修士論文

「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点〜利用権中心主義の提言〜」


ハンドル:火塚たつや
アドレス:tatuya215@hotmail.com
URL:http://tatuya.niu.ne.jp/

目次

第一章 本論文の主旨

第二章 エンドユーザーの著作物使用の実態とその特色
    第一節 エンドユーザーの定義
    第二節 エンドユーザーによる著作物使用の実態
    第三節 「著作物の消費者」の不認識

第三章 近代著作権法の問題点
    第一節 著作権法制の歴史
    第二節 排他的独占による利益偏重
    第三節 考えられるべき利益衡量

第四章 利用権中心主義の提言〜まとめに代えて〜
    第一節 立法論〜利用権中心主義〜
    第二節 解釈論〜権利濫用理論〜
    第三節 まとめに代えて

[添付資料1〜9]無



第一章

本論文の主旨

 ここ1〜2年、いわゆるファン活動を中心に、web上でのエンドユーザーによる著作物使用が増加している。
 例えば、『goo』http://www.goo.ne.jp/において『ドラえもん』で検索をかけてみよう。2000年12月16日現在で52926件、登録されていることがわかる。一位二位は、当然、著作権者側である藤子・F・不二雄プロダクションのサイトであるが、既に三位から『ドラえもんSuperDataBase』http://home.att.ne.jp/yellow/ikemasa/doraemon/というエンドユーザーのファンサイトがランキングされている。上位百位で見れば、100サイト中66がエンドユーザーのファンサイトであることがわかる。当然、下位になればなるほど、ファンサイトの占有率は増えてくるものと考えられる。上位百位でファンサイトがこれだけあるとすれば、全体、52926件でみれば、ファンサイトはかなりの数に上るであろうことは、容易に想像出来る。
 そして、ファンサイトの増加に伴い、トラブルも実際に発生している。
 例えば、ファンサイトの閉鎖としてしまじろう事件。ファン活動が刑事事件にまで発展したポケモン同人誌事件などである。
 このように、ファンサイトの増加、エンドユーザーの著作物使用の増加は、著作権者側にとって、決して無視できるものではなく、両者のトラブルは社会問題化しつつある。

 また、論理的にも、エンドユーザーの著作物使用は、著作権法という法律それ自体の正当性に疑問符を投げかけている。
 例えば、近代著作権法は、複製権中心主義を中心に発達したが、果たして、これからのweb社会に通用するか。著作権は、排他的独占権として把握されており、その例外を「著作権の制限」として構成しているが、果たして、これからのweb社会に通用するか。著作物作成に当然伴うはずの著作物の使用に対し、従来の著作権法が理解を示した上で立法していたか。著作物の利用許諾は私的自治・契約自由の原則に委ねられているが、果たして、それが正しい在り方であったか。従来タブーとされてきた著作権上の様々な問題点が、近年、実務の上で有形無形で問題になっている。このようなあまたの問題は、web社会の双方向(インタラクティブ)性および、それによってもたらされる社会モデルの変化によって健在化しつつある。従来の、1対1の著作権モデルが崩れ、多対多の著作権モデルが登場したとき、著作権法が、どのような変質を遂げるかは、未だ誰も予測していない。
 ここでエンドユーザーとの関係で言えば、引用なり、アイディアの流用なり、従前の著作物を使用しない著作物などあり得ない以上、エンドユーザーがファンサイトなどで著作権活動をすれば、著作者とエンドユーザーとの間に紛争が生じることは論理の必然である。そこで、web社会の到来に伴い、著作者とエンドユーザーとの権利関係基準を検討する必要に迫られる。これは従来、考えられていなかった事件類型であるが、著作権法上の一大論点として新たに浮上してくることは間違いない。

 そこで、エンドユーザーの著作物使用を素材に、近代著作権法が抱える問題点を明らかにしてみたい。その上で、著作権者等とエンドユーザーとの間の権利関係基準を再構築する。



