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浩平にとって、永遠の世界が生まれたのはいつでしょう。永遠の盟約をした幼少のみぎり?それとも、まさに消滅した高校二年のとき?永遠の世界はどこで生まれたのでしょうか。浩平の心の中?それとも、心の外?永遠の世界はどのようにして生まれたのでしょうか。みさおの死がきっかけ?それとも、キミとの永遠の盟約によって?
近年の文芸であれば、物語の背景設定を作りこみ、このような問いに対し、一つ一つ丁寧に回答していくことでしょう。
しかし、『ONE』は違いました。『ONE』は、そのような様々な問いを無意味と断じます。重要なのは、「PLにとって」永遠の世界の実在を実感させることただ一点。物語は所詮物語であり、重要なのは読者が物語を体感することです。『ONE』は、PLの体感を最重視し、それ以外の情報を不要と断じて切り捨ててきたのです。不必要な情報・過剰な情報は読者を情報過多に陥らせ、よけいな混乱を招くだけです。『ONE』はよけいな情報全てを切り捨てて、ただ物語の体感のみを強調した作りとなっているのです。そして、それは見事に成功しています。論者の多くが、物語内の破綻を指摘しつつも、永遠の世界の圧倒的な実在感を口々にします。
ファンタジーである『ONE』は、世界設定という理性による説得を放棄し、代わりに、感性による納得によって、物語の体感を目指しているのです。
では、PLにとって、永遠の世界は、いつ、どこで、どのようにして生まれたのでしょうか。
PLにとって永遠の世界が生まれた瞬間。PLにとって永遠の世界を体感した瞬間と言い換えてかまわないでしょう。
それはまさに、キミの一枚絵がPLの前に提示された瞬間でした。
幼少の浩平は、絶望します。永遠なんてありはしない。日常は必ず壊れる。物語の登場人物に感情移入したPLも浩平の絶望を見て、また絶望するでしょう(*28)。例の回想シーンでは、みさおの死が緩慢に描かれています。何かしてやりたくても、何も出来ない。既に終わった物語。浩平は、何も出来ない無力な自分にもどかしさを覚え、苛立ちます。そしてPLもまた、マウスをクリックして物語を進めるしかできない自分にもどかしさを覚え、苛立つことになります(*29)。幾万もの絶望です。
そのような幾万の絶望の中に、たった一つの偽りが希望が提示されたとすれば?『ONE』にとっての偽りの希望、それが、永遠の盟約と、それによってもたらされる永遠の世界でした。キミは言います。「永遠はあるよ」「ずっと、わたしがいっしょに居てあげるよ、これからは」そして、キミの一枚絵。暗い絶望のトンネルをくぐり抜け、そこに一条の光が射し込んできたとすれば?誰でなくとも、思わず、その光に飛びついてしまうのが人情というものでしょう。それが希望である限り、たとえ偽りであったとしても人は偽りの希望に飛びついてしまうものなのです。
キミの一枚絵は、まさに、たった一つの偽りの希望でした。PLの中に、永遠の世界が生まれた瞬間です。偽りの希望を実感し、永遠の世界を体感した瞬間です。ファンタジーとしても、ゲーム表現としても、優れた演出でした。
『ONE』は、永遠の世界をただ、「ある」とします。ただ、永遠の世界が「ある」という事実を、情緒たっぷりに伝えるだけです。永遠の世界の周辺部分(世界設定)を説明することなく、ただ、「ある」とします。その「ある」ことを読者に説得させるための演出が、塗りつぶした背景での回想シーンであり、そして、暗いトンネルを抜けた先にあったキミの一枚絵なのです。キミはまさに永遠の世界の象徴であり、何もない空間(塗りつぶした背景での回想シーン)に、たった一つ浮かぶ、ちっぽけな、今にも波に浚われそうな、不安定な永遠の世界そのものだったのです。そして、その永遠の世界の不安定さに、PLの多くが、不安を覚えてしまうのです。これだけの説明で良いのか?と。ここで、PLは、世界が、説得的な説明なしに、ただ「ある」という現状に、大いなる苛立ちと不安を抱くでしょう。情感では納得できても、理性では納得できない。
しかし、『ONE』は、そんなPLの不安すら逆手に取り、不安定な永遠の世界への消滅と、自分が安定したと思っている現実世界への帰還とを、ダイナミックに演出することに成功したのです。四で前述した倒錯表現です。不安定な世界からの帰還は、何よりも、安定した現実世界の実在を体感させるにうってつけでしょう。
『ONE』は、説明不足なのではなく、説明不足という演出を選択していたのです。
確かに、『ONE』は、一度でその物語全てを理解するには難しいものがあります。
