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では、あまたの星ほど存在するギャルゲーの中で、『ONE』が飛び抜けて優れていた点とは何でしょう。
まず、『ONE』が、「女の子と知り合い、そして段々親しくなり、最後に告白し結ばれる」というギャルゲーの文脈の中で、ギャルゲーの主題である「恋愛」を永遠の世界と対比させ、恋愛を更に高みに引き上げたことが考えられます。
障害が大きいほど恋は燃え上がるというのがラブストーリーの古典的王道。『To Heart』のマルチしかり、「存在の違い」や「倫理」などが恋愛と対立して存在しているからこそ、その恋は切なくなります。物語としての完成度を高めようとすればするほど恋愛は純化され、より大きな存在と対立して描かれることになります。従来、その対立項として究極の存在であった存在こそ、恋人との死別です。「死も二人を分かつことは出来ない」死という極限の状態を乗り越え、二人は初めて結ばれる。恋愛と死別との対比は、病弱な恋人を看取る物語や心中物、転生物など、それこそ繰り返し使われてきたモチーフです。
そのようなラブストーリーの中で『ONE』が、恋愛の究極的な対立項として用意したものこそ、永遠の世界だったのです。
ここでは、永遠の世界は、死別というある意味手垢が付いたモチーフの代わりとして用意されたと理解されることでしょう。永遠の世界とは、すなわち「死」の象徴であったのです。この、永遠の世界という独自性こそ『ONE』の特色であり、『ONE』が「主人公と女性の関係が発展→主人公側の事情による強制的な離別→主人公の復帰による『奇跡』」という感動物の王道パターンを踏襲しているにも関わらず、『ONE』を魅力的な物語にしていると理解される由縁であります。そこでは当然の様に、ヒロインとの絆が極めて重視されます。
『ONE』をギャルゲー、ラブストーリーとして理解する限りでは、『ONE』の主題は浩平の「恋愛」とその成就ということになるでしょう。
さらに、『ONE』が「主人公と女性の関係が発展→主人公側の事情による強制的な離別→主人公の復帰による『奇跡』」という『ONE』の物語構造の中にギャルゲーとしての『ONE』ならず、ジュブナイルとしての『ONE』を見いだす向きもあるでしょう。
ジュヴナイル(青春小説)とは、「別離」による少年少女の「成長」の物語です。「別離」とは、日常からの逸脱を意味します。少年少女にとっての「別離」、例えば、スティーブン『宝島』といった「冒険旅行」や、ピアス『トムは真夜中の庭で』といった「初恋」などが挙げられるでしょう。今まで少年少女が信じていた日常が壊れ、突きつけられた厳しい「現実」を通して、少年少女が大人へと「成長」する物語です。ジュヴナイルとは、現代の「通過儀式(イニシエーション)」です。
『ONE』は、現実世界という「日常」から永遠の世界という「非日常」へと「別離」しながらも、ヒロインたちとの絆、人間的「成長」をもって現実世界へと帰還を果たす物語として理解されます。まさに、「キャラメルのおまけなんて、もういらなかったんだ」ということでしょう。
このような理解においては、永遠の世界は浩平の内面世界と考えられ、永遠の世界への消滅とそこからの帰還は「通過儀式」すなわちインナートラベル(内面旅行)として理解されることになるでしょう(*2)。ここで『ONE』は、日常と非日常の対立軸の中、日常のすばらしさ、まさに「輝く季節へ」向かうことが唄われることになります。
また、心理学や精神分析について知識があれば、永遠の世界に「少年期のトラウマ」や「エロス(愛)とタナトス(死)」を見ることになるでしょう。『ONE』をEVAと比較するのも宜なるかな、です。
『ONE』をジュブナイルとして理解する限りでは、『ONE』の主題は浩平の「成長」ということになるでしょう(*3)。
以上の理解においては、『ONE』のご都合主義や説明不足、選択肢の凶悪さが批判の対象となるのは、既に多くの論者が指摘するところでありましょう。
