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さて、まずは、「鶴の恩返し」が作成されるまでについて、おおよその流れを書いていきましょう。
きっと、参考になることも多いかと思います。
八月上旬、「猿婿」の成功に気をよくした私は(「猿婿」の初のテストプレイは、私が生涯体験したセッションの中で、三本の指に残る印象的なセッションでした)、次作の作成に取りかかりました。
そこで目を付けた昔話が、「鶴の恩返し」。鶴と若者とのもの悲しい別れに惹かれたのです。
なんだかわからないけれども、電波を受け、ご主人の「『鶴の恩返し』という昔話をご存知ですか?見るなという約束を破ってしまったがために、運を逃がした馬鹿な男の話です。…それが、私です。そこでお願いがございます。この子達を連れて、女房のお鶴を探し出していただきたいのです」という台詞だけ思いつきました。
で、子供たちを連れ、羽に導かれ、あまたの苦難を乗り越えるという、シナリオのプロットは作ってみたのです。
ところが、肝心なシナリオの落ちその他を思いつかず、そのままほっといておいたのです。
そして、運命の日はやってきました。
それは、記念すべき革命の日。N◎VA[R]をはじめてプレイした日…九月上旬だったはずです。
その日、N◎VAの成功に気をよくした私たちは、もうワンプレイということで、≪天羅万象≫をプレイすることにしました。私も、では一つ試しにと、できもしていない「鶴の恩返し」を持ち出し、セッションは開始されたのです。
PLは二人。PCは、陰陽師と戦闘用傀儡でした。
…結果は、私の完敗でした(笑)。
シナリオを作っていないことはあらかじめ公言しており、その上で、どのようなイベントを配置するべきかとPLたちと相談しながら、セッションをしていたのですが、最終的には完全にPLたちにGMの座を奪われ、何もすることがなかったと記憶しています(いや、帰り道、悔しかったこと悔しかったこと)。
ただまあ、このセッションでは、必ずしも、GMがセッションのすべてを管理する必要がないことを悟ることができ、個人的には、思い入れが凄く深いです(なにより、陰陽師の十文字俊明さまの格好良かったこと(^^)…ファンです(笑))。
ともあれこのセッションで、シーン14をシナリオの落ちとすることが決まりました(いや、実際のセッションは、お鶴にすら出会わずに、シナリオの落ちが付いたのですが…(苦笑))。
その後、何度かテストプレイを重ね、適宜イベントを改良しました。特に、試練(シーン6〜10)を中心に改訂を重ねました。シーン12も、このときに追加されています。また、狩人として、敵が銃槍使い(足軽)に決まったのも、このときです。
では、ここで詳しく、「鶴の恩返し」の構造を分析してみましょう。作者本人が分析しているのですから、間違いはきっとないはずです(笑)。
シナリオのモトネタとして「鶴の恩返し」を使うこと。
ここで重要なのは、「夕鶴」ではない、と言うことです。シナリオのネタを探す場合、できる限り古典・原点に当たるべきと考えます。後発の作品は、多かれ少なかれ、もとのプロットをひねっていることがほとんどであり、もはやその時点で、シナリオのネタとするには、ネタとして複雑すぎます(実際にやってみるとわかりますが、複雑なネタは、まねするだけでも大変であり、ネタとして参考になりません)。
ネタは、できる限り単純であるべきです。
シナリオのテーマは、“動物婚姻譚”であること。
“動物婚姻譚”から考えられる当然の結果、それがシナリオのテーマです。
そこに善悪が介入する余地はなく、ただ、事実のみを厳しく問う、それをシナリオのスタンスとしています。
なお、黒尾氏が指摘しているように、本来ならば、お繕の苦悩などもシナリオのテーマ足り得ますが、ここでは、あえてそのテーマは無視しました(シーン14で『PLが』言及する可能性は残されていますが)。作品としてシナリオがくどくなるからです。
そして、実は、シナリオのテーマの一つである“母と娘”というのも、PLが飛びついてこないのであれば、強調する必要がなかったりします(^^
テーマを演出する様式として、ファンタジーを採用すること。
まあ、昔話をシナリオのモトネタとした時点で、当然と言えば当然ですが…意外に従来、ファンタジーらしいファンタジーを演出したシナリオは、少ないものです。時々、私ぐらいしか制作者がいないのではと思うことがあります(泣)。
なお、ここでファンタジーとは、“剣と魔法”ではなく、“魔法譚”“幻想奇譚”のファンタジーを意味します。
そのためには、PLたちをクラクラと目眩がするかのような幻想の世界に一気に引きずり込む必要があります。
