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*02 おおざっぱに言って(実際は、要件はもう少し細かい)「会社の職務」として著作物を作成していなければ、逆に、職務著作物としては認められず、法人は著作権者とならないことになる。裁判ではこの点も争点にはなったが、(職務著作物という法制度の妥当性はともかくも、)常識的に考えて、職務著作物として認められた。
*★ 2003/02/11訂正
先日、以下のメールを受け取り、ご指摘にしたがい、この段に「著作者」とあったものをすべて「創作者」と書き直しました。
標記コラムほか、興味深い記事をありがとうございました。修士論文の内容は、大変参考になりました。はい、確認しました。仰るとおりです。すべて、私の不注意と不勉強のいたすところです(涙)。現行法では、職務著作の創作者は著作者ですらなくなります。
さて、以下の点、少々気になりましたので、ご報告申し上げます。まず、第一に気を付けねばならないことは、著作者と著作権者とは異なりうる、という事実だ。なんだそれは、と思うかもしれないが、この事件でも問題となっている。これをちらっと読む限りでは、これは職務著作(著15条1項)に該当するので、「著作者」も「著作権者」もイズということになると思います。加賀氏は「著作者」ではなく、「著作物を職務上作成する従業者」にすぎない、ということになります。
ティアリングサーガを作った、ティルナノーグ社長・加賀氏が、かつてはそもそもイズに所属していたことから問題が始まる。裁判所の認定によれば、イズ時代に加賀氏は、会社の職務としてファイアーエムブレムの世界設定を作成、それをゲーム化した。この時点、すなわち、会社の職務と評価される時点で、著作物の著作権は会社に帰属することになる。*01
したがって、著作者、すなわち、著作物を作成した人物は加賀氏であっても、著作権者、すなわち、実際に著作権を行使する権利者は会社法人であるイズということになる。*02
このように、著作者でありながら、著作権者として著作物から収益を上げることができない場合が存在することには、注意を要する。
判決も確認してみましたが、「6 請求原因(8)の事実(原告イズへの著作権の帰属)について…したがって,原告ゲームについては,「トラキア」以外のゲームソフトを含めて,すべて職務著作として原告イズを著作者と認めるのが相当である。」とあり、「著作者」が「イズ」である、と認定しているようです。
法人著作については、特に同人関係に限らず、種々の誤解があるようで、退社した会社とのトラブルもよく聞きます。職務著作の場合は、
著作物を実際に作成した人と「著作者」とが異なりうる。したがって、著作物を実際に作成しても、著作権が会社に帰属してしまうだけでなく、「著作者」としての名誉(著作者人格権等)も会社に帰属しまうことがある。
となることは案外知られていないと思います。
ご検討ください。
*03 修士論文「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点〜利用権中心主義の提言〜」http://tatuya.niu.ne.jp/master.html
著作権コラム第二回「現代著作権法の問題点〜White氏と高橋氏との議論をみて〜」http://tatuya.niu.ne.jp/copyright/column/02.html
*04 この、伝統的な、「著作物であるか?」→「類似点の比較」→「類似点は、著作権を侵害するか?」という考え方は、最近の最高裁によって否定された(最高裁平成13年6月28日、江差追分事件)。最高裁は「類似点の比較」→「類似点は、著作権侵害を構成するに値する創作的表現か?」という考え方を採用している。
右最高裁の考えは訴訟技術上の必要から採用された考え方である。要は、効率がよい。さらに、最高裁の考え方は確かに、一般人の感覚にも合致している。普通、一般人であれば、それが著作物にあたるかどうかは考えず、直ちにそれがパクリと言えるかどうかを考えるだろう。
しかし、初学者にはまず、基本的な条文構造を理解してもらう必要があるため、敢えて伝統的な学説に乗っ取って説明することにした。初学者はさらに、“パクリ=悪”という先入観を持っている場合が多く、最高裁のように類似点の比較から入ると、「類似点は、著作権侵害を構成するに値する創作的表現か?」と考えることなしに、いきなり違法という結論に飛びつきかねないため、注意を要する。
話は変わるが、先に論じた職著作物は、(論理的には)製作物が成立したのちの著作権の移転の問題であり、著作物であるかという問題のあとで論じるべき内容である。本論考では、論の立て方の関係上、このような論じ方を採用した。
*05 条文をより細かく分析すれば、この条項は、「思想又は感情」かつ「創作的」かつ「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」に属する「表現」である必要がある。
