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すみません。いきなり電波入っています(苦笑)。
とはいえ、N◎VAを一言で説明するのであれば、おそらく、この言い方が一番適切でしょう。N◎VAは、アーバンアクションTRPGでも、サイバーパンクTRPGでもなく、物語そのものなのです。
「物語」というものがあります。人は物語を楽しみます。
では、ここで質問です。
人は何故、物語を物語として認識するのでしょうか?いきなり難しい問いかけになってしまいましたが、答えは実は簡単です。
人は何故、物語を楽しむのでしょうか?
そもそも、物語とは何でしょうか?
人は物語を創造(想像)する生き物であり、物語を楽しむ生き物だからである。答えになっていません。が、これは紛れもない事実です。人は物語を想像する能力を有し、物語を楽しむ能力を有しています。そして、物を語る(騙る)という行為によって物語は発生するのです。人は外から与えられたバラバラの刺激に対し何らかの因果を見いだし、そこに一つのストーリーを見いだす生き物なのです。人は、物を語らねば生きていけません。
物語とは、「物を語る(騙る)」行為である。
例えばここに三枚のカードがあったとします。「桃」「鬼」「きびだんご」。さて、貴方は何を連想しますか?
答は簡単、もちろん「桃太郎」でしょう(いやまあ、世の中いろいろ例外はありますが)。
しかし、ここで不思議なことがあります。貴方はたった三枚のカードから何故、桃太郎という物語を連想したのでしょうか?もちろん貴方が桃太郎という物語を知っていた、というのもあり得る理由でしょう。
ですがここで問題とすべきは、「桃太郎」を連想したことではなく、桃太郎という「物語」を連想したという事実なのです。
何故、物語を連想したのか、物語以外の何かを連想できなかったのか、問題とすべきはこの事実なのです。
あるいは、何故たった三枚のカードから物語を連想したのか、何故カードとカードとの間を物語によって埋めてしまったのか。
この問いに対する唯一の回答が、「人は物語を創造(想像)する生き物であり、物語を楽しむ生き物だからである」という答えなのです。人は断片的な情報をつなぎ合わせ、想像し、物語を作り、そしてその物語を楽しんでしまう生き物なのです。
そして物語を作るという行為こそ、まさに物を語るという行為それ自体なのです。
人は物語を勝手に連想してしまう生き物です。であれば、物語を作るには物語を「作る」という作為的な行為はある意味不要であり、ただ、物を「語り」さえすればことが足りるのです。
さて、このように「物語」を「物語り」と定義したとき、実は、N◎VAのみが物語であるわけではないという事実に気がつかれるでしょう。
その通りです。物語とは、およそありとあらゆる物に適用される現象です。この世に起こったありとあらゆる事象に適用される現象です。ニュースも、人生も、ゲームも、パズルも、恋愛も、論文も、およそありとあらゆる物に物語は発生してしまうのです。そしてもちろん、TRPGにも物語は発生します。人は事象を「解釈」し、そこに因果を見いだすことで物語を創造(想像)してしまう生き物なのです(解釈作業とは物を語ることであり、物語なのです)。
例えば、将棋を指したとします。
将棋の一手一手自体はただの出来事に過ぎなくても、それを後から見返してみれば、恐らく人はそこにターニングポイントとなった一手を、その一手を決めた人の心理を、そしてドラマを見いだすことでしょう。将棋はゲームであると同時に、優れた物語創造機なのです(すべてゲームとは優れた物語創造機であると言うべきでしょう…なお、この論考では、ゲームの定義はいたしません。本論考とは関係ないからです)。
そしてTRPGとは、ゲームの中でも屈指の物語の指向性を持ったゲームなのです。
なぜなら、TRPGとは事件をゲームとして取り扱うからです。
物語とは、先も触れたように「物を語る」ことです。
そして、物語は二つの要素によって構成されています。
すなわち、「物」を語ることと、物を「語る」ことです。
「物」を語ること。これは事実を告げることです。「物」、すなわち「何らかの事象」を報告するという行為です。人は語られた「物」と「物」との間を補完し、そこに物語を見いだすのです。だからこそ、全ての事象が物語たり得るのです。そして、物語るには、なによりもまず「物」を語らねばならないのです。
物を「語る」こと。これが事件です。事件とは解決されなければなりません。解決されていない事件も、事件が解決されないという形で解決されます(ただし、中途半端さは残るでしょう。ハッピーエンドが望まれる由縁です)。事件とは、必ず解決されるものなのです。