そこで考えたのが、まさに、ご主人の「『鶴の恩返し』という昔話をご存知ですか?見るなという約束を破ってしまったがために、運を逃がした馬鹿な男の話です。…それが、私です。そこでお願いがございます。この子達を連れて、女房のお鶴を探し出していただきたいのです」という台詞でしたし、PCたち一行を導く羽根の存在でした。
こういうのは、シナリオの落ちに持ってくるのが普通ですが、私の経験からすると、それだとむしろ逆に、PLの驚きというのは減るものです。それどころか、PLにアンフェアだと思われることすらあるのです。
私の場合、一番最初(導入部)に、シナリオがファンタジーであることを宣言します。
すると、どんなに非常識なことが起きようとも(ただし、ある程度の決まり事は確実に存在します…この、決まり事を守れないと、それは、ただの“作り話”に落ちてしまいます)、PLはファンタジーだからと妙に納得してしまうものなのです。いや、納得させられてしまうと言うべきでしょう…理性で拒みつつも、反論の余地は封じられ、納得する以外に選択肢が潰えてしまうのです。PLたちは、己の常識がいっさい通用しない事実に戦慄を覚えることでしょう。そして、これこそが、ファンタジーの醍醐味なのです。
では、何故私がファンタジーという様式にこだわるか、ファンタジーを嗜好するのかといえば、ファンタジーというものがゆがんだ表現形式だからです。
ファンタジーは、夢を現に、現を夢にします。
そして、多くの者が、夢を現にすることをもって、ファンタジーを「現実逃避の文学」と評価します。
しかし、それは、ファンタジーの背後に隠れた真実に気がついていない者の発言です。
ファンタジーは、同時に、現を夢にするのです。
考えてみてください。
何故、動物が会話するのでしょうか?
…人間と動物との区別が付かない幼稚な発想故?
何故、動物が人間に恩を返すのでしょうか?
…ご都合主義の現れ?ただの願望?
違うのです。それは、すべて象徴故なのです。
例えば、狐と言えば、それは、狡賢さ、詐欺を象徴します。
狐が人を化かすという話の背後には、愚か者が詐欺師に騙されるという真実が隠されているのです。
例えば、鶴と言えば、その美しさから女性を連想させ、また、冬にわたる、渡り鳥、一カ所に止まらないはかなさを象徴します。
鶴が若者と結婚し、そして別れるという話の背後には、永遠に旅をする女性と農民の若者との悲哀が隠されているのです。
こうして見ると、ファンタジーの多くは、何ら現実とは変わらない、ただ、詐欺師を狐など、極端に登場人物や背景をデフォルメし、話を単純化すると同時に、その象徴故に、多くの意味をそこに凝縮することが可能にする表現なのです。これが、洗練された表現でなくてなんなのでしょうか?
…ま、わからなければそれまでという意味では、独りよがりな表現手法なのかもしれませんが…ね。ただ、その魅力にとりつかれたら最後、わかるかわからないかというぎりぎり崖っぷちを歩かないと面白くないのですよ(苦笑)。良くできたファンタジーは、常に、わかるかわからないかという読者と作者との真剣勝負なのです。
さて、“動物婚姻譚”を“ファンタジー”で表現することは決めました。
そこで、このシナリオでは、偏執的なまでにファンタジーの決まり事を守っています。
以下、詳細に検討してみましょう。
魔法とは、法則ではありません。ただの、結果論です。
本編でも触れましたが、魔法とは、ただの結果論です。理解できないこと、法則では語れないこと、しかし、理不尽にも、物語の中に確たる存在として居座ってしまっている結果そのものです。
で、あればこそ、魔法は、分かりやすい実在でなければなりません。
物、という形を取っている必要があるのです。
思い出してください。ファンタジーとは、象徴によるゆがめられた表現です。
象徴である以上、ファンタジーは、魔法は、物でなければならないのです。鳩が平和の象徴であるように、象徴とは、観念的な概念を分かりやすく理解させるために実在の物に置き換える作業なのです。
結果、お繕をお鶴の下に導くのは、羽根という実在でなければならないのです。
この点、お繕が夢で導かれる方がよいのでは?と、PLに訊かれたこともありましたが、それでは象徴として機能しません。
魔法は、物に宿らねばなりません。
ちなみに、羽根が正真正銘ただの羽根であることも、重要な要素です。
魔法とは結果論であり、法則ではありません。
大切なのは、羽根がお繕を導いたという結果であり、そのプロセスではないのです。
羽根が何も特別な物である必要はないのです。
民話学には、「三数の法則」という概念があります。
