ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、tatuya215@hotmail.comにお願い申し上げます。
この論考の理解のためには、憲法の人権論と、法哲学と、著作権制度の歴史についての一定の理解が必要かもしれません。
自然権的著作権拡大論者に、自己反省を込めて読んでもらいたい論考です。
今回のお題は「著作権の法的性質」。なにやら地味な上に、全然タイムリーじゃない話題。いまの時期なら、「ふざけるな輸入権」とか「がんばれ47氏」とか、もっとキャッチーなお題なんて幾らでもあろうに、こともあろうに「著作権の法的性質」。著作権の専門家でもない限り、こんなもの話題にしていったい何の益があるんだかと思われてもまあ、仕方がないところではあろう。
だが、今回は敢えて、この話題で行こうと考えている。
何故か? 「誰もこの話題について触れないから」だ。
当たり前だ。全然、キャッチーじゃない。しかも、専門的かつ、即効性がある話題じゃない。法的性質なんて話をしても、いま現在進行中の(そして、いわゆる消費者の敗北と呼ばれた)輸入権による様々な不利益が留まる訳じゃない。それこそ、専門家にやらせておけばよい話題だ。
しかし、問題はそれほど単純なモノじゃない。
法的性質、すなわち、著作権(なお、本義論では、著作権とは基本的に著作財産権を意味する物として理解する)という法制度の基本的性格を問うこの問題は、著作権の議論を深めるためにもっとも必要な、根本の哲学である。根本に対するしっかりした理解、それ以上に、著作権に対するスタンスの確立なくして、しっかりとした議題をすることが難しいこともまた真理だ。これは自分の視点の確認であり、他者がどのような視点に立って論じているかの推察も兼ねる行為だ。だから、たまには、この、根本問題に立ち返って、問題をあぶり出すこともまた有用だと思っている。
特に、著作権の議論が活発化してきた昨今(筆者がサイトを立ち上げ、著作権についての修士論文をぶち揚げた数年前に比べ、遙かに議論が活発化している)、皆が一度、基本に立ち返ることは極めて重要だ。すれ違う議論を読むたびに、そう思う。それぞれ、異なるスタンス、異なる出発点を元に議論をしているため、噛み合う話も噛み合っていないことが多く見受けられるからだ。その原因はスタンスが違うことではなく、違うスタンスの具体的内容を知らないからだ。
だから、今回は敢えて基本に立ち戻り、「著作権の法的性質」について論じてみたいと思う。これは、同時に筆者の著作権学説の提示となる。
そんな説があるとはじめて聞いたとき、我が耳を疑った。信じがたい話だったからだ。
だから、岡本薫『インターネット時代の著作権』財団法人全日本社会教育連合会において、岡本氏がそのような学説を主張していると知ったとき、二重に驚いた。
岡本氏は、東大理学部卒業後、文部省に入省。国際著作権室長、同課長などを経て、2001年に文化庁著作権課長に就任し、先ほどまで同課長を勤め上げた。いわば著作権官僚のトップエリートだ。そんな人物がまさか、こんな非常識な学説を唱えるとは。
では、岡本氏はどのような主張をしたのか?
