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「もしかして、『ONE』もファンタジーだったんじゃあないか?」かくして、『ONE』もファンタジーであることが認められました。
でも、私は違いました。
私は、『ONE』がファンタジー、それも10年に一つという傑作ファンタジーであることをはじめから知っていました。だから、私は『Kanon』にファンタジーを期待してプレイしました。
そこで私が発見したことは、『Kanon』がジュブナイル(青春小説)であるということでした。そこから遡って、『ONE』『MOON.』がジュブナイルであることを発見しました。
そして、結論づけました。
「『Kanon』は、『ONE』ほどファンタジーではない」確かに、真琴シナリオも、やはり10年に一つと呼んでも差し支えないほどの傑作ファンタジーでした(いや…友人に言わせればまだ甘いということですが(苦笑))。
それから、『Air』をプレイしました。
結論づけました。
「ファンタジーの殻をかむったSFじゃん」分かりやすくいきましょう。以下のように記号を置き換えてみてください。
「翼人→宇宙人、法術→超能力」立派なSFのできあがりですね。きっと、翼人たちは、大宇宙から飛来(難破)した宇宙人で、その超常的な科学力により神とあがめたてまつられてきたのでしょう。法術は、翼人から得た科学の恩恵の一部なのです。
ここで、それは違うと考えた貴方は正しいです。
これは、レトリックです。
ここにあるのは、実は、物語の分類をどのように定義づけるかということの違いなのです。
多くの人はこのように定義づけます。
「剣と魔法ならファンタジー、ロボットが出てきたらSF」そしてさらに、ファンタジーの一部についてこのように断言します。
「情景描写、心理描写共にお粗末。設定に矛盾があって、基本的に説明不足」ここに、「感動的ではあるが肝心の部分で説明不足なのが惜しい」などと言ってお門違いの残念賞を捧げられる(右の文は、ふたばてぃ氏の00/04/02の日記の引用です)と完璧ですね。
しかしそれは、全くの間違いです。実に一面的で傲慢な考えです。
多くの人は知らないのです。情景描写・心理描写・世界設定を詳細にするというのが、写実主義という文芸の一派(と言っても圧倒的多数ですが)に過ぎないと言う事実に。
文芸…というか物語の作り方には、もう一派存在します。
それは、徹底的に説明を排除するという方向です。
物語とは、所詮物語です(そして、物語でなければいけません!)。
物語は物を語ることが出来れば足り(そして、物を語ることこそ肝心です)、キャラクターの心理描写や詳細な世界設定などは、物語にとっては枝葉にすぎないのです。
場合によっては、キャラクターをただの記号と断言し、その必要以上の個性化を嫌うことすらあるのです。世界設定に矛盾があることもかまいません。はじめから合理的な説明は放棄しています。かくて、「肝心なところで説明不足」な空虚な作品ができあがります。
近代からの流れである文芸の傾向と真っ向から対立するような表現方式です。
しかし、それは近代からの文芸の流れが忘れてきたものを確かに取り戻しました。
例えば、近代の文芸は、近年、ますます長文化しています。
表現は年々長く過剰になり、たった一つのことを伝えるのにやたら紙面を割きます。
それで子細な心理描写が出来るのであればよいのでしょうが、多くは、本来なら一言で説明できることを忘れ、一読了解される言葉を探求することなく、単純にテキストを引き延ばし、よけいに読者を混乱させている作品ばかりです。長く子細に文章を書くことが文章のテクニックであれば、短く完結に一読で解るように文章を書くこともまた文章のテクニックであることを忘れています。
斯くて、心理描写や世界設定は物語の演出に過ぎないという本旨を忘れ、心理描写のための心理描写、世界設定のための世界設定に堕し、演出のための演出という、物語としてもっとも恥じるべき無限循環に陥るのです。その結果が、近年のハリウッド映画の、演出だけ派手で物語の中身が空虚な映画群です。演出や世界設定や心理描写を観るために物語を読むのではありません。我々はあくまで、物語を楽しむために物語を読むのです(こちらの方が、如何に物語を読む姿勢として健全でしょうか!)。
また、近年の文学傾向は、物語を貧弱にしました。
手取り足取り詳細に書かれた心理描写。実にかゆいところに手が届くではありませんか。
しかし、その一方で、細やかな描写は解釈の可能性を限定します。
人間の心の動きにまで詳細な描写を付け、それを合理的に描き出す。それは所詮、小説家の頭の中で作られた幻想(キャラクター)にすぎません。本当の人間の心の動きは、もっと複雑です。どんな天才であっても、その人間の心の中を正確に読み来ることなど、とても出来るはずがありません(試しに、そこら辺を歩いている精神治療師を捕まえて訊いてみてください。十中八九、解らないと回答することでしょう…なぜなら、そのように答えるように教育されているからです)。それは、小説家たちの傲慢に過ぎません。