第二章

エンドユーザーの著作物使用の実態とその特色

第一節 エンドユーザーの定義

  ここで、エンドユーザーとは、「著作物に『最終的に』アクセスすることが想定される著作物の受動的な消費者」と定義する。エンドユーザーとは、聞き慣れない言葉かもしれないが、要は、著作物の一般消費者を意味する。小説であれば小説の読者がエンドユーザーであるし、映画であれば映画の観客がエンドユーザーであるし、ゲームであればゲームのプレイヤーがエンドユーザーである。ゲーム業界の用語に従えば、エンドユーザーとはコンシューマーのことである。何も、特別な概念を意味するものではない。

 この定義から明らかなように、エンドユーザーとは、従来、著作物に最終的にアクセスする主体であり、エンドユーザーが著作物をより能動的に“使用”することは想定されていなかった。 著作者が執筆し、出版社が出版した小説を読む読者は、当然、読書という行為を通じて著作物を受動的に消費することになる。そこには、読者が、著作者が執筆し出版社が出版した小説を、能動的に“使用”することなど、考えられてこなかった。

 従来考えられていたエンドユーザーの著作権“使用”とは、例えば、小説ならば小説を読む行為、映画ならば映画を見る行為、ゲームならばゲームを遊ぶ行為そのものである。
 これらは、すべて従来著作権法に明示されていない行為であるが(※1)、もっとも基本的かつ根幹的な著作物の“使用”であることは間違いない(※2)。

※1 当たり前の話ではあるが、近代著作権法は、複製権(21条)とその侵害を中心に立法的手当をしている。上演権(22条)その他の権利は、すべて、この複製権の発展形態と言っても過言ではない。例えば上演権は、物に定着することなく公衆の面前で生で著作物を「複製する行為」と言える。この、複製権を中心とした立法的手当こそ、近代著作権法の問題点の一つである。本論文は、著作権法において、複製権中心の立法から、利用権中心の立法への転換を促すものである。この点については、第三章第三節および第四章でより詳細に検討する。
※2 理論的には、読書や観劇、映画鑑賞、ゲームプレイといったエンドユーザーの著作物“使用”行為すべてが30条1項にいう私的使用に含まれることになる。もっとも、30条1項の私的使用も、「その使用する者が複製することができる」という文言から明らかなように、複製権を中心として条文を構成している。読書や観劇、映画鑑賞、ゲームプレイといった著作物の受動的“使用”については明文を定めていないのが現状である。
 ところが、著作権法によって保護の対象とされている“著作物”というものは、当たり前の話ではあるが、読書や観劇、映画鑑賞、ゲームプレイという形での著作物の受動的“使用”を当然の前提としている。見向きもされない(“使用”されない)著作物は、著作物として悲劇そのものであるという当たり前の事実に、著作権法が見向きもしなかったことが今の著作権法制の混迷の一端を担っているというのが、本論文の主旨の一つである。
 もちろん、立法論的には、読書行為など、私的使用として著作権の侵害とは当然に考えられない著作物の受動的“使用”を、わざわざ条文で規律する必要はない。
 しかし、それを論理的に検討していなかったという事実は、著作権法学にとって痛恨の極みと言う他ないであろう。

 このように、従来、エンドユーザーは、読書といった受動的な著作物の“使用”しか成さないと考えられ、ただ例外的に、本のコピーやドラマの録画といった(※3)、少し能動的な、私的使用の範囲内とされる「複製」(30条1項。以下、「私的複製」)を成すと考えられてきたのである。そしてエンドユーザーが、さらにより能動的な著作物“使用”であるところの複製(21条)・上演(22条)・翻訳(27条)その他といった行為を成すことはまったく想定されていなかった。著作権法は、右のような行為に黙認で答えてきたと言える(※4)。

