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私は、『月姫』という作品に嫉妬しました。心底、本気で、憎悪ともいうべき、強い情感をもって。
断言しても構いません。
『月姫』というゲームは、ヴィジュアルノベルやアドベンチャーという一連のテキストを読ませるゲーム形式の中で最高峰の作品です。考えられる限り、最高の情念と最高の技術、そして、悪魔の技と計画性をもって練りに練り上げられた作品です。偶然の産物、神の奇跡の御業の結果、世の中にうっかり出てきてしまった『ONE』とは対極ともいうべき作品かもしれません。
その圧倒的な美しさは、『アトラク=ナクア』や『加奈』『雫』『痕』すら及ぶところではありません。恐ろしいことに、プロと呼ばれる人々の中で『月姫』に勝てる作品を生み出す力を有している者は、誰もいないのです。
そんな恐るべき作品が、取り次ぎ、小売店といった従来の流通ラインに乗ることなく、我々受け手の手に、世の中に、解き放たれてしまったのです。
世界は変わるでしょう。数年のうちに、業界と、送り手たる作者と受け手たるエンドユーザー、全てを巻き込んで。私が、著作権法の修士論文「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点」で明らかにしたことが、ついに現実化するのです(希望的観測)。
作品の送り手と受け手とが混沌の海の中に沈む日も、そう遠くはないでしょう。
あー、予言めいた意味不明な戯言はここまでにして、さて、『月姫』について、具体的に書いていきたいなあと思っています。
全ては反転します。
世界もろとも。殺人は贖罪とされ、生きる糧とされ、日常化します。
全ては反転します。
生も死も。生きるとは死という張り巡らされた糸の上に乗っかった棉埃のような頼りがないものとなり、回避すべき死は恐るべき近さにあります。生きているはずの生き物は死の上に成り立っており、ふと道を踏み外せば足下が崩れ去り死の奈落へと一直線に堕ちることになるでしょう。志貴少年が言ったとおり、怖くて一歩も歩けなくなるのです。
悲しみは喜びに、喜びは悲しみに、全ての感情が、全ての行動が反転します。
あれだけ兄を愛していた秋葉は己を制御できず志貴を憎しみ、志貴を憎しむべきシキは、お互いが似たものであることを理解した瞬間にむしろ友情めいたものを感じ入ります。そして感情は直ちに行動に移され、世界は全て反転するのです。
愛や憎しみという、ある意味、使い古されたテーマを、反転衝動という、実際の行動を伴う感情の変化をもって描いた『月姫』は、この時点で実に優れた作品でした。
遠野志貴の能力、直死の眼はデタラメです。これまでもないというぐらいに、デタラメです。
もし仮に、志貴が最初から自分の能力の真の意味を知っていたのであれば、『月姫』…特に、遠野ルートで起こった様々な惨劇は全て回避できた、というぐらいに彼の能力はデタラメなのです。下手をすれば、『月姫』という物語において絶対の敵対者として設定されていたはずの、シキすら、助けることが可能だったのです。私は、琥珀シナリオをプレイして、シキと出会ったシーンを見て、もしかして志貴はシキを救えるかも? と淡い期待をしたものでした(秋葉によって叶わぬ夢とされましたが…)。弓塚やロアさえ助けることが可能だったのかもしれません。
ただ残念なことは、全てが過去の話であったという、悲しい現実があることです。志貴が己の能力を正確に把握できたのはいつもシナリオも終盤になってからです。PLはなんどもプレイしていく過程で直死の眼の能力を正確に把握できていたというのに。
………ここに、PLと主人公との間に情報格差が生まれ、物語をより一層の緊張状態へと、より一層のカタルシスへと導いていたとみるのは、うがった見方でしょうか?
