38 then-d バランス<7人も出して、爆弾処理に追われた3年生(爆)。でも1流大学に合格&詩織告白(><)g なかなか綱渡り的にマゾ的に楽しかった鴨的(苦笑)
01:41 then-d 育て、といっても、自分の思う方ばかりではないのが何とも。体育祭の前だとどうしても体力系に走ってみたりとか、試験前は勉強とか、八方美人な自分の性格が出るよ<1stPlayはとくに
01:42 then-d で、八方美人な故の7人爆弾処理っすか(
01:42 setta 意味的に、そういう体育祭とかテストとかと同じだし>ときめものキャラ
01:44 then-d ときメモのキャラ<属性プロパーなキャラが多いので、確かにそうだねぇ。しかし、1stはそんなことは知らないでどんどんパラメタ上げていったダメ人間
01:46 tatuya ガンパレのファーストプレイとかもそれに近いですな
01:47 setta 「シム・男子高校生」を作って、状態特性(女の子げとー)を付加してみました>ときメモ
01:47 tatuya ………無茶苦茶つまんなさそう…>シム男子高校生
01:48 tatuya っていうか、莫迦ゲーにしか見えないのは、私の目が節穴だからか?
01:48 setta シム・レディ>プリメ
01:49 tatuya んー、ゲームバランスの秀逸さでは、プリ目の方が上、という噂ですが、どうなのでしょうか?>プリメとときメモ
01:50 ynkt_home プリメは盆栽ゲー。ときメモは、もう少しチャレンジな要素が強いと思う。
01:51 tatuya つか、ときメモは一回プレイして、あまりのヘタレさにコントローラーを投げ捨てたので(苦笑)。ま、そういう意味では、ガンパレも似たり寄ったりなのですが(苦笑)>ときメモと
01:52 then-d ヘタレとは思わなかったが。むしろ歯ごたえ感じたけど
01:52 ynkt_home なーんもわからんでやると、大体終盤はヒドい目に合うようにできてる。
01:52 tatuya ガンパレは、「それが世界の選択である」という、PLをつなぎ止める魔法の言葉があるので(笑)
01:53 setta ときメモには虹野さんのお弁当がある…つまりは、そういうことなのだ<どういうことですか
01:53 then-d 虹野さんは出してもいないんだなー(苦笑)
01:53 ynkt_home 万死
01:54 tatuya 多分、ヒロイン半分ぐらいしか出そろわなかったと思う…(苦笑)
01:54 then-d 全部出してどうする(笑)
01:55 ynkt_home いや、とりあえず調子に乗って効率良く能力を上げてしまうので出るに決まっている。
01:55 tatuya ん? ああ、なるほど、なるほど、それが、ゲームの仕組みか(苦笑)>全部出してどうする
01:55 then-d もちろん1stのときはそんなこと知らないでやってたよ。
01:55 tatuya つまりガンパレと一緒じゃないか!(爆死)
01:55 ynkt_home 一緒だよ。
01:55 setta 何を今更
01:55 tatuya ふ・・・・・・・・・(涙)
IRCチャットでWhite氏にゲームに誘われる。
『Once Upon a Time』というものだ。面白そうなので、参加してみることにする。
いや、ストレスに耐えられずに仕事中にネットサーフィンをして、色々考え事をしたりするのだがね…。TRPG、物語、ゲーム、著作権法、プロバイダー責任法………。はぁ。
「お、やりすぎ論考再開だね? 今回は、どんな電波だい?」
うむ。N◎VAとは、解釈なのだ。
「この間、N◎VAとは物語であるとかほざいていなかった?」
だまらっしゃい。解釈とは物語なのだよ。だから、N◎VAとは解釈であると言うことは、N◎VAとは物語であるということと同義なのだ。
ここら辺、話を始めたら無茶苦茶長くなるのでまた後日。物語と物語りとの違い、あるいは、記述された物語と発生する物語との違いについて話さなきゃいけないので(他にも、英雄の定義やら、「物語とは結果論であると同時に不確定な未来である」という訳が分からないテーゼについても説明しないといけない)。ま、ようやく考えがまとまってきたので、なんとか近日中にはっきりさせたいね、ここら辺は…。あ、あと、ここら辺の説明で、私がガンパレの制作者をぐーで殴りたい理由も多分明らかになると思う(笑)。
「じゃ、聞こう。N◎VAが解釈ではないとしたら、どのような不都合が生じるわけ?」
………よく考えたら、結論はもう、「物語としてのN◎VA」に書いてあるじゃん。…ま、いいか(笑)。
確かに、不都合はない。
しかし、それだけでは、N◎VAの本来の(と、敢えて言わせてもらおう)魅力を引き出すことは永遠に不可能だ。
分かりやすく、N◎VAの神業と他のシステムにおけるヒーローポイントとを比較してみよう。
さて、N◎VAの神業とヒーローポイントとは、何が違うかな? これはあるいは、昔書いた「N◎VAとはレレレである」から援用すれば、レレレのフィルムを焼くといったルール群とヒーローポイントとは何が違う? と言った方より分かりやすくなるかもしれないね。
