永遠の世界の向こうに見えるもの 火塚たつや 序論 一 『ONE』という作品  Tactics『ONE〜輝く季節へ〜』という作品があります(※1)。 ※1 そう、「ゲーム」ではなく、「作品」と呼びましょう。  良かれ悪しかれ、1998年の18禁ゲーム業界の話題を席巻した一作です。本作のブームで、18禁ゲーム業界に泣きゲーという一大ジャンルが成立し、ムーブメントとなったことは記憶に新しいことでしょう。  その後、『ONE』のシナリオライターが作ったkeyの『Kanon』『Air』も、業界の話題を席巻、鍵っ子というムーブメントを起こしたことは、記憶に新しいと思います。  良かれ悪しかれ、ここ1〜2年の業界に方向性を与えてしまった作品です。  ところが、このように、業界に対する影響力が大きい割には、『ONE』という作品の評判は、芳しくありません。  そもそも泣きゲーに対し批判的な意見を有する論者が『ONE』を批判するのは当然として、『ONE』を評価する人たちの中にも、『ONE』の演出を中心に批判の声が大きいのです。  一つは、イラスト。これは、誰の目から見てもデッサンが狂っていることは明らかであり、その後の『Kanon』『Air』での改善を考えるとそれほど問題があるわけではありません。また、多くの論者が、「変だと思いましたが、もう慣れました」「今じゃこれがないとやってられません」と、口をそろえます。  一つには、システム的欠点。テキストスキップをやりすぎると止まるとか、テキスト巻き戻しがないとか、幾つか欠点が指摘されています。しかし、これも批判の中核とされることはありません。むしろ、セーブデータが30もあることを評価する声の方が大きいです。  そして、ここからがもっとも批判が大きいところです。一つが、ご都合主義。一つが、説明不足。一つが、選択肢の凶悪さです。  ご都合主義とは、一言で言うなれば、「感動」をもよおさせるご都合主義的展開に依存した物語構造を採用し、しかもそれが決して斬新でもなんでもない手法であるということを意味します。これは特に『Kanon』『Air』に対して強い批判ですが、キャラクターが極度にデフォルメ化され、現実世界ではあり得ないような幼稚な人物像を描いているというのも、『ONE』がご都合主義であるという補強証拠として働くことでしょう。  さらに、ご都合主義の延長として、物語の過剰性も問題視されているようです。  説明不足とは、作品の根底に関わる世界設定であるところの永遠の世界について、全くといって良いほど情報が不足していることです。ここを指して、『ONE』をEVAの延長線上に捉え、説明不足が許される悪しき流れと批判する向きもあるようです。前述のご都合主義と絡めば、『ONE』はまさに出来の悪い作品のお手本ということになるでしょう。  選択肢の凶悪さとして代表的な批判は、「たった一回の選択肢の誤りによってバットエンドに直行するのは、物語として読ませる作品の演出として誤っている」というものです。この論を採用する論者の多くが、作品として、『ONE』よりも『Kanon』の方が優れていると主張します。  しかし、私は、これらの批評を見るたび首を傾げてしまいます。「この人達、何を取り違えているのだろう?」そう思えて仕方がないのです。  それは、『ONE』の演出に対し、根本的な誤解があるからに他なりません。ここでは、『ONE』の演出とは何だったのか、そのことについて考察していきたいと思います。 総論 二 ギャルゲーとしての『ONE』  『ONE』を論じる上で、絶対にはずせない事実があります。『ONE』が、ギャルゲーであったという事実です。  デモで「絆を求めた瞬間だった」と唄い、また、日めくりカレンダーや毎朝起こしに来てくれる幼なじみなどLeafの『To Heart』と共通点を多く備えていることからも、『ONE』がギャルゲーであったということは、無視できない事実でしょう。『ONE』は、間違いなく、ギャルゲーでした。  では、あまたの星ほど存在するギャルゲーの中で、『ONE』が飛び抜けて優れていた点とは何でしょう。  まず、『ONE』が、「女の子と知り合い、そして段々親しくなり、最後に告白し結ばれる」というギャルゲーの文脈の中で、ギャルゲーの主題である「恋愛」を永遠の世界と対比させ、恋愛を更に高みに引き上げたことが考えられます。  障害が大きいほど恋は燃え上がるというのがラブストーリーの古典的王道。『To Heart』のマルチしかり、「存在の違い」や「倫理」などが恋愛と対立して存在しているからこそ、その恋は切なくなります。物語としての完成度を高めようとすればするほど恋愛は純化され、より大きな存在と対立して描かれることになります。従来、その対立項として究極の存在であった存在こそ、恋人との死別です。「死も二人を分かつことは出来ない」死という極限の状態を乗り越え、二人は初めて結ばれる。恋愛と死別との対比は、病弱な恋人を看取る物語や心中物、転生物など、それこそ繰り返し使われてきたモチーフです。  そのようなラブストーリーの中で『ONE』が、恋愛の究極的な対立項として用意したものこそ、永遠の世界だったのです。  ここでは、永遠の世界は、死別というある意味手垢が付いたモチーフの代わりとして用意されたと理解されることでしょう。永遠の世界とは、すなわち「死」の象徴であったのです。この、永遠の世界という独自性こそ『ONE』の特色であり、『ONE』が「主人公と女性の関係が発展→主人公側の事情による強制的な離別→主人公の復帰による『奇跡』」という感動物の王道パターンを踏襲しているにも関わらず、『ONE』を魅力的な物語にしていると理解される由縁であります。そこでは当然の様に、ヒロインとの絆が極めて重視されます。  『ONE』をギャルゲー、ラブストーリーとして理解する限りでは、『ONE』の主題は浩平の「恋愛」とその成就ということになるでしょう。  さらに、『ONE』が「主人公と女性の関係が発展→主人公側の事情による強制的な離別→主人公の復帰による『奇跡』」という『ONE』の物語構造の中にギャルゲーとしての『ONE』ならず、ジュブナイルとしての『ONE』を見いだす向きもあるでしょう。  ジュヴナイル(青春小説)とは、「別離」による少年少女の「成長」の物語です。「別離」とは、日常からの逸脱を意味します。少年少女にとっての「別離」、例えば、スティーブン『宝島』といった「冒険旅行」や、ピアス『トムは真夜中の庭で』といった「初恋」などが挙げられるでしょう。今まで少年少女が信じていた日常が壊れ、突きつけられた厳しい「現実」を通して、少年少女が大人へと「成長」する物語です。ジュヴナイルとは、現代の「通過儀式(イニシエーション)」です。  『ONE』は、現実世界という「日常」から永遠の世界という「非日常」へと「別離」しながらも、ヒロインたちとの絆、人間的「成長」をもって現実世界へと帰還を果たす物語として理解されます。まさに、「キャラメルのおまけなんて、もういらなかったんだ」ということでしょう。  このような理解においては、永遠の世界は浩平の内面世界と考えられ、永遠の世界への消滅とそこからの帰還は「通過儀式」すなわちインナートラベル(内面旅行)として理解されることになるでしょう(※2)。ここで『ONE』は、日常と非日常の対立軸の中、日常のすばらしさ、まさに「輝く季節へ」向かうことが唄われることになります。  また、心理学や精神分析について知識があれば、永遠の世界に「少年期のトラウマ」や「エロス(愛)とタナトス(死)」を見ることになるでしょう。『ONE』をEVAと比較するのも宜なるかな、です。  『ONE』をジュブナイルとして理解する限りでは、『ONE』の主題は浩平の「成長」ということになるでしょう(※3)。 ※2 少し分かりにくいと思われますので、解説をいたします。  ジュブナイルの定義として、「現実」という言葉と「儀式」という言葉には、一見繋がりがないようにも見受けられます。  しかし、人、現実を突きつけられたとき、自問自答します。果たして、これでよいものか、もっと別の手段がないか、自分とはどうあるべきか。それが厳しい「現実」であればあるほど、人は内面に遡り自己を観察します。インナートラベル(内面旅行)と呼ばれる現象です。  一方、臨死体験を伴う「通過儀式(イニシエーション)」も、トランスを通じて自己の肉体を感覚的に喪失し、自己の内面に直面します。そのトランスを導く原因が、薬物によるものか、祭りの熱狂によるものか、様々考えられますが、とにかくそのとき、少年少女は意識を飛ばし、自己の内面へと意識を向けるきっかけを得ることになります。「現実」から自己の内面を考察するか、非現実から自己の内面を考察するかの違いはありますが、結果、少年少女は大人への仲間入りを果たすわけです。ここでは多分に象徴的意味合いを含めて、ジュヴナイルを「通過儀式(イニシエーション)」の物語と呼ばれることになるでしょう。厳しい「現実」を通じて『内面に直面する』こと、その点を指して『通過儀式』と象徴的に呼ぶわけです。 ※3 また、『ONE』をジュブナイルとして理解することは、『ONE』をラブストーリーとして理解することと非常に相性がよいです。