先日、「JASRACとの往復書簡」と題するweb頁を発見し、仕事中にもかかわらず読みふけっていた。そこには、驚くべきことが書かれていて、感心するやら、呆れるやら、色々と思うところがあった。
そこで、今回の著作権コラムは、「ルール無用の引用ルール」と題して(←さすがにこれは、かなり意味不明な題名だなぁ(苦笑))、本件問題の本質に迫ってみる。
上の題名では、本当に、今回論じる論点が意味不明なので、改めて解説すると、「『JASRACとの往復書簡』内で問題となった、引用の法解釈論の正当性」について考察を試みる。
「JASRACとの往復書簡」ではなにが問題になっていたのだろうか? 事実を要約すると下記URLで解説される通りになる。両方ともに、なかなか良くまとめられているので、各自参考されたい。
http://slashdot.jp/comments.pl?sid=76605&op=&threshold=-1&commentsort=0&mode=nested&startat=&cid=266957
http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/think/watch/200302.html#id20030223copyright
特に、上のスラッシュドット(なんでも、「/.」と訳すのが慣習らしい。最近、“ぷれたつ”にアクセス解析を付けて、リンクをたどって始めて知った)への書き込みは、問題の本質を鋭く突いており、なかなか興味深い。
>「利益を上げられそうな相手に声をかけているだけで始めのほうで折れてくれれば儲けもの、あやふやな理屈をふっかけるものの、後になるほど言い訳に終始」という印象。
正直、著作権ビジネスはどこもそんな感じなんだと思う。何故そう言えるかと言えば、自分も実は編集者であり、駆け出しながらも著作権ビジネスの一端を担っているからだ。職場で、編集長が明らかに素人と思わしき人間相手に、かなり無茶苦茶な法解釈をふっかけているのを何度か見て、吐き気がした覚えがある。
これは、素人相手の話ではなく、編集長と話し合っていたときのことだが、「あいうえお順に並んだ編集物に著作物性は認められないのか?」というような勢いだ。あまつさえ「額に汗は認められないのか?」みたいなことまで聞いてくるし…。あのね、額に汗の理論は、著作権法では、すでに完璧に否定されているの。だから、「あいうえお」なんて、誰にでも思いつくような編集のやり方には著作物性は認められないの。とまあ、長々と解説したのだが、なにやら納得してもらえなかったぐらいなのだ(素人相手の話は、私の正体がばれるので書きません)。編集物の保護は、著作権法での保護を考えるよりも、不正競争行為的に把握して、不法行為(民法709条)での救済を考えた方が、理論的にも、実務的にも、現実的なのだが…。どうも、「創作物→著作権法で保護されなければならない」という思いこみがあるようで、何度言っても解ってもらえなかった(まー、このことを正面切って主張する学者さんも少ないので、しかたがないのだけども)。
ただまあ、じゃあ、うちの編集長や件のJASRACが悪人なのかというと、そうではなく、単に、自社の利益保護に熱心なだけだったり、保護に熱心なくせして著作権法についてあまりにも無知だったりするだけなのだが(駄目じゃん)。
だから、条文をこねくり回すことが法解釈の本道じゃないだろうに。大切なのは、条文の本質を見極め、正しく筋の良い解釈をすることだろうに…(←ビジネス法学が良く見失いがちなことですな)。
というわけで、早くも、問題の本質を突くのだが、要はこの問題、著作物の利用者側と著作権者側、双方が著作権法についてあまりに無知なことに本質がある。特に、引用をはじめとする著作物の制限について驚くほどに無知だ。大体、著作物の利用者側が、著作物を(そして、明らかに著作物と思えないようなものを)引用するのに出版社に許可の電話をかけてくるぐらいだ。
今回の件は、著作物の利用者側が著作権法についてワリと詳しく、かつ、泣き寝入りするような人間じゃなかったのが幸いし、問題が顕在化したわけだ。
さて、結論づけたところで、以下、詳しく問題を分析してみよう(えー)。
著作権法上の論点は、下記の一点に集約する。
著作物の利用者側「ツジジンセイを読む。」がした歌詞の転載が、著作権者側「JASRAC」の複製権(21条)・送信可能化権等(23条)を侵害するか? それとも、適正な引用(32条)として著作権の限界となり右権利を侵害しないと言えるか? そこで、適正な引用と言えるか、条文の解釈が問題となる(ここでは、そもそも著作物か? 著作権者は誰か? などというややこしい前提は省略する)。
