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「………(冷たい目線)」
私が悪かったです。ゴメンナサイ、勘弁してください。もう続きません。
「で、言い訳は?」
いやほら、なんというのかさあ、最近刺激とか毒とかがなんだか足りないのよね。
偶にはこっちからネタの一つでも提供しようとか何とか思ってみたり思わなかったりするわけ。
「まあ、風邪気味だったし」
そうそう。
「風邪の熱で頭の中までやられてしまったようだね」
………
ごほん。確かに、なあ。今週は会社で仕事をするのがしんどいわ。熱で浮かされていて、思考能力が著しく低下していた。薬を飲んだため、なんだか妙に眠いし。
やっぱりあれだなあ。電波系サイトとか、ネタ系サイトとか、偉大だなあと思うよ。
「寝言は寝て言え」
「お、GF誌の最新号だね?」
書いてあることはアレだ、私が日記とかで繰り返し書いていたことだ。
ただまあ、偉そうに書いているけど実はこれ、そんな凄い発想ではなくて、N◎VAを上手にプレイできる人のほとんどが理解していることだろうね。私は、それを単に言語化しただけで。
「にしては、えらく不機嫌そうな顔をしているね?」
うん。私が、ゲストに神業を使わせるのが嫌いな理由がようやく分かったんだ。
「ゲストに神業を使わせない???」
いや違うな…ゲストが神業を行使することを前提にアクトを組むのを嫌う、と言うべきか。
私は、ゲストが神業を行使することを前提にアクトを組むのが嫌いだ。
なぜならば、それは物語に必要以上に枠を設けてしまうと、“自分は認識してしまう”からだ。
「個人的な趣味ね」
まあ、そのとおりだね。
でも、ここは結構重大な問題だよ。ここら辺を把握していないと、他の人間と卓を同じくしたときに確実に摩擦が生じる。実際、それで九月二十六日はトラブったわけだし。いや、まあ、それ以前に、自分のシナリオの作り込みが足りなさすぎたというのもあるんだけどね(苦笑)。
ゲストが神業を使うというのは、実は考え物だ。
なぜなら、ゲストが神業を使えば、PLは神業で対抗する以外に方法がなくなってしまうからだ。PLの取れる対抗策は極めて限定される。
もちろん、神業のこの特性をよりポジティブに理解してシナリオをダンジョン化することも可能だろう。すなわち、ここがシナリオの限界である、あるいは、ここがシナリオの難所であるということを、神業をもって明示するという方法論だ。神業のプレゼンテーション機能に着目した発想だ。これは、なかなかスマートな方法論だと言えよう。ルールという、ある種、全員が了解できる共通認識を利用し、シナリオのプレゼンテーションを行っている。交渉ゲームとしてみたときも、優れた方法論だ。
しかし、同時に、神業には他のテーゼも存在することは忘れてはいけない。
神業は、あまりに効果として絶対的すぎるんだ。
もちろん、解釈運用によって、神業もその効果はだいぶんコントロールは可能だ。
しかし少なくとも、“神業は神業でしか対抗できない”というこのテーゼだけは常に絶対になる。なぜならば、このテーゼを無視した瞬間に、神業は神業としての価値、意味を失ってしまうからだ。参加者全ての同意があったとしても、このテーゼだけは絶対に改変してはいけないだろう。上述したように、神業とは、物語を動かす力であり、あらゆる物語を動かすプレゼンテーション(判定や演出など)の中でもとびきり強力だし、強力でなければならない。神業とは、そのキャストにとって最大の見せ場であるし、見せ場でなければならない。見せ場こそ神業であり、神業こそ見せ場である。見せ場は、他のキャストの見せ場と重ならない限り、絶対に侵害されてはいけないのだ。それが上記テーゼの正体だろう。
神業は、神業を絶対視することで神業の見せ場機能を強化している。神業は神業でしか対抗できない。では、このような条件下でゲストが神業を使用した場合、どのようになるだろうか?
「ゲストに見せ場を喰われるね」
いや、それは、実はそんなに問題ではない。
RLが、神業のプレゼンテーション機能に着目してゲストに神業を行使させている限り、ゲストが見せ場を喰ってしまうということは滅多にあり得ない。なぜならば、ゲストの神業とは、そのシナリオにおいて越えるべき障害物として機能するからだ。結局、ゲストの神業は、キャストの見せ場をより劇的にするための舞台装置でしかない。
問題なのは、神業に神業で対抗するという形でしか見せ場を作れないということだ。
≪電脳神≫で隠された情報は≪電脳神≫でしか暴けない。≪完全偽装≫された証人からは≪真実≫でしか証言を聞き出せない。≪とどめの一撃≫でクライアントが狙われれば≪難攻不落≫でガードするしかないだろう。問題なのは、“選択肢の少なさ”と、そこで神業に対抗すれば“神業という資源を消費する”ということなんだ。もとより選択肢が少ない上に資源を消費すれば、PLが取りうる選択肢はますます限られてくる。結果、PLは、その結末が承服しがたいとしても演出でお茶を濁すしかない、ということになりかねない。TRPGの一つの特性であったはずの可能性が奪われてしまうことになる(と感じる人は少なくないだろう)。
そしてなにより、神業を対抗手段として消費するのであれば、PLはもう自分がやりたい見せ場を作ることは出来なくなる。私は、自分のキャストが真実だと思うことに≪真実≫を使用したい。そして、物語をプレゼンテーションしたいし、物語を紡ぎたい。これは、いわゆるキャラプレイではない。物語のプレゼンテーション――キャストの性格の発露ではなく――キャストの物語内における役割分担の主張だ。敢えて言うのであれば、ストーリープレイだ。私が問題とするのは、ゲストが神業を(必要以上に)行使するということは、このストーリープレイを阻害することになりはしないかという危惧なんだ。PLのプレゼンテーションを阻害する危険性があるということだ。たとえ、それが推奨スタイルを前提とした神業一つだけ(したがって、神業はあと二発残っている)だとしても…ね。
「多分、普通の人は、その、ストーリープレイとやらをN◎VAに求めていないんじゃない?」
いや、まあ、それを言ったらおしまいなので(苦笑)。
もちろん、ゲストの神業行使に肯定的な人たちの反論ももっともだ。
使わなければ使わなくてよい。ただし、その不利益は甘受すべきだろう。それが、ゲームというものだろう。
………なるほど確かに。
しかし、考えてもらいたい。ゲームとはなんであろうか?
