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*2 少し分かりにくいと思われますので、解説をいたします。
ジュブナイルの定義として、「現実」という言葉と「儀式」という言葉には、一見繋がりがないようにも見受けられます。
しかし、人、現実を突きつけられたとき、自問自答します。果たして、これでよいものか、もっと別の手段がないか、自分とはどうあるべきか。それが厳しい「現実」であればあるほど、人は内面に遡り自己を観察します。インナートラベル(内面旅行)と呼ばれる現象です。
一方、臨死体験を伴う「通過儀式(イニシエーション)」も、トランスを通じて自己の肉体を感覚的に喪失し、自己の内面に直面します。そのトランスを導く原因が、薬物によるものか、祭りの熱狂によるものか、様々考えられますが、とにかくそのとき、少年少女は意識を飛ばし、自己の内面へと意識を向けるきっかけを得ることになります。「現実」から自己の内面を考察するか、非現実から自己の内面を考察するかの違いはありますが、結果、少年少女は大人への仲間入りを果たすわけです。ここでは多分に象徴的意味合いを含めて、ジュヴナイルを「通過儀式(イニシエーション)」の物語と呼ばれることになるでしょう。厳しい「現実」を通じて『内面に直面する』こと、その点を指して『通過儀式』と象徴的に呼ぶわけです。
*3 また、『ONE』をジュブナイルとして理解することは、『ONE』をラブストーリーとして理解することと非常に相性がよいです。「通過儀式」には臨死体験を含み、そこに「浩平が永遠の世界へと旅立つこと=浩平の死」を描いたラブストーリーとしての『ONE』を見いだすことになるからです。
*4 多くの作者が恋愛と死別との対比の中で、如何に死別という不可逆的な終焉を乗り越えた物語を描くかで頭を悩ませているというのに、それを、永遠の世界という作者に都合の良い世界によって死別という不可逆的な終焉をクリアするなんて、なんたるご都合主義!
*5 『ONE』は、一見優等生っぽく見えて実は成績が悪い茜など、登場人物は比較的リアルに描かれていますが、その茜も、「おとなしい」「お下げ」「ワッフル」「嫌です…」というように、極度に記号化されています。食に対するこだわりとなれば、各キャラ異常なほどです。これが『Kanon』『Air』になると、作画技術の上達に伴い、「外見高校生、中身小学生以下」という酷評を受けることになります。月宮あゆであれば、「ショートカット」「お子さま」「カチューシャ」「たいやき」「うぐぅ」に記号化されています。
*6 作者と読者、両者の想像力不足があると断じることが可能でしょう。近年の映像技術・音響技術の発達により、人々の指向はますます瞬間的・刹那的になり、一文から多くの意味をくみ取る力が劣ってきているのかもしれません。読者の想像力に頼ればよいものを、映像通りに、細かく詳細にその場面を描けば、紙面は自然と多くなるでしょう。
*7 あるいは、物語世界そのものに感情移入すると言うべきでしょうか。
*8 昔話においては、王子カーライルと呼ばれることはまずありません。その多くが、ただの「王子様」と呼ばれることになります。
*9 マックス・リューティ著、野村ひろし訳『昔話の本質』筑摩書房(1994)55頁。リューティーは、この現象を、昇華と呼びます。
なお私は、このようにあえて詳細な描写を省くことを「意味を抜く」と呼んでいます。
*10 物語に対するある意味真摯な態度ではあります。
しかし、それは同時に、物語を虚構・幼稚と決めつける、物語に対する不信があると言えるのではないでしょうか。
*11 自律的に考えた結果、もし、そこに皮肉を感じることが出来なければ、その人にとってその物語は楽しい物語として解釈すべき物語なのでしょう。ただ、それだけなのです。別に、そこに皮肉を感じることが出来ればよいと言うわけではありません。逆に、そこに皮肉を感じてしまった人は、裏切りの人生を送ってきたのでしょう。それはある意味不幸な人生です。物語から何を受け取るかなんて、所詮、読者個人の責任です。作者が責任を負う必要はありませんし、他の読者が訂正するものでもありません。精々、他の可能性を指摘するだけです。
*12 河合隼雄『ファンタジーを読む』講談社(1996)22頁。
*13 私は、このように象徴性を利用することを、「意味を込める」と呼んでいます。ファンタジーは「意味を抜く」と同時に、万感の「意味を込める」文芸様式なのです。「意味を抜く」ことで物事に解釈のゆとりを持たせると同時に、その象徴性を利用してより多くの「意味を込める」。これこそ、ファンタジーの表現の抽象性の本質です。アトベリー流に言えば、「象徴体系や意味の非決定性」でしょう。「過去の非写実的な口承文芸の持つ活力と自由さを自在に取り入れてい」ます。
