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それはさておき、実は構造主義という発想も、一皮むけば、理論として、考え方として、欠点だらけではあります。
まず、構造を明らかにしたからどうなのかというと、そこに意味内容がないのが問題です。
構造主義には、「構造」を明らかにする以上の主張はありません。文学科の友人は、私に訊きました。「で、構造主義によれば、何が明らかになるの?」・・・何も明らかにならないのです。作品に感動した仕組みは明らかになっても、何故、作品に感動するのか、それ自体に答えられないのです。あくまで、「構造」論は、「構造」を明らかにする以上のことはできないのです。これはある意味、実践的ではないのです。経済学において、五十年前、ケインズ経済学によって批判された当時の経済学とも似ているのです。当時の経済学は、構造分析に終始し、実践的ではありませんでした。不況の原因はここにあるという指摘はできても(好景気と不景気の、経済状態の構造を比較すればよいだけですから、こういうのはお手のものです)、では、実際に、どう対処すればよいのかについては、何も指摘できなかったのです。そこにケインズ経済学は、経済学の使命は経済のコントロールにあるという、価値観を持ち込み、優れて実践的な経済学を創設することに成功しました。現在はともかく、当時の経済を復興させるという役割は、十分に果たしました(浅野栄一『人と思想シリーズ ケインズ』清水出版)。そういう意味で、構造主義とは、極めて意味無内容なものなのです。
とはいえ、構造論が解釈論の前提を提供できるのであれば、構造論も、解釈論の前提を提供するという役割を立派に務めたことになります。構造を見れば、解釈において、構造の何処に重点を置いているのか(どういう価値観を持っているのか)が明らかになりますから、解釈論に対立が生じたときに、対立点を明らかにすることが可能となります。
ところが、友人は、更に訊いてきました。「でもさ、構造論も、解釈しているんだよね」・・・これが、構造論の最大の欠点なのです。
構造論は、「構造」を明らかにします。しかし、経済学や、政治学、法学を学習している方にはお解りに成られるでしょうが、それは、一つの「モデル」でしかありません。経済学の構造分析も、政治学の構造分析も、法学の構造分析も、所詮、資本主義の中での「モデル」を提供するにすぎないのです。人類有史以来の構造を明らかにした学者は、未だかつて存在しません。構造論も、たとえ、通常の解釈論よりも一歩上の視点で議論しているものだとしても(論理学の言葉を借りれば、メタ論理ならず、メタ解釈と言うべきでしょうか)、何らかの価値観、主義主張からは、無価値であることは不可能なのです(少なくとも、私は無価値であると断言することに躊躇を覚えます)。ここで、構造論は、意味有価値にも、意味無価値にも成りきれず、論理破綻をきたしてしまうのです。結局、構造主義は、理論として中途半端なものなのです。
もちろん、それでも良いと割り切ることは可能でしょう。少なくともメタ解釈は、ただの解釈論よりは一歩上の視点から物事を見ているのですから。ここに、相対主義の絶対主義に対する優位性が認められることになります。
しかし、哲学科の友人は言います。「それは、最悪だろう。問題点を認識しながら、その問題から逃げているだけじゃあないか」・・・そうなのです。結局、どれも正しいということは、どれも選べないということなのです。私の中には、行動原理が存在しないということになるのです。しかも、完全に中立的な視点に立っているかといえばそうではなく、明らかに、私は例えば資本主義原理にとらわれています。自分の中の資本主義原理を克服することもなく、具体化することもできていないのです。
意見を具体化できていないということは、議論のとっかかりがないということです。そういう意味では、私にはここでこのような論考を書き連ねる資格がないのかもしれません。
だからといって、私はあきらめたりはしません。絶望したりもしません。とにかく一歩でも前に進みたいと考るのです。議論し続ければ、もしかしたらいつか良いアイディアが見つかるかもしれない。突破点が見つかるかもしれない。そして、それこそ学問のあるべき姿なのだとも考えるわけです。だから私は論考を書き続けます。いつか、自分の中の価値観を克服するか、具体化できる日を夢見て。だから、今日も私は構造論に望みを繋ぎます。あるいは、私の中で究極的に構造論と解釈論との調和を図れる日を夢見ます。構造分析というタイトルの論考を書くのです。
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