しかし、事件を解決するには、そもそも事件が発生していなければいけません。
また、事件の発生と解決との間には、事件が展開されます。
従って、事件とは、発生し、展開し、解決されるものなのです。
事件は、「物」語りとは異なる行為です。「物」とは個々の事象、すなわち、事件発生(皿が割れた)や展開(割れたことがばれた)や解決(怒られた)個々の現象を意味するに過ぎません(あるいは、もっと細かい単位で「物」が語られることもあります)。事件とはそうではなく、「物」と「物」との間を語ることなのです。あるいは、「物」と「物」との間を順序だって語るということなのです(例えば、先の例で言えば「怒られた」「割れたことがばれた」「皿が割れた」という順番に物語れば、そこに物語は発生しないでしょう。あるいは、全く別の物語が発生することになります)。これを先の言い方で言えば、物を「語る」ということなのです。
事件とは、常に恣意的な解釈です。事件とは、「物」と「物」との間に観察者が恣意的に解釈、恣意的に因果関係を見いだして初めて成立する現象です。例えば、20世紀における最もドラマティックな事件として第二次世界大戦があります。しかし、第二次世界大戦を一個の事件、一個の物語として捉えるにあたっては、観察者・解釈者の態度によって恣意的に解釈されています。第二次世界大戦を太平洋戦争中心で捉えるか?ヨーロッパ戦線中心で捉えるか?連合軍中心で捉えるか?三国同盟中心で捉えるか?そもそも戦争の始まりをポーランド侵攻まで遡るか?三国連合まで遡るか?ナチスドイツの台頭まで遡るか?第一次世界大戦まで遡るか?それとも、もっと遡るか?戦争の終わりも、どの時点を持って終わりとするのか?冷戦もまた第二次世界大戦の延長とするか否かで、そこで描かれる物語は大きく異なるでしょう。これが、観察者の恣意的な解釈という意味です。
事件とは、観察者による恣意的な解釈なのです。
TRPGが取り扱うのは、解決されるべき、恣意的に判断されるべき事件です。事件は解決されなければなりませんし、誰かが事後報告しなければなりません。だからこそ、TRPGは物語に対し強い指向性を有しているのです。
N◎VAは(ああ、ようやく話が元に戻った)、凡そありとあらゆるTRPGの中でも、屈指の物語の指向性を有したシステムなのです。その指向性は、(善し悪しを除き、)ストーリーテーリングと銘打たれるヴァンパイア・ザ・マスカレードすら軽く凌駕します。その物語の指向性に追随するものといえば、レレレか熱血専用ぐらいでしょう(だからといってN◎VAが良いゲームであるという証拠にはなりません…いやまったく、だからこそN◎VAというゲームは物議を醸し出すのです(苦笑))。
何故か?
従来のTRPGシステムは、ゲームとして事件を扱いつつも、そのシステムで語られてきたのは常に「物」でした。
それは、キャラクターであり、世界設定であり、世界の法則です。国があり、職業があり、怪物が住み、どのようなものを食べ、どのようなもので退屈を紛らわすか。
もちろん、物語とは「物」を語ることで成立する以上、それでことが足りますし、そこに物語は生じます。何も問題はないでしょう。
しかし、忘れてはいけないことがあります。物語とは「物」語ると同時に、物を「語る」ことでもあるのです。物語とは物を「語る」が故に、TRPGは多くのゲーマーの頭を悩ませ続けたのです。
TRPGシステムは「物」を語っていても、物を「語る」方法は何も提供していなかったのです。
かくて試行錯誤が行われ、様々なテクニックが編み出されました。基本的なところで言えば依頼を受けることやチームを組むことです。依頼を断ることやチームを組まないことは最高レベルのテクニックです。これは、個々のシステムのルールおよび世界設定にどんなに精通したところで身に付く物ではありません。TRPGゲーマーは(物を「語る」ことがルールでサポートされていない故に)、なによりも物を「語る」ことに精通している必要があったのです。
そしてだからこそ、TRPGは常にひとくくりにしてTRPGと呼ばれ続けるのです。
ある人は言いました。野球とサッカーを、同じスポーツとしてひとくくりにして論じることは暴論である。それと同じように、TRPGも個々のシステムで語られるべきである。これは、正論です。しかし同時にTRPGの本質に対しての理解が足りないとも言えます。TRPGは未完成品のシステムであるが故に、物を「語る」という共通のテクニックが要求されるのです。TRPGはTRPGという枠でくくらざるを得ないのが現状です。
これはTRPGの魅力として語られると同時に、最も致命的な欠点でもあります。