適正な引用とされるには、「公正な慣行に合致」するものであり、かつ、「報道、批評、研究その他」の引用の目的上「正当な範囲内」で行われるものでなければならない。
そこで以下、「報道、批評、研究その他」「公正な慣行に合致」「正当な範囲内」の順番に論じていくことにする。
このことについてきちんと論じている基本書は、残念ながら知らない。加戸守行『著作権法逐条解説』クラスになれば論じているのかもしれないが、残念ながら、いまは手元にないため、調べようもないのだ(誰か、調べてくだされば助かります)。
個人的には、フェアユースの法理または概括的な著作権の制限を採用していない日本著作権法の解釈としては、著作権の制限の制度趣旨を尊重し、この目的要件は緩やかに解釈すべきだと思う。
「ツジジンセイを読む。」をざっと眺める限りでは、「批評」目的であると考えて良いだろう(ただし、後述するが、言いがかりくさい問題は孕んでいる)。
これに対して「JASRAC」は、スラッシュドットの解説によれば、
#「研究、論文、報道等」(JASRACによる著作権法の説明)
#「アルバム及びアルバムの収録楽曲の紹介、解説、批評等」
#(柴田氏のサイトに対する評価)と言葉を使い分けているが、
#ヒッカケっぽいな。著作権法第三十二条は以下の通り。
>公表された著作物は、引用して利用することができる。
>この場合において、その引用は、公正な慣行に合致する
>ものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の
>目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
とのこと。非常に微妙な返答をしている。
ちなみに、最高裁は、引用に、「紹介、参照」目的を含んでいることには注意しよう(ニヤリ)(昭55・3・28民衆34巻3号244頁。マッド・アマノパロディ第一次上告審判決)。
ところで、ひとつ質問。
「JASRAC」は「(引用は……)研究、論文、報道等で、そのものに著作物として、創造性があるもののなかに、楽曲,歌詞の引用が不可欠な場合と判断しております」と回答しているけども、著作物を引用する場合、本文自体に著作物性が認められないといけないんだったっけ? いや、幾ら条文をひっくり返しても、そういう文言はないし、基本書にも書いていないのだが…??? …まあ、下記の通り、本文が主であるためには、事実上、本文の著作物性が必要だとは思うけども(苦笑)。どうも、理屈として据わりが悪い感じがする。
残念ながら、この要件についても、明確な基準は存在しない。業界ごとに慣行がバラバラで、充分に判決が蓄積していないためだ(そもそも、事件自体あまりないみたいだし)。
ただまあ、参照した箇所を、インデックスを下げるとか、カギカッコで括るとか、色を変えるとか、フォントを変えるとかで、本文と明確に区別し、かつ、引用元を、発行年、出版社、引用元の正式タイトル、参照該当箇所(頁数や段落数、通し番号など、明確に特定できること)まで特定し、引用元の正式タイトルを明示すれば、問題はないだろう(先のパロディ第一次上告審判決に言う明瞭区別性。火塚は、48条の「出自の明示」要件を「公正な慣行に合致」に取り込んで考えている)。
ちなみに、上記は現在、法律出版社で一般的に採用されている方法だ。正直な話、これは、学術文献である法律書籍という性格上、利用者の利便(すぐに原本を参照できる)を考えての上のことだと思うので、法的にここまでやる必要があるのか? と思わなくはない。歌詞のような短いものの場合、わざわざ段落数まで指示する必要はないと思われる。ただまあ、法律を解釈する裁判官は、法律書籍の引用手法になれているという事実には注目しておく必要はあるだろう。
いや、「小説での引用もここまでやる必要がある」と主張する論文を、昔、読んだことがあって。昔の話なので誰のどんな論文だったかは忘れたが、悪しき慣行は打破されなければならないと書いているのだが…ねえ? その人の美的センス(ということにしておいてあげよう)を疑った一瞬だった。
閑話休題。
