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しかし、私は、むしろそれよりも、「記憶」をメインテーマに据えてみたいと思います。
その根拠は、まず、翼人の存在が挙げられます。
わざわざ『記憶を保有し続ける』翼人という存在がピックアップされていることを考えてください。また、観鈴が「記憶」を失うこと自体、この翼人の文脈で語られています。
次に、シナリオ「SUMMER」の存在。
時をわざわざ遡らせ、『Air』の世界の根幹にアプローチしています。ここで気を付けてもらいたいのは、フラッシュバックや回想という手法による説明ではなく、わざわざ独立したシナリオを用意したということです。先人の意志、すなわち「記憶」を継承するということを何よりも雄弁に語ろうとしているのでしょう。
さらに、そらの存在。
シナリオ「Air」は、何故観鈴の視点ではなく、往人の転生体と思われるそらの視点で語られたのか?
まあ、もちろん、記憶を失いつつある観鈴の視点では問題があるというのもありますが、それ以上に、記憶を失ったそらに自問自答を繰り返させることで「記憶」の喚起を促しています。ここら辺、シナリオの構造として大変面白いですね。
そして、シナリオ「Air」それ自体です。
このシナリオ自体、観鈴が目覚めた後からシナリオをはじめても良さそうなところを、あえて、シナリオ「DREAM」の二日前から始めています。これは、プレイヤー(以降、PL)自身に記憶の喚起を促しているのです。また、シナリオの最後では、子供たちの会話などで直接「記憶」に言及しています。
最後に、補強証拠として、美凪シナリオでみちるが思い出にこだわったこと(これは美凪自身もそうでした)も提出しましょう。思い出とは、すなわち「記憶」です。佳乃シナリオでは、残念ながら補強証拠は思い当たりません…探せば見つかりそうですが。
結局、話の展開は、個人としての神奈や観鈴の物語というよりも、記憶を蓄えていく翼人たち…ヤオビクニ−神奈(−裏葉)−観鈴(−往人)−子供たちの物語なのです。
悠久の時を生きる翼人たちの思いの物語…すなわちそれは「記憶」の物語である…ということなのでしょう。
「家族愛」という主題の捉え方は、一面で言えば正しいのでしょうが、実に不正確な捉え方だと思います。
より正確に言えば、「母と子」なのでしょう。一見、姉妹愛が主題に見える佳乃シナリオや美凪シナリオも、物語は母親の欠如によりはじまっています。姉妹でありながらも、そこで期待されている役割は、母と子供なのです。この構図は神奈シナリオでも変わりません。そして、メインシナリオである観鈴シナリオは言うまでもありませんね。往人も母親との出会いがきっかけでこの物語に参加することになっています。
ちなみに、この「記憶」、場合によっては「先人の意志の承継」と呼び代えても問題ありません。むしろ、より正確に理解できるかと思います。
すなわち、何故裏葉と主人公は子をなしたのか?往人は、何故母親から観鈴をよろしくと言われたのか?何故、往人は法術を使えるのか?
これは結局、裏葉の台詞に良く現れています。裏葉と主人公は子供に己たちの意志を継承し、往人の母親は往人に先祖代々の意志を継承したのです。何より、往人の家系は、祖先代々、法術という意志の力を承継しています。
…そして、だからこそ、『Air』のサブテーマは「母と子」なのです。
次の世代に承継させるには子を成さねばなりません。子を成すには母親の存在が絶対に必要です。母親は子を作り、育てるのです。
ところで、シナリオライター曰く、今回の主題は「本当の幸せ」らしいです(笑)。
なるほど、神奈の旅とか観鈴が髪を切るシーンとか、確かに言いたいことは解らないでもないですが…だったら、往人を転生させる意味も観鈴が記憶を失う意味もないじゃん。ってなわけで、俺的に『Air』の主題は「記憶」に大決定ザマス(おい)。
…って、ああ、いい加減めんどくさくなりました(一番最後にここを書いています)。
どうせ、ファンタジーを専門に学んでいる・読んでいる人なんて少なそうですので、ちゃっちゃと書きます(ひどい)。
一口で言えば、『ONE』『Kanon』は、昔話から直接題材を取ってきて、そこに新たな解釈を加え作品に仕立て上げるという方式によって作られています。そういう意味で、『ONE』『Kanon』は、現代に復活したフェアリーテールと読んでも差し支えないでしょう。
一方、『MOON.』『Air』は、分類すれば同じファンタジーに分類されますが、その書き方は、むしろSFに近く、昔話から直接題材を取ってくると言うよりも、昔話で普遍的に語られる題材を自分なりに租借再構成して、ファンタジー風に描く、という手法です。