しかし、「思想又は感情」を著作物のメルクマールにすることは、保護に値する表現がなんであるかを国家が統制することになりかねず、これは憲法が保障する表現の自由に真っ向から対立する結果を導いてしまう。身も蓋もない言い方をすれば、例えば、エロ画像は保護に値しないと国家が決めてしまいかねない。「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」と言っても、新しい文化のジャンルが生まれる可能性は往々にしてあり、そのようなジャンルが生まれるたびに法改正するのは煩雑であるため、これをただの例示に過ぎないとすべきであろう。そのため、「創作的」な「表現」というふたつの要件(法律用語。法的効果を導くための条件)のみが、実際の裁判では検討されることになる。
*06 例えば、事件報道の場合、被害が起きた場所、被害が起きた態様、被害者、加害者など、記述することは大抵一定しているであろうから、そのような言葉の羅列には「創作」性は認められない。誰が書いてもほぼ同じ文章になるであろうものを、著作物として保護する必要はないであろう。新聞協会などは盛んに新聞記事の著作物性を唱えているが、一面記事などはともかくも、1段にも満たないような記事の場合、著作物性を認めるだけの創作性があるかどうか、多くは極めて疑問である。そもそも、もし仮に、記事を著作物として認め、著作権の独占を認めるのであれば、それは情報の独占を新聞社に認めることに等しいという危険性は、留意しておく必要がある。
*07 「創作的でない表現」についても問題は同じなのだが、なにも、「創作的であるが表現ではない」企画は法的に保護に値しない、というわけではない。それは単に、著作権法で保護するには相応しくないとしているに過ぎないことに注意しなければならない。それを保護するのに、なにも著作権法を利用する必要はなく、むしろ、著作権法という法制度を使う方が不適切な場合が多いのだ。この点が、まさに本論考の核心である。詳しくは後述に譲る。
*08 下記のような理由が考えられる。
(1) 模倣なくして創作なし
人によっては意外かもしれないが、創作活動において、パクリというのは当たり前のように行われる。どのような指導者も教本も、創作活動を始めるにあたって「模倣」の重要性を説いている。
もちろん、「はじまりは模倣であっても、最終的にオリジナリティを発露すべきであって、そのレベルに達したものこそ創作活動と呼ぶに値する」と定義することは可能ではある。しかし、物語創作の基礎としてスリーアクトストラクチャーを逸脱するような物語は存在し得ないことを考えたとき、そのような人間のオリジナリティに対する信仰が、果たしてどこまで妥当するか、疑問である。ビジネスを成すにしても、学問を学ぶにしても、スポーツをするにしても、そこには一定の基礎とルールとがあり、その基礎を学ばずしては習熟があり得ない。物語などの著作物創作においても、やはり一定の基礎とルールとが純然と存在する。そして、その基礎とは、一般人が思うよりは、深く広く創作者を縛ることになる。物語の海で泳ぐには、泳ぎ方を学ぶ必要があるのだ。もしも、その基礎を軽視し、創作者のオリジナリティを過大に評価することになれば、物語文化を衰退させるか、数人の創作者に創作活動を独占させるか、どちらにしても惨憺たる結果を導くことになるであろう。
(2) 要件が緩やかなワリに、強力な著作権
ある程度、知的財産法の知識がある人間であれば、ここで、次のような疑問をぶつけてくるであろう。
「アイディアは保護しないと言うが、しかし実際、特許はその著作権法で保護しないアイディアを、まさに保護しているではないか?」
その理由はすなわち、著作権法が採用している法制度に起因する。
著作権法は、(知財に限らず)他の権利と比べてみたとき、成立の要件が緩やかであるにも関わらず(創作的な表現であれば、幼稚園児の落書きでも、特許のような登録もなしに権利が成立する)、その効果は絶対的(通説では、著作権法は、著作物に対する“排他”的な“独占”権とされている。これは、事実上の流通の独占を認めることだ)なものである。
これは、お互いの経済活動・創作活動に重大な影響を及ぼしかねない。
広汎かつ強力に保護される著作権が(特許と異なり)公示もされず日常のように生じるとすれば、我々は常に、他人から著作権侵害によって訴えられる危険性に怯えねばならない。仮に、著作権を侵害しないとしても、訴えられる危険性に怯えるあまり、その執筆活動などを自粛せざるを得ない状況に追いつめられるであろう(これを、法律用語で萎縮効果という。最近、二次創作系のHPが閉鎖しているケースが多いと聞くが、まさに、萎縮効果の結果であろう)。このような状況でバランス良き法制度を目指す場合、できうる限り著作権が成立する範囲を狭く捕らえるか、著作権の効果をできる限り抑止的に把握する必要がある(このように考えると、著作権保護を安易に推進することが、如何に危険な行為であるかはわかっていただけるかと思う)。
(3) 言論の自由
なお、さらに以下のような反論も考えられよう。
「著作権を抑止的に理解する必要性はわかった。しかし、例えば、アイディアの重要度・創作性をメルクマールにするという法制度があっても良いだろう。なぜそこまで、現行法はアイディア・表現二分論に拘るのか?」
正直、この反論に論理的な再反論を返すのは難しい。