「ツジジンセイを読む。」は、インデックスを下げ、色を変え、さらに、引用もとの明示も法律出版社が採用しているような手法を採用し、まず問題なく「公正な慣行に合致」する内容であると言えよう(素晴らしい念の入りようだ)。問題があるとすれば、参照該当箇所の明示がないことだが、収録CDとその楽曲まで特定している以上、明瞭区別性としては充分だろう。いきなり損害賠償を請求するようなことではない…と思いたい。法律論にならないけども、裁判官ならばいきなり損害賠償の請求を認めるのではなく、和解などを薦めるべきと考える。
ただ、ふと疑問に思うことがある。いま現在、webにおける主役は、業界人ではない素人だ。その、素人が著作物を使用するに当たり、果たして、従来の業界ルールに従わなければならないとする根拠は、どこにあるのだろうか? 業界ルールとはすなわち、長年かけて形成された、その業界内での黙示の合意であり、それは、業界を前提に成立しうる規範である。逆に言えば、それは業界内部でしか通用しない、ほかの社会では不合理になる可能性を含んだ規範である。そう考えたときに、webで著作物を、素人が引用する場合に、果たして、従来の業界ルールに従う、論理的な必然性は、どれぐらいあるのだろうか? 若干、法解釈論から離れた問題提起ではあるが、法哲学や法規範の論点としては、一考に値するのではないだろうか(非常識? 問題提起というのは、常に常識を疑うところから始まる)。
さて、問題は、ここ。
最高裁によれば、本文と引用文とが主従の関係に立つ必要があるという(先のパロディ第一次上告審判決に言う附従性)。その際、両者の量などが判断基準となり得るだろうが、それが絶対の基準となるわけでもない。さらに、必要かつ適正な範囲内であることも一般に必要とされている(引用が必要でも、明らかに引用する必要性がない箇所まで引用すべきではないよね?)。そして、引用においては、この要件が一番の問題になる。
まず、歌詞自体を引用する正否。これは問題なく認められるだろう。歌詞を批評するのに、歌詞を引用できないのでは、批評のしようがない。
次に、引用量。…ここは少し問題かもしれない。歌詞引用が全体の3割ぐらい占めるテキストが散見される。ただ、先に書いたとおり、量の過小は参考にとどまるべきであり、「ツジジンセイを読む。」が直ちに違法であるとは、にわかには判断しがたい。本文自体、短い解説にとどまるため、個人的には、これぐらいはセーフにしたいところだが、裁判官のみなさんは、どう、お考えなのだろうか? 少なくとも、レオナール・フジタ判決(東京高裁昭60・10・17無体17巻3号462頁)のように、解説文がおまけ、というようなわけではないと思うのだが。
では、引用範囲はどうだろうか? 必要以上に引用していないだろうか? これも、個別具体的に見る必要があるが、「ツジジンセイを読む。」は、歌詞の意味解釈に重点が置かれている以上、歌詞の引用はセンテンスのまとまりとして意味を持つ量を引用する必要があるだろう。そうでないと、意味を解釈しようがない。
したがって、まあ、これぐらいの引用ならば、必要かつ適正な範囲と言えると思う。
最後。以上を検討して、本文と引用文とが主従の関係に立つのであろうか?
ここで「JASRAC」は、びっくりするような理屈を持ち出してきた。
>「ツジジンセイを読む」と題していますが、公表されているアルバムやシングルCDの楽曲を収録順にそれぞれの歌詞に沿って論評されているケースは、楽曲と歌詞が主体となり、そこから紹介、解説、批評をするというのが従の関係となり、著作権法32条の「引用」にはあたらないというのが、著作権者であるJASRACの見解です。
………え?
そんな解釈方法、初めて聞いたんですけど(イヤ、マジで)。
「楽曲を収録順にそれぞれの歌詞に沿って論評」することが、直ちに「楽曲と歌詞が主体」となるとする根拠が、良く分からない。読者の利便・検索性を考え、代表的な作家全集の順序に従い論評することは、極めて常識的な判断とは言えないのか。大体、最高裁は、量は目安にすぎないと言う以上、順番も目安にすぎないと考えるのが常識的な判断だろう。「先に著作物を取り上げて、そこから紹介、解説、批評をする」ことが直ちに、著作物が主、批評が従という結論を導くことは早計だ。それはつまり、逐条解説的な論評の仕方すべてを否定することになる。
例えば、「アルバムやシングルCD」を「作家全集」と、「楽曲と歌詞」を「(全集収録の)小説」と置き換えてみよう。
>「作家全集を読む」と題していますが、公表されている作家全集の小説を収録順にそれぞれの小説に沿って論評されているケースは、小説が主体となり、そこから紹介、解説、批評をするというのが従の関係となり、著作権法32条の「引用」にはあたらないというのが、著作権者の見解です。
