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TRPGとは、GM(ゲームマスター)とPL(プレイヤー)という二人以上の参加者によって構成され、GM主催の元、参加者全員によって逐一採択される統一的な不文律によって運営される遊戯である。
プレイスタイル論。TRPGについて論じる際、避けて通れない論点、鬼門とされる論点です。
ある論曰く、「TRPGはゲームである以上、ルールを守らなければならない」。ところがその一方で、TRPGのルールブックに必ずと言っていいほど書いてある文言があります。曰く、「GMはこのシステムの気に入らない部分を改変する権限を有する」。矛盾しています。TRPGはゲームとされ、ゲームである以上ルールを守らねばならないはずなのに、ルールを破ることを認める旨の文言がルールブックに必ず記述されているのです。
結果、プレイスタイル論として、さまざまな「望ましい遊び方」が流布されることになりました。美しいストーリーのためには、ルールは無視してもよい。みんなでノリ良く楽しめればルールは破ってもよい。いや、ルールはルール、ルールの範囲内で遊ぶからこそ楽しい…などなど。
派閥間の闘争は激烈を極め、最終的には両方大事だから、両方重視しましょう、バランスを取りましょうと仲裁が入って論争が終わる、ということがほとんどでした。あるいは、モラルとして、それぞれのプレイスタイルの差を尊重し合うというやり方で片づけられてきました。
ここで、バランスやモラルの重要性を説けば話は簡単でしょう。
しかし、思うのです。そんなに簡単に話を片づけて良いものなのか? それは、単なる思考停止ではないのか? それで簡単に話が片づくのであれば、何故、度々激論が繰り広げられてしまうのか? 単に相手が頑固だからと言ってしまえば話は簡単ですが、我々はもっと、対立が生じる根本的な原因を直視する必要があるのではないでしょうか?
相反する二つのテーゼ――ルールは守らねばならないと、ルールは破ってもよい――が同時に存在する不思議な遊戯であるTRPGという現象を、我々は真摯に観察する必要があるのです。
ところで、上記において、私はTRPGがゲームであるということを所与のものとしました。では、TRPGがゲームであるという前提がそもそも誤りであったとしたら?
思うに、プレイスタイル論の混迷の根本的な原因は、ゲームの定義の混乱にあるのではないでしょうか。
例えば、いまやゲームの代表という感もあるTCGという遊戯を見てみましょう。
ここでプリミティブな意味でゲームが成立するのは、大会、それも世界トップクラス同士の対戦の場面においてのみでしょう(“のみ”というのは、明らかに言いすぎですが)。すなわち、競技です。競技としてのゲーム、これをゲームと呼ぶことにためらいを覚える人は少ないでしょう。これを仮に、“狭義のゲーム”と呼ぶことにしましょう。
そして、この“狭義のゲーム”においては、ルールは常に絶対とされます。競技とは、己の技量以外すべての面で対等のスタートラインに立ってはじめて成立する概念だからです。ルールの絶対性は、意思決定にあたって予断・予測を与えるものとしても重要です。
また、“狭義のゲーム”においては、技量を競った結果得られる勝敗が、極めて重視されるということも、多くの方に肯首していただけることかと思います。
ところが、同じTCGにおいても、技量を競い勝敗をつけるということからはずれた遊び方も存在します。例えばファンデッキ。そこでは、技量の意味は(通常、競技でそう呼ばれる意味から)歪められ、どれだけカードで己の想像力が描いた世界を再現するかということとされ、特定の状況さえ再現できれば勝敗など大した問題とはされないという遊び方です。さらに、場合によっては、状況の再現のために、意図的にルールを無視する場合もあるかもしれません(ルールの範囲内で如何に再現することにこそ芸があるとおっしゃる玄人もいるでしょうが)。
そうでなくとも、仲間内で遊ぶ場合、ハウスルールなどを取り入れて遊ぶ場合も多いのではないかと推察します。ここでも、実はルールはその絶対性を保障されていないのです。