(ここで、上記のゲームの定義の不確かさに目を瞑るとしても、)上記で言うゲームとは、ただのフラグ管理ではないか?
それはさながら、CRPGにおいて「魔王を倒すのには聖剣が必要です」と言われて、聖剣を装備せずに魔王に戦いを挑むようなものではないだろうか? もちろん、ゲームオーバーというのも一つの選択肢であると考えれば、神業に神業で対抗しないこともまた一つの選択肢となるが、それはどうであろうか? 思うに、バッドエンドとゲームオーバーとは全く別物であると考える。バッドエンドとは、ハッピーエンドと等価でなければいけない。生命の喪失などに代えても守らなければいけない何かがあってはじめてそれは(ゲームオーバーではなく)バッドエンドと呼ぶに相応しい。そうなってはじめて、聖剣を装備しないという先の選択肢に価値が出てくるのではないだろうか?
ゲストに神業を行使させる場合、あるいは、RLとしてキャストに神業を行使させる場合、もう一度考えて欲しいのだ。それが、“ただの”フラグ管理になっていないか? と。
「ねえ、聞いていて思ったんだけど、N◎VAシステムってもしかして、一本道シナリオのテクニックをルール化したものなのかなあ?」
………かもしれないなあ。少なくとも、いまのN◎VAシステム運用の方法論を聞いていると、そのように運用されているよねえ。上記では“ただのフラグ管理”として非難していたけど、“フラグ管理化”とは実は、一本道シナリオを成功させる重要なテクニックの一つとして考えられるから。
「それじゃあ、上記の批判は全部的はずれになるじゃん(苦笑)」
ちなみに、GF誌は秋葉原で買ったのだが………。
そこで、最近噂のサムライなるソフトウェアを見つけた。
まあ、物自体はフリーソフトをかき集めたような内容で、ちょっと知識がある人間ならすぐに簡単に集められるようなプログラムばかりのようなので、まあ、アレだなあとか思うのです。
…が、正直、「htmlに埋め込んだファイルなど、保存不可能なソフトも保存可能!」つうのを市販で売るのはどうかと思ったりする。………あー、別に、暗号回避をしているわけではないのかな? だったら著作権法や不正競争防止法に反しているわけではないというわけか?
………む、自己完結してしまった。
「なにやっているの?」
いや、十一月三日のらんぎるセッション用シナリオを作成しているんだけど…シナリオを作っては壊しているの(苦笑)。
舞台と登場人物は大まかに決まっているんだけど………何か一つ足りないんだよなあ。
「それ、火塚の悪いパターンだよ?」
なんだよ…不安だ。
折角、魅力的なキャラを用意してもらったのにシナリオがヘタレでは申し訳立たないからね。
目が覚めたのでもぞもぞと起きる(午後10:00)。
Na3氏に電話する。
十一月三日のシナリオについて色々と話をしてみる。
電波を受け取ったものの、スラヴの神話は疎いのでシナリオ作成を苦戦している旨伝える。
一番苦戦していたのが、ボリヴァドゥスの扱い。見てくれや能力を見る限り、どうもソロモンの悪魔らしいのだが、それがシナリオに関係する必然を見つけられない。やはり、「北欧伝説+狼男+ソロモン王の魔神」というのは無理があるようだ。
様々な電波解釈を行ったのち、「059:血の呪縛」を読み上げてみる。
それを聞きNa3氏が一言。
「結論から言えば、ボリヴァドゥスはソロモンの悪魔じゃないよ。それは、フェンリル狼を引き連れた霜の巨人だよ」
………なるほど納得、了解した(さらに色々とレクチャーを受けたけどね)。
言われてみればそのとおりだ。
なるほど、ボリヴァドゥスが闇の祝福によって堕ちた人狼を作るのも、人々に“尊厳なき死”を振りまき死霊を愛でるのも、すべてはラグナロクに備えるためか。
とりあえず、いま、日記を書きながら、他に導入可能な因果律を考えてみる。こういう、様々な可能性を考えることは、シナリオの幅を広げる意味で有効な手段だろう。PLの突飛な行動など、予想外のアクシデントにも強いシナリオを作ることも可能になる。
ふむ、「098:英雄の末裔」絡みで「000:聖なる盾」「010:聖剣ペナンス」をはじめとしたアイルハルト伝説の因果律すべて。まあ、「008:折れた槍」や「018:悲しき歌声」など、個々の聖桿騎士の因果律は微妙だが…(個々人が騎士として英雄の末裔に仕えるなり決闘を挑むなり目的を持つのであれば良いのだが…)。
「059:血の呪縛」絡みであれば、「032:失われた怒り」など、フルキフェル関係の因果律も悪くない。貴方は、狼ですか? 人ですか?