とにもかくにも、我々読者よりも優れた観察眼を持った小説家が書いた小説であっても、詳細に描いたのでは、必ず解釈の限界、描写の限界にぶち当たります。そこであえて詳細な描写をすることで、読者に想像の余地を与えるというのも、一つの演出方法なのです。一つのキーワードを軸に、読者は空想の翼を広げます。作者に与えられた空想の唾輪を広げ、時には、作者が思いも寄らなかった地平に到達することだって可能になるのです。これこそ、真の知的遊戯、知的興奮ではありませんか。
これは、情景描写その他すべての描写にも共通することです。
例えば、変なたとえですが、リンゴを一つ描写したとします。
目の覚めるような映像をもってリンゴを描写したとしましょう。その映像は、リンゴの皮の産毛まで見える、真に迫るリアルなリンゴです。
ですが、時に、ただ一言、『うまそうなリンゴだ…』そう、登場人物につぶやかせた方が遙かに人の心に迫るリンゴの描写となることもあるのです。
近代の文芸傾向の特徴は、具体的で詳細で合理的説明・科学的説明を好む写実主義と呼ばれるものです。出来る限りご都合主義を廃し、物語をリアルに現実に近づけ、物語の虚構を取り除こうという考え方です。
その到達点は、物語を現代や歴史、あるいは、空想が許される遙か未来の物語です。かくて、近代の文芸では、(剣と魔法という意味での)ファンタジーは廃れ、現代物や歴史物、SFがはやることになりました。
それは、物語に対するある意味真摯な態度ではあります。
しかし、同時に物語を虚構、幼稚と決めつける、物語に対する不信があるのです。
それに対する対極は、抽象的で、合理的な説明を放棄しもっぱら情緒的な納得に訴える(かと言って、変に詩的というわけではありません。それはまた別の文芸です)文芸です。
そして、それをもっとも体現した物語こそ、(剣と魔法という意味ではない)ファンタジーなのです。
これは、文学の世界では、文芸様式としてのファンタジーと呼ばれるものなのです(※)。
もちろん、物語に対する(読者作者共に)安易な逃避という批判もあり得るでしょう。読者は面倒な世界設定などの詰めから逃避し、読者も、根気を持って世界設定の解読につき合うことから逃避しています。
そして確かに、ファンタジーを「逃避の物語」と批判する向きもあります。所詮、ファンタジーは現実に根を持っていない夢物語なのです。
しかし、そこで論者が常に忘れてはいけないことが、ファンタジーが抽象的な文芸であるということなのです。
抽象的とは、象徴的であると言うことも意味します(もちろん、常にイコールというわけではありません)。象徴的であれば、錬金術を見れば明らかなように、たった一つの物事・出来事・物体に、幾千もの意味を込めることも可能なのです。例えば、夢物語のような物語の背後に、大いなる皮肉があるとすれば…それは、もはや「逃避の物語」と呼ぶことは出来ないはずです。これが、ファンタジーの可能性というものなのです。
そして、読めば勝手に読者の空想は広がり、物語を自律的に楽しみます。心理学者河合隼雄が「良くできたファンタジーは自律的に動き出す」と言う由縁です。そこには、押しつけではない、真の知的遊戯があるのです。
自律的に考えた結果、もし、そこに皮肉を感じることが出来なければ、その人にとってその物語は楽しい物語として解釈すべき物なのでしょう。ただ、それだけなのです。別に、そこに皮肉を感じることが出来ればよいと言うわけではありません。逆に、そこに皮肉を感じてしまった人は、裏切りの人生を送ってきたのでしょう。それはある意味不幸な人生です。物語から何を受け取るかなんて、所詮、読者の責任なのです。作者が責任を負う必要はありませんし、他の読者が訂正するものでもありません(精々、他の可能性を指摘するだけです)。
※ 大修館書店『ファンタジー文学入門』ブライアント・アトベリー著、谷本誠剛+菱田信彦訳18頁は、ファンタジーを以下のように定義しています。 一、ファンタジーの作品には、決まって型どおりの登場人物が登場し、魔法使い、ドラゴン、魔法の剣と行った、これも型どおりの道具だてが見られる。逃避的な大衆文学の一つであるファンタジーでは、このような要素が組み合わされて、話の結末がいつも予想通りになる物語の筋道が組み立てられる。その結末は、決まって数の少ない善なるものが、圧倒する数の悪に打ち勝つことになっている。一は、剣と魔法のファンタジーという意味で用いられますし、二は、私が様式としてのファンタジーとして定義するものを意味します。『ONE』は、二の意味のファンタジーであり、しかも、従来のファンタジーよりもより積極的に民話などの口承文芸を取り込んでいるところに最大の特徴があるわけです。
二、ファンタジーは、おそらく二十世紀後半の主要なフィクションの様式(モード)といえよう。その物語構造は、決して単純ではなく、文体の遊技性や、自己言及性、既製の価値観や思考の逆転などがめだった特徴として見られる。また象徴体系や意味の非決定性などの、現代的な観念を取り組むのも特徴的である。その一方で、ファンタジーは、叙事詩や民話、ロマンス、神話など、過去の非写実的な口承文芸の持つ活力と自由さを自在に取り入れている。
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