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私はむしろ、『ONE』をはじめとした四作は、あまりに厳しい現実を突きつけているように思えてなりません。そこには、「絆」や「家族愛」といった賛美されるような要素はなく(また、決して男にとって都合の良い物語でもなく)、登場人物のあまりにエゴイスティックな物語が展開しているように思えてならないのです。
一般的に『ONE』は、「絆」を描いた作品だと言われています。ディスク内に収録されているデモでも、「その絆を、大切な人を はじめて求めようとした瞬間だった」とします。
しかし、その絆とは、あくまで一面的なモノに過ぎなかったとしたら?
デモを見返してみてください。
そこでの語りは、恐らく浩平の独白です。ここで語られているのは、浩平が、絆を『求めた』ことであり、結果、絆を『得た』ということではありません。そこにあるのは、浩平が絆を求めたという一面的な情報に過ぎないのです。
そして、どうしても疑問に思うことは、浩平とヒロインたちとの間に結ばれた絆が、すなわち即座に浩平を永遠の世界から帰還させる決定的な要素たりえていたのか、ということです。あるいは、二人の間に確かに絆はあっても、その絆とは、我々が思っているほど相互理解の果てに結ばれたモノであったのかということです。
若干詭弁がましい論証をしたところで、話を戻しましょう。
浩平は、あきれるほどまでにエゴイスティックです。
例えば、みさきシナリオ。浩平は、ずっと側にいると約束しておきながらも、あっさりと消滅します。目の見えない、みさき先輩を、一人、生まれて始めてきた公園に残して、です。しかも、浩平は自分が消滅することを承知しています。
例えば、繭シナリオ。浩平は、はじめ出来る限りかまってはならないとしておきながら、いざ繭が学校を去ることを知ったとたんに、優しく接し始めます。
例えば、澪シナリオ。浩平は、消える段階で、さようならまた明日という挨拶だけで澪と別れるつもりでした。ところが、最後の最後でそれを撤回し、澪に抱きつきます。それが、澪に、浩平の異常を悟らせてしまうことを理解した上で、です。
例えば、長森シナリオ。言うまでもなく、多くのPLたちを憤慨させた、あの、告白イベントからやり直しのクリスマスまでの一連の流れです。
ですが、それ以上にエゴイスティックであるのが、浩平(=プレイヤー(以下、PL))の帰還でしょう。
多くのPLは、考えたでしょう。
ここで還ることが出来なければ、男が廃る。ヒロインたちに申し訳が立たない。恐らく、己が消滅する恐怖よりも、ヒロインたちを残して消えてしまうことに危惧を覚えたことでしょう。
そして、英雄的な帰還。多くのPLは、そこで浩平が無事に戻れたことよりも、ヒロインたちの笑顔を取り戻せたことに感動を覚えます(場合によっては泣きます)。
しかし、それはエゴイスティックな考えに過ぎません。言ってしまえば、ただの自己満足です。
もしかすれば、ヒロインたちは浩平のことを忘れてくれるかもしれません。忘れてくれれば、浩平は奇麗さっぱり現実世界と(物理的以上に、心理的な)未練が断たれます(※)。何も帰還する必要など無いのです。
そうです。七瀬の最後の台詞「あれ?」は、浩平のことを忘れた違和感かもしれません。茜は幼なじみのことは覚えていましたが、浩平のことは忘れるかもしれません…なにより、バットエンドルートに入った時点で、浩平は幼なじみの存在を知りません。少なくともバットエンドに入れば、茜は「貴方のことを忘れます=貴方のことを忘れません」宣言はしないことになります。あるいは、トゥルーエンドルートに入り公園にたどり着ければ、みさきは浩平のことを必ず覚え続けてくれます。逆に言えば、バットエンドルートに入って公園にたどり着かなければ、みさきは浩平のことを忘れているのかもしれません。すべては、我々の想像でしかないのです。
※ ここで気を付けねばならないことは、「忘れる=消滅する」「覚え続ける=帰還する」という単純な公式が成立するわけではないということです。茜の幼なじみのように、覚え続けていても帰還するとは限りません。浩平のことを覚えて続けても、ヒロインたちは気丈に生き続けるかもしれません。
覚えていたって帰還できる・望むとは限りませんし、忘れさられたからといって帰還できないわけではありません。ここら辺のトリックに気が付かない人が、意外と多いようです。
※ こういう意味で考えると、茜シナリオの異質さが目立つような気がします。エンディングから明らかなように、茜はヒロインたちの中で唯一、ポジティブに動くことを放棄し、あくまで浩平を『待ち続け』ています。同じく浩平を待ち続けるにしても、いつまでも足踏みを続ける茜に対し、乙女として開花した七瀬はなんとポジティブに生きていることでしょう。ずっと浩平を待ち続けたキミの立場はどうなるのでしょうか?盟約(=契約)をし、およそ10年という時の流れをたった一人で待ち続けたキミの立場はどうなるのでしょうか?