「006:背を向けた白鳥」の立ち位置は、実を言えば宗教関係の因果律の方が相性が良かったりする。特に、「068:司祭への憧れ」が抜群に相性が良いだろう。
個人的には、「073:変化の術」も外しがたいが、この因果律を導入する場合、ある程度シナリオを書き直す必要があるようだ。
ぼちぼち考えていた時点では、怪奇ロマンな雰囲気はあるが、いまひとつ広がりに欠けるシナリオプロットだった。ほほえむ魔女、魔女に導かれる勇者、蒼月に向かって吼える狼の群、闇より深きシュトラスヴィントの森に出陣する領主軍、狼の血を色濃く継ぐ少年、ヴェルファーの伝説にあこがれる少女、そして、アーグリフとボリヴァドゥスとの確執………まあ、大体こんなところだろう。
何か、原始的な荒々しさが足りないなあとぼやいていたところで、突如電波到来。
「そうか、狼は森の守護神なんだ」
「見ておくがよい! これが神殺しというものだ!」
という電波を受信する。
………シナリオプロット完成。これは、古き神々たちの確執であると同時に、新しき神を信仰する人間たちと古き神を信仰する動物たちとの物語だ。そう、この物語は、まだ、人と動物とが近しい存在であった頃の物語となるであろう。
ハア、ドクシャサンカデスカ? キミタチハナニヲヤリタイノデスカ?
「………つまり、ネタ切れということ? こーゆー駄目ネタを持ってくるのって、このサイトの芸風だったっけ?」
うむ。今週いっぱい残業確定故、割とネタ切れだ。
売れないこと間違い無しの単行本の割り付けを任されたのでは、やる気を失せよう(苦笑)。多分、『二次元ドリームマガジン』よりも売れないよ。
「それは…どうよ(苦笑)?」
まあ、専門誌なんだから、当たり前といえば当たり前なのだが(爆死)。
チナミニ 『二次元ドリマガ』ハゾウサツケッテイダソウデス(■10月23日)
今日は、『ガープス・リングドリーム』の正しい遊び方についてレクチャーしてみよう。
「あれ? 君、リングドリームも遊ぶの?」
うんにゃ、全然。
「マテ」
昔何回かPLで遊んでみたことはあるんだけど、結局、遊び方が分からなくてお蔵入りしたんだ。今日は、自戒の念を込めて書いてみる。
といっても、実は、某有名掲示板の某有名人物の論考を読んで思いついたんだけどね。
あの論考は、実に名文だったね。TRPGとプロレスとの類似性を実に丁寧に分かりやすく、理路整然と説明していた。
「ふうん…で?」
要は、いかにして(論理)ゲーム的な有利を捨て、物語的(交渉ゲーム的)な有利を取るか、ということに尽きるのではないかと思う。
プロレス的には、ガチンコなシュートに走らず、ワークをこなし、如何にブックを描くか、ということだ。
相手の大技は回避してはいけない。喰らった上でにやりと笑わなければいけない。
相手がある技を仕掛けてきたら、(たとえ技能がなくても)同じ技で返すべきだろう。
ロープに振られたらつっこまなければいけない(もちろん、例外はある)。
相手がもうろうとしていたら、髪を掴み引きずり立たせ、相手の意識が覚醒するまで猶予を与えるべきだ。
関節技を決めても、ロープに掴まれる前に外すべきだ(そのあと、ロープに身を預け挑発することを忘れてはいけない)。
大技が決まったら、リングを一周しつつ観客に向かって拍手を求めよう。
試合を始める前と終えたあとのパフォーマンスは欠かせてはいけない。ストイックなキャラであればストイックさを観客に見せつけるようなパフォーマンスが必要になる。
見せ場を完全に奪われたことを悟れば、観客がしらけるような試合の引き延ばしはせず、素直に3カウントを待たねばならない。
まあ、これだけのことをしてはじめてリングドリームは面白くなるんじゃないのかな?
プロレスは全くの無知だから、プロレスファンには怒られるかもしれないけど。
「それで、オチは?」
割とない。
まあ、この日記の読者なら、二つともご存じではないかと思う。
いま火塚が両極端な意味で注目している漫画だ。『グランバカン』は少年ジャンプ、『うえきの法則』は少年サンデーで連載中である。
というか、『グランバカン』は、なんでしょうね、いったい?
「エリザベス女王様萌え」とか読者に言わせたいのでしょうか? 私は今週のを読んで、世界が萌えに満ちていることを確信しました。10週打ち切りが無難な線だと思うのですが、どーでしょうか、皆さま(笑)?