『ONE』を恋愛小説(ギャルゲー)として見るにしても、その延長線上にあるジュブナイルとして見るにしても、作品の物語構造として必ずしも永遠の世界というモチーフを採用する必要はなく、そこに、泣かせよう・感動させようという『ONE』の演出過剰を見ることになります。「主人公と女性の関係が発展→主人公側の事情による強制的な離別→主人公の復帰による『奇跡』」という物語を描きたいのであれば、永遠の世界という目先を変えた物でPLをごまかす必要はなく、むしろ、死別といった古典的な手法で真っ向から勝負を挑めば良かっただけです(*4)。
その上、『ONE』は永遠の世界について具体的な描写も十分な説明もしておらず、そこに、説明不足のご都合主義を見ることになるでしょう。『ONE』は、実に小狡い手法でPLを誑かした悪い作品であると言えることになるかと思います。
浩平を始め、登場人物のデフォルメ化も指摘されています。特に浩平は、「こんな奴いねーよ」と言いたくなるくらい弾けた男であり、ここでPLは確実に感情移入を阻害されています。その他の登場人物も浩平ほどではないにしても、デフォルメ化は著しく、キャラクターは記号化され、PLの萌えを引き出そうという媚が見られると批判されているところであります(*5)。
選択肢の凶悪さも、試練の厳しさとして物語を盛り上げる物としては凶悪に過ぎ、また、物語の本道とは関係がないような選択肢が致命的なフラグとなっている場合も多々あり(「右」「左」)、ラブストリートしてもジュブナイルとしても、演出的な失敗が目立つことになります。
『ONE』は、主題の選択としては魅力的な物を持ちながら、その演出においていくつか致命的なミスが目立つ、全くもって惜しい作品だったわけです。
しかし、上記のような理解が、そも本当に正しかったのでしょうか。
ここで我々は、『ONE』において、上記のような演出上の明らかなミスが見いだされるのにも関わらず、永遠の世界が、物語内において不気味なまでの存在感を誇示しているという事実を見過ごす訳にはいきません。演出として失敗であったはずの永遠の世界それ自体が何故ここまで存在感を誇示するのか。そもそも死別や精神の成長を描くためだけに、何故わざわざ永遠の世界というようなモチーフを用意したのか。むしろ、死別や精神の成長を越えたところに『ONE』の主題を置こうとしようとしたが為に永遠の世界というモチーフを選んだと理解すべきではなかったのではないか。
これはもはや、感性という言葉では片づけるべき問題ではないでしょう。我々は何か、致命的な事実を見過ごしているのではないでしょうか。
そして、この問題を解く鍵が、ファンタジーとしての『ONE』なのです。
ブライアント・アトベリー著、谷本誠剛+菱田信彦訳『ファンタジー文学入門』大修館書店18頁は、ファンタジーを以下のように定義しています。
一、ファンタジーの作品には、決まって型どおりの登場人物が登場し、魔法使い、ドラゴン、魔法の剣といった、これも型どおりの道具だてが見られる。逃避的な大衆文学の一つであるファンタジーでは、このような要素が組み合わされて、話の結末がいつも予想通りになる物語の筋道が組み立てられる。その結末は、決まって数の少ない善なるものが、圧倒する数の悪に打ち勝つことになっている。一は、剣と魔法のファンタジーという意味で用いられますし、二は、私が「文芸様式としてのファンタジー」として定義するものを意味します。
二、ファンタジーは、おそらく二十世紀後半の主要なフィクションの様式(モード)といえよう。その物語構造は、決して単純ではなく、文体の遊技性や、自己言及性、既製の価値観や思考の逆転などがめだった特徴として見られる。また象徴体系や意味の非決定性などの、現代的な観念を取り組むのも特徴的である。その一方で、ファンタジーは、叙事詩や民話、ロマンス、神話など、過去の非写実的な口承文芸の持つ活力と自由さを自在に取り入れている。
思うに『ONE』とは、一の意味ではファンタジーでなく、二の意味でのファンタジーでした。
そして、『ONE』を文学様式としてのファンタジーとして定義してみると、『ONE』は、決して説明不足ではなく、むしろ、「文体の遊技性や、自己言及性、既製の価値観や思考の逆転などがめだ」ち、「象徴体系や意味の非決定性などの、現代的な観念」を積極的に取り込んでおり、複雑かつ多義的な概念を実に完結かつ分かりやすく説明しているというのが、真実だったのです。