日本国憲法にも様々な「人権」が規定されていますが、そのひとつとして、第29条に「財産権」の規定があります。この条文には、「財産権は、これを侵してはならない」ということや、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律で定める」ということが規定されていますが、憲法が「法律で定める」と規定する「法律」のひとつが「著作権法」です。つまり著作権は、思想・信条・良心の自由、表現の自由、学問の自由、生存権、勤労する権利、教育を受ける権利などと並ぶ、様々な「人権」のひとつなのです。筆者はまだ確認していないのだが、同じく岡本氏が書いた、岡本薫『著作権の考え方』岩波新書も、基本的に同じ立場で書かれた文章のようだ。
憲法29条は、前記のように、「財産権は、これを侵してはならない」と規定し、人が努力して築き上げた「財産」について、これを無理やり取り上げたり、無断で利用するようなことをしてはならない、と明記していますが、著作権というものの基本には、こうした憲法の基本理念や考え方があり、「著作権は憲法に基づく人権である」ということを、まずご理解ください(12〜13頁)。
筆者はこの文章にぶちあたったとき、岡本氏の法的センスを正直、疑った。
確かに、結論から言えば著作権は人権だ。それは紛れもない事実だろう。著作権は紛れもなく財産権の一種で、財産権は憲法29条1項によって「財産権は、これを侵してはならない」と定められている。したがって、著作権侵害は憲法によって禁止され(「侵してはならない」)、財産権侵害であることは明々白々である。そして、財産権として保障されれば、それはすべからく、人権の一部だと言える。だから民法で認められている解除権や取消権や損害賠償請求権や不当利得請求権や、それ以外の様々な諸権利は、当然、財産権として、人権として認められる。であれば著作権もまた人権。それは当然の結論だ。あまりに自明の理。だから、岡本氏は敢えて、そんな自明の理の確認から始めたと、好意的に解釈することもまた可能だ。実際、その立場にしたがって岡本氏は2章で論じる規制論(インセンティブ論)に対して批判を展開している(同書14頁)。インセンティブ論を批判するときに、著作権人権学説に立つことは、非常に説得的な論理展開であると言えよう。
この点、筆者も「著作権が人権」であることについて岡本氏と結論を異にしない。
だがそれでもなお、筆者は岡本氏の法的センスを疑った。
何故か?
いまさら「著作権は人権です」なんて自明のことを、声高に主張するその無知蒙昧を疑うからだ。2章の通り、著作権自然権論を採用した上で、その前提として著作権人権論を採用するのであればまだわかる。だが、なによりも著作権人権論を必要以上に強調する岡本氏の姿勢が、筆者には疑わしく思われる。
考えてみて貰いたい。著作権が人権ならば、所有権だって人権だ。プライバシーだって人権だ。もちろん、名誉権も人権だ。いや、それだけじゃない。民法で規定している、解除権も取消権も、損害賠償請求権も、不当利得請求権も、みんなみんな人権だ。財産権が人権である以上、これらすべてもまた、当然人権である。自明の理だ。
だが、いまの世の中、わざわざ、所有権を人権と主張したり、プライバシーを人権と主張したり、名誉権を人権と主張したり、あまつさえ、解除権や取消権や損害賠償請求権や不当利得請求権を人権と主張する法律家がいるのか? 筆者の疑念はその一点に尽きる。
では何故、いまさら、所有権が人権であるなんてこと、法律家が声高に主張をしないのか? それが、法律家の主張として恥ずかしく思えるのはなにか?
それは、所有権が辿ってきた歴史に由来する。
かつて、フランス革命時の所有権(フランス革命時は「財産権=所有権」と考えられていた)は、神聖不可侵として考えられていた。29条1項の「侵してはならない」という強い文言に、その名残が見て取れる。
しかし、フランス革命から二百年。我々の所有権神聖不可侵の原則は、粉々にうち砕かれた。
大資本による労働者階級からの搾取。覆せぬ貧富の差の拡大。その結実が共産主義運動であり、共産主義からの批判をふまえた、資本主義社会による福祉国家政策。すなわち、生存権(憲法25条)の確立である。
同2項3項はこのような歴史的経緯を受け、下記のように規定する。