一方、『うえきの法則』は、結構お勧め。最近流行の異能者ものなのですが、今週の台詞が良かった。あの、神様の台詞は、この手の異能者もののテーマの本質をうまく突いていると思われる。
あー、これだけか(苦笑)。
ちゆ12歳のように流れるテキストを書けるようになりたいなあ…。
十二日の日記を読み返す。
………あの、六千字を優に越えているんですけど?
「やりすぎ…」
まあいいや。とりあえず、みなさんの反応を見てみよう。
「頑張って書いたのに反応が0だと悲しいからね」
そうなんだよ(涙)。とゆーわけで、N◎VAFREEにURLを張り付けてみる。
眠…。
大阪から身内が上京。急遽、食事会とダブルクロスのセッションを行う。
セッションは午前0:00を回ってからだ!(莫迦)
………セッション自体は、PLのロールプレイに助けられ、無難に終わらせたものの、いまひとつ、シナリオ作成およびマスタリングを失敗する。
作られたキャラを見て、眠い頭で参秒で考えたシナリオであったということは確かだが、PLにモチベーションを持たせることがどうにもいまひとつだった。
私はダブルクロスは、基本的にPCのリサーチは必要ないと考えている(リサーチのルールはかっすかすだし)。
このような状況においては、「コンフリクトの提示」や「魅力的な謎の提示」という形でPLの興味を引く、という従来の方法論はそれほど有効ではない。では、どうやってPLの興味を引くべきか? それがこれからの私の課題となるであろう。ふむ、やはり、「どのようにPLの興味を引くか?」ということについて、本格的に考察する必要があるようだ。
N◎VAとはレレレである。
「いきなりだね」
先日、友人から言われた言葉だ。巡回先の日記でも、同じ言及があった。
で、私としても、この意見に対して反対する理由は何もない。
まあ、むっと来る人もいるかもしれないが我慢して聞いてもらいたい。
N◎VAをレレレに当てはめて考えると、実は凄くしっくりとくるんだ。
N◎VAは、一応サイバーパンクあるいはアーバンアクションに分類されているが、(アイテムや世界設定を除外した)基本システムだけを分析してみると、実は、およそほとんどのジャンルをカバーできることが分かると思う。
「N◎VAの同人ルールでそういうの結構あるらしいね。スチームパンクとか、大江戸とか」
ファンタジーとかも見せてもらったことがある。アレは確か2ndだったけどね。
かくいう私も、『トゥルーN◎VAストーリー』という阿呆なタイトルの学園N◎VAを考えたことがある(笑)。あまたの妨害を退けつつ写真部のトーキーがヒロインの着替えを必至になって盗撮した写真を(<■生還>)いざ現像してみたらネガが全部ぼやけていた(≪チャイ≫あるいは≪不可蝕≫)とか、そういうネタ。最強のヒロインはやはりレッガー、カタナ、チャクラだろうとかね(←マネキン、ミストレスが入っていないのがミソ)。
他にも、あちこちの掲示板とか日記とかで、見た映画やアニメ、漫画などのシーンをN◎VAで再現するとしたらどうなるという話は良く聞くでしょう?
「アレは絶対に≪脱出≫遣っているよ! と鼻息荒くしてみたりね」
このように、N◎VAというシステムは極めて再現性が高いゲームなわけだ。
もちろん、これはガープスなどといった他の汎用システムでも可能なことではある。
しかし、N◎VAが他の汎用システムと決定的に異なることは、ヴァリアントルールや汎用データを必要としない、ということなんだ。N◎VAは、再現をするにおいて必要以上にルール・データを増やす必要がないというところに、その最大の特徴がある。N◎VAは、そういう従来であればアイテムや特殊な設定、詳細な世界設定によって再現されていた(すなわち、基本システムの外付けによって再現されていた)システムと異なり、技能の組み合わせや特技、それからスタイルと神業によって内包的に再現可能なんだ(実を言えば、N◎VAシステムにおいてアイテムデータはそれほど重要な意味を占めていない)。
それと同じく、レレレも、まあ、結構詳しいデータが用意されている一方で、「参加者は映画スタッフをロールプレイする」というメタ構造の採用により、データがなくても意外に何とかなるようになっている(「ボブ、スペースオペラには光線銃がつきものだろう? だけど、データが見あたらないんだ」「スティーブ、うちにはそんな予算はないんだ。ほら、そこにあるモデルガンで代用しておけ」)。
このように、映画的状況(に限ったわけではないが)の再現性に優れているという点においては、実は、N◎VAとレレレはよく似ていることになる。
「そんなものかねえ?」
まあ、実際は、N◎VAの方がレレレよりはお上品であると信じたいけどね。
レレレがどうしても俗悪深夜映画のノリでしかプレイできないのに対して(いや、シリアスにプレイしても良いけど)、N◎VAはもう少しシリアスにプレイ可能だよ。
で、ここからが本論。ここに、まあ、色々、N◎VAを取り巻く難しい状況(N◎VAに対する誤解や偏見)が潜んでいるのではないだろうか? というのが今回の試論な訳だ。いや、この議論はさらに言えば、TRPGをどのようにデザインするか、デザイン論すべてに影響を及ぼすかも…しれない。
「また、大風呂敷を広げる…」
さて、問題だ。
N◎VAとレレレ、一番違う点は?