これは、同じことを三回繰り返すことで、そこに一種擬似的な経験則・因果律を読者に見いださせ(錯覚させ)、情感的に読者にそのストーリー進行を納得させるという民話特有の技術です。読み手・聞き手は、この瞬間、理性で拒絶しつつ、感性で納得してしまう、目眩のような感覚に囚われることでしょう。
ここで、三回繰り返すとは、二回では少なく、四回では多いという経験則によるところが大きいのでしょう。実際、世界中の民話のほとんどが、この「三数の法則」に乗っ取って語られています。
シナリオ「鶴の恩返し」が全四夜で構成されているのは、寝起きを三回繰り返すためです。ここで、(それが如何に儚く脆いものであろうとも)変わらぬ日常と、第四夜で日常が決定的に壊れる瞬間を演出します。
第二夜で試練(シーン5〜7)が三回繰り返されるのも、試練という存在を強調したいがためです(ただ、ここの試練の出来はあまり良くありません。できれば、ここはみなさんに創意工夫していただきたいところです)。
狩人という障害。
動物を狩るのは、狩人であるべきです。
ただ、それだけのことです。
しかし、ファンタジーにおいては、それこそが『象徴として』もっと大切なことなのです。
シーン12の演出はたいへんむずかしいです。複雑に展開するでしょう、各自シミュレーションを怠らず、アドリブに備えておいてください。
ただ、シーン11とシーン13との間にこのシーンを差し挟んだことで、シナリオに間を持たせることができました。それと同時に、シーン14へ向けての伏線として機能します。
シーン14は、シナリオのエピローグとして機能します。
ここでも、PLの多くに、何故、シーン14の直前にシーン11をもってこないかと疑問をぶつけられました。
お繕とお鶴とがシーン12で、庵にて団欒しているところに、闖入者として銃槍使い(足軽)を登場させるべきではないかというのです。二人が団欒している庵の外で、血生臭い戦闘をさせるべきだというのでしょう。
確かに、スリーアクトストラクチャーの概念からすれば、そのようにすべきとも見受けられます。
ここで、スリーアクトストラクチャーとは、物語を導入部・展開部・帰結部の三部に分け、帰結部をクライマックスとエンディングに分ける、ハリウッドの映画作成方式です。大変優れた物語構築手法であり、N◎VA以降のTRPGの多くで採用されました。
クライマックスの戦闘で盛り上がったところでシーン14の落とし穴にPLたちをたたき込む方が、実にドラマチックな展開になると考えるのでしょう。
しかし、私はそうは考えません。
それでは逆に、クライマックスで盛り上がったPLたちのテンションに水を差す結果になりかねないのです。
私がファンタジーに求める展開とは、あっと驚くどんでん返しではなく(それは、ミステリーといったジャンルでの理想です)、しみじみとした実感です。ああやっぱりという、実感。それ故に思う、深い感銘、それを求めています。魔法とは、驚異ではなく、所与の実感なのです。
従って、ここでは、シーン12、13と二シーン挟むことでPLたちの違和感を少しづつ大きくし(シーン11でもうクライマックスを迎えたのに、何故、シナリオは終わらない?)、最後に、シーン14にてああやっぱりと思わせることが大切なのです。
なお、このようなシナリオ構成でも、シーン11から帰結部に突入したと考え、シーン11をクライマックス、シーン12以降をエンディングと考えれば、スリーアクトストラクチャーの構成を忠実に守ったシナリオと言うことができます。ただ、エンディング・エピローグが従来のシナリオの作り方に比べ、極めて長いと言うことに過ぎません。そして、この、エピローグの長さが、シナリオ「鶴の恩返し」のわびしさを強調することになるのです。
あー、しかし、黒緒氏の「導入部分に一工夫を」というのは、良いですねえ。
口入れ屋とか、気に入っています。
違うシナリオで使ってみたいですなあ。
継母とお繕との問答を導入する場合、注意が必要です。
シナリオ全体がくどくなる危険があります。PLたちの嗜好を考慮しつつ、注意深く運用してください。
(2000/9/14追記)
それ以外にも、例えば、太郎を悪役にするというのは、ある意味“動物婚姻譚”という作品の一番の主題を非常に強く演出できる意味で、お勧めと言えばお勧めなのですが…。
ただ、その一方で、こういう演出は、劇薬になりがちなのです。
“動物婚姻譚”の結果を強調できる一方で、必要以上にお繕の苦悩を強調しすぎてしまいます。そうなると、逆にこのような演出はなかった方が良かったという結果にもなりかねないのです。
演出というのは、難しいものです(溜息)。
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