なお、ファンタジーが「意味を抜く」ことを本質としているとすれば、一時期はやった『本当は怖い昔話』というのが、昔話・ファンタジーの理解として実に誤った理解であったかが分かってくるかと思います。ファンタジーにおいて首をはねるとは、「死」をはじめとした様々な象徴に過ぎません。そこでは現実の重みを失い、血は一滴も流れることはなく、つばを付けて首を元に戻せば再び息を吹き返します。血が流れるわけでも何でもなく、昔話・ファンタジーは、怖いわけでも残虐なわけでもなく、ただ、どこまでも冷酷、どこまでも醒めた視点を持つだけです。詳しくは、五を参照のこと。
*14 近年の文芸から見て、合理的な説明をしていないだけです。「科学的な説明をしていない」と呼ぶべきでしょう。ファンタジーは、理性ではなく、感性に訴えかけ、物語を納得させることをその特徴とします。ファンタジーの物語内部では、科学的ではないものの、物語は「理不尽なほど」一貫し、合理的に自己完結しています。この点、五参照のこと。
*15 五で言及するように、『ONE』が重視したのは「PLにとって」永遠の世界の実在を実感させることです。物語は、所詮物語であり、重要なのは、読者が物語を体感することです。『ONE』はPLの体感を最重視し、それ以外の情報を不要と断じて切り捨ててきたのです。不必要な情報・過剰な情報は読者を情報過多に陥らせ、よけいな混乱を招くだけです。『ONE』は、よけいな情報全てを切り捨てて、ただ、物語の体感のみを強調した作りとなっているのです。
*17 あるいは、冷酷なニヒリズム。不条理すら飲み込み、そこに合理性を見いだすという、徹底した姿勢が見いだせるでしょう。この、ファンタジーの徹底した姿勢に、読者は薄ら寒さを覚えることになります。『本当は怖い昔話』の真の正体は、残酷な物語に対する恐怖ではなく、冷酷な、淡々とした、どこまでも醒めた価値観に恐怖することだったのです。
*18 あるいは、近年の文芸は「登場人物に」物語を体感させる文芸、ファンタジーは「読者に」物語を体感させる文芸と呼ぶべきでしょうか。近年の文芸であれば、読者は、感情移入を通じて物語を体感することになります。一方、ファンタジーは、六で言及するように倒錯を用いて直接、読者に物語を体感させることになります。
*19 マックス・リューティ著、野村ひろし訳『昔話の解釈』筑摩書房51〜53頁。
*20 割と有名な話ですが、『グリム童話』の第一版では、継母は白雪姫の実母でした。
*21 なお、ここで重要なのは、ファンタジーにとって倒錯とは、物語のための手段に過ぎないということです。
これが、ナンセンス文学であれば、倒錯・困惑それ自体が目的となります。時に物語を放棄し、全てが歪んだままの世界で、読者を酔わせることを至上命題とするのです。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』などが、その良い例でしょう。
また、近年の文芸もファンタジーと同じく、感情移入は、物語に取り込むという物語の手段に過ぎません。
しかし、この感情移入に落とし穴が潜んでいました。近年の文芸は、感情移入の手段として心情描写・風景描写を好んで用います。ところが、ここで作者の多くが心情描写・風景描写に腐心するあまり、情景描写を読んだ読者が何を思うか、どのような影響を受けるのかについて失念しているのです。物語のためという視点の欠落です。この瞬間、物語の手段であったはずの情景描写は目的と化し、物語のための演出を忘れ、演出のための演出という、最も恥ずべきトートロジーに陥るのです。
*22 『GameDeep vol.1』中田吉法「Factorize of Game ゲームの正しい因数分解。」。特に、こちらを参照。
*23 ただし、私は、総合芸術としてのゲーム表現を、それほど重視していません。
よく「ゲームは映画を越えた!」と言われますが、それは、演劇、映画、テレビについで第四の総合芸術が誕生したというだけのことに過ぎません。ゲーム表現の本質は、次の双方向性にこそあります。
*24 詳しくは、『ONE卒業文集』中田吉法「巻き込んでいく、表現。――ゲーム表現としての、ONE小論――」を参照してください。
*25 その他については、私が論じるまでもなく、既に多くの論者が言及しているところです。
*26 この、舐めるような作業は、良くできた小説でもあり得ることです。