「カード判定かダイス判定かの差。あるいは、神業の有無」
はずれ。前者はともかく、後者はそれほど違いがあるわけではない。レレレにも、N◎VAの神業に相当するルールが存在する。「フィルムを焼く」などのルール群だよ。
昔言ったよね? 神業はキャストの能力ではないと? まあ、キャストの能力と考えても良いんだけど、それだけでは絶対に限界が訪れる。例えば、次のシーンを考えてみよう。
勝ち気なヒロイン(ミストレス)を城の麓に残し、単身魔王の城に乗り込む勇者(カタナ)とその一行、という状況。当然、勇者たちは魔王相手に苦戦をする(クライマックス戦闘)。
魔王の城を見あげるヒロイン(さりげなく登場判定をしてみたりする)とその侍女(エキストラ)。
侍女「あの方たちは…魔王を倒すことが出来るのでしょうか?」
ヒロイン「まず無理ね。百万の軍隊をもってしても倒すことが出来なかった魔王よ。5名にもみたないような彼らが魔王に勝とうなんて、狂気の沙汰ね」
侍女「ひ、姫様! ならば何故彼らを…止めなかったのです!?」
ヒロイン「(穏やかに笑いながら)大丈夫、彼らはきっと、ここに戻ってくる。だって、あの人たちは…とびっきりの莫迦だもの(≪ファイト!≫を使用)」
まあ、あまりうまい台詞回しではなかったけれども、大体の雰囲気は伝わったかと思う。
このあと、勇者は≪ファイト!≫によって増えた≪死の舞踏≫により魔王をうち破るわけだ。
分かるよね? ここでヒロインが使った≪ファイト!≫は、別にそのヒロインの能力ではないということが?
「ははあ。君らしい発想だね。それは、物語における役割論だね。つまり、ヒロインをヒロインたらしめるのはヒロインの能力ではなく、その役割にこそある、という訳か」
そのとおり。
ヒロインの最後の台詞は、ヒロインの役割を象徴する一言だ。その一言・行動は、時に物語を劇的に変化させる。私が、言霊と呼ぶ現象だよ。≪ファイト!≫とは、このようなヒロインの役割を象徴的にルール化したものだと考えるべきなんだ(そしてさらに言えば、その役割は何もヒロインに限ったものではないのだが…ややこしくなるので割愛する)。
神業の使用というのはね、シーンを、さらに言えばセッション・物語を支配する瞬間なんだ。
PLの方から(ゲストであればRLの方から)、参加者全員に対してプレゼンテーションをする瞬間なんだ。「私はこのように物語を動かしたいが、異存はないか?」というようにね(逆に言えば、そういう瞬間で神業を使えないPLというのは、割と駄目なPLに分類されたりするが…苦笑)。
話を戻すけど、レレレの「フィルムを焼く」というルール群は、PLからGMに対するプレゼンテーションのためのルールとして機能する(「ボブ! なんだこのシーンは!? なんでぼくがここで死ななきゃいけない! 観客はみんなぼくの活躍を期待しているんだぞ!?」「黙れスティーブ! そんなに文句言うならセットから降りろ! 今すぐだ! 死体役も満足にこなせない奴がスターを名のるなんて10年早いんだ!」)。こういう物語を作りたい、こういうセッションにしたいってね。それと同じく、神業というのは、PLが参加者全員(主にRL)にプレゼンテーションをするためのルールなんだ。N◎VAとレレレが違う点は、レレレが全員同じ役割を担うのに対し(ルール上は、全員が同じルールを使用できるため、ルール上では役割の差別化は図られてはいない)、N◎VAはスタイルによってはじめからある程度役割の差別化が図られるところにある(「ミストレスであればサポート役」のように)。
「なるほど…」
じゃあ、N◎VAとレレレとで一番異なるルールとは何か?