「2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」
「3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」
「公共の福祉」とは、わかりにくいと思うが、人権相互間の調整原理と理解するのが通説である(『法律学小辞典(新版)』有斐閣306頁)。原則、国益や社会法益によって人権は制限されず(そのためには厳格な要件が要求される)、人権と人権とが衝突して調整が要求されたときにのみ、人権は制約される。すなわち、雇い主には財産権があるが、それは、労働者の精神的自由権、幸福追求権などを侵害しない範囲でのみ行使しなければならないのだ(←生存権が存在しないことを前提に書いているため、このような書き方になる)。契約自由の原則だからといって、労働者に苦役を強いてはいけない。そして、その過程で生存権や労働三権など、社会権が認められるようになり、現代に至っている。
財産権は確かに人権として尊重されないといけないが、現在はむしろ、その人権である財産権を如何に適切に制限すべきか? そのことに論点が移転しているのだ。
思うに、岡本氏の著作権人権学説はずれた議論である。著作権が人権だなんて、したり顔でいま論じられたところで、意味がないのだ。そもそも、いわゆる人権主張というものは、プライバシー権や名誉権の展開を振り返れば明らかなように、民法条文上規定のない諸権利を、いかにして権利として認めていくべきか? という、権利獲得運動、論理武装として展開されてきた議論である。結果、プライバシー権や名誉権といった諸権利は、不法行為規定(民法709条)によって保護が図られることになった。このような歴史的経緯においては、人権主張を声高に叫ぶ意義が認められるだろう。翻って著作権は、著作権法によってしっかりと保護されている。いまさら著作権を人権と主張する意義に乏しい。むしろ筆者は、「著作権=人権」という言葉が一人歩きする危険性を危惧し、そして現に3章の通り一人歩きを始めているように感じる(このように理論がプロパガンタ化して一人歩きする危険性に配慮をしていないあたりも、筆者が岡本氏の著作権人権学説を怪しく思う一端である)。
結論として筆者には、岡本氏の著作権人権学説は、法律の歴史を知らない法律かぶれによる、フランス革命前後の幼稚で滑稽な学説に思えてならない。こう言うとよくないが、岡本氏はプロフィールからわかるとおり、法学部ではなく理学部卒業であるため、根本的に法律学の理解が足りていないのかもしれない(官僚としての条文操作は達者だろうけども)。
筆者は、著作権は人権であることは認めるが、岡本氏の著作権人権学説は幼稚と断じる。
自然権論。文字通り、著作権制度の成立根拠を、自然な(人工的ではない)権利に求める。これは、民法の諸権利が、民法典という法制度の成立をもって認められたものではなく、慣習や条理に基づき、民法典の成立前に、当然に認められる権利であると、そのように考える。これは、1章の著作権人権学説に馴染む。現在の人権論では、人権とは、前憲法的に、憲法が成立する前に、人に当然に認められた、当然の権利であり、憲法典という法典の成立を待たずに、当然に認められる権利であると、理解されている。人権もまた、自然権である。では、著作権制度の成立根拠は、一体どのように把握すべきか?
したがって、自然権論によれば、著作物は、人の知的活動によって生み出された以上、当然に著作権者の物となり、その著作物を利用する行為は著作権者の利益として認められることになる。これは、一般人の素朴な正義の観念にも合致し、正当化されることだと思われる。インセンティブ論。自然権論と異なり、インセンティブ論は著作権制度を人工的に設定された制度であると根拠づける。その根拠は、インセンティブ、すなわち、国民の知的生産活動を誘引(インセンティブ)するために、国家が一定の特許/報償を与えるという、制度設計に求められる。もともと、人々の知的生産活動をどのように利用するかは、各人の自由に委ねられている。本からどのようなインスピレーションを受け取るか、そのインスピレーションをどのように活用するかなどは、本来、各人の自由な行為に委ねられている。あるいは、かつては写本は禁じられておらず、各人は自由に、赴くまま、写本をしていたという歴史的事実がある。