このように、本来ルールが厳格に運用されるべきであるとされるTCGにおいても、場合においてはルールは無視され、技量は競われることなく、勝敗は重視されないのです。
しかし、それでも、TCGは間違いなくゲームと呼ぶべきでしょう。もちろん、そこには競技性という意味でのゲームは薄れていますが(そして、少なからず、そんな物はゲームではない! ゲームとして堕落している! と主張する人はいるでしょう)、なお、多くの人がそれをゲームと呼ぶからです。そこで、このような意味でのゲームを、“広義のゲーム”と呼ぶことにします。“広義のゲーム”は、競技よりも、“いわゆる遊戯性”を多く兼ね備えていると考えられます。
このような事例は、多くのゲームに見られることでしょう。テニスとママさんテニス、バレーとママさんバレーなどなど、枚挙にいとまがありません(もちろん、ママさんバレーの中には、しごく真剣に競技性を目指しているものもありますが…)。そして、例えばママさんテニスにおいてルールが厳密に適用されるかといえば、そうではないということを我々は体験しています。ここでテニスとはコミュニケーションツールとしての意味合いを持ち、より多くボールをラリーすることを重視し、本来重要なルールであるはずのタッチラインの概念が重視されないことがあることを目撃するでしょう。得点を特に気にせず、勝敗を考えないということも目撃するかと思います。
このように、競技とは遊戯となり、また逆に遊戯が競技となることは数多く存在するのです。そして、どちらも、日本語においては“ゲームと呼ばれる”のです。TRPGにおけるプレイスタイル論の混迷の原因は、このような、“ゲーム”の定義の二重取り三重取りにあったと思われます。
上記の議論を前提にしたとき、TRPGの特徴が見えてくるかと思います。
思うに、TRPGにいうゲームとは、“狭義のゲーム”競技ゲームではありません。もちろん、TRPGにおいても、競技性を見いだすことは可能ですが、その場合、「GMvsPLたち」という、いささかいびつな図式が見いだされることになるでしょう。なぜなら、スタートラインの時点でGMとPLとの間には明らかな有利不利の関係が見いだされるからです。シーンセッティングや障害の設置など、GMに認められる権限は大きく、そこにはおよそ公平さに欠ける力関係が見られるかと思います。さらには、GMはゲームの参加者であると同時に、ゲームの裁定者・審判でもあるのです。これはいびつ以外の何者でもありません(それがTRPGの特徴である、と強弁することももちろん可能ですが、世界初のTRPG、D&Dの初版においては、GMと裁定者・審判とが分離していたという事実もあるそうです…と言っても、伝聞なのですが)。そこでは、幾らルールを厳密に運営しようとも、競技性を見いだすことは困難を極めることになるでしょう(不可能、ではありませんが、それを言い出すとキリがないので、程度問題として考えます)。
ここで、我々はTRPGについてよくなされる言及を思い出さねばなりません。
「TRPGにおいてはストーリーが重要だ」「TRPGにおいてはノリが重要だ」などなど…思うに、これらはすべて、遊戯性の現れではないでしょうか。
重要なのは、「TRPGにおいてはストーリーが重要だ」といった言葉の是非ではなく、そのような言説が発生するという現象そのものです。
すなわち、TRPGとは、その成立段階において、競技性よりも遊戯性をより多く備えた“広義のゲーム”だと考えるべきではないでしょうか。
これは実を言えば、どのような遊戯においても共通する話ではあります。
言うまでもなく、どのような遊戯であっても、競技として技量の追求が重視される一方、ノリがよいことが好まれますし、また、そこに時にストーリー性が見いだされることは数多くあります(九回裏さよならホームランなど)。
ただ、TRPGが他の遊戯と異なるのは、「GMとPLという」立場的に異質な「二人以上の参加者によって構成」されている遊戯であるということです。この図式の元では競技性が見いだされにくいということは、重ねて説明をするまでもないでしょう(そして、重ねて説明しますが、見いだすことが困難であるとするだけであって、見いだすことが不可能であるとは考えていません…ただ、見いだしにくい以上、競技としてプレイする必要性はそれほど高くはないでしょう)。