「通過儀式」には臨死体験を含み、そこに「浩平が永遠の世界へと旅立つこと=浩平の死」を描いたラブストーリーとしての『ONE』を見いだすことになるからです。  以上の理解においては、『ONE』のご都合主義や説明不足、選択肢の凶悪さが批判の対象となるのは、既に多くの論者が指摘するところでありましょう。  『ONE』を恋愛小説(ギャルゲー)として見るにしても、その延長線上にあるジュブナイルとして見るにしても、作品の物語構造として必ずしも永遠の世界というモチーフを採用する必要はなく、そこに、泣かせよう・感動させようという『ONE』の演出過剰を見ることになります。「主人公と女性の関係が発展→主人公側の事情による強制的な離別→主人公の復帰による『奇跡』」という物語を描きたいのであれば、永遠の世界という目先を変えた物でPLをごまかす必要はなく、むしろ、死別といった古典的な手法で真っ向から勝負を挑めば良かっただけです(※4)。  その上、『ONE』は永遠の世界について具体的な描写も十分な説明もしておらず、そこに、説明不足のご都合主義を見ることになるでしょう。『ONE』は、実に小狡い手法でPLを誑かした悪い作品であると言えることになるかと思います。  浩平を始め、登場人物のデフォルメ化も指摘されています。特に浩平は、「こんな奴いねーよ」と言いたくなるくらい弾けた男であり、ここでPLは確実に感情移入を阻害されています。その他の登場人物も浩平ほどではないにしても、デフォルメ化は著しく、キャラクターは記号化され、PLの萌えを引き出そうという媚が見られると批判されているところであります(※5)。  選択肢の凶悪さも、試練の厳しさとして物語を盛り上げる物としては凶悪に過ぎ、また、物語の本道とは関係がないような選択肢が致命的なフラグとなっている場合も多々あり(「右」「左」)、ラブストリートしてもジュブナイルとしても、演出的な失敗が目立つことになります。  『ONE』は、主題の選択としては魅力的な物を持ちながら、その演出においていくつか致命的なミスが目立つ、全くもって惜しい作品だったわけです。 ※4 多くの作者が恋愛と死別との対比の中で、如何に死別という不可逆的な終焉を乗り越えた物語を描くかで頭を悩ませているというのに、それを、永遠の世界という作者に都合の良い世界によって死別という不可逆的な終焉をクリアするなんて、なんたるご都合主義! ※5 『ONE』は、一見優等生っぽく見えて実は成績が悪い茜など、登場人物は比較的リアルに描かれていますが、その茜も、「おとなしい」「お下げ」「ワッフル」「嫌です…」というように、極度に記号化されています。食に対するこだわりとなればは、各キャラ異常なほどです。これが『Kanon』『Air』になると、作画技術の上達に伴い、「外見高校生、中身小学生以下」という酷評を受けることになります。月宮あゆであれば、「ショートカット」「お子さま」「カチューシャ」「たいやき」「うぐぅ」に記号化されています。  しかし、上記のような理解が、そも本当に正しかったのでしょうか。  ここで我々は、『ONE』において、上記のような演出上の明らかなミスが見いだされるのにも関わらず、永遠の世界が、物語内において不気味なまでの存在感を誇示しているという事実を見過ごす訳にはいきません。演出として失敗であったはずの永遠の世界それ自体が何故ここまで存在感を誇示するのか。そもそも死別や精神の成長を描くためだけに、何故わざわざ永遠の世界というようなモチーフを用意したのか。むしろ、死別や精神の成長を越えたところに『ONE』の主題を置こうとしようとしたが為に永遠の世界というモチーフを選んだと理解すべきではなかったのではないか。  これはもはや、感性という言葉では片づけるべき問題ではないでしょう。我々は何か、致命的な事実を見過ごしているのではないでしょうか。  そして、この問題を解く鍵が、ファンタジーとしての『ONE』なのです。 三 ファンタジーとしての『ONE』  『ONE』はファンタジーです。これは、私が『ONE』を初めてプレイした二年前からずっと主張し続けていることです。それも、「銃と科学のSF」に対局される「剣と魔法のファンタジー」ではなく、「文芸様式としてのファンタジー」です。もちろん、泣きゲーや学園物など、様々な分類の仕方もあるのでしょうが、『ONE』を演出から分析した場合、その物語としての本質は、間違いなくファンタジーなのです。  ブライアント・アトベリー著、谷本誠剛+菱田信彦訳『ファンタジー文学入門』大修館書店18頁は、ファンタジーを以下のように定義しています。 一、ファンタジーの作品には、決まって型どおりの登場人物が登場し、魔法使い、ドラゴン、魔法の剣といった、これも型どおりの道具だてが見られる。逃避的な大衆文学の一つであるファンタジーでは、このような要素が組み合わされて、話の結末がいつも予想通りになる物語の筋道が組み立てられる。その結末は、決まって数の少ない善なるものが、圧倒する数の悪に打ち勝つことになっている。 二、ファンタジーは、おそらく二十世紀後半の主要なフィクションの様式(モード)といえよう。その物語構造は、決して単純ではなく、文体の遊技性や、自己言及性、既製の価値観や思考の逆転などがめだった特徴として見られる。また象徴体系や意味の非決定性などの、現代的な観念を取り組むのも特徴的である。その一方で、ファンタジーは、叙事詩や民話、ロマンス、神話など、過去の非写実的な口承文芸の持つ活力と自由さを自在に取り入れている。  一は、剣と魔法のファンタジーという意味で用いられますし、二は、私が「文芸様式としてのファンタジー」として定義するものを意味します。  一の意味でのファンタジーであれば、既に多くの方がご存じのことでしょう。古くは『指輪物語』、近年に至れば『ドラゴンクエスト』シリーズをはじめとした多くのCRPGがその例としてあげられることになります。どれも、竜が大空を支配し、魔法使いは一夜にして城を建て、王は剣の力を持って民衆を荒々しく支配しています。童話(昔話にあらず!)の発達により誕生した「奇跡の物語」も、一の意味でのファンタジーに含まれることになるかと思います。  一方、二の意味でのファンタジーとは、そうではなく、ファンタジー独特の演出をもってつづられる文芸の流れの一つなのです。その特徴としては、@表現の抽象性A不条理なまでの合理性B倒錯表現の三点が挙げられるでしょう。  思うに『ONE』とは、一の意味ではファンタジーでなく、二の意味でのファンタジーでした。  そして、『ONE』を文学様式としてのファンタジーとして定義してみると、『ONE』は、決して説明不足ではなく、むしろ、「文体の遊技性や、自己言及性、既製の価値観や思考の逆転などがめだ」ち、「象徴体系や意味の非決定性などの、現代的な観念」を積極的に取り込んでおり、複雑かつ多義的な概念を実に完結かつ分かりやすく説明しているというのが、真実だったのです。  では何故、『ONE』がファンタジーとして実に優れているのに、優れている点が評価されていないのか。『ONE』をファンタジーと評価するのを阻害するものはいったい何だったのでしょうか。  そこには、具体的・写実的な表現を至上命題とする近年の文芸演出の悪しき主流が見え隠れします。  映画や小説、漫画、その他全て、近年の文芸には、一つのムーブメントが見られます。情景描写に重きを持ち、描写のために詳細な世界設定を構築し、出来る限り情景を具体的かつ詳細に描くという文芸演出の主流です。そこでは、読者が物語の主人公に感情移入をすることを至上命題とされ、物語内を詳細に描くと同時に、出来る限り読者に不快感を与えないよう物語内の設定に破綻をきたさないことが肝心とされます。  確かに『ONE』の(そして、ファンタジーの)演出は、近年の文芸が至上命題とする感情移入の大前提となる「情景描写・世界設定」が不十分です。そこで彼等は、『ONE』の中に一見難解な台詞・設定や思わせぶりな台詞でごまかし読者を誑かしてきた、EVAの悪しき流れを見ることになるでしょう。  特に『ONE』を、ラブストーリーやジュブナイルの流れで見たとき、この傾向は強くなります。ラブストーリーやジュブナイルという物語構造を持つのに、それに真摯に立ち向かうことなく、一見難解な台詞・設定、思わせぶりな台詞でごまかし、PLを誑かしてきたのが『ONE』だったのではないか。たかが「一組のカップルの別離」を表現する為に永遠の世界という大掛かりな設定を用意しただけではないか。下手に設定を広げ過ぎ、非日常性を設定に持ちこませた所為でシナリオが難解になり、招くことの無かった余計な批判を浴びてしまったのではないか。  しかし、それは全くの間違いです。実に一面的で傲慢な考えです。彼等は、文芸様式としてのファンタジーが存在するという事実を看過し、近年の文芸の手法でのみ『ONE』を評価しようとしていたのです。  彼等は知らないのです。感情移入を至上命題とし「情景描写・世界設定」を詳細にするというのが、文芸の一派(と言っても圧倒的多数ですが)に過ぎないという事実に。それも、ここ二三百年の間に発達してきた文芸の一派に過ぎないという事実に。  文芸・物語の作り方にはもう一派存在します。