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「輪廻の十字路」は、凄いシナリオです。
強固なストーリー性と、それを伝えるだけの念入りな演出は、上質の物語と言っても過言ではありません。
おそらく、このシナリオを始めて見られた方の多くは、衝撃を受けたことでしょう。
では、「輪廻の十字路」は何が凄いのか?
このシナリオをよりよく遊ぶためにも、ここは一つ、「輪廻の十字路」の構造(といっても、仕掛け、程度の軽い意味です)を解析してみましょう。
漫画、映画、小説、演劇…どのようなメディアでもかまいません。物語に普遍的な魅力と訊かれたとき、みなさんはなんと答えるでしょうか?
色々考えを巡らすかもしれません。
多くの人が考えるであろう一つに、意外性というものが挙げられることでしょう。
手に汗握る、読めないストーリー展開。
謎に満ちたミステリー。
小説の帯でよく見かけるキャッチフレーズだろうと思います。
それとわからせないように伏線を張り巡らしながら、作品の背景で確実に致命的なストーリーを進行させる。物語の技術としてなんと巧妙な手法ではありませんか。
しかし一方で、全く逆の魅力というものも存在します。
『奇妙な一致』…昔話をはじめ、ファンタジー・フェアリーテールでよく見かける手法です。
例えば、多くの昔話に見られる、三兄弟のお話。長男が冒険に出て失敗し、次男が冒険に出て失敗し、三男が冒険に出て成功する。しかし、そこに至るまでの過程はほとんど同じというお話。一件稚拙なように見えながら(ストーリー進行は見え見えであるはずなのに)、何故かぐいぐいと引きつけられる面白さがあります。『奇妙な一致』ゆえの納得。そこに多くの人は、長男と次男の失敗と三男の成功に、ああやっぱりという奇妙な安堵感と喜びを見いだすことでしょう。
この、奇妙な安堵感を感じる状況を、民話学では、「三数の原則」と言います。
同じことを三回繰り返すことで、そこに一種擬似的な経験則・因果律を読者に見いださせ(錯覚させ)、情感的に読者にそのストーリー進行を納得させるという、実に巧妙な技術です。この瞬間、理性で拒絶しつつ、感性で納得してしまう、目眩のような感覚に囚われることでしょう。
ここで、三回繰り返すとは、二回では少なく、四回では多いという、人間の経験則によるところが大きいのでしょう。実際、世界中の民話のほとんどが、この「三数の法則」に乗っ取って語られています。
人間は、意外なストーリー展開に驚愕すると同時に、予想どおりのストーリー展開に奇妙な安堵感・喜びを見いだすのです。
「輪廻の十字路」は、確実に流れるはずの時間に囚われ、同じ時を永遠に繰り返すということを、「三数の法則」に裏打ちされた繰り返しの技法によって演出しています。
導入ステージでの導入と、展開ステージのシーン3:繰り返す帰郷と、終局ステージのエンディングとを読み比べてください。ほぼ、同じシーンを繰り返していることがわかります。そして、それぞれのステージで演出されますから、ちょうど三回。見事な「三数の原則」といえるでしょう。
もちろん、展開ステージで何度もシーン3:繰り返す帰郷を繰り返せば、三度以上シーンを繰り返したことになります。
しかし、ここで注目してもらいたいことは、それぞれのステージで、シーンが繰り返されるという事実です、
展開ステージで何度繰り返しても、ステージという単位で見れば、それは一回と数えることが可能なのです。そして、実際、プレイしてみればわかるかと思いますが、全体的な印象としては、三回シーンが繰り返されたという印象が残ることになるのです(それが、ステージという概念の魔力というものです)。
もちろん、展開ステージにおいて何度も繰り返した事実は残ります。
実を言えばこれは、展開ステージの内部においてまた、「三数の法則」が適用されると言うことに他なりません。ですから、展開ステージにおいてシーンを繰り返す場合、三回以内にとどめる方が、無難だと思います(くどくなく、後味良くセッションを終えられます)。
これが、「輪廻の十字路」のシナリオ構造であり、絶対に守るべきシナリオの構造なのです。
とにかく、「三数の法則」という概念を忘れないでください。