では何故、『ONE』がファンタジーとして実に優れているのに、優れている点が評価されていないのか。『ONE』をファンタジーと評価するのを阻害するものはいったい何だったのでしょうか。
そこには、具体的・写実的な表現を至上命題とする近年の文芸演出の悪しき主流が見え隠れします。
映画や小説、漫画、その他全て、近年の文芸には、一つのムーブメントが見られます。情景描写に重きを持ち、描写のために詳細な世界設定を構築し、出来る限り情景を具体的かつ詳細に描くという文芸演出の主流です。そこでは、読者が物語の主人公に感情移入をすることを至上命題とされ、物語内を詳細に描くと同時に、出来る限り読者に不快感を与えないよう物語内の設定に破綻をきたさないことが肝心とされます。
確かに『ONE』の(そして、ファンタジーの)演出は、近年の文芸が至上命題とする感情移入の大前提となる「情景描写・世界設定」が不十分です。そこで彼等は、『ONE』の中に一見難解な台詞・設定や思わせぶりな台詞でごまかし読者を誑かしてきた、EVAの悪しき流れを見ることになるでしょう。
特に『ONE』を、ラブストーリーやジュブナイルの流れで見たとき、この傾向は強くなります。ラブストーリーやジュブナイルという物語構造を持つのに、それに真摯に立ち向かうことなく、一見難解な台詞・設定、思わせぶりな台詞でごまかし、PLを誑かしてきたのが『ONE』だったのではないか。たかが「一組のカップルの別離」を表現する為に永遠の世界という大掛かりな設定を用意しただけではないか。下手に設定を広げ過ぎ、非日常性を設定に持ちこませた所為でシナリオが難解になり、招くことの無かった余計な批判を浴びてしまったのではないか。
しかし、それは全くの間違いです。実に一面的で傲慢な考えです。彼等は、文芸様式としてのファンタジーが存在するという事実を看過し、近年の文芸の手法でのみ『ONE』を評価しようとしていたのです。
彼等は知らないのです。感情移入を至上命題とし「情景描写・世界設定」を詳細にするというのが、文芸の一派(と言っても圧倒的多数ですが)に過ぎないという事実に。それも、ここ二三百年の間に発達してきた文芸の一派に過ぎないという事実に。
文芸・物語の作り方にはもう一派存在します。それが、徹底的に説明を排除するという方向です。
物語とは、所詮物語です(そして、物語でなければいけません!)。物語は「物を語る」ことが出来れば足り(そして、物を語ることこそ肝心です!)、キャラクターの心理描写や詳細な世界設定などは、物語にとっては枝葉にすぎないのです。
近年の文芸で至上命題とされる感情移入にしても、詳細な情景描写にしても、世界設定の練り込みにしても、あくまで、物語を描く手段の一つに過ぎません。ファンタジーは、読者を物語に感情移入させることもなく、詳細な情景描写をすることもなく、世界設定を練り込むこともないのです。まさにファンタジーとは、近代からの流れである近年の文芸の傾向と真っ向から対立するような表現手法です。
しかし、ファンタジーは近年の文芸が忘れてきたものを確かに取り戻しました。
例えば、近年の文芸はますます長文化しています。
表現は年々長く過剰になり、たった一つのことを伝えるのにやたら紙面を割きます。子細な情景描写の結果、読者が確実に感情移入が出来るのであればよいのでしょうが、多くは、本来なら一言で説明できることを忘れ、一読了解される言葉を探求することなく、単純にテキストを引き延ばし、よけいに読者を混乱させている作品ばかりです。長く子細に文章を書くことが文章のテクニックであれば、短く簡潔に一読で解るように文章を書くこともまた文章のテクニックであることを忘れています。短いことが、印象深くなることもあるのです(*6)。
斯くて近年の文芸は、情景描写や世界設定は物語の演出に過ぎないという本旨を忘れ、情景描写のための情景描写、世界設定のための世界設定に堕し、演出のための演出という、物語としてもっとも恥じるべきトートロジーに陥るのです。
しかし、我々は、演出や世界設定や情景描写を観るために物語を読むのではありません。我々はあくまで、物語を楽しむために物語を読むのです(こちらの方が、如何に物語を読む姿勢として健全でしょうか!)。
また、近年の文芸の流れは、物語を貧弱にしました。
手取り足取り詳細に書かれた心理描写。実にかゆいところに手が届くではありませんか。