結局、TRPGとは、ある時はキャラになりきり、ある時はストーリーに耳を傾け、ある時は戦略・戦術を練り、ある時は運に天を任せる、そんな、なんでもありな遊戯“広義のゲーム”なのでしょう。
上記のように、TRPGは実に多様な遊び方が出来る遊戯“広義のゲーム”です。
ところが、ここに問題があります。TRPGは、多様な遊び方が出来ることが魅力ですが、それは同時にTRPGの最大の欠点でもあるのです。
例えば、卓を同じくしたある参加者は運を天に任せることを好むのに対し、ある参加者は戦略・戦術の最適化を好み、さらに別の参加者はより美しい物語を紡ぐことにこそ最大の関心を持った場合、その卓ではセッションが成立するのでしょうか? それはさながら、ルーニーとリアルマンとリアルロールプレイヤーとマンチキンとが同居しているようなものです。
たとえここまで極端な例ではなくとも、いわゆる戦略・戦術に基づいてシーンをセッティングする参加者と、いわゆる物語の観点からシーンをセッティングする参加者との間で摩擦が生じるということは、決して珍しいことではないでしょう。
そこで重要となるのが“交渉ゲーム”の概念です。
従来であれば、この問題は、モラルやバランス論として理解されていました。
しかし、モラルやバランス論というのはセンスが問われ、一朝一夕では身に付くものではありません。しかも、TRPGは身内で遊ぶことが多い遊戯であり、そこでのモラルやバランス論もしょせん身内に特化した概念にとどまる危険性があります。身内の常識が他人の非常識である可能性も否めません(…正直に告白すれば、そういう場面に出会いショックを受けたことは一度や二度ではありません)。
そもそも身内とは、趣味が似通ったもの同士によって構成されるものです。
しかし、何時までも身内でのみプレイできる保障はどこにもありません。たとえば、新しい風を求めコンベンションに出かけ、そこでトラブルに見舞われた場合、身内での経験はなんの役にも立たないでしょう。身内だけで遊ぶことは、プレイスタイルの硬直化を招き、趣味として長続きしない遠因となるかもしれません。なによりも、似通っても他人は他人、意志の齟齬からトラブルが起きる危険性は常につきまとうのです。
交渉ゲームとは、ゲーム理論で言うところのゲームに近い概念です。
ここでは、実際の政治外交やマルチゲームを想像してもらうと分かりやすいでしょう。例えば、シミュレーションゲームであれば、戦闘という交渉を通じてお互いに自軍の勝利を目指すことになります(この例はゼロサムゲームであるので、例としてはあまり適当ではありませんが…)。二人以上の人間が存在する場合に必ず自然発生的に発生するゲーム状況においては、人は、己の利益追求のため、他者と様々な交渉行為(戦闘・買収・説得・泣き落としなど)を行うことになるわけです。
“広義のゲーム”に限らず、二人以上が参加している遊戯はすべてかならず交渉ゲームになります(そして、二人以上が同じフィールドに立つとき、すべての事象が交渉ゲームとなりうるのです)。
なお、TRPGのプレイング論として有名な、「馬場秀和のマスターリング講座」『馬場秀和ライブラリ』の意思決定は、視点が異なるだけで、基本的に交渉ゲームと同義と考えられます。
一方、交渉ゲームと似て異なるものに論理ゲームがあります。
論理ゲームとは、“狭義のゲーム”競技ゲームとほぼ同義と考えてくださってけっこうです。
論理ゲームとは、数値をこねくり回すゲームです。様々な数値・方式を組み合わせ、最適化された戦術を模索します。囲碁・将棋。最近であれば、TCGが分かりやすい例でしょう。例えばTCGにおいては、デッキ構築により複数のカードを組み合わせ、カードの効率を劇的に向上させます。この、効率を向上させ最適化を目指すという行為こそ、論理ゲームの最大の特徴となるわけです。
ここで、ほぼ同義とは、論理ゲームが必ずしも競技性、すなわち対戦相手の存在を必要としているとは限らないからです。例えば、テレビゲームの多くは、対戦相手は存在せず、せいぜい、プログラム上に仮想敵を見いだすだけです。論理ゲームは、競技ゲームとは異なり、対戦相手が不在でも成立するのです。
では、交渉ゲームと論理ゲームとは、実際にどのような異同が見られるでしょうか?