登場判定やシーンプレイヤーの概念を正しく理解している場合は、後者の方法の方が、正しいようにも見えます。つまり、シーンとは、演劇でいうところの一場面あるいは一幕に相当するものです。場面場面は必ずしも連続性がある必要はなく、観客(この場合はPL)が理解できる程度に場面場面をつなげれば足りるです。そして、シーンプレイヤーです。シーンプレイヤーは、そのPLのPCが主人公であることを意味します。シーンの主人公である以上、ある程度能動的にシーンに介入することを認めてもかまわないでしょう。
かくて、シーンプレイヤーの意見を聞き入れつつ(そのシーンで何をしたいのか…例えば、情報を収集したいのか、NPCと会話したいのか、それとも、シナリオの核心に迫る場面に出くわしたいのか)、PLが理解できる範囲で、望ましいシーンをGMが演出するという手法が生まれることになります。このような方法であれば、必ずしも、シーンは時系列通りに進む必要などないのです。
また、この手法を採用すれば、時系列の混乱による目眩を簡単に再現できることも魅力です。
しかし、私は、むしろ逆に前者の方法を強く進めます。
私の場合は、以下のように管理することになるでしょう。
・一周目
シーン1の前に、シーンプレイヤーの希望を聞き入れ、シーン6以降を適宜演出。PCが一通り登場したことを確認したところで。シーン1とシーン2をマスターシーンで演出します。
・二周目以降
問答無用でシーン3から始めます。そして、以降は、一周目を忠実に再現します。PLが、時間をとばしたいと主張しても、聞き入れません。ただ、一周目と違う行動をその時間帯に行動したい場合に、別途シーンを設けるだけです。
少々めんどくさいですし、GMが強権を発動しすぎと思われるかもしれませんが、PCの、時間の理不尽さに対する怒りは募りますし、同じシーンを繰り返すことによる、別の意味での目眩を体験できるメリットもあります。PLと掛け合って、全く同じシーンを二倍速・三倍速で再現してください。きっと、大受けすることでしょう。PLも、積極的に動かざるを得なくなります。自分たちが主張・行動しない限り、自体の解決が図れないことを理解できるのです。
そして、シーン4・5を演出し、二周目は終わるのです。
三週目以降は、同じ進行になります。
ただ、まあ、特別構えることではありません。簡単なことです。
導入ステージのテキストをそのまま読み上げましょう。
時の流れは雄大です。
どんな悲劇が人々に起きようとも、『時そのものは、』常に流れ続けるのです。
“刻まれし者”が“殺戮者”になろうとも、ユーディットを倒そうとも、ロヴレンドを倒そうとも、町人たちを救えなくとも(ロヴレンドによって焼き尽くされても)、時そのものは流れ、何も変わることはないのです。
助かった町人たちによって町が復興されたのか、それとも、滅んだ町の町人たちの縁者が後に入植して町を復興させたのか、それは分かりません。ただ、そんなことはどうでもよく、町が復興し、今もそこにあり続けるという事実には、何も変わりがないのです。
そうです。人々が輪廻するのと同じく、人が住む町もまた、輪廻するのです。
“刻まれし者”が“殺戮者” になろうとも、ユーディットはそのキャラを暖かく出迎えてくれるでしょうし、過去の(転生した)キャラには、ハンスや、レベッカ、エレーヌが、暖かく出迎えてくれるでしょう(ハンスとレベッカは結婚式を明日に控えていますし、エレーヌは、PCの帰還に喜びます…こういう落ちの付け方もあります)。町と、そこに住む人々は輪廻したのです。
全く同じ、繰り返すシーン。
しかし、そこに込められた意味は、全く異なるのです。
きっと、“殺戮者”に堕ちたPCは、ユーティッドの顔を直視することはできないでしょう。導入では直視することができたはずの、ユーティッドの顔を、です。
考えてみてください。ユーディットは、三百年、この町と共に生きてきました。
ロヴレンドからこの町を救うべく、ずっと、待っていたのです。
来る日も来る日も結婚式を挙げ、ロヴレンドに焼かれ、死体を埋め、儀式をし続けてきたのです。
そして、ロヴレンドに対抗する力を蓄えるべく、“聖痕者”を殺し、聖痕を貪ってきました。
三百年、ただ一つのことのみを追い続けてきた心情たるやいかなるものでしょう?その、狂気たるや?
