ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、tatuya215@hotmail.comにお願い申し上げます。
今更ながら、White氏と高橋氏とのやりとりに気づく。
一応、大学院で専攻していたんだから、一声かけてくれてもいいのに(図々しく)。
んで、なにか、高橋氏が勘違いしているっぽいので、少々つっこみ。勘違いというか、両者の前提が違いすぎるため、話がかみ合っていないだけですが。
>活版印刷術は、海賊版の横行をもたらし、文学芸術に深刻な打撃を与えた。だから著作権が制定された。
なにやらすごくどうでもいい細かい揚げ足取りですが、この文章はおかしいです。
なぜかというと、「海賊版=違法複製」ってのは、それが違法行為と認定されて初めて成立する概念だからです。「海賊版の横行をもたらし、……だから著作権が制定された」ってのは、話が逆転しています。
ああいや、言いたいことは大体わかるので、「だからおまえは間違っている」なんて言うつもりはありません。先の文章だって、「出版業者に打撃を与える複製の横行をもたらし、……だから著作権が制定された」と言い直せば良いだけの話です(揚げ足取りかっこわるい)。
ん、ああでも、そこら辺の感覚からすでに両者に致命的なずれがある訳か。
高橋氏の論は、「なぜ、現行著作権法が、現行のような法体系になっているのか?」という前提がすっぽり抜けているのですよ。現行法体系による著作権者の保護を当然の前提にしてしまっているため、現行法の前提条件に問題があるとするWhite氏と議論がかみ合っていないのです。
では、現行著作権が想定している投下資金の回収の仕組みがどのようになっているか、改めて歴史的経緯を交えて説明します(ここ、重要です。現在の著作権法に関する問題点のほとんどがここに集約しています)。高橋氏が参考にしている白田先生のコラムだけだと不十分なので、私の修士論文も参考にしてください(といっても、ほとんどが、白田先生の単行本の受け売りなのですが)。
いまさら、著作権法の歴史なんて学ぶ価値があるのかって話もあるかもしれませんが、法律では往々にして、何でそんな法律が生まれたのか、よくわからなくなる場合があり、そういう場合の問題解決の糸口として、法律の歴史的経緯が役に立つことが多いですから(余談ですが、現在の司法改革なども、もう少し、現行日本の司法制度の歴史的経緯に注意を払うべきだと思うのですが…)。
1 活版技術成立前(近代著作権法成立以前)とまあ、以上です。
かつて著作者たちは、国王をはじめとした多くのパトロンたちによって経済的に養われていた。あまたのパトロンの中でもっとも強力であったのが国王で、国王による特許によってもたらされる年金により、著作者たちはその生活を保障されていた。特許著作権である。
かつては、著作者には、著作物自体によって収益をあげる方法は皆無だった。なぜならば、識字率が低く、しかも、物品の流通も少なかった時代、そもそも、著作物が流通するだけの市場自体、存在しなかったからである。このような時代において、著作者が著作物から収益をあげるとすれば、支払いの良いパトロンを捜すしか方法がなかったわけだ。
ここで、パトロンが支払う年金と著作物の価値とが資本主義市場における等価交換の関係に立っていないことには留意する必要がある。すなわちこれは、著作物の無断複製が何ら犯罪を構成しないことを意味するからだ。パトロンが支払う年金は、あくまで著作者個人に帰属し、著作物に対する対価として支払われているわけではない。そのため、著作物を無断複製することを違法とする根拠は、少なくとも経済的には存在しない(根拠なしにそれを自由を制限できない。それを違法とし、自由を制限するには、制限して尚勝るだけの理由が必要だ)。そこには、著作物の流通によって、著作活動に対する資本投下を回収しようという発想が、そもそもないからだ。仮にそこで経済的な違法状態が生じるとすれば、ブランド侵害、フリーライド(ただ乗り。いわゆる偽ブランド)の問題であって、著作権侵害という代物ではない。
このような時代においては、著作物の無断複製は、むしろ、模写や写本といっためんどくさい複製コストを引き受けてくれる善意あふれる行為と評価されよう。2 活版技術成立後(近代著作権法成立後)
さて、パトロンの零落と共に、従来のパトロン層に代わって著作者たちの面倒を見るようになったのが、出版の世界で言えば書籍業者だったわけである。
書籍業者が新たなパトロンとして著作者たちの生活を保障するには、資金が必要である。ここに、書籍業者(=出版社)の経済的利益を保障する必要がでてくる。ここで登場してきたのが、世界初の著作権法である1709年アン女王法(イギリス)である。アン女王法は、「著者に存する財産権」ではなく「著書に存する財産権」を保障しており、著書を著作者から買い上げた書籍業者の財産的利益を保障するような仕組みになっている。これを、ドイツ風に言えば、出版著作物に一種の所有権が生じ出版社に帰属するという、出版所有権論ということになる。その後、著作権法の理論は発展し、大陸ではついには、著作者の人格から著作物が生じたという理論が通説となり(自然権論)、1791年のフランス著作権法その他に繋がっている。
