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著作権法はwebにおける言論を阻害する
著作権コラム第五回
0 本論考の結論
・著作権保護を結構だが、著作権の制限規定ももっと充実させて欲しい
・さもないと、著作権法はwebにおける言論を阻害する
・著作物の利用にまつわる技術的コスト――印刷・頒布コスト――は低額化しているのに対し、著作権保護が過剰化する昨今、法的コストが増大している
・その、増大した法的コストは一般人が負担するには重すぎる
・結果、一般人のwebにおける言論活動は阻害されかねない
・著作権の制限とは、著作権に当然に内在する制限であり、著作権が拡大するのであれば、著作権の制限もまた、拡大を検討されなければならない
・そもそも、賠償責任を負い得る人格のみが経済活動や表現活動に参画すべきという法原則そのものを考え直すべき地点に到達しているのかもしれない
1 どうでも良い前置き
実を言うと、私自身は、いわゆるデッドコピー、すなわち、複製そのものには、著作者の許諾が必要であるという法制でも問題ないと思っている(と言っても、立法事実自体がすでに崩壊しているので、それを維持する意義があるのかは疑問だが…詳しくは、著作権コラム第二回)。
問題なのはむしろ、著作権の制限の範囲だ。著作権の保護範囲を拡大するのは結構だが、それに合わせて拡大を検討すべき、著作権の制限の範囲については、まったくと言っていいほど議論がされていない。このままでは、著作権の制限範囲をより狭く捕らえられてしまう危険がある。特に、日本には送信可能化権等というけったいな条文があり、フェアユースが認められていない日本では、webにおける著作物の使用がほとんど不可能な状態になっている。しかも、プロバイダー責任法もあるし。っていうか、官庁自体が、あの法律をプロバイダー責任法と呼んでいる時点ですでに終わっている。プロバイダーを責任主体とする法律ではなく、プロバイダーが共同不法行為で問われる場合に免責されるための条件を設けた法律というのが、あの法律の立法趣旨である。プロバイダー責任制限法というのが、誤解を招かない約し方ではないのだろうか。
2 すべての表現にオリジナリティなど存在しないと言ってみるテスト
閑話休題。
「webにおける著作物の利用がほとんど不可能な状態になっている」と、なにが問題か?
恐らく、多くの人間は、「なにか問題あるの?」と、思うだろう。それこそ、率直に。
しかし、これがまた、大問題なのだ。
なにが問題って、「webにおける著作物の利用がほとんど不可能な状態にな」るということは、言論がほぼできない状態になるからだ。
おきまりの議論、すべての表現にオリジナリティなど存在しない、という奴だ。
と書くと、きっと、「著作権は守らなければならない」と思っている方々は、このコピー厨が何ほざくとか思うだろう。
そう、確かに、オリジナリティは大切だ(昔話の構造分析をしている自分からすると、そんなことはないと思うのだが、とりあえずは、大切だ、ということにしておこう)。
だがしかし、論文を書くにしても、物語を書くにしても、およそ、創作活動をするに当たって、文献に当たり、資料を引用する、ということをしないことはあり得ないだろう。もちろん、本来ならば自身が現地に向かい体感しなければならないのだが、資料内容がすでに過去の話だったりすることも多く(歴史的事件について書く場合など)、また、そのような時間的・金銭的余裕もないため、創作活動をする人は、必ず、絶対に、文献に当たり、資料を引用することになる。くどいようだが、もし仮に、そこで、「私の創作物はオリジナリティに溢れているため、文献に当たり、資料を引用する、というようなことはない」と宣うのであれば、その人こそ、まさにドキュンと呼ばれるに相応しい人物であろう。それは、タダの勉強不足だ。著作物を利用引用しないで創作物・著作物を創作することなど、あり得ない。
もちろん、現行法も、そこら辺に留意して、引用など、一定の条件で著作物の制限を認めている。
3 法的コストの削減を!