ただ、感覚的な問題として、アイディアが目的とすれば、表現とは、それを伝達する手段である。ここで仮にアイディアを保護するとすれば、裁判所(国家)が、重要なアイディアと重要ではないアイディアとを分けることになり、それは結果的に、国家に必要な言論と国家に必要でない言論とを分けることになりかねない。それであれば手段である表現を規制した方が、まだマシと考えられるであろう。一方、特許は重要なアイディアと重要ではないアイディアとを区別するが、それは経済活動のアイディアであり、言論のアイディアに比べて、まだ、国家が要不要を判断するのが馴染む、と考えうる。
*09 驚くべきことに、法律家は、これを詳細な比較と呼ぶのだ。
*10 ゲーム批評編集部「『ティアリングサーガ事件』に最初の判決 司法はどのような判断を下したのか?!」ゲーム批評2003年1月号5頁は、「そこで前述のように、他のゲームをまとめて“同じようなもの”と括られてしまうと、個別の判断は『似ているけど違うもの』となってしまう。これは、ゲームファンがかねてより感じている、ゲームを知らない方々とのギャップに他ならないのだ」と指摘している。
そのとおり、法律家のおじさんたちは確かに、ゲームを知らなさすぎる。
しかし、ゲーム業界の人間は、法律を知らなさすぎ、さらに業界人はエンドユーザーなどの利害関係人のことを知らなさすぎるのだ。
*11 この考え方は、いま叫ばれているプロパテントの考え方とは真っ向から対立するが、ワリと、若手の著作権法学者の多くの賛同を得ている考え方であるらしい。
*12 近時の、ときめきメモリアルメモリーカード事件(最高裁平成13年2月18日)やデットオアアライブヌードプログラム事件(東京地裁平成14年8月30日)も、安易に著作権侵害を認定してしまったが、問題の本質はまさにここにあると言えよう。
*13 ゲーム批評2003年1月号5頁以下が、「隠された問題点」として、判決によって人材の流出などを招き、「ゲーム制作費の増加を生み出す可能性もある」ことを懸念していることは、(その真偽はともかくとして)問題の本質を捕らえた鋭い指摘であろう。
*14 それでもなお、個人的な意見を述べさせてもらえば、世界観やシステム、ジャンルに不正競争防止法を適用することは反対である。世界観など、世間にオープンされた情報を、企業に独占させる必要性はないからである。現行法も、営業秘密を保護し、公開されてしまった情報は保護しないというスタンスを取っている。
もちろん、世界観などをブランドイメージに類似する物と理解し法改正をする、というのであれば、また話は別になってくるであろう。
しかし、ブランドイメージと比べ、世界観などはあまりに漠然として保護範囲が広汎に過ぎ、(登録が要件となっていない)不正競争防止法の規制対象としては適切ではない。
そもそも、著作権や不正競争、特許など多種多様な法規制の網にかけるのは、サードパーティーの参入を妨げ、市場活性化を妨げる可能性があることは考慮すべきであろう。我々はなにも、従来の企業の既得権益を保護し、独占させる必要はない。
*15 経済学では一時期、知的財産法は果たして経済にインセンティブを与えるか? という議論が真剣に討論されていたらしい。一方、そのころの知的財産法は、法律が存在することを所与の概念とし、知的財産法の趣旨・本質の研究は疎かにされていた節がある。
それが、ここ数年、状況は一変。プロパテントの時代と知的財産法はもてはやされ、経済学でなされていたインセンティブ論はすっかり影を潜める一方、いい加減、制度のゆがみが無視できないほど増幅した知的財産法を目の当たりにした若手学者たちは、知的財産法の趣旨・本質に疑義を提示しはじめている。
本論考は、見る人によっては、懐古主義の、時代に逆行した時代遅れの考え方のようにも見えるかもしれない。
しかし、このように考えるには、それなりの歴史と根拠が存在するのだ。
*16 もちろん、著作権法においても、インセンティブ論が有力に主張されてはいる。
しかし、現行法がインセンティブに釣り合った制度を提供しているか? そもそも「表現」にインセンティブがあるのか? 疑念は尽きない(と言いつつ、自分の考えがまとまっていないことを誤魔化す)。
*17 過度の広汎性故に無効の理論
雀を撃ち殺すのに大砲を持ち出す莫迦はいない、焼き鳥を焼くのに原子炉を使う莫迦はいない、ということ。目的を達成するには、廻りの迷惑を考えて手段を選ぼうというお話。必要以上に自由を制限する必要はどこにもない。
*18 詳しくは、私の修士論文http://tatuya.niu.ne.jp/master.htmlを参照のこと。
*19 いわゆるデータベース著作物などで良く主張される「額に汗の理論」も、問題の本質を同じくする。「表現」を保護する著作権法はそもそも、ロック的労働所有権論〜自分の労働の成果は自分の物である〜に基づく「額に汗の理論」に馴染まない。
かつては、複製権中心主義により、複製や編集といった労働行為に対して利益を分配することで、著作権の根拠を労働所有権的に把握することが、まだできたが(欧米では出版と印刷とは一体化している)、それがもはや通用しないというのは、私の修士論文http://tatuya.niu.ne.jp/master.htmlが指摘するところである。
ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、tatuya215@hotmail.comにお願い申し上げます。