めんどくさいので、論証は抜きです(爆)。
これは、どちらが良いかというものではなく、単純に好みの問題ですが…個人的には、明らかに前者の手法の方を評価します。もちろん、何をもってファンタジーと定義するかの問題ではありますが…やはり、ファンタジーの本質であるところの魔法をどれだけうまく利用しているかと言えば、その多くが前者であることがほとんどだからです。『Air』は、正直、ファンタジーと言うよりは、歴史小説なんですよねえ。いや、解らないと思いますけど(考え自体完全にまとまったわけではないし)。
私の作品の好み…作品に対する目の付け所を一言で言えば、物語至上主義+演出至上主義と言ったところでしょうか。
まず、何よりも物語としての完成度を追求します。
すなわち、どれだけ主題を貫徹し、物語として完結させているか。
主題が現代的・社会的であるとか、教訓的・道徳的であるとか、物語の展開がハラハラドキドキの読めない展開とか、そんなことはいっさい評価の対象とはならないのです。ただ、何であれ主題が貫徹され、何であれ物語として完結さえしていればかまいません。
主題を貫徹し、物語として完結さえしていれば、たとえどんなにありがちな展開でも許容します。
いえ、むしろ、優れた物語とは、展開を読ませた上で、なお楽しませる作品であるとすら考えています。
ここら辺、私のシナリオによく現れているかと思います。
どのシナリオも、シナリオの導入部でシナリオの展開の七割方を明らかにしています。
ま、こう考えれば、私がいかに昔話を愛しているかがわかるかと思います。
では、このような見え見えに展開する物語がなお人々を楽しませるのは何故か?
それこそ、演出の力なのです。
私は、年に数回、友人の演劇を見に行きます。
この観劇を通じ学んだことこそ、作品の命は演出であるということなのです。
たとえ同じような話であっても、役者が違えば、演出が違えば、全く作品としての評価が違うものです。
また、演劇の世界では、古典のリメイクというのが盛んに行われているでしょう。
これは別に新劇が活発ではないと言うことを意味するものではありません。
そうではなく、演出こそが演劇…物語の命であり、演出次第で物語に対するイメージは全く異なるということを観客が良く心得ている結果なのです。
そして、演出とは、常に物語のためになくてはいけません。
物語が抱える主題を伝えるため、物語を理解できるために必要な情報を伝えるためだけに、演出とは存在します。過剰な演出は物語を空回りさせますし、過小な演出は物語を展開させる力となりません。演出は、過剰であっても、過小であってもいけないのです。
とまあ、私が考える作品観とは、このようなものなのです。
私が物語至上主義+演出至上主義というのは、演出なくして物語はなく、物語なくして演出は考えられないということの現れなのです。
では『Air』の何が問題かと言えば、演出が過剰であるということです。
実を言えば、これは『Kanon』でも感じていたことです。
まず、テキストに切れがありません。
『ONE』テキストは、何かに追いつめられたかのようなぎりぎりにまでそぎ落とされたテキストの美学がありました。とぎすまされた刃物を連想させるかのようなテキストの出来映えです。
ところが、『Kanon』や『Air』は、テキストが冗長なのです。
必然のないシーンが多く、また、シーン一つ一つもやたら説明的で無駄に長いのです。
また、転生ネタであるが故か、テキストが全体的に説明臭くなっています。
世の中、転生ネタを好む人種は確実にいるようですが、個人的には、一番苦手なネタの一つです。
確かに、ファンタジーにおいて、転生ネタははずせないのですが…一歩間違えるとただの説明に堕ちる危険があるのです。それは、ファンタジーになりきれなかった出来損ないのSFでしょう。個人的に、今までうまく転生を処理できた作品というと、『天空戦記シュラト』と『輪廻の十字路』ぐらいでしょうか(笑)。あはは、『輪廻の十字路』は、解らない人の方が確実に多そうですね。
説明臭くなるとファンタジーとしての魅力を損なうのですが…ねえ。
…まあ、これは無下にシナリオライターを批判できるものではありませんが…。
あれだけ、テキストがわかりにくいとか批判されれば…ねえ。
個人的には、『ONE』のテキストだってもっと削りようがあるとすら感じてしまう人種なのですが…。寂しい限りです。
次に、映像や音楽に頼りすぎています。
もちろん、ノベルズとは、テキストと映像と音楽とによって構成される作品ですから、直ちに批判できるものではありません。
しかし、例えば、『Kanon』も『Air』も、OPソング、OPアニメは、本当に必要だったのでしょうか?