※3 「私的複製」の典型とされる例である。 しかし、30条1項1号を注意深く読めば、特に、本のコピーという行為を、「私的複製」の典型とするには抵抗を覚える。「公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器…を用いて使用する場合」が「私的複製」から除外されているからである。もちろん実際は、附則5条の2により、「当分の間」「専ら文書又は図画の複製に供する」自動複製機器は30条1項の対象外とされているが、付則によりかろうじて合法化されているという違和感はやはり拭えない。
※4 SF愛好家のサークルやボードゲーム愛好家のサークルでは、昔から当たり前のように、海外未訳の作品をサークル内で翻訳して頒布していた。これは、翻訳権(27条)の侵害である。もちろん、現行法の解釈では、「私的複製」として、十名程度のサークルや同好会であれば翻訳権侵害を構成しないと考えられているが(加戸守行『著作権法逐条講義』(2000年・三訂新版・著作権情報センター)216頁)、大学のSFサークルやゲーム同好会が、十名を越える規模を有することはなんら珍しいことではない。ときに、百名規模のサークルにふくれあがることもある。このような可能性が当然に想定されるのに、それについて何ら解釈態度を明らかにしていないのは、黙認、あるいは実態に対する無知である。もちろん、そのような規模のサークルでの翻訳は翻訳権侵害であると結論づけることもできるが(現に、加戸氏はそう結論づけている)、それは一般人の法感情からすれば、結論として妥当性を欠くという印象を与えることだろう。より詳細な検討が必要とされるところである。

 以上のように、従来の著作権法は、エンドユーザーが著作物の最終的・受動的消費者であることを当然の前提としてきた。「私的複製」やサークル内での翻訳は、黙認できるだけの例外にすぎないと考えられてきた。エンドユーザーは、著作物に最終的にアクセスすることで著作物を受動的に消費する、著作物の“消費者”という地位に甘んじ、決して、著作権法の表舞台に立つことはなかった。従来は、エンドユーザーと著作権者との間の権利関係を考える必要はなく、著作物の“利用”によって利益を上げる業者間のみで複製権(21条)侵害や利用許諾(63条)を検討すれば足りるとされてきたのである(※5)。
 そして、今までは、エンドユーザーの著作物“使用”をこのように、受動的“使用”に限定して考えても、何ら問題がなかった。エンドユーザーと著作権者との間で法的紛争が生じることは想定されていなかったのである。

※5 本論文では、“利用”とは、能動的“使用”に営利目的がある場合を指して呼称する。


  ところが、ここでwebという新たなメディアが登場した(※6)。
 北村行夫「情報化社会と著作権」コピライトNo.456(1999年)10頁別紙3は、メディア(技術)の発達と著作権法制の発達とをそれぞれ四段階に分類し、それぞれを対比させている。そして、webというメディアが(著作権にとって)他のメディアと決定的に異なる新しいメディアであると結論づける(※7)。
 その特徴こそが、情報の双方向(インタラクティブ)性とそれによってもたらされる社会モデルの変化である。
 すなわち、北村・情報化社会11〜12頁は、webを印刷や放送と比較し、印刷は、「印刷のような有形的再製技術が登場したときは、これを著作権として保護することについての社会的混乱は、それほど大きくなかった」「著作権をめぐる権利関係は、直接には著作者と印刷出版業者との間の問題として考えれば足り」「1対1で権利関係をどうするか考えれば良かった」とし、「無体財産を財産として尊重するというルールを承認すれば、あとは従来からの有体物である商品の交換に関する社会的仕組みがほぼそのまま使えた」とする。放送においても、「放送局という著作物伝達媒体が、誰でも所有できる媒体ではなくて、…電波をどうやって管理するかという国家的な統制」の問題とされ、「著作権者と放送局との権利処理関係は、先行した出版業におけると同様に1対1」であり、印刷と同じであるとする。
 このように、従来は、出版社や放送局が、エンドユーザーに対し一方的に著作物を伝達していた。社会モデル・著作権モデルも著作者と出版社・放送局との間で、1対1の関係によって規律されていた。
 それが、webは従来のメディアと異なり、「情報化社会での個人と通信との結びつきは、公衆を単なる情報の受け手と捉えるだけでは不十分な状況を作り出し」「世界中の通信網と結びつくことにより、情報を受け取る道具が情報を送る道具でもあるという事態が世界的な規模で生じてい」るという特徴を備えている。その結果、「これまで権利外にいたはずの世界中の公衆が、単に著作物(複製された著作物)の受け手ではなく、著作権をめぐる権利関係の主体としても登場する」という社会モデルの変化を指摘する。これは、「「マスへの伝達手段を個人が所有する状態の一般化」という質的な変化であって、従来のマスメディアの延長上に見ることはできない事態の出現」である。ここに、1対1で権利関係を処理するという従来の社会モデル・著作権モデルは崩壊する。「いわば、…万人が、18世紀の海賊版業者となりうる社会」の到来である。
 ここに、webというメディア最大の特徴がある。
 従来のメディアが著作物の一方向的伝達と1対1の単純な権利関係を特徴とするのであれば、webは、著作物の双方向的な伝達と多対多の複雑な権利関係を特徴とする(※8)。