本来、知的生産活動とは、人類の共有財産であり、それをどのように活用しようが自由であった。しかし、そのような活用を無秩序に認めてしまえば、最初にその知的活動を行った人間が知的活動から充分に対価を得る前に、他人によってその著作物を活用されて、結果、充分な対価を得られない危険性がある。そこで一定期間、そのものが充分に対価を得るだけの期間、その者に独占的な使用権を認めよう。そんな考え方だ。これは、クリエイティブコモンズなどで有名な、webで大人気のレッシグ教授が提唱している学説で、この理論を前提に著作権制度を考察している論者も多いことだろう。現在の日本著作権法学会の通説でもある。国家が、知的活動の利用に独占権を与え、他者の利用を規制するところから、規制論とも呼ばれる。
当然、インセンティブ論においては著作権は人権と認められない。著作権人権学説を採用するはずもない。
しかし一方で、インセンティブ論にも問題がある。
ひとつは、インセンティブ論では著作権制度を自律的に把握することが不可能になる。
インセンティブ論とは要は、インセンティブを与える方法を模索する理解の仕方であるから、著作権制度を現行法のように理解する必要はない。そこで、あらゆる可能性が模索される結果、議論のとっかかりを把握しにくい。これは、議論を進める上で柔軟な思考を促す一方、議論の統合を促しにくい。自己批判的であるが故に、とらえどころがない。
ひとつは、インセンティブ論では適切な規制を把握するのが困難になる。
インセンティブと一口に言うが、なにをもってインセンティブとするかは、時代や国家、政府の国家方針によって左右される。これは、柔軟な法改正を促す一方で、法的安定性を極めて欠きやすい。法制度自体が、国家方針にすべてを委ねられるからだ。特に、著作権の制限を国家方針に委ねた場合、自然権的視点から考えると危うく感じる。
ひとつは、インセンティブ論を採用した場合、運用レベルで柔軟な対応を困難にさせる。
インセンティブ論とはすなわち、著作権法を行政法規的に把握することである。そうなれば当然、「書いていないことは出来ない」という運用になりやすい。この場合、例え現行法に重大な欠陥が発見されたとしてもそれを一般法規などの柔軟運用によって、その欠陥を穴埋めることは不可能となる。例えば現在、著作権の制限においてフェアユースの導入を提唱されているが、著作権をインセンティブ論で把握すると、その導入を著しく困難とすることだろう。
確かに、著作権制度発展の歴史を振り返ったとき、一見、インセンティブ論の方が正しいようにもみえる。
しかし、著作権制度発展の歴史単体ではなく、もう少し、広い視野で著作権制度全体の成立を考えたとき、自然権論の方が説得的だろう。
加藤雅信『「所有権」の誕生』三省堂によると、所有権といえども、人類の歴史において所有権がはじめから自然権的に把握されていたわけではなく、歴史的な発展を遂げた権利であることが理解できる。
本書は、主として文化人類学の領域に足を踏み入れながら、明確な土地所有権概念をもつ農耕社会、それが曖昧な焼畑農耕社会、土地所有権が存在しない遊牧社会と狩猟社会とを比較しながら、実証研究と結びついたかたちで所有権概念の発生を探求してきた(5頁)。その結果、我々が所与の物として理解してきた所有権は、我々が思う以上に、歴史的に発展した概念であり、一律の正義ではないことが実証されている。例えば、土地所有権が否定される社会だって存在しうるのだ(それにそもそも、フランス革命前の封建社会のヨーロッパ法では、土地の所有権は上位所有権・下位所有権そのほかによって細分化されており、現代のような単一完全無欠な所有権は理解されていなかった)。そして同書は、下記のように結論づける。
このように考えると、それぞれの社会において、生産量の極大化をはかるという社会的要請が権利概念発生の基礎にあることがわかるだろう(90頁)。「生産量の極大化をはかるという社会的要請」。まさに、インセンティブ的発想そのものである。では、インセンティブ論者が、所有権をインセンティブ的に把握しているかと言えばそんなことはなく、所有権を自然権的に把握している。憲法で所有権が財産権の典型として把握されている以上、「所有権は自然権ではなく、インセンティブである」という結論を採用することは出来ないからだ。だとすれば逆説的な言い方になるが、所有限がインセンティブによって生み出されつつも現在は自然権として把握されている以上、著作権もまた、インセンティブではなく、自然権によって把握すべきなのだ。