TRPGは物を「語らねば」ならないのに、その肝心な「語り」の手法がルール化されていないのです。これを致命的欠点と言わずしてなんだというのでしょう(たとえ、その欠点が一番の魅力だったとしても、です!)。
もちろんこの現状に対し、多くのシステムが様々な形で回答を出しています。チームを組ませる、戦士・盗賊・魔法使いというカテゴライズ、ロールプレイの推奨(今こそ声を大にして言いましょう。ロールプレイはTRPGの手段に過ぎません。大切なのは物語なのです)、GMに対する協力、システムコンセプトに従うということ(騎士は騎士らしく)などが挙げられるでしょう。
これは今まで、上級者のテクニック(先読みや他の参加者に対する配慮など)、あるいはプレイングのマナーとして片づけられてきたことでした。
一方、N◎VAシステムは「物」を語りません。ただ、物を「語る」のみです。
みなさんは気がつかれたでしょうか?
N◎VAシステムにおいて、個々のルールと世界設定との間に何もつながりが見いだされていないということに。
何故キャストは神業という超人的な力を使えるのか?N◎VAの世界設定は、これらの疑問に対し何も解答を示していません。スタイルについては20頁においてかろうじて設定らしき物が見られますが、いいわけ臭さは拭えないでしょう。
何故キャストは22のスタイルによって表現されるのか?
何故キャストは登場判定によって登場できるのか?
N◎VAシステムはゲームだが、…あるのはただ“物語”である。そうです。N◎VAは物語なのです。
キャストがスタイルによって表現されるのも、神業を使えるのも、登場できるのも、エキストラと差別化されるのも、全ては物語故なのです。キャストは超人ではなく、ただの物語の主人公に過ぎません。キャストは物語の主人公である以上、エキストラと異なり、能力(値)を持ち、物語に介入でき(登場判定)、そして、物語を終わらせることが出来るのです(神業)。キャストが神業を使えるのになにも世界設定的な理由は必要ではありません。キャストは物語の主人公である以上、物語を終わらせる力を持っていて当然なのです。カタナは人を殺すことで物語を終わらせますし、チャクラは人を生き返らせることで物語に決着を付けます。ハイランダーは物語のキーマンとしてご都合主義に巻き込まれるのです。
なに?物語を終わらしたくない?贅沢な人ですね。ならば神業を使わなければいいでしょう。エキストラにおなりなさい。そうすれば貴方は世界の背景になれます。物語はいつまでも終わりを迎えることはないでしょう。神業を使うか使わないかの選択権は、常に貴方にあります。
N◎VAシステムとは、システム内に物を「語る」ためのギミックをより意識的に備えたシステムだったのです(もちろん、従来のシステムに物を「語る」ことが皆無だったとするのではありません)。
では、N◎VAの革新、革命は成功したのでしょうか?
忌憚ない回答をするのであれば、N◎VAの革命は必ずしも成功したとはいえません。
N◎VAシステムの内部、あるいはその周辺に致命的なバグが見受けられるからです。
まずは、「物」語りの不在。
N◎VAに対してなされる批判の一つに、世界設定の希薄さが上げられるかと思います。
特に従来のTRPG、すなわち「物」語りに慣れていた人間にとって、N◎VAの世界設定の希薄さは苦痛以外の何者でもないでしょう。とにもかくにも辛いのが、ルールと世界設定との齟齬です。N◎VAシステムでは特技や神業により超人的な活躍が認められているにもかかわらず、それが世界設定の上では全く説明されていません。もちろん、<居合い>など、分かりやすい特技もありますが、<謎のプレゼント>など、どのように説明して良いかさっぱりわからない特技も多いのです。極め付きは神業。≪天変地異≫や≪守護神≫ならば、神の力を借りるとでも言えば分かりやすいでしょうが、例えば≪真実≫など、「真実を!」とキャストが叫んだだけでゲストは何故真実をべらべらと話してしまうのか。このような傍若無人な力をふるえて、キャストと世界設定との間に矛盾は生じないのか。ここで不安になるPLも多いのでしょう。N◎VAにおいては、「物」、すなわち世界設定が語られることなく、「語り」、すなわちキャストたちの活躍のみが進行するのです。
どうにもこれは、ご都合主義ではありませんか。普通は。
そしてこのご都合主義こそ、この(説明がなされない)神業・特技故に、キャストはジャパニメーションやアメコミに登場する超人のような能力を有しており、派手なアクションシーンを楽しむシステムであると誤解されている由縁です。キャストをヒーローと再解釈することでご都合主義を回避しているのでしょう(ご都合主義に納得しているのでしょう)。そうでなければ、カタナが≪死の舞踏≫という能力を持っていることの説明とならないのです。
………本当に、そうですか?