※6 北村・情報化社会11〜12頁
※7 webをメディア(技術)と定義することにつき、北村・情報化社会10頁別紙3参照。ここでwebとは、北村氏の「パソコンと結ばれた通信」に対応する概念と理解してもらいたい。また、メディア(技術)とは、メディアとメディア技術の二つを意味する。少なくとも、本論文ではメディアとメディア技術とを厳密に区別する必要はない。
※8 上記の事実だけで、著作権法の立法事実が崩れていることが伺えよう。この点については、第三章第一節3でより詳細に検討する。

 この、webの広がりに伴い(※9)、今後、エンドユーザーによる著作物“使用”は、一大転機を迎えるであろう。要は、従来の受動的な著作物“使用”から、積極的・能動的な著作物“使用”に踏み出すエンドユーザーが増大すると思われるのである(※10)。具体的には、HP(ホームページ)やメールマガジンでの表現に踏み切るものと考えられる。

※9 webが広がる結果もたらされるであろう社会変革により到来した、新しい社会構造を、以下、「web社会」と定義する。
 このweb社会に相当する言葉として、従来、「情報化社会」という概念が考えられてきた(北村・情報化社会3頁)。
 しかし、情報化社会という概念では、これから到来し、著作権法制に重大な転換を要求するであろう新しい社会構造の本質を捉えることは出来ない。情報化というが、情報化の結果、何がもたらされるか、その定義からは一義的に明らかではないからである。
 では、「webが広がる結果もたらされるであろう社会変革により」もたらされる「新しい社会構造」の特質とは何かといえば、それこそが情報の双方向性と多対多の権利関係である。webがもたらす影響は、何も著作権法のみに止まらない。
※10 ここで、著作物の能動的“使用”とは、もっとも極端な例として、著作物の複製が考えられる。もちろん、著作物の複製は、「私的複製」などではない限り複製権(21条)の侵害となることは論を待たない。
 しかし、一口に著作物の能動的“使用”といっても、その意味するところは、実は多種多様である。ここに、この問題の難しさがある。

 要因は二つある。
 一つは、情報発表の圧倒的な低コスト化に伴い、エンドユーザーが容易に著作物を発表できるようになったこと。
 もう一つが、デジタル技術により、従来、困難とされてきた著作物の積極的“使用”、例えば、複製・編集(翻案)をなし、それをそのままwebに載せて広く公開することが可能になったことである。デジタル技術により、著作物の複製・編集(翻案)が如何に容易になったかは、論を待たないことであろう。

