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「猿婿」という昔話。それと出会ったのは、今から二年前の十月頃でした。
その日、NHKを見ながら、一人わびしく食事をとっていたのです。
ニュース(七時のだろうか?九時のだろうか?)を見終え、何となく、だらだらとしていたところで特番がはじまりました。タイトルは、『童話の世界のファンタジー』。私はこれを見て、おや、と居住まいを正しました。ファンタジー…TRPGというゲームを知る者であれば一度は聞いたことがあるタイトルでしょう。そういえば、ファンタジーって、元々昔話や童話から来ているものだよなあと思い、少し、意識的に見ることにしたのです。
ストーリーは、親が別居中の女子高生が、ある日不思議な貸本屋さんに出会い、そこで童話や昔話について様々なことを見聞きし、その中で、童話に潜むファンタジーの本質に出会うというものでした。その過程で別居中の両親がよりを戻したり、女子高生が夢を語ったりしていましたが、そんなことは枝葉末節です。私が心討たれたのが、「猿婿」という昔話でした。このお話を見たとき、私は瞬時に敗北を、己の無知を悟り、そして、深い嘆きにおそわれたのです。
「私は…なんてバカなんだろう!こんな、こんなにすごい話があったなんて…」
丁度そのころ、私は楽しみというものを見失っていました。アニメはだんだんとつまらなくなり、小説も量だけがやたらあるだけでストーリーが遅々として進まず面白くもない、かといってライト小説に手を出しても中身が薄っぺらいものばかり…ドラマなんてとっくに見限っていました。唯一の楽しみといえば、漫画ぐらいでしょうか。それでも、なにかこう、心に切に訴えかける、がつんとくる作品はついぞ見たことがありません(ああ、当時は『マスターキートン』がありました。あれは訴えるものがあります)。言ってしまえば、娯楽市場全体が閉塞感にあふれていたのです。最大の趣味といえるTRPGも、ここのところセッションがマンネリ化して、試行錯誤していたところです。
そう、気が付いたのです。みんな、新しいことにばかり目がいきすぎているのです。こんなにも、身近に極上の話があるのに、誰もそれに見向きもしない。みんな、エッジを目指しすぎて、古典を、基本を忘れています。一度、物語は母たる昔話に立ち返る必要があるのです。そのことに、気が付いたのです。なにも、肩肘張って、変に凝ったキャラクターを創って話の構造を崩壊させる必要はないのです。変に複雑なお話の構造にして、制御不可能にする必要はないのです。なんでもかんでも、すべてを科学的に説明しようとする必要すらないのです。お話とは、あくまで、お話です。ただ、ひたすら、お話が味わい深ければ、もう、それだけで、たとえお話がシンプルであっても、いえ、シンプルであればあるほど、味わい深い一品となるのです。シンプルに、お話自体を楽しませてくれればよいのです。
私は気が付いたのです。TRPGで語られるファンタジーの多くは、実はファンタジーのまがい物であることにすぎないということに。面白いつまらない抜きにして、あの名作、トールキンの『指輪物語』すらも、ファンタジーではないのです。
それから私は、しゃにむに昔話、ファンタジーの文献に当たりました。丁度そのころ、『本当は怖いグリム童話』のブームがあった頃ですが、そんなブームに便乗せず、ただ、ひたすら原典や研究論文(といっても、文庫化されているレベルです)をあさっていたのです。
その結果が、このシナリオです。昨年(1998)の七月下旬にできあがったシナリオです。私は多くは語りません。まずは、一読してください。そして、プレイしてみてください。ここに、私の作品観のすべてが詰め込まれています。
物語とは、それ単体で、味わい深いものなのです。本当の物語とは、智の力すら、受け付けません。どんなに構造を明らかにしようとも、どんなに心理分析にかけようとも、さらに、伝統的な文学解釈によったとしても、そんなものでは推し量れない、大きな力があるのです。
最後に、「猿婿」をここに載せておきます(抜粋)。
「猿婚入り‐畑打ち型」娘の三人ある爺が山を開いて大根をまいたり、菜を作ったりしていると、猿が一匹でてきて、かわりに畑仕事をしてやるから娘をひとりくれ、と言う。爺は、娘は三人いるからと承諾し、仕事をまかせて帰る。爺は、娘が行ってくれればいいが、もし行ってくれなければ猿に申しわけないと心配しながら寝る。翌朝になっても起きないでいると長女が来て、起きてお茶を飲むようにすすめる。爺が、おまえが猿の女房に行ってくれれば起きるが、そうでなければ起きないと言うと、長女は「猿の女房やなんぞ、だいきらい。そぎゃあことはようせん」と言って去る。つぎは次女が来てお茶をすすめるが、わけを聞くと、「猿の女房になんぞ、誰が行くもんにゃあ。いやらしい」と断わる。つぎに末娘が来てお茶をすすめるが、わけを聞くと、「そりゃあ、猿の女房にわしが行ったげるけえ。わしが思うようなものを買うてやんさりゃあ、そりゃあ行きましょう」と答える。爺は起きてお茶を飲む。娘が思うものとは、はんどう(かめ)と鏡であった。爺がそれらをそろえてやると猿がやって来て、
「昨日の約束どおり、畑を刈って、菜をまいといたけえ、娘をひとつ、今度はもらいに来たけえ」と言う。末娘は猿に、荷物があるからとてはんどうを負わせる。猿は「そりゃあ負うてみる」と言ってはんどうを負い、娘は鏡をふところに入れて、連れだって出る。途中の川に一本橋があり、娘は橋の上から鏡を水の中へ落として泣く。娘が、親にもらった大切な鏡を落としたと訴えると、猿は「それぐらいのことなら泣かあでもええ。わしがひろうてやる。どっかはんどうをおろいとかにゃあやれん」と言う。しかし娘が「親にもろうた、一番大事なはんどうじゃけえ。わしの命より大事なはんどうじゃけえ、それをおろいてくれちゃあいけん」と言うので、猿は「そんなら負うて入ろう」とて水に入っていく。
猿が「ここか」と言うと娘はそのたびに「まだ先」と言う。水がだんだん深くなり、はんどうの中へ水が入り、猿は死ぬ。娘は喜んで家にもどり、「猿はなあ、水の中へ溺れて死んだけえ、それでわしは戻った」と言う。爺も「それはまあ、ええことをしてくれた」と言って喜びかわす。小澤俊夫著「昔話のコスモロジー ひとと動物の婚姻譚」講談社学術文庫30頁
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