これでは、ただのTVドラマのパロディではないでしょうか?
これが、TVドラマならばまだわかります。
スポンサーの意向という政治的理由もありましょう。
そして何より、TVドラマではOPは、前後の番組との区別を果たす機能があります。
TVドラマにおいて、OPとは、作品としての必然なのです。
こう考えたとき、本当に、『Kanon』や『Air』にOPが必要だったのでしょうか?
もちろん、パロディだから無条件に悪いというものではありません。
例えば、『Piaキャロットにようこそ』カクテルソフトや『To Heart』Leafには、OP、それも、どこぞやのトレンディドラマのノリのソングが必要でしょう。これらはまさに、トレンディドラマのパロディとして成立した作品だからです(そして、両者にあるのは、基本的に笑いです)。
一方、『Kanon』や『Air』はどうでしょう?
『Kanon』や『Air』は、笑いを主要素としたトレンディドラマのパロディでしょうか?
トレンディドラマのパロディである可能性は残るにしても、笑いを主要素とした物語とは、私にはとうてい思えません。『Kanon』や『Air』は、基本的にTVドラマを、真似る必要はないのです。『演出として、』果たしてどれだけTVドラマを真似る『必然が』あったのでしょうか?私には疑問でなりません。
最後に…いい加減、イノセントな(無垢な)ヒロインは止めましょう(泣)。
っていうか、いくら何でも限界というものがあります。
私、結構、引いてしまいましたです。
後、三人が三人ともイノセントに無邪気で、三人の間でキャラがかぶりすぎています(『Kanon』の頃はまだ、五人の間で違いが現れていたのですが…)。
とまあ、悪女好きの超個人的な感想でした。
例えば、『殻の中の小鳥』B-ROOMで好きなシナリオと訊かれれば、一番人気の恋(レン)シナリオではなく、クレアシナリオとアイシャシナリオと答えるのですよ、私は。
クレアシナリオは、クレアが妊娠したときのフォスターの狼狽えっぷりがお気に入りですし、アイシャシナリオは、アイシャの天然悪女っぷりに振り回されるフォスターににやり、って感じでした。どちらも、したたかな女性の強さを感じさせてくれた瞬間です。
一方、恋シナリオは、エンディングでの恋の依存っぷりが気にくわなかった次第であります。
『MOON.』や『ONE』の頃はヒロインたちの企みっぷりが好きでした良かったし、『Kanon』はまだ我慢できましたが…さすがに、ヒロイン全員が無邪気にイノセントというのは、つらいものがあります(観鈴、佳乃と、イノセントなキャラ二連発で死にかけ、一縷の望みを美凪に託した直後…「ぶるーたすおまえもか」と、画面の前でつぶやいた私の心情や如何に、って感じです(意味不明))。
これでまだ、ヒロインたちが裏でしたたかに企んでいるシーンの一つでもあれば、評価が変わるのですが…ねえ(苦笑)。あー、そうか、私が舞シナリオが嫌いなのは、そういう理由なのか。舞は、全く企んでない、無邪気な子供そのものだものなあ(ひでえ)。
そうそう、どうにも気にくわなかったのが、観鈴がシナリオ終盤で髪を切ったことでしょう。
髪を切った観鈴って、どうにも幼児を連想させてしまいます…なんだかなあ。
以上、三点が、結果的に『Air』の評価を一気に下げています。
まあ、他にも、翼人という大仕掛けな道具を使わなければ主題を伝えることができなかったのかとか(もっと他にうまい方法がなかったものか…おかげで、古代まで遡る羽目になり、シナリオが無駄に長文化したと思えて仕方がなりません)、佳乃も美凪もいなくても作品として何も困らないじゃないかとか(観鈴シナリオだけで十分でしょう)、挙げればキリがないです。
うーがー、他に方法はなかったのかー!