友人「なあ、主人公が永遠の世界から帰還したら、永遠の世界とキミはどうなるんだろうなあ?」永遠の世界は、幼い頃の浩平に必要であったから生まれました。必要がなくなれば、消えてしまうだけです。
私「きえてしまうんだよ」(長森調に)
友人「どうして?」
私「キャラメルのおまけなんてもういらないんだ」(「ぼく」調に)
友人「そいつは、かなしい、な」
エゴイスティックな物語…四作の中では『MOON.』が一番ダイレクトでしょう。
主人公たち三人は教団に潜り込むに当たって協力関係を形成します。
ところが、実際には、三人は一度も助け合っていません。
たとえ境地に陥っているときであっても、手助けすることなく傍観しています。もっと解りやすく言えば、シナリオライターは、PLに、窮地を傍観させています。そこにあるのは、常に、どうもこうもしようがない状況の、しかも事後処理を強いられるPLのみです。耳を覆いたくなるような悲しい悲劇が展開されているのに、主人公はそこに介入することをただ一度も許されず、突きつけられた結果のみを処理するだけです。
もちろん三人が隔離されているという状況もありますが、それ以上に、三者共に、相談し合うこともなく、自分のことは自分で片を付けています。そこにあるのは、三者ともに目的を異にし、己の目的に邁進するという姿勢、協力関係とはあくまで情報交換に止まるというストイックな姿勢です。
そして、極めつけが、サブヒロインたちは、己の目的を達成した段階で施設から退場するという状態です。これを、エゴイスティックといわずして何というのでしょうか?
他にも、すれ違う兄弟姉妹…そう、ほんの少し、お互いのことを考えれば良いだけのはずなのに、己の価値観に固執する兄弟姉妹。寂しいという理由だけで家族ごっこをし、挙げ句に我が身を良くも知らない男性にさらす破廉恥な主人公。などなど、挙げればキリがないと思います。
『Kanon』『Air』もまた、エゴイスティックな物語です。
特に、『Kanon』以降は、主人公(PL)よりも、ヒロインの取り巻きたちのエゴイスティックに磨きが掛かっています。
…こう言うとなんですが、『Kanon』で言えば秋子さんや佐祐理さん、『Air』で言えば聖ねーさんや晴子さんは、偽善者そのものです。その人のため、とかなんとか言いながら、その実、その背後にあるのは、自分を慰めたかったり騙したかったりという、偽善に満ちた心です。
秋子さんであれば、祐一にあゆの真実を話さないあたりでしょう。秋子さんは、どう考えても、はじめからあゆの真実に気が付いていました(だからこそ、エピローグで、あんなにも早く祐一にあゆの目覚めを教えることが出来たのでしょうし…少なくともライターは、PLにそう邪推させるような話の作りにしています)。真実を話さないと言えば、自分にとって都合の悪い過去を結局話さなかった名雪もそうですね(親子ともども極悪人…)。
佐祐理さんであれば、弟との離別も、結局は自業自得に過ぎません。
聖ねーさんであれば、佳乃にリボンを送ることで佳乃の暴走をとどめたとしますが、あんなモノ、都合の良い責任転換に過ぎません。
晴子さんだって、結局、自己満足のために観鈴の面倒を見ただけです。観鈴の髪を短く切ったのも、結局、観鈴を子供としていつまでもそこにとどめておきたいという思いが成した技でしょう。
………いや、エゴ故に、許しがあり、癒しがある…のかもしれません。
そして、私は、エゴに満ちあふれた『ONE』たちをたまらなく愛しているのです。
なお、今回は言及を見合わせましたが、実は、『ONE』『Kanon』『Air』は、ヒロインも負けず劣らずエゴイスティックな存在であると思われます。これは後日、「雪の女王」というコンテンツで触れる予定です(予定は未定)。
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