しかし、その一方で、細やかな描写は解釈の可能性を限定します。人間の心の動きにまで詳細な描写を付け、それを合理的に描き出す。それは所詮、小説家の頭の中で作られた幻想(キャラクター)にすぎません。本当の人間の心の動きは、もっと複雑です。どんな天才であっても、その人間の心の中を正確に読みとることなど、とても出来るはずがありません。詳細な心情描写など、作者の傲慢に過ぎないのです。我々読者よりも優れた観察眼を持った小説家が書いた小説であっても、詳細に描いたのでは、必ず解釈の限界、描写の限界にぶち当たります。そこであえて詳細な描写を放棄することで読者に想像の余地を与えるというのも、一つの演出方法なのです。一つのキーワードを軸に、読者は空想の翼を広げます。作者に与えられた空想の翼を広げ、時には作者が思いも寄らなかった地平に到達することだって可能になるのです。これこそ、真の知的遊戯、知的興奮ではありませんか。
確かに、感情移入した物語は面白い物語です。それは、間違いないことでしょう。
しかし、面白い作品全てが感情移入するとは限りません。例えば、神話を見てください。美形で何をやっても完璧な英雄たちに、読者は感情移入しているでしょうか。ジークフリードやヤマトタケルに感情移入しているでしょうか。夜這いをするためにわざわざ金の雫に化けたゼウス神に感情移入するでしょうか。あくまで、感情移入は、物語を面白くするための手段に過ぎないのです。
では、感情移入させることもなく、詳細な情景描写をすることもなく、世界設定を練り込むこともないファンタジーは、いかにして物語作品を成立させているのでしょうか。感情移入させることもなく、詳細な情景描写をすることもなく、世界設定を練り込むこともないファンタジーが、何故面白いのでしょうか。
それは、ファンタジーが物を語る文芸手法だからです。淡々と事実を追い、その過程で読者を珍妙な物語に巻き込む。巻き込まれた読者にとってはたまったものではありませんが、読者は、想像力の中で世界を薫り、感じることが出来るようになります(*7)。そこに、ファンタジーの知的遊戯としての楽しみがあるのです。
そして、そのための手段、すなわちファンタジーをファンタジーとして際だたせる演出手法こそ、(1)表現の抽象性(2)不条理なまでの合理性(3)倒錯表現の三点なのです。
この価値観に従えば、ファンタジーが、キャラクターをただの記号と断言しその個性化を嫌うことは、なんら不思議なことではありません。世界設定に一見矛盾があることもかまいません。はじめから合理的な説明は放棄しています(*14)。かくて、「肝心なところで説明不足」な空虚な作品ができあがります。これがファンタジーと呼ばれる文芸なのです。
『ONE』をプレイして驚かされることは、イベントの驚異的な短さです。
テキストをぎりぎりまで絞り、必要な情報だけ提供し、後は、音楽と映像とテキスト間の間とPLの想像力とに委ねています。『ONE』における最も重要なシーンである例の回想シーンでさえ、ゆっくり読んでも十分もかかりませんでした。これは、驚異的なことです(*15)。
同じ「嫌です…」でも、序盤と終盤とでは、茜の1ドット単位の表情変化も手伝い、恐ろしいまでのバリエーションを見せつけてくれます。「おまえは振られたんだ」と言われ、「はい」と涙を流す茜の姿に魂が打ち震えたこともあります。「消えますよ…」という茜の言葉に、二重の意味が潜んでいたことに気がつき、戦慄を覚えたことをよもや忘れたとは言わせません。
では、ファンタジーにおいて一貫した合理性とは何でしょう。
それは、「存在」をあると『断じる』ことです。
『ONE』において、最も重要なファンタジーとは、永遠の世界に消えることでも、永遠の世界から帰還することでもありません。まさに、永遠の世界そのものが存在することそれ自体です。
そして、このように、『ONE』が永遠の世界の「存在」それ自体を唄い、「説明」を無意味と断じる姿勢それ自体が、今まで批判の対象とされてきました。多くの論者が、永遠の世界の謎に挑んできました。ある者は永遠の世界を幼年期のトラウマと説明します。ある者は死後の世界の象徴だと説明します。しかし、どの説明も、永遠の世界をうまく説明できるものではありませんでした。結果、永遠の世界が何故存在するのか、存在それ自体の説明が物語内部でなされていないことを批判されています。あるいは、現実世界との整合性を指弾します。あり得ないはずの永遠の世界が何故存在するのか。