それはね、N◎VAには「参加者全員が映画スタッフになって映画を一本作成する」というメタ構造がルールという形で明記されているわけではない、ということなんだ。
そして、これこそ、N◎VAに対する最大の誤解の元だ。
つまり、N◎VAのPL(RLも含めて)が、自分が映画のスタッフ、すなわち役者(アクター)であるということを忘れてしまうんだ。「参加者全員が映画スタッフになって映画を一本作成する」という意識がないからね。だから、ついつい、神業や特技といったものをキャストの能力と誤解してしまう。結果、N◎VAのキャストを超人キャラと誤解するか、あるいはN◎VAが非現実的なギャグ漫画チックな世界であると誤解することになるわけだよ。
しかし、ここでもう一度、N◎VAにおいてPCを“キャスト”と呼び、NPCを“ゲスト”と呼び、シナリオを“アクト”と呼び、セッションは“シーン”によって構成され、シーンには“表舞台”と“裏舞台”が存在し、表舞台に出るには“登場”判定が必要であるということを考えてもらいたい。そこにあるのは本来、レレレと同じく、徹底的に「参加者全員が映画スタッフになって映画を一本制作する」という意識だ。
だとすれば、たとえ、ルールに明記されていないとしても、N◎VAの参加者は、N◎VAのルールがすべて映画的状況を再現するために存在することを正しく(というと偉そうだが)認識し、行使する方がより望ましいことになるだろう。
N◎VAのキャストを超人キャラと誤解すればそのセッションにおいてキャストやゲストたちはブギーポップ調に煮えた台詞を言い、行動することになるだろう。フェロモン使いは己のフェロモンを放出することでどんな男どもでも油断させることが出来る(<メレー>+<交渉>+<誘惑>)。ここ最近の映画小説アニメ漫画ゲームのはやりだね(いわゆるジャパニメーションか? 『ゲットパッカーズ』『ハンター×ハンター』『ワンピース』『月姫』などが有名かな…って、ほとんど漫画じゃん)。演出が派手であるのがその特徴だ。
しかし、誤解してはいけない。このような作品群は、演出が派手であるに過ぎない。演出を取り除いた先にある物語は、極めてステロタイプであることがほとんどだ。そして、その多くが可能性の物語、可能性のジュブナイルだ。
例えば、ブギーポップのエンブリオ前後編。
イナズマの死線が見えるという能力がある(仮に“デッドライン”と名付けよう)。死線が見え、それのとおりになぞればなんでも切ることが出来るという、一見凄い能力だけど(いや、実際凄い能力なのだが…)、実はこれは、現実社会にも実在する能力だ。すなわち、イナズマとは、間合いの達人、呼吸を読む達人であるに過ぎない。
ただ、達人の一言で済ましては読者に分かりにくいから、それを分かりやすく、「死線が見える」という形で外化しているに過ぎないんだ。そしてその分、演出も自然に派手になる。
でも、その物語の本質は、イナズマが自分の才能を正しく認識し、自分の判断で行動に移すという、イナズマの成長の物語に過ぎないんだ(さながら吉川英司の『宮本武蔵』において、宮本武蔵が己の剣の道を究めるがごとく)。
このような物語群の主人公たちの能力は、物語における外化作用の結果に過ぎない。逆に言えば、そんなに派手に演出する必要はないと言うことだって可能なんだ(極論だけど)。N◎VAは別に、超人たちの物語のみを描いたシステムではない。
一方、N◎VAを非現実的なギャグ漫画チックな世界と誤解した場合、N◎VAは一気にナンセンス色を帯びるだろう。ルールで許されることを良いことに、無茶な組み合わせ、無茶な神業の行使を連発する。シガーピストルは1キロ先の重役を狙撃し(≪とどめの一撃≫)、群れ寄るトループどもをハチの巣にしてみたりする(<ファニング>)。カリスマが一言「ばーか」と叫べば企業の重役は発狂し(精神戦)、マネキンが太股を見せればどんな堅物でも刀でばっさりと切られることになるだろう(<メレー>+<交渉>+<誘惑>)。
しかし、やはり誤解してはいけない。N◎VAが表現する物語・映画は、それがすべてではない。
確かにN◎VAは、ナンセンスやギャグ、スラップスティックも再現可能だ。
しかしそれは、N◎VAがそれしか再現しないということを意味するものではない。むしろ、ナンセンスやギャグ、スラップスティックの再現は、N◎VAシステムの副産物のようなものとして理解すべきであろう。N◎VAは、再現性を高める一方、複雑なルールや細微なデータによる運営の困難性を回避することを目指している。そこでN◎VAが採用した方法論こそ、「効果先取り演出後付」だ。演出をルールの外に置き、ルールで導かれる効果すべてを許容するというその方法論は、確かに、N◎VAの再現性を劇的に高めている。カタナは、凄腕の剣士であろうが、巨大な恐竜であろうが、自分の剣の腕前に関係なく、それが死ぬべき時が訪れればそれを殺すことが可能になる。たとえ、貧弱な少年であっても、物語においては、その瞳にカタナが宿るとき、少年は己の敵を滅することが出来るんだ。
その一方、このような「効果先取り演出後付」は、その副産物としてどのような不条理でもルールによって保証されることを意味することになる。かくして、N◎VAシステムはナンセンスやギャグ、スラップスティックと無性に相性が良いということになる。
とはいえ、それが副産物的なものであるということは、しっかりと理解しておくべきだろう。N◎VAをギャグものとして理解するのは、システムの穴を付いた、ただの難癖に過ぎない。それはさながら、クトゥルフの怪物にHPがあり、火器が市販されていることを良いことに、マシンガンとダイナマイトで武装して怪物たちに突撃を仕掛けるようなものである。それは、そのように理解する方が悪い。たちが悪いマンチキンかルーニーのようなものだ(もちろん、そのように誤解させる方が悪いと言うことも出来るが………正直、そこまで言い切るのにはためらいを覚える)。