確かに、自然権論には、無節操な権利拡大を招きかねないという問題がある。
自然権的に認められている以上、その権利は神聖不可侵であり何者にも侵害できないからだ。
だがそれは、あまりに素朴で単純で幼稚な自然権論だ。人権といえども公共の福祉(人権相互間の調節原理)の範囲内で制限を受ける。権利といえどもその濫用は許されない。これは、法律学において自明の理と言えよう。1章の岡本学説の問題点は、まさにこの幼稚性を喚起する危険性にあった。今時、所有権を財産権として指摘することは、人権の神聖不可侵を強調することの何者でもなく、公共の福祉による制限という発想を看過させやすい。
この点、岡本氏も、前掲89頁にて人権である著作権もまた制限されることを認めているが、90頁にて「『権利制限』は、『人権』を部分的に『抑圧』するという重大なことを『例外的な場合』に限って行うものである」とし、「人権制限を『当然のこと』と誤解してはいけ」ないとする。
だが、これは明らかに「公共の福祉」に対しての理解が稚拙である。そして、これこそが岡本学説の問題点の本質である。岡本氏は、「公共の福祉」を文字通り公共の福祉という日本語の通りにしか理解していない。これは、土地収用法を「公共の福祉」の例示として紹介していることからも明らかだ。
しかし、1章でも書いたとおり、「公共の福祉」とは、日本語のニュアンスから随分離れるが人権相互間の調節原理として理解されるべきものであり、土地収用法のようなむしろ国家政策的な理論に馴染む理論として把握されるべきものではない。確かに、「人権相互の調整の結果、土地を収用する」というよりも、「公共の福祉に基づき、土地を収用する」と言われた方が理解はしやすい。だが、憲法で言う公共の福祉は決して、そのように理解してはいけないのだ。
これは、「公共の福祉=人権相互間の調節原理」と定義された由来からも明らかだ。人権は本来無制約な権利であるはずなのに、公共の福祉という言葉によって制約を受けてしまう。本来、人権は前憲法的な権利であるはずなのに、憲法によって制定された公共の福祉という言葉によって制約を受けてしまう。もちろん、人権を無制約なものとして野放図には出来ないこともまた事実であり、そこで、憲法学者は新しい言葉による説明を要求されていた。その結実こそが「人権相互間の調節原理」という言葉である。人権が無制約であれば、人権と人権とは必ずどこかで衝突する。極論だが例えば、人を殺す自由と人に殺されない自由とは矛盾衝突するだろうし、そこまで極端ではなくてもプライバシー権と報道の自由ともまた矛盾衝突するだろう。だからこそ、「公共の福祉」という視点に基づき、人権相互を調節整合する必要性に迫られるのであり、これは決して、岡本氏の言うような「人権制限を『当然のこと』と誤解し」た結果ではない。むしろそこでは、岡本氏が言う公共の福祉よりも遙かな高みで、ぎりぎりの利害調整を行う、真摯な態度が見受けられるであろう。「人権を抑圧してはいけない」のは当たり前で(一応、岡本氏も前掲89頁で公共の福祉が人権の調節原理であることは認めているのだが、次の頁からそのことをまるで忘れているようにしか思えないのだ)、そのうえで、いかにして人権相互での調節を行うか? これが、人権相互の調節原理としての「公共の福祉」の本質である。
我々は、権利が神聖不可侵であると同時に、人権相互間の調節原理(公共の福祉)によって制限を受けるということを、正しく理解した上で自然権論を採用する必要があるのだ。この考え方は、著作権を規制であると理解するインセンティブ論では、決して導くことは出来ないだろう。
このように理解したときに初めて、著作権の制限に、インセンティブ論では見いだせない新たな価値を見いだすことができる。
著作権の制限こそ著作権の本質であるという理解だ。
人権相互の調節原理である公共の福祉によって人権が制約されることを、憲法論では「内在的制約」と呼ぶ。つまり人権は、人権相互の調整原理の結果、当然に、内在的に、制約を受けているという理解だ。これは、法律によって後付的に、外在的に、制約を受けないということを意味する。外在に理由を求めれば、著作権は幾らでも制約を受けるだろうし、著作権の制限もまた幾らでも緩和されることだろう(その代わりに、ほかの人権が制約を受ける)。そうではなく、著作権の制限とは、著作権を人権と認めた瞬間に、当然に、内在的に認められる内在的制約であり、著作権の本質にも関わる問題であるという理解である。