ここら辺、本来は物語論として激論が繰り広げられるべき処ですのであまり深入りはしませんが(詳しくは、『ONE』というノベルゲームについて考察した「えいえんの向こうに見えるもの」をご覧ください)、物語とは別に「物」を語るだけではありません。物を「語る」ものでもあります。ある意味、なんらかの(あまり説明されていない希薄な)「物」を「語る」だけでも物語は成立するのです。大切なのは展開される物語であり世界設定ではないと考えれば、「物」語りの不在はそれほど致命的なことではないでしょう。世界設定の不在は、少なくとも私にとっては致命的な弱点足り得ません。
なんども言及するように、カタナの神業≪死の舞踏≫はカタナのというキャストの能力ではありません。そうではなく、≪死の舞踏≫とは、カタナというスタイルが担った、物語内の役割にすぎないのです。≪死の舞踏≫とは、カタナの世界設定ではなく、カタナが物語内で要求される役割の具体的な現れにすぎません(だからこそ、N◎VAにおいてカタナが≪死の舞踏≫を使うか使わないかという判断をすることがドラマチック足り得るのです…最近、神業の使用不使用を悩ませてくれるRLと出会っていないなあ…)。
そもそも、物語なんて全てご都合主義です。物を「語る(騙る)」時点で物語はうさんくささが拭えない物です。しょせんはご都合主義にもっともらしい理由が付いているかいないかの差にしか過ぎないのです。
それでもご都合主義が鼻につく?ならば、ご自分が語れる範囲で物を「語り」なさい(神業の効果を自粛してみるとか)。なにも無理をすることはありません。なんでしたら、そもそもN◎VAをプレイする必要もないでしょう。
N◎VAは、「物」を語りません。
そうであるに関わらず、N◎VAは物を「語る」ことが可能になっています。
では何故、世界設定もないのに、人はN◎VAを遊べる、物語を作れるのでしょうか?
実は、その答えはすでに提示されています。桃太郎です。人は、「桃」「鬼」「きびだんご」というたった三つのカードから、世界設定の提示がないにも関わらず、物を語ることが可能なのです。
それを可能にする物こそ、プロットや元型論なのです。すなわち、物語には法則があるのです。どんな物語りも決まった筋道を持ち、似たような人物が似たような役割をこなします。これは凡そ例外がない現象です。物語には、決まったパターンしかないのです。だからこそ、人は世界設定なくして物を語ることが可能となるのです。
N◎VAは、フェイズやシーン、スタイルや神業というルールによって「物」を語ることなく、物を「語る」のです(スタイルや神業が如何に物語であるかは、既に示したとおりでしょう。カタナであるということは、人を一人殺すという物語りです)。
もちろん、「物」語りも無いに越したことではありません。そういう意味では、N◎VAの「物」語りの不在は批判されてしかるべきことなのかもしれません。
…が、人によっては世界設定など邪魔以外の何者でもない人もいることを忘れずに。歴史や伝説、過去の物語から取材をしてシナリオを作る人間にとっては、独りよがりな世界設定ほど不必要な物はないのです。個人的には、独りよがりの世界設定など、オナニーにすぎません。人が一人で考えたご都合主義で塗り固められた世界設定よりも、人々の多くの共通認識が生み出した歴史や伝説、古典文学の方が如何に豊かな世界設定を提供するかは、想像するに難しくないでしょう。つまりは、そういうことです。N◎VAは「物」語りを選択したシステムではなかった。ただ、そういうことなのです。
ただし、物「語り」という意味で見ても、N◎VAに欠点がないわけではありません。
そもそも、N◎VAシステムを語るべき世界設定としてトーキョーN◎VAという舞台は適切であったでしょうか?