それが、徹底的に説明を排除するという方向です。  物語とは、所詮物語です(そして、物語でなければいけません!)。物語は「物を語る」ことが出来れば足り(そして、物を語ることこそ肝心です!)、キャラクターの心理描写や詳細な世界設定などは、物語にとっては枝葉にすぎないのです。  近年の文芸で至上命題とされる感情移入にしても、詳細な情景描写にしても、世界設定の練り込みにしても、あくまで、物語を描く手段の一つに過ぎません。ファンタジーは、読者を物語に感情移入させることもなく、詳細な情景描写をすることもなく、世界設定を練り込むこともないのです。まさにファンタジーとは、近代からの流れである近年の文芸の傾向と真っ向から対立するような表現手法です。  しかし、ファンタジーは近年の文芸が忘れてきたものを確かに取り戻しました。  例えば、近年の文芸はますます長文化しています。  表現は年々長く過剰になり、たった一つのことを伝えるのにやたら紙面を割きます。子細な情景描写の結果、読者が確実に感情移入が出来るのであればよいのでしょうが、多くは、本来なら一言で説明できることを忘れ、一読了解される言葉を探求することなく、単純にテキストを引き延ばし、よけいに読者を混乱させている作品ばかりです。長く子細に文章を書くことが文章のテクニックであれば、短く簡潔に一読で解るように文章を書くこともまた文章のテクニックであることを忘れています。短いことが、印象深くなることもあるのです(※6)。  斯くて近年の文芸は、情景描写や世界設定は物語の演出に過ぎないという本旨を忘れ、情景描写のための情景描写、世界設定のための世界設定に堕し、演出のための演出という、物語としてもっとも恥じるべきトートロジーに陥るのです。  しかし、我々は、演出や世界設定や情景描写を観るために物語を読むのではありません。我々はあくまで、物語を楽しむために物語を読むのです(こちらの方が、如何に物語を読む姿勢として健全でしょうか!)。  また、近年の文芸の流れは、物語を貧弱にしました。  手取り足取り詳細に書かれた心理描写。実にかゆいところに手が届くではありませんか。  しかし、その一方で、細やかな描写は解釈の可能性を限定します。人間の心の動きにまで詳細な描写を付け、それを合理的に描き出す。それは所詮、小説家の頭の中で作られた幻想(キャラクター)にすぎません。本当の人間の心の動きは、もっと複雑です。どんな天才であっても、その人間の心の中を正確に読みとることなど、とても出来るはずがありません。詳細な心情描写など、作者の傲慢に過ぎないのです。我々読者よりも優れた観察眼を持った小説家が書いた小説であっても、詳細に描いたのでは、必ず解釈の限界、描写の限界にぶち当たります。そこであえて詳細な描写を放棄することで読者に想像の余地を与えるというのも、一つの演出方法なのです。一つのキーワードを軸に、読者は空想の翼を広げます。作者に与えられた空想の翼を広げ、時には作者が思いも寄らなかった地平に到達することだって可能になるのです。これこそ、真の知的遊戯、知的興奮ではありませんか。 ※6 作者と読者、両者の想像力不足があると断じることが可能でしょう。近年の映像技術・音響技術の発達により、人々の指向はますます瞬間的・刹那的になり、一文から多くの意味をくみ取る力が劣ってきているのかもしれません。読者の想像力に頼ればよいものを、映像通りに、細かく詳細にその場面を描けば、紙面は自然と多くなるでしょう。  確かに、感情移入した物語は面白い物語です。それは、間違いないことでしょう。  しかし、面白い作品全てが感情移入するとは限りません。例えば、神話を見てください。美形で何をやっても完璧な英雄たちに、読者は感情移入しているでしょうか。ジークフリードやヤマトタケルに感情移入しているでしょうか。夜這いをするためにわざわざ金の雫に化けたゼウス神に感情移入するでしょうか。あくまで、感情移入は、物語を面白くするための手段に過ぎないのです。  では、感情移入させることもなく、詳細な情景描写をすることもなく、世界設定を練り込むこともないファンタジーは、いかにして物語作品を成立させているのでしょうか。感情移入させることもなく、詳細な情景描写をすることもなく、世界設定を練り込むこともないファンタジーが、何故面白いのでしょうか。  それは、ファンタジーが物を語る文芸手法だからです。淡々と事実を追い、その過程で読者を珍妙な物語に巻き込む。巻き込まれた読者にとってはたまったものではありませんが、読者は、想像力の中で世界を薫り、感じることが出来るようになります(※7)。そこに、ファンタジーの知的遊戯としての楽しみがあるのです。  そして、そのための手段、すなわちファンタジーをファンタジーとして際だたせる演出手法こそ、(1)表現の抽象性(2)不条理なまでの合理性(3)倒錯表現の三点なのです。 ※7 あるいは、物語世界そのものに感情移入すると言うべきでしょうか。 四 かくて世界は記号化される  (1)表現の抽象性とは何でしょう。  昔話を思い出してください。そこでは、物語は詳細に描かれていたでしょうか。否。昔話においては、物語の筋が重視され、登場人物や背景描写は極度に単純化されます。王子様は王子様と呼ばれ、お姫様はお姫様と呼ばれ、魔王は魔王と呼ばれます。登場人物は、その具体的な外見描写を与えられることなく、役柄以上に名付けられることもありません(※8)。風景も、出来る限り簡略化され、非道いときにはいっさい描写されることなどありません。悪い魔女が主人公の目玉をくりぬいても、数年後、何事もなくその目玉はそのまま主人公の目にはめ込まれます。昔話は信号で事件を伝えるようなものです。事件や関係者の描写に決して深入りしようとしません。主人公が名前で呼ばれたり、風景を具体的に描写することもありますが、それも物語の筋に関係があるときにしか触れようとしません。昔話では、物事全てがその現実的な重みを失い、全てが記号化されます(※9)。  ファンタジーは、昔話と同じく、物事全てを簡略化・抽象化することをその特徴とします。  もちろん、このような昔話、ファンタジーの手法を、具体的・写実的に表現できない幼稚な表現手法と断じることも可能でしょう。近年の文芸は、合理的説明・科学的説明を好みます。出来る限りご都合主義を廃し、物語をリアルに現実に近づけ、物語の虚構を取り除こうとします(※10)。その到達点は、物語を現代や歴史、あるいは、空想が許される遙か未来の物語です。かくて、ファンタジーは廃れ、現代物や歴史物、SFが流行ることになりました。ファンタジーは所詮、現実に根を持っていない夢物語「逃避の物語」なのです。  しかし、その批判は妥当ではありません。抽象的とは、象徴的であるということも意味します。象徴的であれば、錬金術のように、たった一つの物事・出来事・物体に幾千もの意味を込めることも可能なのです。例えば、夢物語のような物語の背後に、大いなる皮肉があるとすれば…それは、もはや夢物語とも「逃避の物語」とも呼ぶことは出来ないはずです。これが、文芸様式としてのファンタジーの可能性というものなのです(※11)。  ぎりぎりまで削られた文章は、たった一言に恐ろしいまでの情報量を圧縮することになります。一文一文、一言一言に言霊が宿り煌めきを有します。読めば勝手に読者の空想は広がり、読者は物語を自律的に楽しみます。心理学者河合隼雄が「良くできたファンタジーは自律的に動き出す」と言う由縁です(※12)。そこには、押しつけではない、真の知的遊戯・知的興奮があるのです(※13)。 ※8 昔話においては、王子カーライルと呼ばれることはまずありません。その多くが、ただの「王子様」と呼ばれることになります。 ※9 マックス・リューティ著、野村ひろし訳『昔話の本質』筑摩書房(1994)55頁。リューティーは、この現象を、昇華と呼びます。  なお私は、このようにあえて詳細な描写を省くことを「意味を抜く」と呼んでいます。 ※10 物語に対するある意味真摯な態度ではあります。  しかし、それは同時に、物語を虚構・幼稚と決めつける、物語に対する不信があると言えるのではないでしょうか。 ※11 自律的に考えた結果、もし、そこに皮肉を感じることが出来なければ、その人にとってその物語は楽しい物語として解釈すべき物語なのでしょう。ただ、それだけなのです。別に、そこに皮肉を感じることが出来ればよいと言うわけではありません。逆に、そこに皮肉を感じてしまった人は、裏切りの人生を送ってきたのでしょう。それはある意味不幸な人生です。物語から何を受け取るかなんて、所詮、読者個人の責任です。作者が責任を負う必要はありませんし、他の読者が訂正するものでもありません。精々、他の可能性を指摘するだけです。 ※12 河合隼雄『ファンタジーを読む』講談社(1996年)22頁。 ※13 私は、このように象徴性を利用することを、「意味を込める」と呼んでいます。ファンタジーは「意味を抜く」と同時に、万感の「意味を込める」文芸様式なのです。「意味を抜く」ことで物事に解釈のゆとりを持たせると同時に、その象徴性を利用してより多くの「意味を込める」。これこそ、ファンタジーの表現の抽象性の本質です。