自然権論は無節操な権利拡大を招きかねない。その結果、輸入権という良く分からない支分権が創設されてしまった。だからこそ、インセンティブ論がwebで勢力を保っているのだろう。
だが、インセンティブ論者がいくら自然権論の問題点を主張しても、拡大主義者はそもそも多くが理論を異にする自然権論者であるために議論が噛み合わないだろうし、インセンティブ論による拡大主義者の場合、「君と僕とでは、インセンティブの捉え方が違うようだね。もっと実務に詳しくなるべきだよ。いまはプロパテントの時代だ」と言われるのが関の山であろう。また、インセンティブ論的には、輸入権という本来著作権で保護すべきではない権利を混入させることをとどめる力はない(輸入権によるインセンティブが正しいかどうかはともかくも、インセンティブとなることだけは確かだからだ)。
そして筆者自身は、自然権論の結果、権利拡大を招くこと自体は、別にそれはそれでなにも問題はないと考えている(さすがに、輸入権は著作権という自然権の問題ではなく、逆輸入規制という税関の問題だとは思っているが)。
しかしここで、多くの拡大主義者が忘れているのが、著作権の内在的制約である。著作権が人権であれば、あるいは自然権であっても、ほかの権利との調節原理として、内在的に制約を受ける。これは、憲法論のみならず、法律学的には自明の理だ。であれば、著作権が拡大し、ほかの権利と衝突矛盾する機会が増えれば増えるほど、著作権の制限もまた、拡大しなければならない。
著作権を拡大すること自体は問題はない。まさに、プロパテントだ(筆者は消極的支持にとどめるが)。だが、拡大するだけ拡大し、ほかの権利、特に、先行著作権によって表現の自由が侵害されたり、発表の自由が必要以上に制約されたり、議論の自由が失われたりすることは、絶対に許されてはならない。それこそまさに、公共の福祉、人権相互の調節原理を蔑ろにしている。もし仮に、拡大主義者が「少なくともいま以上に著作権の制限を狭めるようなことはしていない以上、問題ない」と言ったとしても、精神的自由権は「壊れやすく、傷つきやすい」(←法律学の基本的な法律用語である)以上、その取り扱いには十分に注意しなければならない。著作権が拡大した分、著作権の制限が圧迫を受けているように、制約を受けているように感じるのが人の感性である。
著作権人権説や自然権論を採用するのであれば、インセンティブ論者以上に、著作権の制約に神経を注がなければならないのだ。そしてここに、インセンティブ論では導けない、自然権論の輝かしい意義が見いだせることになる。筆者は、著作権がインセンティブであることを否定しない。それは、財産権すべてがインセンティブであると同じくらい、当然インセンティブである。インセンティブ的に立法を考えなければならないことも多いだろう。だが、著作権は自然権であり、であればこそ、著作権の制約は内在的制約として、真摯に、真剣に、考慮されなければならない。筆者がインセンティブ論を批判するのはまさにこの一点、著作権の制約を内在的制約として把握できない一点に求める(先にも書いたが、そもそも、インセンティブという言葉自体が著作権に対して外在的である)。
そして筆者は言いたい。読者がインセンティブ論を採用する場合も、著作権の制約を内在的に把握することを、真摯に捉えて貰いたい(そしてそれは恐らく、上記では不可能と断じたが、理論付けることは可能であろう)。結局、インセンティブだ、自然権だと言っても、真摯に制度を検討すれば、結局たどり着くところは同じフィールドであり、それは思考過程の差異でしかないからだ。ただ、ここで敢えて苦言を呈したのは、自然権論にしてもインセンティブ論にしても、ややもすれば互いの思考過程を無視し、自説と異なる点という、本質的でない部分を批判しているように思えてならないからだ。
筆者は、著作権の内在的制約という根拠において初めて、インセンティブ論を批判し、著作権人権学説と自然権論を正当化する。
自然権論にしたがえば、著作権が自然権であることが確認できた。
では、著作権は自然権というが、それは具体的に、どのような内容なのか?