共通点としては、両者とも、ゲームと呼ばれるだけの特性を備えていることが挙げられます。
ゲームとは、「PL」が「資源」を「用いる」ことで自身の「勝利」を導く(目指す、とは限りません)という行為です。アクションゲームであれば、自機のライフを維持しつつ、有効なアイテムを回収し、それによって最終的な勝利(ゲームクリア)を導くことになります。博打は、自身の金銭と運とイカサマの腕前とそれからゲームそのものの実力を資源としてプラス収支を導くことを勝利条件としています。政治外交であれば、およそありとあらゆる状態を利用して、最終的に自国の得になるような条件を相手にのませることを目的とするでしょう。
交渉ゲームは、あらゆる要素を「資源」化し、あらゆる要素を「用いる」ことで、個々人の「勝利」を導きます。
論理ゲームは、各種数値という「資源」を用い、数値の操作という形で効率を高め(「用いる」)、自身の「勝利」を導きます。
一方、相違点は、論理ゲームにおいては、ルールが絶対視されるのに対して、交渉ゲームではルールは絶対視されず、時にルールの発見(という言い方をする時点で、交渉ゲームはゲーム理論にいうゲームではないのですが…ややこしくなるのでここでは説明を割愛します)が行われることすらあるということです(交渉ゲームのノールール性)。
博打を例に説明をしてみましょう。
論理ゲームにおいては、イカサマは絶対にしてはならない行為です。イカサマはルールの外に置かれ、イカサマをした者には厳しいペナルティ(テーブルからの退場)が待っています。
ところが、交渉ゲームにおいては、イカサマは重要な交渉手段・資源の一つとされます。交渉ゲームのルールの中においては、イカサマも当然に想定されるべき行為であり、同時に、イカサマを発見するテクニックおよびイカサマを摘発するテクニックも重要な交渉手段・資源になります。ただイカサマを発見・摘発するだけではなく、イカサマ師にとって最も致命的な瞬間(観客がイカサマ師を絶対悪と認識してしまう瞬間であり、かつ、イカサマ師が言い逃れが出来ない瞬間)にそのイカサマを摘発する必要さえあるのです(なお、イカサマの摘発が、交渉ゲームにおいて有効な交渉材料・資源となりうるのは、論理ゲームにおいて「イカサマが許されざる行為である」ということを資源として活用した結果です)。
また、交渉ゲームは論理ゲームと異なり、PL間の資源差、不均衡について無頓着です。外交において、強国が常に交渉のアドバンテージを取れるとは限らず、弱者は弱者なりに知恵を絞り、団結し、相手国のメディアに訴え、勝利する場合も珍しくありません。それはすべて、交渉の進め方次第で決まるに過ぎないのです。
そして、交渉ゲームと論理ゲームとは、異なる概念として理解されていますが、両者は矛盾することなく、多くの、特に多人数で遊ばれるゲームが両者の側面を備えることは、決して珍しいことではありません。論理ゲームの代表格である囲碁・将棋・TCGでも、PL間での心理戦という形で交渉ゲームは行われます。相手のミスを誘うために悪手を打つ場合も十分にあり得るでしょう。交渉ゲームと論理ゲーム、似て非なる二つのゲームは、ゲームと呼ばれる事象において、常に内在し続けるのです。
さて、このように、ゲームを二分して考えたとき、TRPGのゲーム性の正体がなんであるか明らかになったと思います。(広義のゲームである)TRPGのゲーム性の特徴は、その論理ゲーム性にあるのではなく、交渉ゲーム性にこそあるのです。ルールを破っても良いというTRPGのテーゼは、交渉ゲームのノールール性に通じるところがあるでしょう。
では、このように、TRPGを交渉ゲームとして理解したとき、先のプレイスタイル論はどのように理解されるのでしょうか?
ここで重要なのは、ルールの絶対性を過信しないというスタイルです。
論理ゲームではその絶対性が重視されるべきであるルールも、交渉ゲームにおいては、交渉材料の一つに過ぎません。交渉ゲームにおいては、ルールは常に発見され、交渉され、書き換えられます。交渉ゲームでは、交渉の結果、時には美しい物語が、時には楽しいノリが優先されることも珍しくありません。
たしかに、論理ゲームのルールは、数値の採用などその論理性・客観性ゆえ、多くの人の共感を勝ち得る強力な交渉材料となるでしょう。しかし、交渉ゲームにおいては、客観性・論理性が交渉のすべてではありません。泣き落としなど、感情的に訴える方が有効な場合も時にはあるのです。
もし貴方が、論理ゲームのルール、システムのルールを主張する場合、卓の参加者をいま一度見渡し、それがその卓に相応しい主張であるか、良く考えてみる必要があるでしょう。