しかし、永遠の世界が「存在」することを大前提に物語をはじめた場合どうでしょうか。
これは詭弁かもしれませんが、右のように『ONE』を理解した瞬間、物語から矛盾も破綻も説明不足もご都合主義も消え去ります。論理的に一貫した説明が可能となります。なぜなら、「永遠の世界は存在する以上、永遠の世界は存在する」のです。なんたるトートロジー!そう思うかもしれませんが、スタートラインで永遠の世界が「存在」するとすれば、それはもはや動かしがたいまでの事実となります。「存在」する以上、その存在を疑うことはもはや無意味であり、そこに「説明」を求めることもまた、無意味となります。永遠の世界は実在する以上、その「存在」を幾ら説明したところで無意味でしょう。実際、現実世界も似たようなものです。説明は無意味であり、重視されるのは実践のみです。現実は存在を疑われず、ただ、存在することのみを断じられ、ただ実践するのみです。ファンタジーとしての『ONE』も現実社会と同じく、説明されることなく、ただそれが「ある」と断じるのみなのです。ファンタジーとしての『ONE』とは、現実社会のごとき厳しさを持った物語だったのです。これは、ある意味徹底したリアリズムでしょう。『ONE』は、ファンタジーは、リアリスティックな物語だったのです(*17)。
もし仮に、ここで『ONE』に対する批判を受け入れ、神や霊や、心理やら、何か最もらしい説明をした場合、どうでしょう。おそらくその瞬間、『ONE』はその魅力を失います。嘘っぽい説明を幾らしてみたところで無意味なのです。物語が薄っぺらくなるだけでしょう。幾ら説明をしてみたところで、ご都合主義がご都合主義でなくなるはずはありません。むしろより一層、そのご都合主義が強調されるだけでしょう。
ここで、気を付けてもらいたいことは、物語は所詮ご都合主義の集合体にしか過ぎないことです。どのように説明したところで、物語が物語になっている時点でそこには既にご都合主義が存在します。現実の事件にドラマなんて存在しません。ドラマは、後世、事件を勝手に解釈した結果生じるにすぎません。ここではもはや、解釈という作業自体がご都合主義として機能することになります。結局、物語とは、このご都合主義をどのように処理するかにかかっていたのです。
近年の文芸の主流は、そこでご都合主義を「説明」するという選択肢を選びました。それが科学万能主義の影響なのかどうかは分かりませんが、近年の文芸とは、空想とはいえそのご都合主義を合理的な説明で読者に「説得」を試みる作品だったのです。
それに対し、ファンタジーは敢えて合理的な説明を放棄し、情緒的に読者に「納得」させることに重点を置いた作品です。
言葉を換えれば、近年の文芸が「理性」に訴えかける作品であるのに対し、ファンタジーは「感性」に訴えかける作品なのです(*18)。
理性よりも感性。説得よりも納得。時として人は、感情に訴えかけた方が物事を受け入れやすいこともあるのです。ファンタジーとは、合理的一貫性をもって、読者の「感性」に訴えかける作品なのです。
私は、倒錯により物語の取り込まれる上記現象を「切り取られた不安」と呼びます。世界は、物語は何事もなく進むのに、そこだけぽっかりと穴が空いたように虚ろで、思わず不安にならざるを得ない。読者を物語に取り込み、物語を進めるはずなのに、何故か読者は、そこで一人取り残される。心の中にすきま風が流れ込む、不安にならざるを得ない一瞬でしょう。まさに、世界や物語から切り取られ、不安を抱かずにいられない瞬間です。優れたファンタジー作家は、読者の不安につけ込み、そこから読者の心理に土足で押し入ります。そして、読者の心理に物語を押しつけるのです。もはや、読者は作者のなすがままです。
前章で明らかにしたように、『ONE』は、永遠の世界をただ、「ある」とします。永遠の世界の周辺部分(世界設定)を説明することなく、ただ、「ある」とします。その「ある」ことを読者に説得させるための演出が、後述八のように、塗りつぶした背景での回想シーンであり、そして、暗いトンネルを抜けた先にあったキミの一枚絵なのです。キミはまさに永遠の世界の象徴であり、キミは、何もない空間(塗りつぶした背景での回想シーン)にたった一つ浮かぶ、ちっぽけな、今にも波に浚われそうな、不安定な永遠の世界そのものだったのです。そして、その永遠の世界の不安定さに、PLの多くが、不安を覚えてしまうのです。これだけの説明で良いのか?と。