ここで岡本学説にしたがえば、著作権は財産権であるということになるだろう(財産権論)。
だが、自然権論を採用する学者の多くは、著作権の財産権性を肯定しつつ、その前段階に根拠を求める。
それが人格権論である。
ではここで少し、著作権学説の歴史をおさらいしてみよう。この研究の多くが、半田正夫教授の尽力に依存している。半田正夫『著作権法の研究』一粒社によれば、次の通りだ。読者は、同じ著者が出した、半田正夫『著作権法概説(第11版)』日本評論社の冒頭数十頁を参照していただきたい。各国での著作権の発展状況などを無視した上に、大陸法的(自然権論的)におおざっぱに流れをまとめているため不正確きわまりないが、これは半田教授の責任ではなく、筆者に責任が帰属する。とにかく、理解のための必要最低限にとどめた。
(1)出版特許制度(15世紀〜)そして自然権論の多くが、著作権を(2)の精神的所有権ではなく、(3)の人格権的なものとして把握することになった。これは、法律学における人格権論の発達に歩調を合わせるようにして理論が充実してきた結果であろう。
国王が出版社にその書籍の出版につき独占特許を与える制度。当時印刷には莫大なコストが掛かり、印刷業界の保護発展をし、ひいては国力増強に結びつけるためにも(国王に莫大な特許料が納められた)、後発低コストで先行の出版業者を脅かす海賊版を取り締まり、印刷業者の保護を図る必要があった。この時代はまだ、著作者の(自然な)権利という発想はなく、あくまで、印刷業者の独占特許に留まっていた。したがって、本来著作権が認められない古典の出版にも、特許が認められていた。出版特許という形で、出版ギルドを保護していたのだ。
当然、自然権的発想とは馴染まない。(2)精神的所有権論(17世紀〜)
自然の事物に対する所有権の正当性の根拠はそれに銜えられた労働の中に見い出すことが出来るというロックの理論を援用し、著作者の精神的労働をもって精神的所有権を認める理論。自然権的である。
著作者に権利を求めた結果、(1)出版特許理論を克服するために考案された。ただし、精神的ではあっても所有権であるから、売買などで権利は当然のように移転し、印刷業者によって買い占められていた。引き続き印刷業者が権利を独占するための方便とされた色彩が強い。(3)人格権一元論(19世紀〜)
著作物を著作者固有の人格の発露と捉え、財産権的保護ではなく、人格権的保護をその本質とする理論。(2)と同じく自然権的である。
(2)と似ているが、著作権の根拠を、精神的所有、すなわち財産権的保護に求めるのではなく、著作者固有の人格の発露として、非財産権的性質を有する人格権的保護に求めている。理論的には(2)と異なり、著作権の移転などは人格的理由から否定されやすい(人格は財産と異なり、切り売りできるものではない)。
ええと、理解しているかい?
(2)と(3)はとてもよく似ていて、混同しやすい。どちらも、著作者個人というユニークな存在が、人格的な発露として、著作物を創作し、その著作物に、(自然)法は著作権という著作物を独占的に利用する権利を与えている(もちろん、著作権の内在的制約という限界は存在するが)。
(2)は、著作権を精神的な所有権(財産権)と評価し、人格権的な評価をあまり与えていない(人格権的にまったく評価していないとは言わない)。
(3)は、著作権を(2)のように財産権的に把握せず、人格的発露である以上、人格権であると、財産権的評価よりも人格権的評価を先行させる。結果、著作者が著作物を経済的に利用する権限を持つことは人格権の反射的利益にすぎないことになる。
うん。多分、わからなくなってきたと思う。筆者も、このレトリックを紐解くのに数年掛かったことを覚えている。だから、図示しよう。
(2)著作者の人格的発露に基づき→精神的労働の結果→精神的所有権(財産権)が生まれる→著作権
(3)著作者の人格的発露に基づき→著作者に固有な人格の発露として→人格権を本質とした著作権が生まれる
少しだけ、わかっただろうか?