アトベリー流に言えば、「象徴体系や意味の非決定性」でしょう。「過去の非写実的な口承文芸の持つ活力と自由さを自在に取り入れてい」ます。  なお、ファンタジーが「意味を抜く」ことを本質としているとすれば、一時期はやった『本当は怖い昔話』というのが、昔話・ファンタジーの理解として実に誤った理解であったかが分かってくるかと思います。ファンタジーにおいて首をはねるとは、「死」をはじめとした様々な象徴に過ぎません。そこでは現実の重みを失い、血は一滴も流れることはなく、つばを付けて首を元に戻せば再び息を吹き返します。血が流れるわけでも何でもなく、昔話・ファンタジーは、怖いわけでも残虐なわけでもなく、ただ、どこまでも冷酷、どこまでも醒めた視点を持つだけです。詳しくは、五を参照のこと。  この価値観に従えば、ファンタジーが、キャラクターをただの記号と断言しその個性化を嫌うことは、なんら不思議なことではありません。世界設定に一見矛盾があることもかまいません。はじめから合理的な説明は放棄しています(※14)。かくて、「肝心なところで説明不足」な空虚な作品ができあがります。これがファンタジーと呼ばれる文芸なのです。 ※14 近年の文芸から見て、合理的な説明をしていないだけです。「科学的な説明をしていない」と呼ぶべきでしょう。ファンタジーは、理性ではなく、感性に訴えかけ、物語を納得させることをその特徴とします。ファンタジーの物語内部では、科学的ではないものの、物語は「理不尽なほど」一貫し、合理的に自己完結しています。この点、五参照のこと。  『ONE』をプレイして驚かされることは、イベントの驚異的な短さです。  テキストをぎりぎりまで絞り、必要な情報だけ提供し、後は、音楽と映像とテキスト間の間とPLの想像力とに委ねています。『ONE』における最も重要なシーンである例の回想シーンでさえ、ゆっくり読んでも十分もかかりませんでした。これは、驚異的なことです(※15)。  同じ「嫌です…」でも、序盤と終盤とでは、茜の1ドット単位の表情変化も手伝い、恐ろしいまでのバリエーションを見せつけてくれます。「おまえは振られたんだ」と言われ、「はい」と涙を流す茜の姿に魂が打ち震えたこともあります。「消えますよ…」という茜の言葉に、二重の意味が潜んでいたことに気がつき、戦慄を覚えたことをよもや忘れたとは言わせません。 ※15 五で言及するように、『ONE』が重視したのは「PLにとって」永遠の世界の実在を実感させることです。物語は、所詮物語であり、重要なのは、読者が物語を体感することです。『ONE』はPLの体感を最重視し、それ以外の情報を不要と断じて切り捨ててきたのです。不必要な情報・過剰な情報は読者を情報過多に陥らせ、よけいな混乱を招くだけです。『ONE』は、よけいな情報全てを切り捨てて、ただ、物語の体感のみを強調した作りとなっているのです。 五 理不尽なまでの不思議、不条理なまでの合理性  (2)不条理なまでの合理性とは何でしょう。  私はかつて、ファンタジーを「理不尽なまでの不思議。だけど、ふと魔がさして、それを受け入れてしまう物語」と定義したことがあります(※16)。これが、不条理なまでの合理性の本質です。ファンタジーは、決してご都合主義でも説明不足でもありません。その物語の内部では、近年の文芸傾向と同じく、恐ろしいまでに一貫した決まり事が働き、不条理なまでに厳しい結論を我々(読者のみならず作者も含む)に突きつけてきます。ファンタジーにおいて一見、ただの説明放棄に写る魔法とは、決してご都合主義の産物ではなく、物語表現としての抽象性を極限までに押し進めた結果なのです。もし、ファンタジーにおいて魔法がご都合主義として使われているのであれば、それは、アトベリー流に言えば一の意味でのファンタジーであって、それは文芸様式としてのファンタジーとは言えないまがい物、「つくり話」にすぎないでしょう。 ※16 「『Kanon』構造分析総論2」http://www4.freeweb.ne.jp/play/k-hiduka/[kanon](2).html  では、ファンタジーにおいて一貫した合理性とは何でしょう。  それは、「存在」をあると『断じる』ことです。  『ONE』において、最も重要なファンタジーとは、永遠の世界に消えることでも、永遠の世界から帰還することでもありません。まさに、永遠の世界そのものが存在することそれ自体です。  そして、このように、『ONE』が永遠の世界の「存在」それ自体を唄い、「説明」を無意味と断じる姿勢それ自体が、今まで批判の対象とされてきました。多くの論者が、永遠の世界の謎に挑んできました。ある者は永遠の世界を幼年期のトラウマと説明します。ある者は死後の世界の象徴だと説明します。しかし、どの説明も、永遠の世界をうまく説明できるものではありませんでした。結果、永遠の世界が何故存在するのか、存在それ自体の説明が物語内部でなされていないことを批判されています。あるいは、現実世界との整合性を指弾します。あり得ないはずの永遠の世界が何故存在するのか。  しかし、永遠の世界が「存在」することを大前提に物語をはじめた場合どうでしょうか。  これは詭弁かもしれませんが、右のように『ONE』を理解した瞬間、物語から矛盾も破綻も説明不足もご都合主義も消え去ります。論理的に一貫した説明が可能となります。なぜなら、「永遠の世界は存在する以上、永遠の世界は存在する」のです。なんたるトートロジー!そう思うかもしれませんが、スタートラインで永遠の世界が「存在」するとすれば、それはもはや動かしがたいまでの事実となります。「存在」する以上、その存在を疑うことはもはや無意味であり、そこに「説明」を求めることもまた、無意味となります。永遠の世界は実在する以上、その「存在」を幾ら説明したところで無意味でしょう。実際、現実世界も似たようなものです。説明は無意味であり、重視されるのは実践のみです。現実は存在を疑われず、ただ、存在することのみを断じられ、ただ実践するのみです。ファンタジーとしての『ONE』も現実社会と同じく、説明されることなく、ただそれが「ある」と断じるのみなのです。ファンタジーとしての『ONE』とは、現実社会のごとき厳しさを持った物語だったのです。これは、ある意味徹底したリアリズムでしょう。『ONE』は、ファンタジーは、リアリスティックな物語だったのです(※17)。 ※17 あるいは、冷酷なニヒリズム。不条理すら飲み込み、そこに合理性を見いだすという、徹底した姿勢が見いだせるでしょう。この、ファンタジーの徹底した姿勢に、読者は薄ら寒さを覚えることになります。『本当は怖い昔話』の真の正体は、残酷な物語に対する恐怖ではなく、冷酷な、淡々とした、どこまでも醒めた価値観に恐怖することだったのです。  もし仮に、ここで『ONE』に対する批判を受け入れ、神や霊や、心理やら、何か最もらしい説明をした場合、どうでしょう。おそらくその瞬間、『ONE』はその魅力を失います。嘘っぽい説明を幾らしてみたところで無意味なのです。物語が薄っぺらくなるだけでしょう。幾ら説明をしてみたところで、ご都合主義がご都合主義でなくなるはずはありません。むしろより一層、そのご都合主義が強調されるだけでしょう。  ここで、気を付けてもらいたいことは、物語は所詮ご都合主義の集合体にしか過ぎないことです。どのように説明したところで、物語が物語になっている時点でそこには既にご都合主義が存在します。現実の事件にドラマなんて存在しません。ドラマは、後世、事件を勝手に解釈した結果生じるにすぎません。ここではもはや、解釈という作業自体がご都合主義として機能することになります。結局、物語とは、このご都合主義をどのように処理するかにかかっていたのです。  近年の文芸の主流は、そこでご都合主義を「説明」するという選択肢を選びました。それが科学万能主義の影響なのかどうかは分かりませんが、近年の文芸とは、空想とはいえそのご都合主義を合理的な説明で読者に「説得」を試みる作品だったのです。  それに対し、ファンタジーは敢えて合理的な説明を放棄し、情緒的に読者に「納得」させることに重点を置いた作品です。  言葉を換えれば、近年の文芸が「理性」に訴えかける作品であるのに対し、ファンタジーは「感性」に訴えかける作品なのです(※18)。  理性よりも感性。説得よりも納得。時として人は、感情に訴えかけた方が物事を受け入れやすいこともあるのです。ファンタジーとは、合理的一貫性をもって、読者の「感性」に訴えかける作品なのです。 ※18 あるいは、近年の文芸は「登場人物に」物語を体感させる文芸、ファンタジーは「読者に」物語を体感させる文芸と呼ぶべきでしょうか。近年の文芸であれば、読者は、感情移入を通じて物語を体感することになります。一方、ファンタジーは、六で言及するように倒錯を用いて直接、読者に物語を体感させることになります。 六 物語への没入  (3)倒錯表現とは何でしょう。  前章で、ファンタジーは、『ONE』は、合理的一貫性をもって、読者の「感性」に訴えかける作品であると説明しました。『ONE』は、永遠の世界を説明しようとはしません。ただ、永遠の世界が「ある」という事実を、情緒たっぷりに伝えようとするだけです。