「ああ、なるほど、PLが俳優としてPCを動かすというメタ構造の有無か…」
正解。
いや、より正確に言えば、これは、程度問題の話なんだけど(そういう意味では、ヒーローポイントがないシステムともただの程度問題になるかもしれない)、神業には配役表現という意味合いが極めて強いのに対し、ヒーローポイントにはその意味合いが弱い、ということなんだ。
神業は、PCという人間の属性ではなく、PCが担う役割に宿る属性なんだ。
いや、実はヒーローポイントも、「PCが担う役割に宿る属性」であると考えることは可能だ。特に、ヒーローポイントについて、世界設定的に説明がなされていない場合、その意味合いは強まる。逆に、トーグのポシビリティは世界設定で完全にヒーローポイントについて説明がなされている。「PCという人間の属性」の代表格と言えよう。
…考えてみれば、N◎VAの神業のように世界設定的な意味づけがまったくされていないヒーローポイントも珍しいだろう。
ただ、ここで、神業とヒーローポイントとが決定的に異なるのは、「PCが担う役割に宿る属性」についてかなり(『かなり』であって『完全に』ではない)明確に意味づけされているということなんだ。これは、N◎VAとレレレとをも分ける決定的な分水嶺となる。
つまり、カタナとはどこまでもカタナであり、クグツとはどこまでもクグツであるということになるというわけなんだ。これは、戦士がどこまでも戦士であるわけではない他のシステムとは決定的に異なる。変な言い方だけど、≪死の舞踏≫でキャラクターを殺せるのは、カタナにだけ許された特権であり、カタナ以外の何者でも成し遂げることは不可能なんだ。他のシステムには、こういう絶対性はない。剣でキャラクターを殺せるのは、戦士にだけ許された特権ではないんだ(戦士でなければ攻撃にヒーローポイントを使えないというシステムであれば、話は少し変わってくる)。
もちろん、実際の運用上では、こういう差異はそれほど意識されるわけではない。
能力値や技能の関係上、攻撃にヒーローポイントを割り振ることによるメリットを一番享受できるのは戦士だからだ。したがって、剣でキャラクターを殺すのは、事実上、“戦士にだけ許された特権”ということになる。あるいは、モラル、マナーの問題として、戦士の見せ場を奪ってはならないという形で制約が入ることになる。
ただ、問題なのは、ここでPLが「≪死の舞踏≫を使います」と言ったときに受けるインパクトと、「攻撃にヒーローポイントを使います」と言ったときに受けるインパクトとの違いなんだ。インパクトとしては、恐らく多くの人にとって前者の方が強烈なモノとなるだろう。なにせ、≪死の舞踏≫は、「絶対に」一人殺すうえに、「人を殺すことしかできない」からだ。そして、それは、≪死の舞踏≫を使うカタナにのみ許された特権だ。
いいかい、カタナとは、“殺す者”だ。それは、決して“戦士”ではない。戦士を表現するだけならば、チャクラでもカブトでもクグツでもバサラでもカゲでも可能だ。カタナは、多くの戦士の中でも、とびきり、“殺す者”、“殺すことで物語を終わらせる者”という配役を持つことになる。戦士それ自体は、決して配役ではない。戦士とは表面的な見てくれに過ぎず、その物語上で担う本質的な意味合いではないんだ。
「それで、N◎VAが解釈であるという話とどう繋がるの?」
うん、ここまでが、前提(苦笑)。
さて、ここまでの説明で漠然と感じることがあるかと思う。N◎VAの配役は、実に明確で固定的だ。一点の揺るぎもない。
…正直、これは面白くないと思う人間がいても可笑しくないと思う。
本来、TRPGは、キャラの配役とは自分で発見するものではなかったのか? ってね。
思うに、N◎VAを嫌う人の理由の一つに(すべてではない)、配役の意味があまりに強すぎるから嫌がるというのがあるのだろう。自分で配役を作れない、という感覚に囚われるんだろうね。そこをもって、N◎VAには自由度がない、ということになるんだろう。
しかし、それは私に言わせれば可笑しい話だ。
カタナとは、決して“殺す者”という意味にとどまるものではない。もちろん、結論から言えば、神業は一人殺す以外のことは出来ないが、その配役は、決して“殺す者”にとどまるものではないんだ。まあ、これはN◎VA[R]よりも2ndの神業の方が分かりやすいんだろうけど、一言殺すと言っても、「何を」「どう」殺すかによって、その意味合いはまったく異なってくる。更に言えば、(経験点は手に入らないけど)“殺すことでしか物語を終わらせない者”が殺さないという形で一つ物語を作ることも可能になる。すべて、与えられたその配役を如何に解釈するかにかかっているんだ。
N◎VAのスタイルは、確かに配役を明確にする。しかし、それがすべてでもないということを理解してもらいたいんだ。それはすべて、解釈いかんにかかっている。別に、N◎VAのスタイルも神業も、物語を限定するものではない。限定してしまうのは、それを解釈するPL自身なんだ。