どちらも、言っていることはほとんど同じ。ただ、そこで「所有権(財産権)」という言葉を使うか「人格権」という言葉を使うかの差で、それ以外はほとんど置き換えても問題がない言葉だ。そしてこの「財産権」「人格権」という言葉が権利の在り方に決定的な影響を与える。
どちらも人格の発露であるにもかかわらず、「財産権」は著作権移転や契約の自由を尊重し、「人格権」はプライバシー的な人格的保護を尊重する(契約の自由だからといって、人格を害する契約は認めない)。
そして現行著作権学では、財産権だから、人格権だから、というドグマティックな理解の仕方は採用されず、財産権的性格、人格権的性格、それぞれ尊重され、それぞれ具体的な場面でどちらをどのように優先していくべきかについて、それぞれ個別具体的に検討される様になっている(はずだ)。
しかし、同じ著作権なのに「財産権」だ「人格権」だと言うだけで随分とややこしくなる。
思うに、これこそが素人自然権論者が陥りがちな混乱の元である。
著作権は自然権である。著作権は財産権である。著作権は人格の発露であり、人格的性格を有する。著作権は人権ということは、プライバシーのように人格的に保護されるのかしら? 人権である以上、公共の福祉に反しない限り無制約ダヨなぁ……。一見、よく考えると、統合が難しそうな理屈が複数並び、結果、混乱する。いままで本稿で書いてきたように、ひとつひとつ検討すれば、決してそれらは矛盾することがなく統合的に理解できることだ。
「著作権は財産権である以上、きちんと保護しなければならない」一見、同じようなことを言っているようにも思えるが、その理論的根拠はまったく別であり、したがって、その理論が正当化される範囲もまた、自ずから違ってくる。これを看過すれば、まるで相互互換的に論じられ、財産権が人格権で保護できない範囲を保護し、人格権が財産権を保護できない範囲を保護するという、二重の詐術(誤解に基づくものである以上、言っている本人すら誤解していると思われるが)を許すことになるだろう。
「著作権は人権(人格権の意味で使っていることが多い)である以上、きちんと保護しなければならない」
なんで今回、わざわざこんなことを書いたのか?
最初に書いたように、「ふざけるな輸入権」とかの方が受けが良かったのに。でも、筆者は書いた。何故か? 自分自身が、良く分かっていなかったから。自分自身がややもすると誤解の渦に巻き込まれてしまうから。ここら辺の理屈は漠然と把握してはいたものの、それははっきりと理論体系付けたことも、意志表明したこともなく、それが、他者と議論するときにどうしても自分の思いを伝えられないもやもやの原因になっていたからと思ったからだ。
なんども言うように、自分の意見が唯一絶対とは思わない。自分の理屈以外でも同じ結論にたどり着ける可能性は充分にある。自分がさらなる誤解をしている危険性は、いまこの文章を書いていてひしひしと感じている。そもそも、著作権の内在的制限という論点の立て方自体、空しいかも知れない。だけども、いま重要なことは、対話することだと思う。世間では、今回の著作権法改正を消費者の敗北だと考える人が多い。
だけども、筆者はそう思わない。これは、大いなる未来に向けた、第一歩。大いなる敗北だと思っている。著作権拡大主義者と同じテーブルに付けたことを今回は素直に喜ぶべきだ。数年前までは著作権法なんて誰も興味も知識もなかったのだ。誰も知らないうちに著作権が改正され、いつの間にか違法とされる領域が増えていた。悔しいとか、理不尽とか考える間もなく、「著作権法ってのはそんなものだ」と思いこまされていたあのころに比べれば大いなる進歩だ。我々が、悔しいとか理不尽だとか思えるようになっただけ、進歩だ。私が修士論文を書いていたときに、「著作物のエンドユーザー……ふーん」と、その意味することを理解されることなく素通りされたときに比べれば大いなる進歩だ(それも、担当教官に……)。ほとんどに理解されず、孤独に七転八倒の苦しみに耐えていたあのころに比べれば、遙かに進歩している。
「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点〜利用権中心主義の提言〜」そうだ、遙かにマシだ。著作権法の問題点についてまったく理解を示していなかった友人が、自分が二時間以上を掛けて説明しても、その意図をまったく理解していなかったのに、NHKと黒澤プロとの係争の記事を見て、その問題の本質、ひいては著作権法の問題点について気がついて、そのことを報告してくれたときの喜び。これはまさに、第一歩なのだ。
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