で、どうかと言えば、このシナリオ、比較的演出がうまくいっています。
あー、まあ、もっとも根幹に据えられているみちるの正体については、実は不満なのですが…ね。
もちろん、みちるの正体があれであることには何ら不満はありませんし、説明不足であるとも思いません。またこのネタか、ということにも目をつぶりましょう(というか、シナリオライターは人の死を過剰に悲劇に仕立てすぎています…とか書くと問題発言なのでしょうねえ)。
しかし、あまりにみちるが現実の存在に過ぎたのです。あまりに現実の存在過ぎたので、それが消えゆく存在であることに納得できなかったのです。ここは、単純に演出不足だと思います。
例えば、『ONE』では、(よく説明不足といわれますが、)キミの存在は、物語の後半までその存在が隠される一方、物語の序盤から幻視によってその存在を『予感』させていきます。そして、あの、みさおの顛末…ここでPLは、キミが物語に登場する『必然』を感じ…最後に、キミの一枚絵によって、キミの存在を『実感』します。これは結局、あり得ないはずのファンタジー(キミの存在そのもの)が、少しずつ、少しずつ、『予感』により繰り返し強調することでその登場をPLに無意識に『実感』させ、物語の終盤で一気にみさおの顛末を見せることで、その『必然』を納得、『実感』させることにあります。結果、PLにとって理論的には納得できる現象ではありませんが、その登場を情感的に実感せざるを得ないのです。そして、これこそが『ONE』最大の魅力であり、未だかつてどのような作品も成し遂げられなかった偉業なのです。
例えば、『Kanon』では、(正直、『ONE』には劣りますが、)あゆの存在は、物語の前半から積極的に明らかにされます。その一方で、OPのあゆの羽根、秋子さんとの問答、かみ合わない台詞、夢、によって、その存在が、実は実在でないことをPLに『予感』させていきます。そして、物語の終盤で、ついに明かとなる七年前の真実。ここでPLは、あゆが物語から退場する『必然』を感じ、直後の(といっても、少々の間がありますが)あゆの消滅をもって『実感』します。
両作に対すると、美凪シナリオは演出で失敗をしているように思えてなりません。
物語の後半まで、みちるの存在は他と何ら変わることが無く描かれ、そこに確かに実在しています。
そして、美凪がみちると呼ばれたあの日、『予感』なく、その実在をいきなり否定されます。
ここでみちるが消滅すれば、まだ良かったのでしょう。
しかし、みちるはここで消滅することなく、変わらずそこに実在し続けます。
もちろん、その過程でみちるの消滅を『予感』させ、『必然』を『実感』させているという考え方もあるでしょう。美凪シナリオの主題を思い出作りに求めるのであれば、この説明はそれなりに説得的でしょう。
でも…なあ。本当にそれが物語の必然であったのか。思い出作りとしても、『Kanon』のようなやり方の方がうまくいったのではないか、そう思えて仕方がないのです。
一方、私が美凪シナリオで感心したのが、姉妹の使い方でした。
姉妹とは、往人の人形劇を観ていた幼い姉妹です。
姉妹の存在は、本来あるべきはずであった美凪とみちるとの関係を暗示しています。
そして、最後に姉妹がお祭りに駆けていくあの一枚絵。絶品です。
願わくば、シナリオの暗示として、もう少しシナリオの中枢にまで食い込ませてもらいたかったというところでしょうか。
後、もう一つ。
美凪シナリオではずせないと言えば、バットエンドの存在でしょう。
この点については、すでに暗黒KANONの私見AIR考に詳しいです。
kagami氏は、言います。
「美凪シナリオは、男性原理の破壊である」
もっともな意見だと思います。
私が特に『Kanon』の舞シナリオに感じた嫌悪感。ヒロインたちの依存性に対し、美凪シナリオは、明らかにそれを破壊しています。
美凪シナリオには、一見トゥルーエンドと思わせながら実はバットエンドという展開があります。
これは結局、美凪が突きつけられた選択肢を選ぶことができない、往人に依存している場合の展開です。
だからこそ、バットエンドのラストは、美凪は、旅人でありもっと言ってしまえば、社会の不適合者であるところの往人に付いていくことになってしまったのです。己の内面に決着を付けることなく(=母親に別れを告げることなく)、現実から逃避してしまったのです。
あ…もう、書くことがない(笑)。
んー、でも、どうかなあ。
『Kanon』を単純に男性原理の物語と評して良いものかなあ?
むしろ、『Kanon』とは、トリックスターの物語だったのではないかなあとか思ったりなんかして…ここら辺はまとまっていないので、また後日(笑)。
kagami氏、ごめんなさい。なんか書き逃げするような書き方になっていますね。
ここは後日必ず補完しますから、許してください。
もちろん、掲示板やメールでの討論は喜んでお受けいたします。
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