だが、ここで問題となるのが、法解釈の難しさと応訴リスクの大きさである。
法解釈・応訴リスクは、個人が負うリスクとしては、あまりに大きすぎる。
かつて、webが登場する前は、下記のような言論形態になっていた。
創作者が執筆した言論を、出版社が編集という形で受け取り、出版にこぎ着ける。出版社が編集を担当することで、引用が不適切であったなど、著作権侵害の危険性がある場合に、法解釈・応訴リスクを、“責任主体としての責任力と資本力とを備える”出版社が負担していた。
こうすることで、創作者は、出版社の庇護の元、法解釈・応訴リスクを背負わずにすみ、のびのびと言論活動ができる一方、著作権を侵害されたと主張する当事者も、無資力の可能性が高い(ため、とりっぱぐれかねない)創作者を相手にする手間を背負い込む必要がなくなる。
著作権は、無条件で権利が発生する一方、保護範囲も極めて広汎、排他的という強力な権利であるため、創作者は無意識のうちに著作権を侵害している危険性が高い。しかも、先ほど書いたとおり、著作物を利用・引用していない著作物など、およそあり得ないので、必然的に、著作権侵害に問われる危険性は加速度的に高まる。実際には著作権侵害ではなくとも、著作権侵害と思わしき外形を備えてしまい、トラブルに巻き込まれるというのは、充分あり得る(そして、それこそが問題だ)。だからこそ、出版社が編集という形で創作活動に介入し、法解釈・応訴リスクを負担する必要があったわけだ。
複製・出版活動には膨大な資本が必要であったこともあり(ここは、著作権コラム第二回を参照のこと)、出版社が言論活動を編集・独占するという実体が一般化することになった。
ところが、web登場の前後から、事態は一変した。
まず、著作権コラム第二回に書いたとおり、複製・出版活動のコストが、恐ろしいまでに低下した。これは、webが登場する前から始まりつつあったのだが、コピー本の製作やオフセット印刷、ビデオ撮影など、複製・印刷技術の発達は、複製・出版活動に掛かる技術的コストを引き下げた。現在では、パソコン一台でなんでもコピーできるようになり(音楽をCDに保存できる、本をスキャナーで写し取る、デジカメで様々なものを録画する)、記録媒体の低価格化も重なり、技術的コストは信じられないほど低価格となっている(大容量のDVDが300円で買える時代だ)。
さらに、webの登場により、発表・頒布コストが決定的なまでに低額化する。なにせ、webに繋ぐことさえできれば(月数千円程度の負担にすぎない)、いつでもどこでも誰でも、自分の言論を発表できるのだ。
個人運営のHPの発達を観ればわかるように、ここに来て、出版社を介在しない言論が増大することになった。
そして、問題が顕著になった。多くのHPでは、編集として責任主体となる出版社が介在していないため、個人が、著作権侵害に対する責任主体として、法解釈・応訴のリスクを負担することになるのだが(ここでの負担とは、訴訟にならないために事前の調査・許諾を得ておくことも含む)、多くの場合は、責任主体として責務をまっとうできるだけの知識もなければ、資力もない(ここで資力とは、金銭のみならず、時間的・人的資源も含む)場合がほとんどである。
結局、著作権侵害の危険性などの法的コストを考慮すると、個人がHPによって創作活動を行うことは、実は、極めて難しいのが現状である。現行法は、個人が言論の責任主体となる場合について、何ら考慮していなかったのが、現状だったのだ。
ここで、我々が考えなければならないのは、この、法的コストの引き下げなのである。せっかく、複製・印刷コスト、発表・頒布コストが下がり、誰もが自由に言論をなし得るようになったのに、ここで法的コストを引き下げなければ、結局、webの利点はすべてスポイルされ、出版社が編集を独占し、出版社の庇護・管理の元、創作者が著作物を創作するという、旧来のスタイルに落ち着きかねない。またも、一般人は、自由に言論を成す機会を失われることになる。
4 法的コスト削減論に対する考えられる反論
もちろん、実際問題、著作権者(多くの場合、出版社が矢面に立って訴えるであろう)が創作者を著作権侵害で訴えて創作者が著作権侵害として応訴リスクを負担する、という可能性は低いとも考え得る。
しかし、批評をするにしても、ファン活動をするにしても、完璧を期すには、いちいち著作権者の許諾を得ておく必要があるというのは、個人にとってはあまりに法的コストが大きすぎる。批判的な批評を行う場合、許諾を拒否され、そもそも言論活動自体が阻害される危険性さえありうる。ファン活動をしようにも、著作権者に嫌われれば、なにもできなくなる(別に、ファン活動ならば何やっても良いというわけではない。しかし、ファン活動に著作権者の許諾を必要とするのは、ファンの囲い込みであり、著作権者を絶対視する風潮を生み出しかねず、社会的文化的に不健全な言論が生まれる土壌となりかねない。いわゆる信者、を産むことになるというのが、私の懸念である)。代表的な例が、ゴーマニズム宣言引用事件であろう(リンク先が偏っていることは勘弁)。あの事件で、事前に小林よしのり氏に許諾を取ろうとすれば、間違いなく拒否されていたであろう。
また、そのようなグレーゾーンを残しておくことは、「著作権者のお目こぼし」を期待するという、歪んだ社会状況を生み出しかねない。お目こぼしを期待するのは、大人の対応かもしれないが、そのような社会に、健全な批評は生まれ得ない(子供っぽい熱血漢というのは、どんな時代でも貴重よ?)。