N◎VAは、サイバーパンクです。これは、N◎VAの参考文献を見れば明らかなことでしょう。
そうでなければアーバンアクションと呼ばれているそうです。
どちらにしてもN◎VAは近未来を舞台にしていることだけは間違いないようです。
では、N◎VAのこのような舞台設定は適切であったか?
正直言えば、あまり適切ではないでしょう。なぜなら、近未来を舞台にした作品に物「語り」は似合わないからです。物「語り」という手法は、SFよりもむしろファンタジーにこそ相応しいのです(両者の差異についても「えいえんの向こうに見えるもの」参照のこと)。
この点、より明確な回答を出すことに成功したのが、事実上N◎VAの後継機と目されるファンタジーTRPG『ブレイド・オブ・アルカナ』です。アルカナは魂の転生と聖痕の解放をテーマに据え、英雄たちの戦いをドラマチックに描くことを主眼にしたシステムです。そこで描かれる物「語り」は英雄的であり、伝説的です。
多くの物語研究から明らかなように、英雄譚や伝説は物語りの様式化が顕著であり、登場する人物全てが必ず有意味で語られます。シャドー、グレートマザー、トリックスター、老賢人、援助者などなど、その意味するところを知っている方も多いでしょう。そして、アルカナの聖痕は、これら登場人物の物語内における位置づけを担う意味を有しています(ウェントスであればトリックスター、ステラであれば援助者など)。その上で、N◎VAのスタイルに相当する聖痕は、神々の欠片であり、その力の源はすなわち物語です。アルカナは、聖痕という世界設定、「物」語りにより、物「語り」に成功したシステムといえるでしょう(その代わりアルカナは、別なところで幾つかあれな失敗も見られますが…(苦笑))。
アルカナの聖痕や奇跡に比べ、N◎VAのスタイルや神業は世界設定とマッチしていないのです。
これは、スタイル解釈の半端さを見れば明らかです。
ニューロというスタイルがありますが、これはタロットカードとしては“世界”です。物語世界は、ニューロによって完成されます。ところが、ニューロというスタイルは、トロンを扱う者として表層的にのみ捉えられ、その物語内部で明確な位置づけを与えられていないのです(多くの解釈を許容するマネキンやミストレスとは大違いです)。ニューロは、ニューロという「物」を語るに止まり、肝心の物「語り」を提供できていないのです。
(自称)中・上級ゲーマーにとって、N◎VAはしんどいゲームです。
なぜなら、N◎VAにおいてはそれまで培ってきたテクニックが凡そ通用しないからです。N◎VAにおいてはそれまで蓄積された物を「語る」テクニックがなんの役にも立たないのです。
この点、問題となるのが、ルール通りでなければ物「語れない」という制約です。従来、ルールがない故に、ルール無しで物「語り」をしてきたのに、そこにルールが付与された。(自称)上級ゲーマーのとまどいはいかほどであったでしょうか。そこで彼等は、N◎VAのルールを不要と断じます。今まで、ルール無しでやってきたことに、何故今更ルールを付与する必要があろうか、という論調なのです。
確かに、(自称)中・上級ゲーマーにとって、N◎VAは今までの方法論が全く通用しない分、しんどいです。
N◎VAで遊ぶには、改めてN◎VAシステムに精通する必要があるでしょう。物「語り」という最も重要な行為がルール化されたため、従来のシステムのように段階的にルールを追加していけばことが足りたのとは異なり(例えば、追加データや行動オプションなど)、はじめからある程度システムの意図を見抜いた上でゲームを始めなければなりません。登場判定など、システムの根幹に位置しながらも、それを有意義に使いこなすにははじめからある程度その意図を見抜いている必要があるのです。N◎VAシステムにおいては、とりあえずシステムを動かしてみるというプレイングが許されません。