志貴の直死の眼とは、存在を殺すということ、意味を殺すということです。
生物無生物無関係であり、それが凡そ概念として成立し続ける限り、その存在自体を抹消する能力です。
それがなんであれ、志貴にとって認識可能なものとして把握できるのであれば、その存在を殺すことが出来るのです。
思い出してください、志貴は吸血鬼を殺しました。死という概念が存在しないはずのアルクェイドに、無理矢理死を与えました(それも、昼のみならず夜に!)。アルクェイドのアイデンティティたる「不死」を殺したのです。さらに志貴は、アルクェイドの力の源泉を断ち切るために大地すら殺しているのです。これは、シエル殺害もそうでした。志貴はシエルのアイデンティティすら殺します。
志貴はネロを殺しました。ネロという存在の命を殺したのではなく、ネロという存在・アイデンティティそれ自体を殺したのです。ネロは、666の命の集合体です。たとえ一個の生命が殺されたところでそれは直ちに混沌となり、全てに混じり合います。混じり合えばそこに新たに命の萌芽が生まれます。理論的にはともかくも、通常は、ネロを殺すことは不可能なはずです。殺したところで再び命が芽生えるのです。やるならばそれこそ、核でも持ってきて666の命全てを一度に殺すしかないでしょう。そんなネロを、志貴はいともたやすく殺しました。ネロの命ではなく、ネロという存在・意味を殺したのです。ネロという物が存在しなければ、意味しなければ、ネロの666の命を繋ぐ絆はなくなります。全てはバラバラになり、灰に帰すことでしょう。
志貴はロアを殺しました。
ロアの肉体ではなく、ロアを意味するもの、ロアの魂を殺したのです。
魂とは本来、物質として存在するものではなく、存在を知覚することは適わないはずです。
しかし、志貴はロアの魂を殺しました。ロアの魂が存在すると仮定して、それを仮想的に知覚することによって、殺すことに成功したのです。
志貴は弓塚の血を殺しました。
これは、ロアの魂を殺すことよりは幾分か楽な行為でしょう。なぜならば、目に見えなくとも血は液体として確かに存在し、かつ、異物として全身を駆けめぐることを感じ取ることが可能だからです。
志貴は毒を殺しました。
琥珀の全身を駆けめぐる毒を殺したのです。自分では感じ取ることが出来ない、他者の体内にある異物を知覚して殺すことに成功しています(ただ、お茶目なことに、「琥珀を死に至らしめるもの」全てを殺していますが…かくて琥珀は記憶を失います)。
志貴は秋葉の視線を殺しました。
秋葉の能力、熱を奪う視線を殺しました。本来知覚不可能な視線を視覚化し、それを断ち切るのです。
志貴は、殺すべき対象を何らかの形で視覚化することで殺すことが出来るのです。
私が『月姫』で好きなシナリオは、シエル先輩グッドエンド、翡翠グッドエンド、琥珀トゥルーエンドです。
志貴の先生、青子は言いました。
「……どうしても自分の手には負えないと志貴本人が判断した時だけメガネを外して、やっぱり志貴本人がよく考えて力を行使なさい」これらのシナリオにおいて、志貴は自分の能力「直死の眼」を正しく認識し、かつ、有効に使いこなしていたのです。自分で考え、かつ自分で行動し、それを成し遂げた…そこに私は、これらのシナリオの価値、ひいては『月姫』の価値を見いだすのです。
結局、(上遠野浩平のブギーポップシリーズと同じく能力者同士の派手な激突に目を奪われがちですが、)『月姫』のその真の主題は、「己の能力を正しく認識・把握し、かつ、それを使いこなすこと」にあるのだと思うのです。超常能力と言っても、それは個人の能力に過ぎず、それを正しく使いこなせるかは結局、個人の努力・認識にかかっていると思うのです。
…可能性の物語、そう言い換えても良いかもしれません。
超常能力すらそこにある現実として把握し、それに対して有効な対処法を考案する。まさにファンタジーの発想です。
ちなみに、志貴の能力を見て、「ブギーポップシリーズのエンブリヲのイナズマの能力に似ているなー」とか思った人は私だけではないでしょう。秋葉との戦いなんて、見ていてイナズマとフォルテッシモとの戦いを思い出していました(笑)。
なお、イナズマの能力は本来、「死線(デッドライン)」と呼ぶべきような気がします。生死を分かつ線を見る能力…最終的には間合いすら視覚化できるでしょうし、凡そ降りかかる危険全てを視覚化できるようにすらなるでしょう。将来的には、フォルテッシモよりも強くなる(可能性がある)と思います。
しかし、『月姫』の真価はこれだけではなかったのです。
それは、物語やゲーム表現に対する正確な認識です。
アドベンチャー形式のゲーム表現で引き合いに良く出されるのがマルチエンドというものです。
選択肢がたくさん存在し、かつ、結末が変化することは素晴らしい、良く、そう言われます。
しかしそれは、本当でしょうか?