「それで、結論は?」
んー。ガープスやレレレと同じく、テーブルごと、シナリオごとにルール解釈や演出の幅をもうけること、だろうね。実は、N◎VAは「映画的」以上の世界観を提供していない。そして、ここで映画的とは、カメラワークやスポットライトの当て方を意味するだけで、その意味するところは実に多義的だ。
自分たちが慣れ親しんできたルール解釈や演出が絶対と考えてはいけない。
ハードボイルドでストリートの雑草のようなセッションであれば自然ルール解釈や演出は無難になるだろうし、超人たちが激突するようなセッションであれば自然ルール解釈や演出は派手になるだろうね。前者に慣れ親しんだ人が後者の席に座るときは少々羽目を外す必要があるし、後者に慣れ親しんだ人が前者の席に座るときは自己を自制する必要があるよね。
あるセッションでは、死者の復活が許される一方、別のセッションでは死者の蘇生が許されない場合もある。あるセッションでは落ちてくる衛星を狙撃したたき落とすことが出来ても、それが別のセッションで通用するとは限らないんだ。それは、その場の雰囲気を見て、どこまで許されるか、各自考えておく必要があるだろうね。衛星を狙撃することが出来ないのであれば、別の方法を考えれば良い。例えば、衛星にハッキングを仕掛けて軌道をズラしてみるとかね。
N◎VAは、セッションごとにルール解釈や演出、雰囲気が異なってしかるべきシステムなんだ。
前者の人間が後者の席に着く場合、ルール解釈や演出の幅を認める度量が必要だ。シガーピストルで<ファニング>してきても、ネタの一つだと考えて聞き流すことが肝心だろう。精神戦の結果発狂することが承服しかねる場合、敢えて演出を求めないということも必要になる。ここで演出を聞いてしまったら、逆に納得できないことが多々あり得るからね(特に、演出が下手な人間の場合、「ばーか、ばーか」と叫ばれて発狂することになりかねない)。ここら辺が出来ずにもめてしまう人は多いね。でも、TRPGシステムって、こういうネタって結構多いし、それが楽しいこともあるじゃない。これはD&D3rdでの体験なんだけど、モンクが攻撃を喰らって倒れたところにキュアウーンズのスクロールで回復させたら、また殴られて倒れ、そこにスクロールを再び使って…ということがあったんだ(さながら起きあがりこぼしだろう)。このときは、正直、何てD&D3rdはばかばかしくてリアリティのないシステムなんだろうと思ってへたれたね…でも、その一方、ネタとして処理して、詳細に演出すべきものではないんだろうなあともぼんやり思った。
その一方、後者の人間が前者の席に着く場合、どんなにルールが正しくても、それが許される雰囲気ではない場合は使用を躊躇うべきだろう。やっぱり、ここら辺が出来ていない人も結構多いような気がする。ハードボイルドの雰囲気に酔いしれつつ銃に撃たれればいたいだろうと思って<ファイアアーム>単体で銃を撃っている人の隣で、<メレー>+<アスレチック>+<修羅>+<交渉>+<誘惑>で差分値20とか言われたら(正直、どうにもこのルール解釈はおかしいというのが持論だが…)、銃を撃っていた人は、やっぱりいい気分はしないだろう?
レレレと同じく、役者であるキャストたちは、映画(セッション)ごとにその出来ることの限界を把握し直す必要がある、というわけだ。その一方、お互いにあまり目くじらを立てないという工夫も必要となるんだろうね。
「………なんだか、N◎VAが欠陥ばかりのシステムに思えてきたよ、わたしゃ」
………うん、なんだか、私もそう思った(苦笑)。
でも、そうであるが故、それだけ、物語に幅があるが故に、魅力的なシステムなのかもしれないなあ…。少なくとも、私にとっては。
で、なんだかなあと思うのは、GX以降、オフィシャルのサポートがすべてジャパニメーションの方向性を持ってしまったことだよね。せっかく、様々な可能性があるのに、それをすべてうち捨てて一つの可能性しか追いかけないのは、正直どうかなあと思うのだが………。
「やっぱり、どうであれ、固定的な世界観がひとつないと分かりにくいからじゃない? わかりにくいんじゃあ商品にならないよ」
だろうなあ、やっぱり(溜息)。そのたびにスイッチを切り替えるれば良いだけだと思うんだけどなあ。
あとは…やっぱり、神業や特技をキャラの能力として把握した方が分かりやすいから、というのがあるんだろうなあ。まあ、もともと、2ndの頃からそういう傾向があったようだしね。
「ところで、君にしては結論が結構まともなところに落ち着いたね」
うむ。「両極端はいけません。場合に合わせて幅広くプレイしましょう」なんて、何て私らしくない結論なんだろう。
「…(苦笑)」
ネットアイドルちゆを見る。
ガオレンジャーレポートに爆笑したり、ちゆメモに爆死したり。
そんな中、目に付いたのがこれ。
keyが一年ぶり(?)に新作発表。『クラナド』というタイトルらしい。
イラストを見て一瞬我が目を疑う。これ、いたる絵か? スタッフを見て、ようやくいたる絵であることを確認。「いたるのくせに生意気だ」とかなんとか。
ついでに、シナリオライターの名前を確認。やっぱり、二人は喧嘩別れをしてしまったのね…。
いやまあ、多分、買わないと思うけどね(でも、『ONE2』は買う莫迦)。
ようやくサイトを更新。一月半ぶり。ついでに、サイト自体移転。消滅するフリーウェブから撤退する。
今回更新した頁は、コリアンマンセーと著作権コラム。
「なんだか、ろくでもないものばかりだね」
………。
に、日記も更新したぞ。八月下旬と九月! 他に、デッドリンク関係を中心にリンク集に手入れをした。