ここで気を付けなければならないことは、著作権法の成立において、著作者の人格から著作物が生じたという理論がはじめから採用されたわけではなく、元々の発生は、出版社のインセンティブ、パトロンである出版社の利益を保障することにより著作物文化を保護するところにあったということである。著作権法の発生において、重視されたのは、著作者の利益ではなく、まずは出版社の利益であった。
では、なぜ、著作権法によって(著作者ではなく)出版社を保護する必要があるのか? そこで問題となるのが、複製コストの問題である。
それは詰まるところ、法規制の技術的な制約に求められる。@いま現在、使用の度に対価を徴収することができるような権利を構成することは技術的に不可能であり、A複製のところで対価を徴収せざるを得ない事情がある。B仮に、大量の人間によって頻繁に行われる行為について逐一許諾を求められたとしたならば、権利者にとっても煩雑で耐えられないであろう。C他方で複製は、出版社など相当の資本投下をなした者にのみ許されるものであったから、複製を行う者は、読書をなす者の数に比べて極めて少ない。都合がよいことに、D複製の数は、使用の数にそれなりに対応するので、複製のところで著作権者に対価を支払うようなシステムを採用したとしても、著作物の使用価値に応じた対価を著作権者に還流させることが可能である。その複製が行われるところで、複製者に著作権者と交流させることにより、著作権者に対価を還流させるシステムの方が、読書のところで交渉させるシステムよりも効率的かつ現実的であることは明らかだった(以上、田村善之・著作権法概説103頁…現在は第二版)。
この時代において、著作物流通についてもっともコストを支払うのは、複製機に莫大な資本を投下する、複製者・出版社である。著作物を流通させ、結果、著作活動に対する投下資本を回収させるには、何よりもまず、著作物を流通させる複製者・出版社を保護する必要があり、しかも、複製者・出版社が資本を回収できれば、それに対応する形で著作者も資本を回収できる。複製者の数が限られた社会においては、限られた複製者の下で一括で権利処理するのが、最も効率的なシステムだったと言えよう。ここに、複製者(=出版社)の下に権利を集中させる実益がある。だからこそ、近代著作権法は、第一義に、著作者ではなく、出版社を保護しているのだ。そして、近代著作権法が選んだ保護のあり方こそ、著作物の無断複製を違法とし、著作物複製に対応する形で収益をあげるという手法だったわけである。理論的には、複製を自由とし、複製物を販売した者すべてから販売料を回収するという方法だってあったわけだ。もちろん、先もふれたとおり、販売者を把握するよりは、複製者を把握する方が容易であるため、そのような選択は、現実にはなされなかったのだが。
3 現行著作権法の問題点
現代著作権法は、出版社保護を脱し、著作者の人格的な保護と著作文化の健全な発展をその目的としている。学説では争いがあるものの、少なくとも日本著作権法は、いわゆる自然権論をその前提としていると考えて間違いないだろう(著作者人格権の存在)。
しかし、現行著作権法もまた、この、近代著作権法の前提を基本的に踏襲している。それが、「複製権中心主義」と「1対1の利用許諾システム」である。
すなわち、複製権(21条)とその侵害を中心に立法的手当をなす立場、すなわち複製権中心主義と、1対1、すなわち著作者と出版社との交渉を前提とした利用許諾(63条)のシステムである。@ 複製権中心主義
日本著作権法は、21条に複製権を定め、それ以外の上演権(22条)その他をすべて複製権の派生原理として捉えている。公衆送信権等など、複製権の範囲で捉えきれないが故に改正で追加された権利も多い。その上で、日本著作権法は、引用といった、著作物の使用を著作権の制限として把握し、例外的に複製権その他を侵害しないと考えている。まさに、複製権先にありきの複製権中心主義的な発想である。日本著作権法の基となったベルヌ条約も、同じように複製権先にありきの複製権中心主義を採用している。11条以下の権利の多くが、複製権の範囲で捉えきれないが故に改正で追加されている。このように、条文の構造を見る限り、近代著作権法は、複製権中心主義を当然の前提としている。A 1対1の利用許諾システム(北村行夫「情報化社会と著作権」コピライトNo.456(1999年)11〜12頁)
日本著作権法は、原則、利用許諾(63条)によってのみ著作物の能動的使用を可能とし、著作権を巡る法律問題を、著作者と出版社との交渉にゆだねている。
印刷のような有形的再製技術においては、著作権をめぐる権利関係は、直接には著作者と印刷出版業者との間の問題として考えれば足り、1対1で権利関係をどうするか考えれば良いからだ。なぜならば、複製機の購入には莫大な資本を必要とするため、自然、複製者の数は限られ、著作者は1対1の交渉さえ考慮すれば足りるからである。そこで、無体財産を財産として尊重するというルールを承認すれば、あとは従来からの有体物である商品の交換に関する社会的仕組みを、ほぼそのまま使えた。