しかし、ゲーム、『ONE』が優れていることは、文章が、一文ずつ流れるということ。そして、次の一文を読むには、PLが「マウスをクリックする作業が必要」であるということなのです。この作業の中で、PLは確実に物語に取り込まれることでしょう。
*27 『ONE』の、このような演出から見たとき、PS版『輝く季節へ』は失敗作であったことが分かるかと思います。
PS版は、音声が入り、かつ、デジタルノベル方式を採用しています。
しかしこれは、『ONE』が採用した、自分の自由なペースでテキストを読むという演出手法を不可能なものとしています。『ONE』の演出においては、自分のペースで読ませてくれない「音声入り」「デジタルノベル方式」は、邪魔な存在そのものです。
*28 『ONE』は、ファンタジーです。従って、倒錯はしても感情移入はしないはずです。しかし『ONE』は、感情移入も出来てしまうのです。この点、十一参照のこと。
*29 実は、『Air』は、このもどかしさを利用した作品だったと考えられます。特に、SUMMER編・AIR編は、テキストをクリックする以外、PLに選択権はありませんでした。とはいえ、その演出が効果を発揮するまでが冗長だと思いますが。
*30 もちろん、事実は、永遠の世界を表現したいがためにギャルゲーという表現形態を採用したのではないでしょう。おそらく、最初にギャルゲーありきで、その後に永遠の世界という世界観が成立、その世界観を生かすために立ち戻って、ギャルゲーであることを改めて利用したのでしょう。
*31 『ONE卒業文集』中田吉法「巻き込んでいく、表現」。ゲーム表現の要素である、PLの自己責任です。
*32 重要なのは、PLの、自己の、責任であったことです。『雫』『痕』の手法では、シナリオライターに読まされている感覚が強く、自己責任の要素が弱まってしまいます。
*33 本当にシナリオライターがそこまで考えていたかは、この際考えないことにしましょう。結果、たまたま偶然にそうなってしまったのかもしれません。
*34 繰り返される表現や意味の二重取りは、まさに抽象表現としてのファンタジーの醍醐味そのものです。アトベリーは、「文体の遊技性や、自己言及性」や「象徴体系や意味の非決定性」をファンタジーの重要な構成要素とします。『ONE』は、たった一つの言葉から、幾万もの物語解釈を紡ぎ出す、魔法の箱だったのです。
*35 これは、本心からです。私も、ファンタジー読みとして、世界中の神話・童話、その他諸々を読みますが、ファンタジーの完成度として『ONE』を越える作品を未だ知りません。
*36 象徴であることを断じるというのも、変な日本語ですが。
*37 詳しくは、『ONE卒業文集』kort「ONEという名の箱庭」を参照のこと。
*38 現実世界と永遠の世界とが地続きであるということについては、既にギャルゲーという観点から先行研究が存在します。ふたばてい『astazapote』収録「2000年04月02日および12日の日記」参照のこと。ここでは、ギャルゲーの真の本質を「日常」に設定し永遠の世界が「日常」と地続きであったとします。
しかし、実を言えば、昔話・ファンタジーにおいて、死後の世界や妖精の世界が現実世界と地続きであるということは、民話学研究においては既に常識だったのです。
*39 除く、シュンシナリオ。シュンシナリオが何であったのか、正直、私には語る言葉がありません。
*40 しかし、それこそある意味、真のリアリスティックです。
*41 good people良きお隣さん。妖精の別称です。昔話における妖精とは、人間たちに、良きことをすると同時に悪いこともします。妖精は人間にとって決して善の存在でも悪の存在でもなく、(その倫理観・世界法則はまるっきり違うものの)同じ世界に住むただの隣人と捉えられていました。泣こうが叫ぼうが、妖精が隣に住まうという事実は動かせるものではなく、まさに、隣人として「つき合わざるを得ない」存在だったのです。そこには、かわいい妖精といったファンタスティックな幻想は一切存在せず、如何に隣人である妖精とうまくつき合うかという実践、徹底的にリアル・現実的な発想しかないのです。
*42 そして気を付けねばならないことは、『ONE』においては「現実」と対比するものは何も存在しないという事実です。「現実」が存在する以上、「現実」の対立項(そのようなものがあればの話ですが)と比較する意味はなく、ただ、あるがままの「現実」を受け入れるしかないのです。
*43 KEN『X-GAME STATION』収録「語るね、俺」
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