ここでPLは、世界が、説得的な説明なしにただ「ある」という現状に、大いなる苛立ちと不安を抱くでしょう。感性では納得できても、理性では納得できない。  しかし、ファンタジーとしての『ONE』は、PLのそのような心情すら逆手に取ります。ファンタジーの醍醐味であるところの、「倒錯」表現です(※19)。アトベリーの定義においても、「既製の価値観や思考の逆転」と、倒錯はファンタジーの重要な構成要素とされています。  例えば、白雪姫では、母親が継母になり(※20)、写された本人の美しさをたたえるはずの鏡は他人の美しさをたたえ、命の象徴であるリンゴは白雪姫に死を運びます。昔話では、愚か者が英雄となり、継子がお姫様になり、本来人言を解さないはずの動物すらも易々と人の言葉を操ります。全てがあべこべの世界。凡そ起こるはずがないことが起こり、読者を幻惑させます。ファンタジーは読者に現実が易々と崩壊することを目の当たりにさせ、読者を困惑させることを得意とします。まさに、「倒錯」です。そしてファンタジーは、この、読者の困惑すら逆手に取り、感情の起伏をコントロールします。全ては物語のために。困惑は、読者に目眩を覚えさせ、泥酔に似た状態のまま読者を物語に取り込みます。読者から通常の判断能力を奪い、困惑・幻惑のまま、たたき込むように物語を展開させます。読者は、そこでふと、物語に取り込まれた自分に気がつくでしょう。  そして実は、この、倒錯表現という手法が、近年の文芸における感情移入の代わりとして機能するものなのです。感情移入とは詰まるところ、読者が物語に没入する手段にすぎません。ファンタジーは、感情移入の代わりに、倒錯表現を用いて読者を物語に取り込むことをその特徴としているのです(※21)。 ※19 マックス・リューティ著、野村ひろし訳『昔話の解釈』筑摩書房51〜53頁。 ※20 割と有名な話ですが、『グリム童話』の第一版では、継母は白雪姫の実母でした。 ※21 なお、ここで重要なのは、ファンタジーにとって倒錯とは、物語のための手段に過ぎないということです。  これが、ナンセンス文学であれば、倒錯・困惑それ自体が目的となります。時に物語を放棄し、全てが歪んだままの世界で、読者を酔わせることを至上命題とするのです。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』などが、その良い例でしょう。  また、近年の文芸もファンタジーと同じく、感情移入は、物語に取り込むという物語の手段に過ぎません。  しかし、この感情移入に落とし穴が潜んでいました。近年の文芸は、感情移入の手段として心情描写・風景描写を好んで用います。ところが、ここで作者の多くが心情描写・風景描写に腐心するあまり、情景描写を読んだ読者が何を思うか、どのような影響を受けるのかについて失念しているのです。物語のためという視点の欠落です。この瞬間、物語の手段であったはずの情景描写は目的と化し、物語のための演出を忘れ、演出のための演出という、最も恥ずべきトートロジーに陥るのです。  私は、倒錯により物語の取り込まれる上記現象を「切り取られた不安」と呼びます。世界は、物語は何事もなく進むのに、そこだけぽっかりと穴が空いたように虚ろで、思わず不安にならざるを得ない。読者を物語に取り込み、物語を進めるはずなのに、何故か読者は、そこで一人取り残される。心の中にすきま風が流れ込む、不安にならざるを得ない一瞬でしょう。まさに、世界や物語から切り取られ、不安を抱かずにいられない瞬間です。優れたファンタジー作家は、読者の不安につけ込み、そこから読者の心理に土足で押し入ります。そして、読者の心理に物語を押しつけるのです。もはや、読者は作者のなすがままです。  前章で明らかにしたように、『ONE』は、永遠の世界をただ、「ある」とします。永遠の世界の周辺部分(世界設定)を説明することなく、ただ、「ある」とします。その「ある」ことを読者に説得させるための演出が、後述八のように、塗りつぶした背景での回想シーンであり、そして、暗いトンネルを抜けた先にあったキミの一枚絵なのです。キミはまさに永遠の世界の象徴であり、キミは、何もない空間(塗りつぶした背景での回想シーン)にたった一つ浮かぶ、ちっぽけな、今にも波に浚われそうな、不安定な永遠の世界そのものだったのです。そして、その永遠の世界の不安定さに、PLの多くが、不安を覚えてしまうのです。これだけの説明で良いのか?と。  しかし、『ONE』は、そんなPLの不安すら逆手に取り、不安定な永遠の世界への消滅と、自分が安定したと思っている現実世界への帰還とを、ダイナミックに演出することに成功したのです。不安定な世界からの帰還は、何よりも、安定した現実世界の実在を体感させるにうってつけでしょう。「倒錯」表現と「切り取られた不安」です。 七 ゲーム表現としての『ONE』  『ONE』は、ゲームとして優れているかはともかく、「ゲーム表現」としては極めて優れています。  「ゲーム表現」とは、中田吉法氏が提唱した概念です(※22)。ここで、「ゲーム表現」を私なりにを定義するのであれば、「総合芸術と双方向(インタラクティブ)性という特徴を備えた新しい文芸表現」という定義になります。 ※22 『GameDeep vol.1』http://www.jks.is.tsukuba.ac.jp/~white/GameDeep/中田吉法「Factorize of Game ゲームの正しい因数分解。」http://www.jks.is.tsukuba.ac.jp/~white/GameDeep/factgame.html。特に、http://www.jks.is.tsukuba.ac.jp/~white/GameDeep/factgame.html#03参照。  一つが、「総合芸術」であるということ。  ゲームは、小説と異なり、単純に文章のみで構成されている作品ではありません。また、音楽と異なり、単純に音楽のみで構成されている作品ではありません。さらに、絵画と異なり、単純に絵のみで構成されている作品ではありません。ゲームは、文章と音楽と絵と、それから更にデータによって構成されている作品です。ゲームは、映画などと同じ、複数の表現手段を兼ね備えた総合芸術なのです(※23)。 ※23 ただし、私は、総合芸術としてのゲーム表現を、それほど重視していません。  よく「ゲームは映画を越えた!」と言われますが、それは、演劇、映画、テレビについで第四の総合芸術が誕生したというだけのことに過ぎません。ゲーム表現の本質は、次の双方向性にこそあります。  一つが、「双方向性」を兼ね備えているということ。  今まで、物語は一方的でした。  作者が書いた小説を読者が読む。漫画家が書いた漫画を読者が読む。読者は、常に受け手となり、受動的に物語を解釈するしか能がありませんでした。読者が何度小説を読み返しても結末は変わることが無く、物語は解釈の幅の中で一方的に流れるだけでした。その物語の一方性をうち破ったのがゲームであり、ゲームから派生したゲーム表現だったのです。  一番分かりやすいのが、PLの選択肢の結果、物語の結末が変わるという仕組みでしょう。そして、一般的に、物語の結末が多ければ多いほど、マルチエンドであればあるほど、そのゲームは自由度が高いとして評価されることになるかと思います。  しかし、「ゲーム表現」という定義でゲームを見たとき、物事はそんなに単純に割り切れるものではありません。ここで重要になるのが、PLの責任という概念です(※24)。PLが自己責任で選択肢を選ぶ結果、たとえ物語それ自体が変化しなくとも、PL本人は確実に物語に巻き込まれます。ここに、ゲーム表現における重要な特質、双方向性が存在するのです。PLは、自己の責任でゲームに働きかける結果(双方向)、ゲームに、物語に巻き込まれます。その物語の巻き込まれ具合は、凡そ全ての物語表現を超越した次元で成立することでしょう。複数回のプレイを前提とする。まさに、物語に巻き込むには理想的な状態です。その体感は、まさに究極のファンタジーです。 ※24 詳しくは、『ONE卒業文集』中田吉法「巻き込んでいく、表現。――ゲーム表現としての、ONE小論――」を参照してください。  さて、このように見てきたとき、『ONE』は、総合芸術という意味でも、双方向性という意味でも、ゲーム表現として実に高いレベルを維持していることが分かります。  イラストの質はともかく、イラストの出し方、音楽を提示するタイミング、キャラクターのドット単位での細やかな表情変化、一本道でありながらも複雑に分岐する選択肢、そして、テキストを一文一文クリックするという表現形態!すべてが、高いレベルで維持されています。  その一例としてここでは、特に、「テキストを一文一文クリックするという表現形態」について、言及してみましょう(※25)。  『ONE』の表現形態は、テキストを、PLに、自分のペースで読ませることにあります。流し読みする場合もあれば、一つ一つ丹念にテキストをクリックする場合もあります。経験はないでしょうか?『ONE』をプレイしていて、クリックすることが怖くなる瞬間が?次に、致命的な一言を発せられるのを恐れ、ためらいを覚える一瞬が?