永遠の世界の深淵はあまりに広く深いにもかかわらず、『ONE』は、永遠の世界を説明しないということを選択しています。
PLに、永遠の世界の不安定さを体感させるためにも、永遠の誕生は物語終盤でなければならないとしても、このままでは、永遠の世界、そして『ONE』という作品を理解してもらうことは不可能でしょう。『ONE』は、何らかの手段を採用することを迫られました。
そこで、『ONE』が採用したのが、「ゲーム表現」と「表現の抽象性」だったのです。
一回で理解できないのであれば、複数回のプレイを通じ、理解してもらえばよいだけです。
複数のヒロインを用意し、PLに複数回プレイしてもらう。その過程で永遠の世界と『ONE』の世界観そのものを理解してもらうという演出を、『ONE』は採用したのです。だからこそ『ONE』は、ヒロイン毎に似たような結末が提示されることになりました(*30)。『ONE』に対する批判の一つに、ヒロイン毎に違う結末の提示すべきであるというのがありますが、『ONE』が採用した表現は、一つの舞台でのオムニバスではなく、一つの舞台での同じ物語の繰り返しによる物語の増幅だったのです。
そして『ONE』は、この、物語の増幅を徹底的に利用します。『ONE』は、繰り返しプレイされることを前提として、PLを次々に物語の中に引き込みます。
まず、バットエンドの活用があります。
中田氏が指摘するように(*31)、PLは、極悪な選択肢によって、失敗をさせられます。失敗の結果、バットエンドを見る嵌めになります。悔しいと思うことでしょう。次こそはと思うことでしょう。そして、次は、前よりも物語を注意深く読むことになります。どのような意図で選択肢が作られたか?となれば、どのような選択肢を選べばよいか?ひたすら、そのことを考えます。PLは、考える過程で物語に巻き込まれ、前回よりは今回、今回よりは次回、『ONE』という世界をよりよく理解し、かつ、取り込まれていくことになるでしょう。
凶悪な選択肢は、個々のシナリオで見れば物語の阻害として機能するかもしれませんが、『ONE』という物語全体においては、物語を増幅させるに必要な演出であったのです。『ONE』は、バットエンドも含めて、一つの作品だったわけです。
ここら辺、leafの『雫』『痕』と、その演出方法が実は同じです。『雫』『痕』は、バットエンドにたどり着いて初めて、次のエンディングを見る選択肢が生じ、かくて、PLはバットエンドも含めて全てのエンディングを見ることになります。『ONE』もまた、凶悪な選択肢を持って、バットエンドを含めて全ての物語を見るべき作品だったわけです。
ならば何故、『雫』『痕』と同じ演出を採用しなかったかが、次の疑問となるでしょう。
確かに、『雫』『痕』の演出手法を採用するという選択肢もあります。
しかし、『ONE』は凶悪な選択肢を採用しました。そこには、PLの苛立ちすらもまた物語の演出として利用しようという戦略があったことが伺えます。
PLの自己責任。長森シナリオにおいて長森を裏切るような非道い選択肢も、茜シナリオの伝説の「右」「左」も、茜シナリオ最後の待ってから駆け出すという選択肢も、七瀬シナリオの「うーろんがましい」も、すべては、(1月8日エンドを含めた)バットエンドを『PLの自己責任により』確実に見せるため(*32)、繰り返しバットエンドを見させることでPLを苛立たせるために機能しています。PLの苛立ち、憤り、そしてトゥルーエンドによる昇華、そこまでを計算して作られたのが、『ONE』という作品だったのです(*33)。
ここで面白いのが、澪シナリオです。
私は、澪シナリオこそ『ONE』初心者に最も相応しいシナリオであると考えています。
澪シナリオは、キャラ萌えを除けば恐らく、一番はじめにたどり着くシナリオでしょう。最も登場が遅く、かつ、最も選択肢の分岐が遅れるシナリオです。期末試験が終わってから、実際の選択肢がはじまります。
例の回想シーンが終わるまではつつがなく進んでいた澪シナリオは、回想シーンの後、急転直下で激変します。ここで澪シナリオは、実に難しい選択肢をPLに投げかけます。一つは、自宅で思いに耽るときの選択肢。一つは、発表会の直後学内をさまようときの選択肢。PLは、なんどもバットエンドを見、そして選択肢に立ち戻ります。なんども何度も繰り返される選択肢。なんども何度も繰り返される選択肢の中で、PLはなんども同じテキストを読み、同じ物語を繰り返すことになります。