 web上での情報(著作物に限らない)の発表は、従来のメディア(放送、印刷、上演その他)と比べ、発表するのに必要なコストが圧倒的に低額である。
 従来、個人で情報を発表しようと思った場合、かなりの資本を投下する必要があった。例えば、ここで印刷に限定して論じれば、印刷所に印刷を依頼することは、決して安価なことではない。コピー誌であれば安価に発表できるが、部数に限りがあった。そこで従来は、出版社などに情報を投稿しなければ、情報を世に広く発表することは不可能とされてきた。結局の処、情報を広く世に発表するには、資本力がない個人では不可能なこととされてきたのである。情報の発表は資本力を有する企業に独占されてきたのが実態といえよう(※11)。
 ところが現在では、web環境さえ整っていれば、初期の資本投下0円で情報を発表可能である(※12)。必要とされるものは、HPを掲載するためのサーバーとHPビルダー(HP作成用ソフト)、それに作成したHPをサーバーに転送するためのFtp(file transfer protocol)クライアントソフトだけである。そして、これらすべてを無料で手に入れることが可能である。サーバーであれば『ジオシティ』http://www.geocities.co.jp/や『freeweb』http://www.freeweb.ne.jp/などから無料HPを借りればよい。HPビルダーは現在のワープロソフトであれば必ず付属している機能である。『VECTOR(VECTOR SOFTWARE PACK)』http://www.vector.co.jp/や『窓の森』http://www.forest.impress.co.jp/info/about.htmlで手に入れることも可能である。最悪、メモ帳でhtml文書を打てば良い。Ftpクライアントソフトも、『VECTOR』や『窓の森』で手に入る。
 この、情報発表の圧倒的低コスト化により、企業による表現の発表の独占が打破され、一個人であるエンドユーザーが直接に表現の発表をなすことが可能になった。従来、情報それ自体の発表が絶望的だったものが容易に発表できるようになったというのが、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”の増加の要因の一つである。
 これは、情報の発表が容易になったが故に、著作物の『能動的な』“使用”が増大するというロジックである。従前の著作物を利用しない情報などあり得ないという、単純な事実の摘示として理解してもらいたい。著作物の発表に限定して言えば、従前の著作物を利用しない著作物などあり得ない(※13)。
 もちろん、エンドユーザーが著作物を発表するにあたってオリジナルの著作物を作れば、このような問題は回避されるが、実際問題、従前の著作物をまったく流用しないで著作物を作ることは不可能である。例えば、従前の学術論文をまったく引用しないで論文を作ることは不可能であろう。その論文がどれほどオリジナリティに富んでいたとしても、引用の事実は変わらない。著作物とは、大なり小なり、従前の著作物の影響を必ず受けているものである。それが、アイディアの流用に止まるならばともかく、表現の流用であれば、それは間違いなく「著作物の能動的“使用”」である(※14)。
 これが、「情報の発表が容易になったが故に、著作物の『能動的な』“使用”が増大するというロジック」の意味するところである。