これは、シェークスピア戯曲や古事記などに対する逐条解説といった、古典的な批評スタイルを否定することになる(もちろん、シェークスピア戯曲や古事記は著作権が消滅しており、保護の対象にはならないのだが)。ほかにも、契約条項の逐条解説が自由にできなくなるおそれがある(一応、建前としては(苦笑)、契約条項にも著作物性が認められるので)。
著作権が切れてからでないと逐条解説はできないとすると、それこそ、著作権法が著作文化を殺す結果にもなりかねない。
>「シェークスピアを読む」と題していますが、公表されている戯曲を収録順にそれぞれの戯曲に沿って論評されているケースは、戯曲が主体となり、そこから紹介、解説、批評をするというのが従の関係となり、著作権法32条の「引用」にはあたらないというのが、著作権者の見解です。
まあ、だからといって、小説丸々一冊、逐条的に解説されれば、少々問題があるかも知れない(問題ありとする人はいるだろう)。
しかしそれは、主従ではなく、必要かつ適正な範囲の問題として把握すべきだと思われる(もちろん、両者の要件を区別しないという解釈もあるわけだが)。
「アルバムやシングルCD」を「雑誌」と、「楽曲と歌詞」を「(雑誌収録の)記事」と置き換えた場合、小説丸々一冊、逐条的に解説するのと似たような問題が出てくるだろう。
>「雑誌を読む」と題していますが、公表されている雑誌の記事を収録順にそれぞれの記事に沿って論評されているケースは、記事が主体となり、そこから紹介、解説、批評をするというのが従の関係となり、著作権法32条の「引用」にはあたらないというのが、著作権者の見解です。
む…ここら辺、人によっては微妙に判断が分かれるかも知れない。
ただ、推測するに、ここら辺で判断が分かれるのは、(著作権法の本来の趣旨から離れて、)以下のような価値判断が働いているからだと思われる。
それが著作物か著作物でないかは別にして、およそ創作された情報には、本質的な価値がまとわりつく。例えばそれが、希少な情報である場合もあれば、娯楽性の高い文体やストーリーにあるかもしれない。ニュースであれば、娯楽性の高い文体などよりも、情報の希少性に価値があることは、誰もが納得できると思われる。小説であれば、(もちろん、好奇心を満たす蘊蓄を小説に期待する人もいるであろうが、)多くは、娯楽性の高い文体やストーリーを求めることになるだろう。
このような、およそ創作された情報の本質的価値にどれだけアクセスしているかという観点(著作権の話から離れた利益考量の観点)から見ると、ニュースや雑誌記事の本質は、情報の希少性にある。雑誌記事を批評によって一部でも公開すれば、希少な情報は読みとられることになり、情報価値に対する侵害の度合いは高いことになる。
ただし、ニュースや雑誌の情報の希少性は、多くは、時間と共に摩耗し、価値を失う場合が多く(調べものでもない限り、数年前の情報など、誰も見向きはしない)、批評ができるだけ情報がこなれるころには、情報価値に対する侵害の度合いは相対的に低くなるであろう。
一方、小説の価値は娯楽性の高い文体やストーリーにあるだろう。一部を抜き出したり、要約しただけでは、その面白さの本質は掴みきれるものではない。やはり、原典に当たるのが一番だ(もちろん、要約を読んで満足する横着な奴もいるが。私見だが、そういう人間は、結局、原典を読むこともないわけで)。情報価値に対する侵害の度合いは低いだろう。
では、楽曲・歌詞はどうか? 思うに、楽曲・歌詞は小説に比べて短い場合が多く、引用すれば必然、娯楽性の高い文体やストーリーといった情報価値を読みとりやすく、情報価値に対する侵害度合いは高くなる。
ただし、以下、ふたつの反論が考えられることには注意。この反論が妥当する限りにおいては、楽曲・歌詞引用による情報価値に対する侵害は相対的に低くなると考えられる。
楽曲・歌詞は、片方だけでは価値がない。歌がメロディーに載せて流れてはじめて価値を持つ。
「ツジジンセイを読む。」といった批評系サイトを閲覧する奴なんて、ツジジンセイのファンしかいない。サイトを読んでファンになればCD買うだろう(といっても、著作権法的には評価されない物言いなのだが)。
結局、引用の問題点というのは、引用元の内容を明示する関係上、引用元の情報価値に直接アクセスすることになり、それが、批評を読んだ人間が引用元にアクセスする意欲を失わしめるのではないか? というところに尽きるようだ。
ただ、どちらにしても、現行の著作権法的には、