彼等からすれば、もともと物「語り」の技術はルール無きところで開発されたテクニックである以上、そこにルールを改めて導入することは邪魔以外の何者でもありません。ならばN◎VAにおいても無視できるかと言えば、無視できない。N◎VAは、システム通りにルールを動かさないと確実に停滞するように出来ているのです(カード判定は判定し続けてこそ有効に機能する物です。そこでは、従来の手八丁口八丁でダイス判定を回避するというテクニックは役に立ちません。ちなみに、天羅などもN◎VAと同じく気合などを稼がないとシステムがまともに機能しない構造になっています)。(ルール通りに動かさないとシステムが停滞することを欠点と呼ぶことは、なにやら変な気がしますが、)これはN◎VAの明らかな欠点として指摘されるべきなのでしょう。とにもかくにも、登場判定に成功できないとそもそも物語に参加できないと言うのが辛いと思われます。N◎VA初心者は、おそらく登場判定を有効に使いこなすまでが辛いことでしょう。そして、複雑な特技ルール。N◎VAは、膨大な量のルールを理解できていないとまともにキャラを作りゲームに参加することすら困難なゲームとなっています。
そういう意味では、N◎VAは、無用に「はじめの敷居」が高いシステムです。
とはいえ、それだけの理由でN◎VAが打ち出した方法論を失敗作としてうち捨てるのも、何だかもったいないことは確かです。N◎VAは、初めて物「語り」に目を向けさせることに成功したシステムであったことも確かなのです。ルールが必要ない部分をルール化する作業は無駄だというかもしれませんが、単に、惰性と怠慢でルール化を避けていただけであるという言い方だって出来るかもしれません。ここは、真摯な研究が望まれます(一つの在り方として、登場判定の選択ルール化、特技・神業解釈の弾力運営が考えられるでしょう。詳しくはプレイスタイル論を参照のこと)。
さらに、サポートの在り方にも問題があります。
今までの議論からすると、N◎VAの理想的なサポートの在り方も自ずから見えてくるでしょう。N◎VAにおいて必要とされるのはデータや世界設定ではなく(もちろん、世界設定は「物」語りとしてあるに越したことはないのですが)、物「語り」のためのシステム解釈です。具体的には、リプレイやシナリオを用いることで様々なルール解釈やスタイル解釈の提案すべきだったと思います。
そして現在、N◎VAのサポートは追加データ(特技・アウトフィット)とシナリオ、およびシステム解説により行われています。が、正直、この展開はうまくありません。
それが追加データによる安易な拡張です。
N◎VAは、エクリプス以降積極的にデータを増やしています。これは、(過去を含めた)国産TRPGの中では飛び抜けて頻繁です。N◎VAは、この大量のデータ群のおかげで物語の幅、プレイの幅を広げています。
しかし、そのやり方はうまくありません。なんども言うようにN◎VAは物「語り」であって「物」語りではありません。物「語り」は先に示したように、事象に対する恣意的な判断です。物「語り」の肝は解釈の幅にこそあります。一つの事象からあまたの事象を連想できたとき、そこに本当の物語(物「語り」)が生まれます。このような物語(物「語り」)の特性を見たとき、追加データという方法によるデータの拡張は、従来のデータでは再現出来ないから拡張するという「物」語りの発想であり、物「語り」の解釈・連想を阻害しかねません。物語の幅を広げていると見えるも、実は物語(物「語り」)の幅を狭めている可能性の方が高いのです(…すみません。何だか分かりにくい話ですね(苦笑))。
例えば、ミュータントをN◎VAに導入するにあたっては、安易に(ミュータント以外でプレイできない)ヒルコというスタイルをルール化するのではなく、ミュータントが再現可能なスタイル解釈をもっと押し進めるべきだったと思います(例えば、カタナ、カゲ、チャクラ)。
例えば、再現できないからと特技を安易に増やすのではなく、従来存在する特技を解釈することでこじつけられないか(あるいは特技の再定義)ということを試みるべきだったのだと思います(このままでは、〜があるから〜は出来ないという閉塞感を生むことにもなりかねません)。
追加データやシナリオ、解釈の偏りも気になります。
これは、一目瞭然ですが、現在のサポートは、完全に肉体戦闘しかサポートしていません。いわゆる、ジャハニメーション、アーバンアクションのかっこいい戦闘シーンを再現する方向性のようです。
しかし、今までの議論から明らかなように、N◎VAが再現しようとする物語はジャハニメーション、アーバンアクションというヒーロー指向の物語に限られません。もっと地味な、シックな映画やハードボイルドといった物語の再現も可能なシステムとなっています。そして、物語の幅を認めることこそ、N◎VAが真に目指した物「語り」の指向性ではありませんか。
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