あるいは、音楽に酔いしれ、ゆっくり、一文一文を舐めるように読み、テキストをクリックする至福の瞬間が(※26)?『ONE』は、まさに、PLがテキストをクリックするという作業そのものをも利用しようとしていたのです(※27)。 ※25 その他については、私が論じるまでもなく、既に多くの論者が言及しているところです。 ※26 この、舐めるような作業は、良くできた小説でもあり得ることです。  しかし、ゲーム、『ONE』が優れていることは、文章が、一文ずつ流れるということ。そして、次の一文を読むには、PLが「マウスをクリックする作業が必要」であるということなのです。この作業の中で、PLは確実に物語に取り込まれることでしょう。 ※27 『ONE』の、このような演出から見たとき、PS版『輝く季節へ』は失敗作であったことが分かるかと思います。  PS版は、音声が入り、かつ、デジタルノベル方式を採用しています。  しかしこれは、『ONE』が採用した、自分の自由なペースでテキストを読むという演出手法を不可能なものとしています。『ONE』の演出においては、自分のペースで読ませてくれない「音声入り」「デジタルノベル方式」は、邪魔な存在そのものです。  そして、この、ゲーム表現としての『ONE』こそ、選択肢の凶悪さという演出を選択していたのです。『ONE』にとって、選択肢の凶悪さは、物語を阻害する要素ではなく、物語演出としてはずせない重要な要素となっているのです。 各論 八 永遠の世界が生まれた瞬間  ところで、永遠の世界は、いつ、どこで、どのようにして生まれたものなのでしょうか。  この問いかけには二つの意味があります。  一つは、PCである浩平にとって、いつ、どこで、どのようにして生まれたかということ。もう一つが、PLである我々にとって、いつ、どこで、どのようにして生まれたかということです。  浩平にとって、永遠の世界が生まれたのはいつでしょう。永遠の盟約をした幼少のみぎり?それとも、まさに消滅した高校二年のとき?永遠の世界はどこで生まれたのでしょうか。浩平の心の中?それとも、心の外?永遠の世界はどのようにして生まれたのでしょうか。みさおの死がきっかけ?それとも、キミとの永遠の盟約によって?  近年の文芸であれば、物語の背景設定を作りこみ、このような問いに対し、一つ一つ丁寧に回答していくことでしょう。  しかし、『ONE』は違いました。『ONE』は、そのような様々な問いを無意味と断じます。重要なのは、「PLにとって」永遠の世界の実在を実感させることただ一点。物語は所詮物語であり、重要なのは読者が物語を体感することです。『ONE』は、PLの体感を最重視し、それ以外の情報を不要と断じて切り捨ててきたのです。不必要な情報・過剰な情報は読者を情報過多に陥らせ、よけいな混乱を招くだけです。『ONE』はよけいな情報全てを切り捨てて、ただ物語の体感のみを強調した作りとなっているのです。そして、それは見事に成功しています。論者の多くが、物語内の破綻を指摘しつつも、永遠の世界の圧倒的な実在感を口々にします。  ファンタジーである『ONE』は、世界設定という理性による説得を放棄し、代わりに、感性による納得によって、物語の体感を目指しているのです。  では、PLにとって、永遠の世界は、いつ、どこで、どのようにして生まれたのでしょうか。  PLにとって永遠の世界が生まれた瞬間。PLにとって永遠の世界を体感した瞬間と言い換えてかまわないでしょう。  それはまさに、キミの一枚絵がPLの前に提示された瞬間でした。  幼少の浩平は、絶望します。永遠なんてありはしない。日常は必ず壊れる。物語の登場人物に感情移入したPLも浩平の絶望を見て、また絶望するでしょう(※28)。例の回想シーンでは、みさおの死が緩慢に描かれています。何かしてやりたくても、何も出来ない。既に終わった物語。浩平は、何も出来ない無力な自分にもどかしさを覚え、苛立ちます。そしてPLもまた、マウスをクリックして物語を進めるしかできない自分にもどかしさを覚え、苛立つことになります(※29)。幾万もの絶望です。  そのような幾万の絶望の中に、たった一つの偽りが希望が提示されたとすれば?『ONE』にとっての偽りの希望、それが、永遠の盟約と、それによってもたらされる永遠の世界でした。キミは言います。「永遠はあるよ」「ずっと、わたしがいっしょに居てあげるよ、これからは」そして、キミの一枚絵。暗い絶望のトンネルをくぐり抜け、そこに一条の光が射し込んできたとすれば?誰でなくとも、思わず、その光に飛びついてしまうのが人情というものでしょう。それが希望である限り、たとえ偽りであったとしても人は偽りの希望に飛びついてしまうものなのです。  キミの一枚絵は、まさに、たった一つの偽りの希望でした。PLの中に、永遠の世界が生まれた瞬間です。偽りの希望を実感し、永遠の世界を体感した瞬間です。ファンタジーとしても、ゲーム表現としても、優れた演出でした。 ※28 『ONE』は、ファンタジーです。従って、倒錯はしても感情移入はしないはずです。しかし『ONE』は、感情移入も出来てしまうのです。この点、十一参照のこと。 ※29 実は、『Air』は、このもどかしさを利用した作品だったと考えられます。特に、SUMMER編・AIR編は、テキストをクリックする以外、PLに選択権はありませんでした。とはいえ、その演出が効果を発揮するまでが冗長だと思いますが。  『ONE』は、永遠の世界をただ、「ある」とします。ただ、永遠の世界が「ある」という事実を、情緒たっぷりに伝えるだけです。永遠の世界の周辺部分(世界設定)を説明することなく、ただ、「ある」とします。その「ある」ことを読者に説得させるための演出が、塗りつぶした背景での回想シーンであり、そして、暗いトンネルを抜けた先にあったキミの一枚絵なのです。キミはまさに永遠の世界の象徴であり、何もない空間(塗りつぶした背景での回想シーン)に、たった一つ浮かぶ、ちっぽけな、今にも波に浚われそうな、不安定な永遠の世界そのものだったのです。そして、その永遠の世界の不安定さに、PLの多くが、不安を覚えてしまうのです。これだけの説明で良いのか?と。ここで、PLは、世界が、説得的な説明なしに、ただ「ある」という現状に、大いなる苛立ちと不安を抱くでしょう。情感では納得できても、理性では納得できない。  しかし、『ONE』は、そんなPLの不安すら逆手に取り、不安定な永遠の世界への消滅と、自分が安定したと思っている現実世界への帰還とを、ダイナミックに演出することに成功したのです。四で前述した倒錯表現です。不安定な世界からの帰還は、何よりも、安定した現実世界の実在を体感させるにうってつけでしょう。  『ONE』は、説明不足なのではなく、説明不足という演出を選択していたのです。 九 増幅する物語  では、PLにとっての永遠の世界の誕生は、何故、あの瞬間、すなわち、作品の終盤でなければならなかったのでしょうか?  もっと、序盤に位置させることは出来なかったのでしょうか?説明不足が演出足り得るとしても、あまりに性急すぎてついていけなかったPLも多かったのではないでしょうか?そこで、いらぬ誤解を招いたとしたら?  確かに、『ONE』は、一度でその物語全てを理解するには難しいものがあります。  永遠の世界の深淵はあまりに広く深いにもかかわらず、『ONE』は、永遠の世界を説明しないということを選択しています。  PLに、永遠の世界の不安定さを体感させるためにも、永遠の誕生は物語終盤でなければならないとしても、このままでは、永遠の世界、そして『ONE』という作品を理解してもらうことは不可能でしょう。『ONE』は、何らかの手段を採用することを迫られました。  そこで、『ONE』が採用したのが、「ゲーム表現」と「表現の抽象性」だったのです。  一回で理解できないのであれば、複数回のプレイを通じ、理解してもらえばよいだけです。  複数のヒロインを用意し、PLに複数回プレイしてもらう。その過程で永遠の世界と『ONE』の世界観そのものを理解してもらうという演出を、『ONE』は採用したのです。だからこそ『ONE』は、ヒロイン毎に似たような結末が提示されることになりました(※30)。『ONE』に対する批判の一つに、ヒロイン毎に違う結末の提示すべきであるというのがありますが、『ONE』が採用した表現は、一つの舞台でのオムニバスではなく、一つの舞台での同じ物語の繰り返しによる物語の増幅だったのです。 ※30 もちろん、事実は、永遠の世界を表現したいがためにギャルゲーという表現形態を採用したのではないでしょう。おそらく、最初にギャルゲーありきで、その後に永遠の世界という世界観が成立、その世界観を生かすために立ち戻って、ギャルゲーであることを改めて利用したのでしょう。  そして『ONE』は、この、物語の増幅を徹底的に利用します。『ONE』は、繰り返しプレイされることを前提として、PLを次々に物語の中に引き込みます。  まず、バットエンドの活用があります。  中田氏が指摘するように(※31)、PLは、極悪な選択肢によって、失敗をさせられます。失敗の結果、バットエンドを見る嵌めになります。