>「ツジジンセイを読む」と題していますが、公表されているアルバムやシングルCDの楽曲を収録順にそれぞれの歌詞に沿って論評されているケースは、楽曲と歌詞が主体となり、そこから紹介、解説、批評をするというのが従の関係となり、著作権法32条の「引用」にはあたらないというのが、著作権者であるJASRACの見解です。
という、JASRACのレトリックは成立しないと考えるべきだろう。
そもそも、前述したような、情報価値という判断基準を著作権法は採用していない。情報価値という判断基準を採用することは、現行の表現・アイディア二分法に対する重大な挑戦となる。したがって、現行法の解釈としては採用できないだろう(自分で問題提起して否定するのもなんだが)。現行著作権法は、情報価値を保護対象にしていないし、保護対象にすべきではないのだ。
また、やはり前述したとおり、このレトリックを認めては、逐条解説的な批評すべてが否定される。それは、問題だろう。
…いや、問題ないという意見もあるだろうけど。それは表現の自由に対する重大な挑戦だと思うな、僕は。
ただし、以下のようにも言えることには注意。
引用文をずらずら並べた後に解説を加えるやり方は、どこをどう参照しているかよくわからないよ、という判断を下される可能性が高い。これは別に、順番に左右されるわけではなく、不必要な引用をしている文献一般に言えることだ。ただ確かに、先にずらずら並べるスタイルの場合、批判者が思わず引きずられて余計なものまで引用してしまう危険性は高いだろう。
とはいえ、「ツジジンセイを読む。」は、そもそも本文が短いため、どこをどう参照しているかよくわからない、ということはないと思われる。
先のJASRACのレトリックの直前にあった文章。
>つまり、あくまでご自分の考え方を補強する為に、著作物を引用する場合ということです。
これは、「報道、批評、研究その他」で後述すると書いたことに関係する。後述したのは、「正当な範囲内」も理解していないと判断尽きかねる論点だからだ。
ここでJASRACは、「報道、批評、研究その他」という要件を、かなり厳格に把握している。
ただまあ、著作物を批評する以上、「ご自分の考え方を補強する」もへったくれもないと思うのだが(苦笑)。それじゃ、引用しないで批評しろと言っているようなものだろう。
もちろん、自論を述べるまでに批評文を鍛えなければならないという価値判断を示したと、好意的に解釈することもできるのだが。とにかく、引用しなければ始まらない批評文で、引用できないとする根拠が良く分からない。
あるいは、JASRACは次のような意図で回答したのかもしれない。
>「ツジジンセイを読む。」とか言っているけども、所詮その自称批評って奴は、妄想に過ぎないじゃん。管理者の戯言に過ぎず、わざわざツジジンセイを引用するまでもない文章だ。そこでツジジンセイを引用するのは、単に、ツジジンセイの楽曲・作詞にただ乗りして、ツジジンセイの虎の威を借りて、管理者の妄想を権威づけているだけではないか。歌詞をネタに好き勝手書いているだけだ。
そうだとしたら、さすがにそれは言いすぎ。
正直、「報道、批評、研究その他」要件をそこまで厳格に判断するのは、承服しかねる(判決の流れから考えると、あり得る判断なのだが(鬱))。ああだから、引用だけじゃ著作権の制限としては不十分なんだって。私が、フェアユースの導入を推進する理由が、まさにこれな訳で…(ため息)。
「JASRACとの往復書簡」を読んで………著作権者?
あれ? JASRACって、著作権者だったっけ???
著作権等管理事業法
第二条 この法律において「管理委託契約」とは、次に掲げる契約であって、受託者による著作物、実演、レコード、放送又は有線放送(以下「著作物等」という。)の利用の許諾に際して委託者(委託者が当該著作物等に係る次に掲げる契約の受託者であるときは、当該契約の委託者。次項において同じ。)が使用料の額を決定することとされているもの以外のものをいう。
(1) 委託者が受託者に著作権又は著作隣接権(以下「著作権等」という。)を移転し、著作物等の利用の許諾その他の当該著作権等の管理を行わせることを目的とする信託契約
(2) 委託者が受託者に著作物等の利用の許諾の取次ぎ又は代理をさせ、併せて当該取次ぎ又は代理に伴う著作権等の管理を行わせることを目的とする委任契約
ああ、信託契約ですか…はじめて知った(ぉぃ)。つまりそれって、著者が、著作権を持たないってことよね…。著作物の利用を巡ってJASRACと喧嘩した著者は、どうするんだろう?(答:それが、いままさに、問題となっています)