結末が多ければ多いほど、純粋に優れているといえるでしょうか?
選択肢が存在することで過程が多彩に変化することがそれほど優れているでしょうか?
ゲームが自由であることが、全てにおいて最優先されねばならないと言われることがままありますが、それは本当でしょうか?
結末が多いからといって、選択肢が多いからといって、自由に行動できるからといって、『アトランティスの謎』『バンゲリングベイ』『スーパー西遊記』などを名作と呼ぶ人間がいるでしょうか?
自由であることは無批判に受け入れられることではなく、重要なのは、有意義なプレイが出来たか、ではないでしょうか? 重要なのは、量ではなく、質なのです。
であれば、たとえ不自由であったとしても有意義にゲームをさせることもまた可能ではないでしょうか?
『月姫』は、不自由な選択肢の中で、PLに有意義な時間を過ごさせたゲームと言えます(有意義に選択させたとは…あまり言えないような気がします)。
バットエンドが多いというだけではマルチエンドという状態を有効に使いこなしたとは言えません。
なぜなら、ただ数多くバットエンドを並べただけであれば、それは一本道と何も変わりがないからです。PLは基本的にバットエンドを失敗と認識し、出来る限りバットエンドを避けます。バットエンドを迎えれば、次はその選択肢を必ず避けるようにします。その結果、バットエンドはPLの視点から見たとき、(制作者の思惑はともかくも)PLの認識から除外され、PLにとって作品を構成する要素たり得なくなるわけです。このような状態は結局、一本道と変わりがないでしょう。これでは、バットエンドを作るだけ無駄です。読まれもしませんし、評価もされません。無駄な労力であり、むやみに受け手(PL)のストレスを募らせるだけの蛇足となることでしょう。数多くのバットエンドは、(たとえ同じ数だけハッピーエンドがあったとしても)それが唄うほどには自由度を増すわけではなく、むしろシナリオを窮屈なものにします。
ところが、『月姫』は違いました。
確かに、『月姫』は最近の作品にしては珍しく、バットエンドが多く選択肢も結構シビアな作品です。
にもかかわらず、『月姫』のバットエンドは好評です。そして、PLは必ず好んでバットエンドを見ようとします。
それが、「教えて知得留先生!」の存在です。そこでの軽快なやりとりは実に楽しく、重い作品全体の雰囲気をうまく緩和するコミックリリースの役割を果たしています。しかも、何故、バットエンドになったか、その理由を丁寧に解説してくれます。『月姫』は、バットエンドにこのような仕掛けを施すことで、バットエンドを(必ず読まれるという)作品の一部に組み込むことに成功しています。もちろん、軽快なスキップ機能も繰り返しプレイのプレイアビリティを高め、バットエンドを作品の一部に組み込むことに一躍かっているのは言うまでもないでしょう。
…正直、今まで見たゲームの中で、かくもバットエンドを有効に使いこなしたアドベンチャーは、浅学ながら、バットエンドをはじめに見せることでPLのやる気を喚起しつつ最終的にはPLにバットエンドとハッピーエンドとを選択させた『ONE』と、全体を一本道シナリオにすることでバットエンドを通過することをクリア過程に組み込んだ『雫』『痕』ぐらいしか知りません。
もちろん、長い歴史があるアドベンチャーというジャンルの中で、名シーンと呼ばれるだけのバットエンドは数多くあるでしょうが、バットエンドを作品の一部として取り込むことに成功した作品はそんなに多くないと考えています。