悔しいと思うことでしょう。次こそはと思うことでしょう。そして、次は、前よりも物語を注意深く読むことになります。どのような意図で選択肢が作られたか?となれば、どのような選択肢を選べばよいか?ひたすら、そのことを考えます。PLは、考える過程で物語に巻き込まれ、前回よりは今回、今回よりは次回、『ONE』という世界をよりよく理解し、かつ、取り込まれていくことになるでしょう。  凶悪な選択肢は、個々のシナリオで見れば物語の阻害として機能するかもしれませんが、『ONE』という物語全体においては、物語を増幅させるに必要な演出であったのです。『ONE』は、バットエンドも含めて、一つの作品だったわけです。  ここら辺、leafの『雫』『痕』と、その演出方法が実は同じです。『雫』『痕』は、バットエンドにたどり着いて初めて、次のエンディングを見る選択肢が生じ、かくて、PLはバットエンドも含めて全てのエンディングを見ることになります。『ONE』もまた、凶悪な選択肢を持って、バットエンドを含めて全ての物語を見るべき作品だったわけです。  ならば何故、『雫』『痕』と同じ演出を採用しなかったかが、次の疑問となるでしょう。  確かに、『雫』『痕』の演出手法を採用するという選択肢もあります。  しかし、『ONE』は凶悪な選択肢を採用しました。そこには、PLの苛立ちすらもまた物語の演出として利用しようという戦略があったことが伺えます。  PLの自己責任。長森シナリオにおいて長森を裏切るような非道い選択肢も、茜シナリオの伝説の「右」「左」も、茜シナリオ最後の待ってから駆け出すという選択肢も、七瀬シナリオの「うーろんがましい」も、すべては、(1月8日エンドを含めた)バットエンドを『PLの自己責任により』確実に見せるため(※32)、繰り返しバットエンドを見させることでPLを苛立たせるために機能しています。PLの苛立ち、憤り、そしてトゥルーエンドによる昇華、そこまでを計算して作られたのが、『ONE』という作品だったのです(※33)。 ※31 『ONE卒業文集』中田吉法「巻き込んでいく、表現」。ゲーム表現の要素である、PLの自己責任です。 ※32 重要なのは、PLの、自己の、責任であったことです。『雫』『痕』の手法では、シナリオライターに読まされている感覚が強く、自己責任の要素が弱まってしまいます。 ※33 本当にシナリオライターがそこまで考えていたかは、この際考えないことにしましょう。結果、たまたま偶然にそうなってしまったのかもしれません。  ここで面白いのが、澪シナリオです。  私は、澪シナリオこそ『ONE』初心者に最も相応しいシナリオであると考えています。  澪シナリオは、キャラ萌えを除けば恐らく、一番はじめにたどり着くシナリオでしょう。最も登場が遅く、かつ、最も選択肢の分岐が遅れるシナリオです。期末試験が終わってから、実際の選択肢がはじまります。  例の回想シーンが終わるまではつつがなく進んでいた澪シナリオは、回想シーンの後、急転直下で激変します。ここで澪シナリオは、実に難しい選択肢をPLに投げかけます。一つは、自宅で思いに耽るときの選択肢。一つは、発表会の直後学内をさまようときの選択肢。PLは、なんどもバットエンドを見、そして選択肢に立ち戻ります。なんども何度も繰り返される選択肢。なんども何度も繰り返される選択肢の中で、PLはなんども同じテキストを読み、同じ物語を繰り返すことになります。  なんども悔しい思いをし、考えに考え抜き、そして、更に突きつけられる絶望。帰ってくると約束をしつつも消滅をした浩平。ちょっと違うエンディングロール。何が誤りだったか?PLは困惑します。そして、スケッチブック。浩平の帰還です。この演出は、何度も繰り返しバットエンドを見て、初めて実感できる演出です。しかし、まだ、謎は解けません。そこで、PLは更に他のシナリオに取り組むことを要求されます。  そして、PLは再プレイを始めて気がつきます。ささやかに伏線が配置されていることに。これも、物語の増幅の一つです。  はじめは何でもないと思って見過ごしたイベントが、次に見てみると伏線が細やかに配置され、重要な台詞が発せられていることが理解されます。「がんばっているもうん」という台詞すら重要なイベントシーンとして描くことなく、わざと物語の中に埋没させています。細やかなだけに、繰り返しプレイを通じ、その意味するところに気がついたPLにとって、その演出は致命的な物となります。PLは、まさに物語に飲み込まれるでしょう。  さらに、『ONE』では、同じ表現が何度も繰り返し使用されています。ファンタジーの抽象表現です。オープニングの独白は例の回想シーンに繋がり、さらに、個々に挿入される幻視のシーンに繋がっています。なんどもなんども、同じ言葉が登場し、しかも、その個々の言葉は、それぞれにおいて微妙に意味が違い、意味が二重取りされています(※34)。「…嫌です」「消えますよ」「普通でいいと思うよ」様々な言葉が、様々な観点から、様々な相から、物語を雄弁に語っています。そして、意味の二重取りをはじめとした抽象表現が最も意味をなすのが、複数回プレイなのです。『ONE』は、ゲーム表現を用いて、ファンタジーの抽象表現を最大限引き出した、まさにファンタジーの傑作だったのです(※35)。 ※34 繰り返される表現や意味の二重取りは、まさに抽象表現としてのファンタジーの醍醐味そのものです。アトベリーは、「文体の遊技性や、自己言及性」や「象徴体系や意味の非決定性」をファンタジーの重要な構成要素とします。『ONE』は、たった一つの言葉から、幾万もの物語解釈を紡ぎ出す、魔法の箱だったのです。 ※35 これは、本心からです。私も、ファンタジー読みとして、世界中の神話・童話、その他諸々を読みますが、ファンタジーの完成度として『ONE』を越える作品を未だ知りません。 十 等価の物語  さて、ここまでで私は、『ONE』がPLの不安を利用したファンタジーであること、その不安を増幅および解消させるものとしてゲーム表現を利用していることを明らかにしました。繰り返しのプレイを用いて、『ONE』の世界をより深く理解させる様々な趣向を凝らしていることも明らかになったかと思います。  しかし、それでもなお、『ONE』の演出については、大きな謎が存在します。  永遠の世界。それはいったい何だったのでしょうか。あるいは、『ONE』は、永遠の世界を用いて何を演出したのでしょうか。ここでは、永遠の世界そのものについて少し積めた考察を試みてみることにします。  まず、永遠の世界は、「日常」と対比されることが多いです。ここで日常とは、いわゆる日常のみならず、「恋愛」としての日常も含みます。恐らく、フロイト的に言えば、永遠の世界とは、エロス(愛)に対するタナトス(死)ということになるのでしょう。永遠の世界は、時間すら制止した、静寂の世界=死の世界です。永遠の世界とは、「非日常」の象徴であり、「死」の象徴であり、浩平の「内面」の象徴であり、その他諸々の象徴であったわけです。これは、ラブストーリーやジュブナイルの視点です。  そして一般的には、『ONE』は「日常」から消失した浩平が、「非日常」を脱しそこから帰還してくる物語と考えられているようです。ここでは、「非日常」であるところの永遠の世界は否定さえるべき、打破されるべきものとして捉えられることになります。  確かに、これは正しい理解です。実際、私もそうだと思います。永遠の世界には時間の流れはなく、それは「日常」の対極である「非日常」であり、同時に「死」という浩平の内面の象徴でもあります。  しかし、ここで我々が気を付けなければならないことは、『ONE』が永遠の世界が「非日常」「死」の象徴であることを断じていないという事実です(※36)。思うに、「日常」と「非日常」、「エロス」と「タナトス」のように、二極化する理解それ自体が正当であったのでしょうか。永遠の世界とは、本当に否定されるべき世界だったのでしょうか。永遠の世界とは永遠の世界であり、永遠の世界が象徴するものは所詮象徴に過ぎません。我々は一度ここで、永遠の世界そのものを真摯な態度で受け止める必要があるのです。 ※36 象徴であることを断じるというのも、変な日本語ですが。  ここで、我々の考察の手助けとなるのが、ユング心理学です(※37)。  ユング心理学には、元型(アーキタイプ)という発想があります。それは、人間の内面および人間の内面から生まれた物語の元型、アーキタイプを意味します。原始的なモチーフといっても良いかもしれません。元型論の優れた点は、その多面性・両義性にあります。例えば、分かりやすい例で言えば「グレートマザー」。これは、「受容し、生命を生み育むものでありながら、同時にその対象を引き寄せ離さずに吸収しようとするもの」を意味します。グレートマザーは、命を育む良い母親の象徴であると『同時に、』対象に取り付き喰らい殺す悪い母親の象徴でもあります。重要なのは、母性そのものを象徴しているのであって、その善悪を問題視していないということです。  実際にユングの元型を利用するかどうかはさておき、我々が永遠の世界を読み解くとき、概念の両義性を理解しておく必要があるでしょう。 ※37 詳しくは、『ONE卒業文集』kort「ONEという名の箱庭」を参照のこと。  では、永遠の世界とは何だったか。  思うに、「日常」と「非日常」との両義的な存在そのものだったのではないでしょうか。  ここで我々が改めて注目すべきは、永遠の世界が現実世界と隔離された存在ではなく、徹底的に地続きで描かれていたという事実です(※38)。『ONE』において、永遠の世界が存在する理由、永遠の世界が生じた理由はいっさい説明されていません。ただ、そこに「ある」ことだけが示されているだけです。永遠の世界が何であるかは、何も説明されていないのです。五および六で私がファンタジーについて明らかにしたとおり、ファンタジーとは、逆説的なリアリスティックです。何も説明することなく、それをただ「ある」とします。「ある」以上は、「ある」に決まっている。「ある」以上は、それをありのままに受け入れる以外、我々には選択肢が存在しません。そして、永遠の世界をありのままに受け入れた場合、永遠の世界とは、浩平の内面に宿るものでも、死後の世界でもなく、現実世界と徹底的に地続きに存在するものなのです。なぜなら、リアリスティックなファンタジーにおいては、あり得ないようなファンタスティックなもの、説明されていないようなファンタスティックなものは存在しないのですから。それが説明されない限り、ファンタジーにおいては、浩平の内面世界も、死後の世界も、ファンタスティックな夢物語に過ぎません。『ONE』の世界において、浩平の内面世界も死後の世界もファンタスティックな、実在しない夢物語に過ぎないのです。永遠の世界は別世界として説明されない限り、『ONE』の世界の中では現実世界とあくまで徹底的に地続きな世界なのです。  このような理解においては、永遠の世界という実在を抱えた『ONE』の世界においては、「日常」と「非日常」との対立は抑止され、「日常」と「非日常」とは究極的には同義の存在とされることになります。ここで我々は、『ONE』の最も恐ろしい真実に気が付くことになるでしょう。『ONE』において、「日常」とは「輝く季節」であるとは限らず、「非日常」だからといってそれが打破されるべき死の世界であるとは限らないのです。今までの、全ての常識がうち崩される瞬間です。ここに、『ONE』の最も恐ろしい「倒錯」表現が潜んでいるのです。常識は非常識となり、非常識は常識となるのです。 ※38 現実世界と永遠の世界とが地続きであるということについては、既にギャルゲーという観点から先行研究が存在します。ふたばてい『astazapote』http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/index.html収録の「2000年04月02日および12日の日記」http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary8.html参照のこと。ここでは、ギャルゲーの真の本質を「日常」に設定し永遠の世界が「日常」と地続きであったとします。  しかし、実を言えば、昔話・ファンタジーにおいて、死後の世界や妖精の世界が現実世界と地続きであるということは、民話学研究においては既に常識だったのです。  もちろん、「では『ONE』のトゥルーエンドは何であったのか?あれこそ、非日常の打破そのものではなかったのか?」そういう反論も返ってくるでしょう。  しかし、ここで我々が気を付けなければならないことが、我々は、バットエンドも『選ぶことが可能である』という事実です。『ONE』は、『雫』『痕』のように、バットエンドを見て初めてトゥルーエンドへの道が開けるという構造を採用していません。我々ははじめから、トゥルーエンドもバットエンドも、全てのエンドを選ぶことが可能になっています(※39)。『ONE』においては、日常も非日常も、生も死も、全てが等価とされ、「右」「左」という理不尽な理由だけでその結末が決められてしまうのです(※40)。永遠の世界は打破されるものではなく、常に共に歩まざるを得ない、お隣さんなのです(※41)。これぞまさに、究極のファンタジーであり、自己責任というゲーム表現の究極です。私は、浅学ながら、『ONE』ほどゲーム表現をうまく用いたファンタジーを知りません。  若干物事を単純化して論じれば、『ONE』とは、永遠の世界というファンタスティックな事象を用い、「現実」そのものを突きつけていた、徹底的にリアルな物語であったというわけです。そして「現実」そのものこそ、まさに『ONE』の主題だったのでしょう(※42)。 ※39 除く、シュンシナリオ。シュンシナリオが何であったのか、正直、私には語る言葉がありません。 ※40 しかし、それこそある意味、真のリアリスティックです。 ※41 good people良きお隣さん。妖精の別称です。昔話における妖精とは、人間たちに、良きことをすると同時に悪いこともします。妖精は人間にとって決して善の存在でも悪の存在でもなく、(その倫理観・世界法則はまるっきり違うものの)同じ世界に住むただの隣人と捉えられていました。泣こうが叫ぼうが、妖精が隣に住まうという事実は動かせるものではなく、まさに、隣人として「つき合わざるを得ない」存在だったのです。そこには、かわいい妖精といったファンタスティックな幻想は一切存在せず、如何に隣人である妖精とうまくつき合うかという実践、徹底的にリアル・現実的な発想しかないのです。 ※42 そして気を付けねばならないことは、『ONE』においては「現実」と対比するものは何も存在しないという事実です。「現実」が存在する以上、「現実」の対立項(そのようなものがあればの話ですが)と比較する意味はなく、ただ、あるがままの「現実」を受け入れるしかないのです。  『ONE』とは、まさに等価の物語だったのです。そこには、奇麗さっぱりとなにも残りません。なぜなら、全てが同義だからです。でも同時に、個々人の心の中には何かが残って「しまう」のです。  こうして見たとき、浩平の道化(トリックスター)っぷりは演出として目を見張るものがあるでしょう。  『ONE』の世界、永遠の世界は極めてシビアです。初見でついていけるような世界では、とてもありません。それこそ、ギリシャ神話のオルフェウスのごとく、たった一人で冥界下りを挑まねばならないようなものです。何も備えがなければ取り殺されてしまうのが、永遠の世界です。ここで浩平は、永遠の世界への案内人として機能します。それと同時に、PLの人身御供としても機能しているのです。浩平がPLの代わりに永遠の世界へと消滅することで、永遠の世界とPLとの間の緩衝材として機能しているのです。『ONE』において浩平に感情移入することは、極めて危険な行為だったのです。  だからこそ浩平はあれほど弾けた人間であり、『ONE』は浩平とPLとの間の感情移入をわざと阻害していたのでしょう。 結論 十一 ファンタジーは届いたか?  以上のように、『ONE』は、真にゲーム表現を最大限活用したファンタジーだったのです。  では、その物語、すなわち、ファンタジーは、多くのPLに届いたのでしょうか。  残念ながら、『ONE』のファンタジーは、人々の心に届いていないのが、真実でしょう。  それは、『ONE』の表層は、あくまでギャルゲーであり、ラブストーリーであり、ジュブナイルであるからです。『ONE』において「主人公と女性の関係が発展→主人公側の事情による強制的な離別→主人公の復帰による『奇跡』」という話の筋が採用されているという事実自体には、変わりがありません。  このような理解においては、永遠の世界は打破されるべき存在であり、日常のすばらしさが確認されねばなりません。そこでは、適度に浩平への感情移入も行われることでしょう(行われてしまうことでしょう)。  この点、KEN氏がすでに、「「ファンタジー」という表層を突き抜けることに対し、かなりのプレイヤーが(無意識のうちに)躊躇したように思えます。もちろん、これは、このゲームが「複数のヒロインを用意したマルチエンド」という体裁を取っているがゆえに、その「厚み」をより膨らませていることも一因でしょう。」としている通りです(※43)。永遠の世界は、人々の心に意識されることなどあり得ないのです。 ※43 KEN『X-GAME STATION』http://member.nifty.ne.jp/~ken-s/index.htm収録「語るね、俺」http://member.nifty.ne.jp/~ken-s/deep/one.htm  では、『ONE』は失敗作であったのでしょうか。  確かに、『ONE』の永遠の世界は、人々に意識されることはありませんでした。  しかし、永遠の世界が描こうとしたことは、確実に、人々の心、無意識の中に届いているのです。  理性で割り切れなくとも、感性で納得できればよいのです。ファンタジーは、無意識に働きかけることを本旨とした文芸様式です。一度人の心に根付いたファンタジーは、いつか、そのファンタジーをその人が必要としたとき必ずや開花し、その人の手助けとなるでしょう。これこそ、まさに本当のファンタジーです。『ONE』は、徹頭徹尾、ファンタジーであり続けたのでした。 以上