しかし、『ONE』は、そんなPLの不安すら逆手に取り、不安定な永遠の世界への消滅と、自分が安定したと思っている現実世界への帰還とを、ダイナミックに演出することに成功したのです。不安定な世界からの帰還は、何よりも、安定した現実世界の実在を体感させるにうってつけでしょう。「倒錯」表現と「切り取られた不安」です。
一つが、「総合芸術」であるということ。
ゲームは、小説と異なり、単純に文章のみで構成されている作品ではありません。また、音楽と異なり、単純に音楽のみで構成されている作品ではありません。さらに、絵画と異なり、単純に絵のみで構成されている作品ではありません。ゲームは、文章と音楽と絵と、それから更にデータによって構成されている作品です。ゲームは、映画などと同じ、複数の表現手段を兼ね備えた総合芸術なのです(*23)。
一つが、「双方向性」を兼ね備えているということ。
今まで、物語は一方的でした。
作者が書いた小説を読者が読む。漫画家が書いた漫画を読者が読む。読者は、常に受け手となり、受動的に物語を解釈するしか能がありませんでした。読者が何度小説を読み返しても結末は変わることが無く、物語は解釈の幅の中で一方的に流れるだけでした。その物語の一方性をうち破ったのがゲームであり、ゲームから派生したゲーム表現だったのです。
一番分かりやすいのが、PLの選択肢の結果、物語の結末が変わるという仕組みでしょう。そして、一般的に、物語の結末が多ければ多いほど、マルチエンドであればあるほど、そのゲームは自由度が高いとして評価されることになるかと思います。
しかし、「ゲーム表現」という定義でゲームを見たとき、物事はそんなに単純に割り切れるものではありません。ここで重要になるのが、PLの責任という概念です(*24)。PLが自己責任で選択肢を選ぶ結果、たとえ物語それ自体が変化しなくとも、PL本人は確実に物語に巻き込まれます。ここに、ゲーム表現における重要な特質、双方向性が存在するのです。PLは、自己の責任でゲームに働きかける結果(双方向)、ゲームに、物語に巻き込まれます。その物語の巻き込まれ具合は、凡そ全ての物語表現を超越した次元で成立することでしょう。複数回のプレイを前提とする。まさに、物語に巻き込むには理想的な状態です。その体感は、まさに究極のファンタジーです。
さて、このように見てきたとき、『ONE』は、総合芸術という意味でも、双方向性という意味でも、ゲーム表現として実に高いレベルを維持していることが分かります。
イラストの質はともかく、イラストの出し方、音楽を提示するタイミング、キャラクターのドット単位での細やかな表情変化、一本道でありながらも複雑に分岐する選択肢、そして、テキストを一文一文クリックするという表現形態!すべてが、高いレベルで維持されています。
その一例としてここでは、特に、「テキストを一文一文クリックするという表現形態」について、言及してみましょう(*25)。
『ONE』の表現形態は、テキストを、PLに、自分のペースで読ませることにあります。流し読みする場合もあれば、一つ一つ丹念にテキストをクリックする場合もあります。経験はないでしょうか?『ONE』をプレイしていて、クリックすることが怖くなる瞬間が?次に、致命的な一言を発せられるのを恐れ、ためらいを覚える一瞬が?あるいは、音楽に酔いしれ、ゆっくり、一文一文を舐めるように読み、テキストをクリックする至福の瞬間が(*26)?『ONE』は、まさに、PLがテキストをクリックするという作業そのものをも利用しようとしていたのです(*27)。
そして、この、ゲーム表現としての『ONE』こそ、選択肢の凶悪さという演出を選択していたのです。『ONE』にとって、選択肢の凶悪さは、物語を阻害する要素ではなく、物語演出としてはずせない重要な要素となっているのです。
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