ここにきてアドベンチャーは、「選択肢が存在すること」の本当の意味を再発見します。全ての選択肢を選ぶことに意味が見いだせる…当たり前と言えば当たり前の話ですが、そんな基本を満たすこと自体、なかなかどうして難しいことなのでしょう。
自由度に意味はありません。多彩なエンディングにも意味はありません。多彩な展開にも意味はありません。選択されない選択肢こそ不幸であり、選択肢を選択させてこそ、アドベンチャーはその本懐を遂げるのです。
そして、それこそ、『月姫』がゲーム表現や物語の本質を良く理解しているという証左となるのです。
伏線の張り方のうまさ。
一つのシナリオをプレイすると一つの伏線の謎が解かれ、また新たな伏線が登場する。
謎が謎を呼び、結局、全部を理解するには全てをプレイする必要があります。選択されない選択肢に意味がないとするのであれば、このように、先のシナリオを解かざるを得ない仕組みを用意することは非常に重要なテクニックであり、絶対に施さねばならないテクニックでしょう。
ヒロインと一緒にいる時間を長くとる技術。
これは全シナリオに共通する事ですが、伏線と絡めて特にうまく機能させていたのが翡翠シナリオでしょう。
多くのPLは『月姫』をギャルゲーとして認識し、ヒロインとのエンディングを目指すことを目的とします。そこではヒロインと一緒の時間を長くとり、ヒロインとの絆を深める、ヒロインとの日常を過ごすという作業が絶対に必要です。
アルクェイドシナリオやシエルシナリオでは吸血鬼の追跡がそれを担いますし、秋葉シナリオでは秋葉の転校がそれを担います。
そして、翡翠シナリオや琥珀シナリオでそれ、ヒロインとの時間を長くとるための仕掛けが、志貴の体調不良です。志貴の体調不良は志貴を屋敷にとどめ、シナリオのヒロインと一緒にいる時間を長くとるように機能します。そして、同時に伏線としても働く…見事なからくりではありませんか。
知っているということが生み出す演出。
PLは繰り返しシナリオをこなすことでシナリオ開始時点でかなりのことを理解しています。
一方、主人公である志貴は何も知りません。ここで、PLは大いなるいらだちと焦燥感と危機感とを覚えます。知っているのに何も出来ないもどかしさ、なんとかこのの状況を打開するために全身全霊をもってテキストの読解に挑みます。そして、少しずつ明らかにされる謎という表現手法とかさなり、PLは物語の中に取り込まれていきます。
遠野ルートは、特にその手法がうまくいっており、志貴やヒロインの一挙一動にハラハラしながら次のテキストを求めマウスをクリックすることでしょう。「秋葉→翡翠」「翡翠→秋葉」→琥珀シナリオという一連の流れを思い出してください。
一般に先が読めない展開が誉めはやされる中で、先を読ませつつ、もどかしさの中で物語に取り込まれる…まさに、繰り返しプレイを前提としたゲーム表現の粋を尽くした演出ではありませんか。
同じでありながらも少しづつ違うテキストを採用することで、『月姫』はこの緊張感の再現に成功しています。これがただ、同じテキストの使い回しであれば、PLはそこに選択肢の迷宮を見いだしてしまい、ただの繰り返しとげんなりしてしまったところでしょう。
いや、琥珀、そんなに好きなキャラじゃないんですが…何だか妙にシナリオは気に入っているんですよね。アルクェイドのような莫迦女の方が好きなんですけど…やはり、魔女萌え・悪女萌えなのかしら、私(謎)。
あー、ごめんなさい。
本当は主題なんてどうでもいいです。
志貴の生き様は本当に美しい、ただそれだけです。
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