「遅すぎ」
私は昔(七月二十一日)、良いシナリオの条件とは、PLにセッションに対する興味を持ってもらうための仕掛けがあるシナリオであるとした。
そのための手段としては、ありとあらゆる手法が考えられる。
興味深い謎、キャラ設定を生かすような話の流れ、そのキャラでしか解決できない事件、キャラだけが真実を知っている、パロディネタでPLの興味を引くことだって考えられる(ただし、滑ったときの事故率は極めて高くなることに注意…そしてまた、独りよがりになりやすい)。
N◎VAなどの最近のシステムであれば、入念にプレプレアクトを行うという方法論も考えられる(これは、よく考えてみれば数年前は考えられないことだった)。
ただ、ここで気をつけるべきは、このような、PLにセッションに対する興味を持ってもらうための仕掛けがあったとして、それをPLに十分に伝達できなければ意味がない、という事実だ。
したがって、そのような仕掛けをPLに十分に伝達させるための仕掛けが必要である。
そして、伝達された情報を元に、事件、コンフリクト、あるいはシナリオのルールの真意を“PL”たちが理解した瞬間、実感するのだ。
「この一瞬に立ち会うために、私たちは三時間のセッションをこなしてきたんだ」
根拠のない、ただの直感でしかないけども、良くできたシナリオに基づくすばらしいセッションというのは、こう実感する瞬間にこそ生まれると思うんだ。
だからこそ、私はそういうシナリオになるように、様々な工夫をシナリオ内に持ち込むようにしている。
その手法の一つが、オープニングとリサーチとの区別だ。
ふむ、書いている途中で気が付いたが(「したがって、そのような仕掛けをPLに十分に伝達させるための仕掛けが必要である。」あたりで)、予想以上に、TRPGの参加者(GMPL共に)がシナリオやセッションに対して何を求めるかが希薄だ。もちろん、参加者はTRPGで“楽しみたい”のだろうが、そこには、“どうやって”という視点が抜けている。PLにシナリオに対する興味を持ってもらうのは当然として(でないと楽しむための手段であるセッションがそもそも成立しない)、何故、PCは事件に巻き込まれなければならないのか? たとえば、事件に巻き込まれない形でセッションは成立しないのか? シナリオの要素を分析した時点で、シナリオには当然に事件が内在している以上、事件に如何に巻き込むかが重要であるという結論に達していたのだが、こう改めて考えてみると、TRPGとは何故“事件の解決”でなければならないのか、意外に疑問である。
…まあ、その回答として、TRPGの参加者は物語(それが大きな物語か、エピソードと言うべき小さな物語かはともかく…この求める物語の差が、私と黒緒氏との間で論点のひとつとなっているようだ)をTRPGに求めているという結論を採用することは可能だが…何故か、その結論は妙に安易な気がする。
物語を求めるがために事件を必要とするのか、事件の解決の中で物語が発生することを期待しているのか、………まあ、このスタンスの差がプレイスタイルの差を生むのかもしれないと考えてもみたりする。とはいえ…何か、もっとスマートな考察も考えられるような気がするし…さて?
中途半端だが、考えがごちゃごちゃしてきたので、とりあえず筆を置くことにする。もう少し、じっくり考えないと…。
なお、議論の展開としては、N◎VAにおいて見せ場(神業の使いどころ)を儲ける必要があるのか否かという話に繋げる予定である。
暫定的な結論だが、以下のように分類されると思われる。
シナリオにおいてはコンフリクトの提示で十分であり、それ以上はPLの領域であるべきであると考えるのが私のシナリオ構造。コンフリクトという問題点をどのように解決するか、どのように見せ場を儲けるかは、PLの腕前にかかっているというわけだ。
推奨スタイルなどを採用することでキャストの見せ場を予め用意し、その見せ場の演出を如何に劇的に描くかに力点を置くのが最近の流行のシナリオ構造。SSSシリーズはその傾向が顕著である。特に、SSS7の「明日に架ける橋」は、そうだろう。いわゆる一本道の傾向が強くなるが、PLはキャストを確実に活躍させることが可能になる(ただし、その活躍の仕方は不本意な活躍の仕方である場合もあるかもしれないが)。
さらに言えば、そのようなコンフリクトの提示すら是としないプレイスタイルも確かに存在する。PLが自ら目的を探し出すというプレイスタイルだ。これは、キャンペーンの場合に良く採用される手法だろう。
そういえば、夏休み中にNa3氏と爆笑したネタ。分かる人超限定。分かる人だけ、こっそりと笑ってください。
「円卓の騎士がね、十二人ぐらいいてね、みんな私のことを慕うの」
「おお、グィネヴィア、不治の病がついにここまで(くらり)」
「新撰組がね、十二人ぐらいいてね、みんな私のことを慕うの」
「おお、○○(←好きな名前を入れよう)、不治の病がついにここまで(くらり)」
「白虎隊がね、十二人ぐらいいてね、みんな私のことを慕うの」
「おお、○○(←好きな名前を入れよう)、不治の病がついにここまで(くらり)」
(ちなみに、白虎隊は、年端の行かない少年たちで構成されていた)
「(マーリン)宮廷魔術師生活四十年。こんな屈辱はじめてじゃ」
「ワタシ緑の騎士」
「オマエラニヒトツダケ言ッテオク!!」
「(アーサー王を指さして)地味!」
「(ランスロットを指さして)莫迦!」
「(ガウェインを指さして)もっと莫迦!」
「(アルクェイドの声で読んでください)遠野志貴! あのジャパニーズか!?」
(直後、十七分割される…まあ、指先一つでダウンするので(謎))
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