TRPGを交渉ゲームとして理解したとき、TRPGは、ルールやストーリーやノリといった(さらに邪な物言いをすれば、実際の人間関係まで)、あまたの事象を利用し、各々の参加者が己の目的(楽しみたい、楽しませたい)という欲求を満たす遊戯である、ということが理解できるかと思います。TRPGを交渉ゲームとして理解するということは、あらゆるスタイルを受け入れるということです。すなわち、TRPGを、ルールやストーリーやノリといった(さらに邪な物言いをすれば、実際の人間関係まで)、あまたの事象を利用し、各々の参加者が己の目的(楽しみたい、楽しませたい)という欲求を満たす遊戯として遊ぶということです。
もっと柔軟に、もっとフレキシブルに、ルールの絶対性を過信することなく、美しいストーリーを強要することなく、ノリに付いていけない他者を排除することなく、参加者全員を巻き込んで楽しむのに最も相応しい方法がなんであるか常に模索すべきでしょう。重ねて書きます。ルールは絶対ではありません。ストーリーを押しつけてはいけません。いつもノリだけで遊べるとも限りません。そこにあるのは、常に、どのような資源を用い、どのように交渉するかという、真摯な姿勢があるのみです。ある人はルールによって交渉するでしょう。ある人はストーリーによって交渉するでしょう。ある人はノリによって交渉するでしょう。一つに固執することなく、そのときに最も適切な手法を模索してください。交渉ゲームにおいて最も大切なことは、妥協を覚えるということです。
そして、それこそがTRPGに限らず、交渉ゲーム一般にいえるルール、すなわち不文律なのです。その交渉のテーブルにおける不文律の発見、妥協点を見いだすこと、それこそが勝利の鍵と言えるでしょう。
TRPGの交渉ゲーム性を強調することには、もう一つ理由があります。
それは、TRPGの交渉ゲーム性を強調してはじめて、GMが遊戯の参加者としてPLと対等な立場に立てると考えられるからです。
前述したとおり、TRPGにおいて、GMとPLとは平等な関係には立っていません。GMに委ねられた権限は強力であり、そもそもTRPGは論理ゲームとして成立していません。世界そのものを資源とするGMは強大です。そこで論理ゲームを成立させるためには、GMは己を自制することを覚える一方で、PLは一丸となってGMに立ち向かう必要があります。論理ゲーム的にはルールは守られなければならないことを利用し、PLたちはルールブックを精読し、GMの暴虐に対抗してきました。
そして、このような論理ゲームが、論理ゲームとして如何に歪んだ構造であったかは、やはり前述したとおりでしょう。いかなる手当をしたところで、参加者間で資源の不均衡が起きている時点で、論理ゲーム的にはゲームが成立していないことになるからです。論理ゲームとして遊べるTRPGシステムは、世界広しと言えども、『S=F』や『トレイダーズ!』ぐらいでしょう。
ところが、TRPGを交渉ゲームとして把握した場合、事情は一変します。交渉ゲームにおいては、明確な資源差さえただの交渉材料の一つに過ぎず、GMは、審判役という形で強大な権限という資源を有した一参加者に過ぎないことになります。圧倒的な勝者は他の参加者の反感を招きやすく、特権を振るえば振るうほど、他の参加者(この場合はPLたち)は団結し特権行使に対抗することになります。そこで、GMは、意図的に特権行使をゆるめ、PL側に歩み寄り、PLの一部の囲い込みをおこなうといった政治行為・交渉を行う必要が出てくるのです。このような理解の元では、GMとPLとの間に本質的な差異は認められず(もちろん、実務的には決定的な差異がありますが)、同じ視点で論じることが可能となります。
GMといえども、TRPGの参加者の一人にすぎないのです。
では、良き交渉を!
以上が、「“TRPG=交渉ゲーム”論」の骨子です。この記事では、正確な論証はせず、交渉ゲームの重要性を分かりやすく記述する事に勤めました。
なお、この論考は、このあとさらに各論に続き、「交渉ゲームの難しさと論理ゲームの誤解」「ストーリープレイの勧め(ゲームであることを利用する)」「交渉ゲームの論理ゲーム化(FEAR作品の真意)」「TRPGで論理ゲームをする方法(GMは公平であるべきか?)」「意思決定とはなにか?(意味ある選択肢の作り方)」「フラグ管理の在り方」「共有の正体」「プレイスタイルが異なる者同士が卓を同じくするために」といった、個別論点を論じる予定です。
ところで今日(2002/07/16)、ぶらりwebを旅していたら、こんなものをふと見つけました。どうやら、私の考え方もどうやらそう特殊なものではないようで、一安心です。そうだよなぁ、別に、「交渉ゲーム」なんてご大層な術語を使う必要なんてないんだよなぁ。
ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、tatuya215@hotmail.comにお願い申し上げます。