なんども悔しい思いをし、考えに考え抜き、そして、更に突きつけられる絶望。帰ってくると約束をしつつも消滅をした浩平。ちょっと違うエンディングロール。何が誤りだったか?PLは困惑します。そして、スケッチブック。浩平の帰還です。この演出は、何度も繰り返しバットエンドを見て、初めて実感できる演出です。しかし、まだ、謎は解けません。そこで、PLは更に他のシナリオに取り組むことを要求されます。
そして、PLは再プレイを始めて気がつきます。ささやかに伏線が配置されていることに。これも、物語の増幅の一つです。
はじめは何でもないと思って見過ごしたイベントが、次に見てみると伏線が細やかに配置され、重要な台詞が発せられていることが理解されます。「がんばっているもうん」という台詞すら重要なイベントシーンとして描くことなく、わざと物語の中に埋没させています。細やかなだけに、繰り返しプレイを通じ、その意味するところに気がついたPLにとって、その演出は致命的な物となります。PLは、まさに物語に飲み込まれるでしょう。
さらに、『ONE』では、同じ表現が何度も繰り返し使用されています。ファンタジーの抽象表現です。オープニングの独白は例の回想シーンに繋がり、さらに、個々に挿入される幻視のシーンに繋がっています。なんどもなんども、同じ言葉が登場し、しかも、その個々の言葉は、それぞれにおいて微妙に意味が違い、意味が二重取りされています(*34)。「…嫌です」「消えますよ」「普通でいいと思うよ」様々な言葉が、様々な観点から、様々な相から、物語を雄弁に語っています。そして、意味の二重取りをはじめとした抽象表現が最も意味をなすのが、複数回プレイなのです。『ONE』は、ゲーム表現を用いて、ファンタジーの抽象表現を最大限引き出した、まさにファンタジーの傑作だったのです(*35)。
まず、永遠の世界は、「日常」と対比されることが多いです。ここで日常とは、いわゆる日常のみならず、「恋愛」としての日常も含みます。恐らく、フロイト的に言えば、永遠の世界とは、エロス(愛)に対するタナトス(死)ということになるのでしょう。永遠の世界は、時間すら制止した、静寂の世界=死の世界です。永遠の世界とは、「非日常」の象徴であり、「死」の象徴であり、浩平の「内面」の象徴であり、その他諸々の象徴であったわけです。これは、ラブストーリーやジュブナイルの視点です。
そして一般的には、『ONE』は「日常」から消失した浩平が、「非日常」を脱しそこから帰還してくる物語と考えられているようです。ここでは、「非日常」であるところの永遠の世界は否定されるべき、打破されるべきものとして捉えられることになります。
確かに、これは正しい理解です。実際、私もそうだと思います。永遠の世界には時間の流れはなく、それは「日常」の対極である「非日常」であり、同時に「死」という浩平の内面の象徴でもあります。
しかし、ここで我々が気を付けなければならないことは、『ONE』が永遠の世界が「非日常」「死」の象徴であることを断じていないという事実です(*36)。思うに、「日常」と「非日常」、「エロス」と「タナトス」のように、二極化する理解それ自体が正当であったのでしょうか。永遠の世界とは、本当に否定されるべき世界だったのでしょうか。永遠の世界とは永遠の世界であり、永遠の世界が象徴するものは所詮象徴に過ぎません。我々は一度ここで、永遠の世界そのものを真摯な態度で受け止める必要があるのです。
ここで、我々の考察の手助けとなるのが、ユング心理学です(*37)。
ユング心理学には、元型(アーキタイプ)という発想があります。それは、人間の内面および人間の内面から生まれた物語の元型、アーキタイプを意味します。原始的なモチーフといっても良いかもしれません。元型論の優れた点は、その多面性・両義性にあります。例えば、分かりやすい例で言えば「グレートマザー」。これは、「受容し、生命を生み育むものでありながら、同時にその対象を引き寄せ離さずに吸収しようとするもの」を意味します。グレートマザーは、命を育む良い母親の象徴であると『同時に、』対象に取り付き喰らい殺す悪い母親の象徴でもあります。重要なのは、母性そのものを象徴しているのであって、その善悪を問題視していないということです。
実際にユングの元型を利用するかどうかはさておき、我々が永遠の世界を読み解くとき、概念の両義性を理解しておく必要があるでしょう。
では、永遠の世界とは何だったか。
思うに、「日常」と「非日常」との両義的な存在そのものだったのではないでしょうか。