利用できるものは何でも利用する。その“聖痕者”がロヴレンドを倒すに足る力を持っていないと判断すれば、躊躇なく殺し、力を蓄えてきたのです。
ユーディットは、まさに、北欧神話に登場する、邪悪な女神と呼ぶにふさわしい存在でしょう。
目的のために手段を選ばない悪女にして、聖痕を貪る魔女です。ユーディットは、もはや聖女と呼ぶにはあまりにかけ離れた存在と化してしまったのです。
導入その1で、現代の(狂気に陥った後の)ユーディットは、“刻まれし者”たちの品定めをします。優しげな表情に隠された、一抹の狂気。品定めするような視線。導入その3で、過去の(狂気に陥る前の)ユーディットが、本当に心から“刻まれし者”たちを出迎えたのとは、好対照です。
恐らく、ここで多くのPLが、一抹の不安を感じてくれることでしょう。
また、PC12を密やかに殺そうとするシーン(後ろ手に果物ナイフを握りしめる…弁解を求められれば、果物を切ろうかと、ナイフを持ったは良いが、果物が見つからないと弁解します)があると、展開がよりスリリングになるかと思います(シナリオの展開が見え始めるニ週目以降が望ましい)。
シーン4の廃止。シーン5と統合します。
ここで、ユーディットの目的を全面的に押し出します。
ユーディットは、“刻まれし者”たちに問いかけます。私はあきらめない。必ず、復讐する。そして、昨日までの平和を取り戻す。“刻まれし者”たちは、協力してくれるか?
ここで、“刻まれし者”たちが協力するかどうかに一瞬でも迷いを見せれば、次のシーンに移ってください。
シーンの演出としては、廃墟に佇むユーティット…廃墟には一面墓が乱立している…というのがよいかと思います。シーン5の魔法陣云々〜というのは、正直、このシナリオの情報としては不要でしょう…言ってしまえば、このシナリオにおいて、ユーディットの存在自体が魔法といえるのですから。
シーン4を廃止する趣旨は、シーン4が、ユーディットの悲劇を強調しすぎているからです。
なお、シーン6は、無理に演出することはないでしょう。
終局ステージの演出には必要ですが、シナリオを解く情報としては不要だからです。
「時間が戻ればよいのに」という台詞と、上記の台詞を交換してみましょう。
実に、ポジティブな台詞ですね。未来に希望が持てる台詞です。
しかし、明日という日は、永遠に訪れません。そこに、大いなる皮肉があります。シナリオの凶悪さがさらに増すこと請け合いです。
この情報自体は、PLに、シナリオの鍵が時間であることを伝える情報です。絶対に外すことができない、重要な情報でしょう。
しかし逆に言えば、時間が関係することさえわかれば、他に代用できるということです。
っていうか、まじすごいっすよ。
良くできたストーリー主導のシナリオには、必ず、何らかのテーマがあります。
その、テーマを、「輪廻の十字路」は、たった、最後の終局ステージの、一シーンだけで伝えきっています。
そして、その、終局ステージの一シーンを最大限に演出するために、『すべてのシーン、すべての台詞が、意図的に』配置されています。
みなさん、是非とも一度プレイしてみてください。そして、そのシナリオ構造・技法について、各々分析してみてください。きっと、実りあるひとときだと思います。
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