なによりも、このような不安定な状態にすること自体、創作者の言論活動を萎縮させかねない(いわゆる、萎縮効果)。結果、まったく発言しなくなるか、無難な言論にとどまってしまうかになるであろう。
馬鹿馬鹿しい話だが、レッシグ先生によれば(著作権コラム第四回)、「英国の製薬会社の動物実験の方法を批判していたウェブサイトは、著作権の対象となる作品がそのサイトで使われていることをその製薬会社が指摘したために、閉鎖された。複数のチェーンストアの価格情報を掲げているサイトも、著作権を根拠とする法的根拠をちらつかされ、脅かされている。 」なんてことが、現実にあるのだ。
もちろん、「他人のふんどしを取って表現活動を行うなんて」という価値判断はあり得る。
しかし、先も書いたとおり、著作物を利用しない著作物などあり得ず、かつ、著作物が従前の著作物を利用してしまう以上、著作権侵害に該当する危険性は、常に内在的に存在することになる。これは、著作物及び著作権法が内在的に抱え込んでいる宿命であり、「他人のふんどしを取って表現活動を行う」ことを過剰に禁止することは、すなわち著作物の創作それ自体を禁じる結果となりかねない(さらに言えば、知識の共有(思想の共有ではない)という、教育・文化の基本的理念を考えたとき…そもそも著作権概念自体が否定されかねないので、やめておきます(苦笑))。
忘れてはならないのは、著作物の利用者は、次の著作者となる可能性があるということだ。もし仮に、著作者の保護を歌うのであれば、次の著作者の保護も、その視野に入れて当然であり、「他人のふんどしを取って表現活動を行う」ことを過剰に禁止することは、著作権保護の政策としては、あまり宜しくないことになるということがわかるであろう。著作権の制限とは、著作権に当然に存在する、内在的な制約と言えるであろう。著作権が広がれば、著作権の制限もまた、拡充を検討すべきである。
もうひとつ。「自分の発言に責任を負えない者はそもそも発言するな」という反論。
これは痛烈な反論だ。実際、そのとおりだとは、思う。いままでも、そうやってやってきて、プロたる創作者が発言し、プロたる出版社が金銭的なリスクを負っていた。webには素人の無責任な言論が多く、それにまつわるトラブルも多いと嘆く批評家もいるという。創作者は、すべて、出版社から印税を貰って生活する代わりに、自分の言論には最大限の注意と責任を負わなければならないのだ。責任ある言論をすべき創作者は、すべからく編集のプロである出版社に鍛えられるべきである。
………だがそれは、出版社から印税を貰って生活している人間の言い分に過ぎない。出版社から印税を貰って生活していない、多くの一般人は、発言してはならないと言っているようなものだ。そして、憲法理念から考えれば、そのような、一般人に発言の機会を与えることこそ、まさに表現の自由の理念に叶うのではないだろうか。
その際、一般人が言論を行えるよう、著作権の制限の範囲を広げる・明確化することで、法的コストを引き下げるなど、環境を整備する必要があるのではないだろうか。特に、言論にまつわる他の法的コスト――名誉権侵害、プライバシー侵害、猥褻概念――に比べ、一般人にはわかりにくい著作権侵害については、もっと分かりやすく使いやすくする必要があるだろう。もし日本が、web立国を目指し、一般人によるweb利用を活性化させたい、と考えているのであればの話だが。
5 賠償責任を負い得る人格のみが経済活動や表現活動に参画すべきである、らしい
結局、なにが問題かというと、これは、先日の動物病院対2ちゃんねる事件でも明らかになったのだが、現行の法制度は、責任主体たり得る、賠償責任を負い得る人格のみが、経済活動や表現活動に参画すべきであるという哲学に乗っ取って作られているということである。
もちろん、それはそのとおりだとも思わなくはないのだが(そうでなければ経済活動など怖くてやっていられない)、webの発達は、責任主体たり得ない人格が様々な活動領域に参加できるようにしてしまった。これが、単なる一時的な無法状態に過ぎないのか、それとも、新しい社会モデルの誕生であるのかは、にわかに判断できかねるが、web社会にはweb社会の流儀が存在することもまた、確かであろう。フリーソフトもまた、そういう、webの無責任な責任形態から誕生し、発達してきたとも言える。勝手に改良しろってのは、考えてみれば、随分無責任な物言いではないか。
最近の、プロバイダー責任制限法をプロバイダー責任法と読み替える答申や判決などは、現行の法制度が無意識のうちに責任主体をプロバイダーに求めてしまった結果なのだろう。
個人的には、フェアユースの創設によって、ファン活動における著作物使用など、引用以外での著作物の使用の領域を、もっと広げる必要があると思われる。著作権者の経済的活動を実質的に阻害しない著作物の利用について、明文をもって合法化することが望ましいであろう。
もちろん、日本国が、web社会の発達、一般人による言論活動の発達を国策として考慮しないというのであれば、話は別だが。
6 参考文献もとい、先行文献
http://it.nikkei.co.jp/it/njh/njh.cfm?i=20030122s2000s2
http://japan.internet.com/research/20030129/1.html
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