ここで我々が改めて注目すべきは、永遠の世界が現実世界と隔離された存在ではなく、徹底的に地続きで描かれていたという事実です(*38)。『ONE』において、永遠の世界が存在する理由、永遠の世界が生じた理由はいっさい説明されていません。ただ、そこに「ある」ことだけが示されているだけです。永遠の世界が何であるかは、何も説明されていないのです。五および六で私がファンタジーについて明らかにしたとおり、ファンタジーとは、逆説的なリアリスティックです。何も説明することなく、それをただ「ある」とします。「ある」以上は、「ある」に決まっている。「ある」以上は、それをありのままに受け入れる以外、我々には選択肢が存在しません。そして、永遠の世界をありのままに受け入れた場合、永遠の世界とは、浩平の内面に宿るものでも、死後の世界でもなく、現実世界と徹底的に地続きに存在するものなのです。なぜなら、リアリスティックなファンタジーにおいては、あり得ないようなファンタスティックなもの、説明されていないようなファンタスティックなものは存在しないのですから。それが説明されない限り、ファンタジーにおいては、浩平の内面世界も、死後の世界も、ファンタスティックな夢物語に過ぎません。『ONE』の世界において、浩平の内面世界も死後の世界もファンタスティックな、実在しない夢物語に過ぎないのです。永遠の世界は別世界として説明されない限り、『ONE』の世界の中では現実世界とあくまで徹底的に地続きな世界なのです。
このような理解においては、永遠の世界という実在を抱えた『ONE』の世界においては、「日常」と「非日常」との対立は抑止され、「日常」と「非日常」とは究極的には同義の存在とされることになります。ここで我々は、『ONE』の最も恐ろしい真実に気が付くことになるでしょう。『ONE』において、「日常」とは「輝く季節」であるとは限らず、「非日常」だからといってそれが打破されるべき死の世界であるとは限らないのです。今までの、全ての常識がうち崩される瞬間です。ここに、『ONE』の最も恐ろしい「倒錯」表現が潜んでいるのです。常識は非常識となり、非常識は常識となるのです。
もちろん、「では『ONE』のトゥルーエンドは何であったのか?あれこそ、非日常の打破そのものではなかったのか?」そういう反論も返ってくるでしょう。
しかし、ここで我々が気を付けなければならないことが、我々は、バットエンドも『選ぶことが可能である』という事実です。『ONE』は、『雫』『痕』のように、バットエンドを見て初めてトゥルーエンドへの道が開けるという構造を採用していません。我々ははじめから、トゥルーエンドもバットエンドも、全てのエンドを選ぶことが可能になっています(*39)。『ONE』においては、日常も非日常も、生も死も、全てが等価とされ、「右」「左」という理不尽な理由だけでその結末が決められてしまうのです(*40)。永遠の世界は打破されるものではなく、常に共に歩まざるを得ない、お隣さんなのです(*41)。これぞまさに、究極のファンタジーであり、自己責任というゲーム表現の究極です。私は、浅学ながら、『ONE』ほどゲーム表現をうまく用いたファンタジーを知りません。
若干物事を単純化して論じれば、『ONE』とは、永遠の世界というファンタスティックな事象を用い、「現実」そのものを突きつけていた、徹底的にリアルな物語であったというわけです。そして「現実」そのものこそ、まさに『ONE』の主題だったのでしょう(*42)。
『ONE』とは、まさに等価の物語だったのです。そこには、奇麗さっぱりとなにも残りません。なぜなら、全てが同義だからです。でも同時に、個々人の心の中には何かが残って「しまう」のです。
こうして見たとき、浩平の道化(トリックスター)っぷりは演出として目を見張るものがあるでしょう。
『ONE』の世界、永遠の世界は極めてシビアです。初見でついていけるような世界では、とてもありません。それこそ、ギリシャ神話のオルフェウスのごとく、たった一人で冥界下りを挑まねばならないようなものです。何も備えがなければ取り殺されてしまうのが、永遠の世界です。ここで浩平は、永遠の世界への案内人として機能します。それと同時に、PLの人身御供としても機能しているのです。浩平がPLの代わりに永遠の世界へと消滅することで、永遠の世界とPLとの間の緩衝材として機能しているのです。『ONE』において浩平に感情移入することは、極めて危険な行為だったのです。
だからこそ浩平はあれほど弾けた人間であり、『ONE』は浩平とPLとの間の感情移入をわざと阻害していたのでしょう。
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