「いやまあ、そこまで言ったら、すべてのシステムに共通する話になるだろうて(苦笑)…」
昔、黒緒氏は、N◎VAは物語を固定化するとか批判していたけど、固定的な配役を解釈できないPLと、配役がまったく固定されていない状況で配役を発見できないPLと、どちらに問題があるのかな? 私は、別に、どっちもどっちというような気がするんだよ。
いやまあ、N◎VAの方がめんどくさいという人の言い分も、まあ、確かに分かるんだけどね。なにせ、いったん固定化されているところから、解釈で流動的な部分を見つけなきゃいけないから。
しかしまあ、人によっては私のように、ある程度固定化されているところから流動的な部分を見つける方がやり易いという人もいるわけだし。
「そういえば、黒緒氏は、アーキタイプって奴、あんまり好きじゃなかったよね。ダブルクロスでも、シンドロームから完全にダイスで決めたがっていたし」
そこら辺が恐らく、解釈かそうでないかの分水嶺になるんだろうなぁ。
「で、火塚的には、更にもう一言言いたいことがあるんでしょう?」
うん。N◎VAのように一見、固定化されていると何がいいかって、とりあえず、表面的にその固定化されている状況でプレイすれば問題なくシステムが動くってところだね。事故がないということは、大変いいことだ(笑)。
「でも君、その状況にも不満があるんでしょう?」
ま、ね。神業の打ち所をあらかじめ用意されているシナリオってのは、どうにも好きになれない(もちろん、火塚的ロジックに立つとすれば、それすら解釈次第とも言えるので、逆にどうにでも出来るのだが)。
あと、固定化しすぎると、「PCが担う役割に宿る属性」という意味合いが逆に薄まって、「PCという人間の属性」として再認識されてしまうようだし。結果、ジャパニメーションチックなN◎VAが流行るわけだ(というか、いまのオフィシャル…いやまあ、2ndのころからそうだったのかもしれないけど…そういう意味では、私の意見は筋違いもいいところなのかもしれない)。
「まあ、いいけど、パキラ氏が言ったように、他のPLが引いてしまうようなキャストを作るのはやめようよ」
マネキン◎●、フェイト、カゲのボディガード(<■魔女のさけび>)って、そんなに駄目かなぁ(涙)。
「ということを考えたのち、五時間ほど寝て、ブロッサムにお出かけしてきたわけだ」
新年最初のセッションだ。PLするつもりで出かけていったら、なんか、みなさんシナリオがないそうで…私がRLをやりました(涙)。年末にやった「菊と刀」とSSS8の「悪魔のいる天国」だ。「悪魔のいる天国」は、前々からPLなりRLなりで是非とも遊びたいシナリオだったので、念願が叶って満足だ。
「君、凄く楽しそうだったよね?」
いやもう、楽しかったよう。警察とヤクザとチャイニーズマフィアとがキャストのいるところに乗り込んで撃ち合ったシーンとか(笑)。
個人的には、絢爛舞踏を取得したその日に、映ちゃんにクッキーをもらうというシチュエーションに、何か感慨深いものを感じた。「勝利の女神は我にあり」と、クッキーを囓り、ガンパレードマーチを口ずさみつつ、竜に戦いを挑んだよ。
今日一日、田辺の日でした。
「ほかには?」
ん? 新作シナリオ「猫神さまと貴婦人(ミストレス)」というシナリオのプロットを作っていた。テーマタロットはアヤカシね。
まあ、そうだ。
しかし、それだけじゃないぞ。家族で、目黒雅叙園の百段階段を見に行ってきた。
百段階段ってのは、映画『千と千尋の神隠し』の舞台となった油屋のモチーフになったところで、文化財に指定されている元料亭だそうだ。
九九段の階段横に、それぞれ、工夫を凝らした部屋が設けられている。
どれも、優美さと古風さと華やかさと下品さとがうまい具合にマッチしている、なかなかすばらし部屋だった。鮮やかというよりはどぎつい色彩の絵が飾られていたりするんだけど、その配置がいいのか、実に部屋全体を上品に面白可笑しく飾り立てている。ただ、優美なだけじゃない、可笑しみと親しみがある、素晴らしい芸術作品に、部屋が仕上がっていた。
ああなるほど、これを見て、宮崎監督はインスピレーションを得たんだなぁと納得した。
見学のあとは、雅叙園内の日本料亭『ほそかわ』にてお食事。
ここの部屋も、雅叙園の思想を継承していて、派手派手しさと艶やかさと優美さとそれからその他諸々が同居した、やはり楽しい部屋だった。
「で、おいくら?」
ひとり一万三千円。決して、損はさせないよ。
お願いしますね(別の方を向きつつ、なげやりに)。
「そこ…まだ、ガンパレか?」
おう、今年の正月はガンパレ尽くしだ。
このゲーム、全員でSランクを狙うのは至難の業かもしれない…。やはり、英雄とは常に孤独な存在なのか?
「孤独だからこその英雄という説もあるしね…」
ううむ、どうやら、これが同族嫌悪というものらしい。
確かに、自分の似たような物語を考えたことがあるだけに、実に憎々しい。
「………」
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