ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、hiduka@hotmail.comにお願い申し上げます。
※ ここでゲーム(CRPG)と書いたのには二つ理由があります。ここで映画的手法とは、ムービーを取り入れるといった表層的なことではなく、作品の「構造」(※)として、映画的な「構造」を取り入れることを意味します。
一つは、川邊氏が、ゲームシナリオについて言及するにあたり、ゲームをCRPGに限定していることが挙げられます。
もう一つは、ここでゲームとは、ゲーム表現としてのゲーム(White氏)を意味しているということです。あくまで、コンピューターの演算処理能力を利用した、いわゆるテレビゲームしてのゲームを意味します。ここでゲームとは、コスティキャンのゲーム論(馬場秀和ライブラリ)にいうところのゲームを意味するものではありません。
※ 「構造」という言葉の意味するところは、こちらをご覧ください。もちろん、私自身はこの「超目標」と「貫徹行動」をゲーム(CRPG)に取り入れること自体は反対しません。むしろ、積極的に推進したいとすら考えています。ノベルズといった一部のジャンルを除き、ゲームでは、この「超目標」と「貫徹行動」の不在があまりに目立つのです。その代表例がFF7(スクウェア)でしょうか。FF'7は、「超目標」すなわち倒すべき存在が神羅カンパニーであったはずなのに、途中でセフィロスにすり替わり、テーマも、「自然保護」から、「自分探し」にすり替わっているようにも見受けられます。この時点でFF7は、プレイヤーに作品の「構造」が見えにくく、それだけにストレスがたまりやすい作品に仕上がっているわけです(※)。主人公の行動・性格も、同じく一貫していません。
ついでに、「主題」と「様式」という言葉もご理解いただければありがたいと思います。
※ 一般には、予想外の展開を賛美する傾向がありますが、まったく予測不可能な場合、読者は作品に没頭することがおよそ不可能になります。これは、作品を読むに当たって、大きな障害となることでしょう。しかし、その「超目標」と「貫徹行動」をゲーム(CRPG)に取り入れる具体的な現れとして、オープニングの強化と並列イベントの廃止に求めるのは、私は明確に反対します。これは、ゲーム論の観点ではなく、作品論・文芸論からの反対です。
しかし、ここで多くの方は、プレイ時間という概念を看破しているのです。
すなわち、映画は2〜3時間。どんなに長くても6時間で見終わる作品です。
これに対し、ゲーム(CRPG)は、短くて20時間強。大作になれば50時間もざらです。この間私が解いたアルファ・システム『俺の屍を越えていけ』ソニー・エンターテイメントなどは、優に200時間を超えていました(これは単に「どっぷり」モードにした自分の責任ですが)。
この、作品に掛ける時間が、作品の表現方法に根本的な差異をもたらすのです。
つまり、オープニングの強化と並列イベントの廃止とは、あくまで、2〜3時間という作品表現の限界の中で編み出されてきた表現手法にすぎないのです。短い時間の中で観客に作品を理解・没頭させなければならない。そのためには、まず、無駄を省く必要があります。これが、並列イベントの廃止です。これで、短い時間の中で作品のテーマを伝えるだけの時間を確保できるようになります。
次に、ハリウッド張りのど派手なオープニングを用意し、主人公の強力な動機付けを見せつけ、観客にのっけからガツンときつい一撃をみまわせる必要があります。これでさっさと観客に作品を理解・没頭させるのです。あとは、疾風怒濤の展開で、エンディングまで観客の興味を持続させるだけです。
ところが、ゲームは違います。ゲームとは基本的に単純作業です。そして単純作業には、一種の中毒性があります。つまり、何となくだらだらとプレイするという状況が成立するのです。これが、ゲームのプレイ時間が長いという理由なのです。そして、だらだらとしたプレイの中で、ゲーマーの多くは、そのゲームが描く作品世界に想いをはせることになります。プレイ時間の分だけ、ゲーマーは、作品を理解・没頭するのです。
とすれば、ゲーム(CRPG)において必要なものは、映画のようなオープニングの強化と並列イベントの廃止ではないのです。映画のオープニングで語られるような強力な主人公の動機付けは、むしろ、作品全体で、例えば、街の住人の何気ない一言によって語られるべき事なのです。あるいは、ゆったりとした時の流れの中で、実感させることができればよいのです。そして、並列イベントは、世界を実感させるにはそれなりに(※)有用な手段なのです。
※ それなりに有用とは、必ずしも必要はないということです。それを見事に描いたのが、『幻想水滸伝2』(コナミ)でした。『幻想水滸伝2』の主なテーマ「主題」は、「友情」と「戦争」。『幻想水滸伝2』は、街の住人の何気ない一言で、戦争が忍び寄る空気を感じさせ、同時に、街の美しい書き込みによって、「なんとしてもこの街を、この国を護りたい」ということをプレイヤーに実感させています。また、親友ジョウイとの息のあったコンビネーション攻撃は、この二人が本当に親友であるということを実感させてくれました。私は、コンビネーション攻撃を見て、「間違いなく、ジョウイは主人公を裏切るだろう。作品の文脈を見れば、それ意外考えようがない。…だけど、私は、最後までジョウイを信じる。たとえ、幾たびもジョウイに裏切られようとも、最後まで信じ切ることにする」そう、考えたものです。そして、見事にジョウイに裏切られました。
一番問題なのは、必須イベントで「超目標」と関係がないイベントを挿入させることなのです。
例えば、ドラゴンクエストIIIでいえば、カンダタ退治といったところでしょうか。カンダタを倒すということは、バラモスを倒すという「超目的」とは本質的に関係ありません。せめて、カンダタを退治しなくても次に進めるようにすべきだったと思います。
ここで、それなりに有用とは、必須ではない、おまけシナリオにおいて、主人公が旅する世界を実感させる意味において有用であるということなのです。
そう言う意味では、ゲームの時間配分による作品表現は、小説、それも2〜3時間で読めるライト小説などではなく、大河小説のたぐいと表現手法が似ているのだと思います。
大河小説も、10時間以上をかけてじっくりと作品世界に没頭させます。そのためには、オープニングのきつい一撃は必要ありません。オープニングがたとえ印象的だとしても、長い読書時間のうちにその印象は薄れてしまうものです。そうではなく、淡々とした日常を描く中で、少しずつ、作品世界を読者に理解・没頭させるのです。そのためには、時に並列イベントの羅列を行うこともあるのです。
このように、映画は、ゲーム(・大河小説)とは、根本的にその表現手法を異にするものなのです。
もちろん、これはゲームにおいて一切、映画的表現手法を採用することが不可能であると言うことを意味するものではありません。例えば、ゲームプレイ時間を10時間以内に短縮すれば、逆に映画的表現手法を取り入れることは必須となりましょう。これに挑戦したのが、『やるドラ』シリーズです。私は『ダブルキャスト』しかプレイしていないので、多言しかねますが、『ダブルキャスト』では、主人公が記憶喪失の少女と出会うという、衝撃的なオープニングから作品が始まります。そして、作品は最後まで、無駄なシーンを一切排除しており、一気にクライマックスまで導かれるようになっています。確か、全体で4時間もあればクリアできたと思います。ですから、ここで映画は、ゲーム(・大河小説)とは、根本的にその表現手法を異にするとは、ゲームが従来の表現手法を採用する限りに置いて、という意味であると考えてください。
ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、hiduka@hotmail.comにお願い申し上げます。