時代が下り、放送技術が登場しても、放送局という著作物伝達媒体が、誰でも所有できる媒体ではなく、電波をどうやって管理するかという国家的な統制の問題とされ、著作権者と放送局との権利処理関係は、先行した出版業におけると同様に1対1であり、印刷と同じように処理されている。しかし、@Aのモデルが常に妥当するわけではなく、違うモデルの定律も、先に論じたとおり(非効率的ながらも)考えられた。現在の、「複製権中心主義」「1対1の利用許諾システム」を金科玉条のようにとらえねばならない必要性は欠片もない(というのは、最近の若手著作権法学者の大勢を占めるところ、らしい)。
そして、いま現在進行中のweb文化においては、「複製権中心主義」「1対1の利用許諾システム」という、現行著作権法が当然の前提としていた立法事実がまさに覆されつつある。
複製コストが高価であるが故に、複製者が限られている。その限られた複製者に権利を集中させると同時に、利用許諾を一元化させる。それが、現行法の狙いであったわけだが、複製コストが低額化、結果、複製者が増大してしまった。ここで、現行著作権法がもくろんでいた前提、立法事実が崩れ去り、著作物流通のコントロールが不可能になり、結果、著作者は投下資本を回収できなくなった。ここに、問題が潜んでいる。間違ってはいけないが、複製コストが定額化することも複製者が増大することも、“違法”ではない。結果、著作権法制が機能不全に陥ることが“問題”なのだ。
このような現実において、機能不全を起こしている著作権法制を維持することに果たしてどれだけのメリットがあるのか。もしかすればほかに、著作者が投下資本を回収する方法があるかもしれない。
そして、身も蓋もない言い方をすれば、著作者さえ保護できれば、著作者が投下資本を回収できれば、出版社などの複製者を保護する必要性、複製者の投下資本の回収を保護する必要性なんて、欠片もない(という自分自身の職業は出版社勤務の編集者。駄目じゃん)。コストがより低額ですむ複製技術(すなわち、有体物に依存しないデジタルコンテンツ)があれば、旧来の書籍などの複製技術が淘汰されるのは自明の理である。それを違法だというのは、かつて鉄道が登場したときに、馬車業者が自身の既得権益を侵害すると声を荒げたのと同じことである(もちろん、馬車業者に特権が認められていたわけではないので、簡単には比較できないが)。
勘違いしてほしくないのだが、私は別に、著作者を保護する必要はない、と言っているわけではない。複製者の投下資本の回収を保証する必要もなければ、複製行為を起点に把握する現行著作権法を維持する必要性もない、と言っているだけなのだ。
>工夫次第で儲かるはずだから革命を否定するな、というのは多分逆なのです。社会に受け入れられてもいい革命であることを具体的に証明する責任は、革命派にあるのです。
夢物語と言われればそれまでです。だからみんな必死になって考えているわけで。考えて、考えて、考え抜いて、うまい方法を思いつかなければ、結局、いままでどおり複製を中心に把握するしかないわけです。とはいえ、今回は触れませんでしたが、ここに表現の自由の問題とかエンドユーザーの権利とか絡むと、やっぱりどうにも複製中心という把握の仕方には問題があると私は思いますが。物言う前にパンを食べられなければ飢え死にするだけですので、今回はあまり大きな声では言いません、はい(やさぐれ)。
ただ、私は割と楽観主義者なので、ある日、名もなきハッカーがぽっと出で思いついたアイディアが世界を席巻してしまうんじゃないかとか、そういう風に思ったり。
>違法コピーを防いでいたのはコスト問題ではなく、著作権でした。
コストはなにも違法コピーを抑えてくれていません。そうではなく、コストの問題がまさに、“いまの著作権法を形作っている”、ということなのです。活版技術と“そこから収益をあげる業界団体の登場”が、「複製コストを引き受けてくれる善意あふれる行為」を「違法行為とみなすべき行為」としてしまったのです(と言って、別に出版業界が悪であるというわけではありません。彼らは彼らで、当時、しごくまっとうな主張をしていただけですから)。
そして、いままさに把握すべきなのは、収益モデルの変化の波なのです。
って、ここら辺、すでにWhite氏が、
>重要な示唆。現行の著作財産権モデルは、配信技術(活版印刷)が先行した結果、規定されていったものです。
指摘しているじゃん。ううむ、高橋氏に意味が正確に伝わるか、不安です。
>でもそういうのが嫌な人、別にイベントのプロモートや下敷きのマスコットキャラのプロデュースをしたいわけではない人、そもそもグッズ商売が出来ない鬼畜凌辱系とか書きたい人は、今の流通機構を無法者に破壊されては困るわけで。
まさに、そういう収益モデルがこれからの時代、否定されるだけなのかもしれない、ということなのです(否定されないかもしれないけども)。困る、と言うのは簡単ですが、そうではなく、じゃあ、どうやって自分たちのビジネスを守るべきか考えるべきですし、さらに言えば、守るのではなく、より積極的に攻め込むにはどうすればいいのかとポジティブに考える方がよほど健康的なわけで。
んでたぶん、いま、webで生きる多くの人の声を代弁すれば、次のようなことが言えるんじゃないかと思うわけです。
「我々はもう、コピーなしには生きられない」
我慢しろって言われればそれまでですが。
ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、tatuya215@hotmail.comにお願い申し上げます。