※11 思うに、企業による著作物発表の独占から、如何に著作者やエンドユーザーを保護するかが、著作権法の現代的課題と言っても過言ではない。これは、技術的にはともかく、コスト的に力関係で優位に立つ企業から(脚注33参照)、企業の支援なくては著作物を発表できない著作者や、著作物については完全に受け手に回らざるを得ないエンドユーザーを、どのようにして保護するかということである。この点については、憲法の表現の自由・知る権利(憲法21条)と絡ませ、第三章第三節1でより詳細に検討する。
※12 純粋に理論的な話であり、実際は、ハウツー本などを購入する必要があるだろうが、それでも初期投資が一万円を越えることはない。
※13 半田正夫『著作権法概説』(2000年・第九版・一粒社)159頁参照。「著作者は著作物の作成にあたって何らかの形で先人の文化遺産を摂取しているのがふつうである」。そして、真実は、「ふつう」という言葉は不適切であり、著作者は先人の文化遺産の影響を「必ず」受けるものである。
 さらに、半田・概説82〜87頁参照。半田氏は、著作物の本質を「創作的個性」に求めているが、これは決して、著作物が「創作的個性」によってのみ構成されているということを意味しない。著作物とは、すべからく、従前の著作物といった公用的な要素と「創作的個性」の混在により構成されている。そして、「創作的個性」というのも、実は、従前の著作物の影響から逃れられるものではない。特許法と異なり、新規性を要件としていない由縁である(特許法29条参照)。
※14 「著作権法は表現を保護し、アイディアそれ自体は保護されない」として(加戸・前掲21頁)、問題を単純化することも可能である。この場合、アイディアそれ自体の能動的“使用”は当然に許されるが、著作物たる表現を能動的に“使用”することは、30条以下の制限を除きいっさい許されないことになる。結果、エンドユーザーも著作物を能動的に“使用”することは、許されない。
 しかし、このロジックは、実はフィヒテの「著作物の『形式』を保護し『内容』は保護しない」という理屈の焼き直しである。フィヒテのロジックの問題点は、半田氏が既に指摘したとおりである(半田・概説83〜87頁)。すべての「形式」が保護されるわけでも、すべての「内容」が保護されないわけでもない。
 大切なのは、それぞれに「創作的個性」が認められるか、「創作性」の要件の検討である。当該作品に「創作性」が認められれば、著作物として認められ著作権が発生し、著作物の消費者およびエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”は、著作物の制限を除いて許されない。
 しかしなお、「『創作性』が認められれば著作物として認められ、著作権が発生し、著作物の能動的“使用”は著作物の制限を除いて許されない」という結論を採用することには、解釈論はともかく、立法論として疑問がある。ここで重要なことは、「著作物を能動的に“使用”することは、許されない」という結論を容易に採用するわけにはいかないという価値判断である。
 脚注13で言及したように、「創作的個性」というのも、実は、従前の著作物の影響から逃れられるものではない。
 そこでは、一定の独自性を発揮しつつも、確実に従前の影響を受けている。無から有が生まれないように、著作者は、無から有を想像することは出来ない。無から、「創作的個性」は生まれないと言えよう。著作物はすべからく模倣から始まるという事実は、忘れてはいけない事実である。当該著作物の「創作的個性」を保護することで、将来の「創作的個性」を保護しないとすれば、それは本末転倒であろう。著作物文化は衰退し、「文化の発達に寄与」するという著作権法の趣旨を図れないことになる(1条)。「複製権中心主義を金科玉条のように信奉していると、ときとして複製イコール悪であるかのような議論に陥りがちになるが、」web社会の著作権法が、著作物の能動的“使用”を「私的複製」「引用」を除き、いっさい許さないとする理由は、それほど確かなものではない(田村善之『著作権法概説』(1999年・有斐閣)105頁)。
 これを規律するには、「著作物の能動的“使用”」が許されるかという、より実質的な判断をしていく必要がある。「創作的個性」の保護を図りつつ、「公正な慣行に合致する」著作物の能動的“使用”を保護するという、政策判断が必要と考える(解釈論としても、立法論としても)。半田・概説159頁も、著作権の制限を政策判断と断じている。
 思うに、二次著作物であっても、それが「公平な慣行に合致する」場合、著作権侵害とならない可能性を残すべきである。

 そして、著作物の『能動的な』“使用”をより増大させる要因が、デジタル技術よる著作物の能動的“使用”、例えば、複製・編集(翻案)の容易化である。デジタルデータとして著作権情報を共有することで、著作物を複製し、編集し、さらにそれをそのまま対外的に広く発表することが可能になった(※15)。著作物の能動的“使用”が容易化すれば、著作物の能動的“使用”が増大するのは、当然の理屈である。

※15 北村・情報化社会11〜12頁参照。


  このように、従前の著作物の能動的“使用”なくしては著作物を作成できないということを当然の前提とするのであれば、著作者とエンドユーザーとの間に紛争が生じることは必然である。そこで、web社会の到来に伴い、著作者とエンドユーザーとの権利関係基準を検討する必要に迫られる。これは従来、考えられていなかった事件類型であるが(※16)、著作権法上の一大論点として新たに浮上してくることは間違いない(※17)。
 事実、著作者とエンドユーザーとの間で、既に幾つかトラブルが生じている。
 例えば、ファンサイトの閉鎖として、しまじろう事件。ファン活動(同人誌活動)に伴い刑事事件にまで発展したポケモン同人誌事件。正確には、著作権の問題ではないが、著作者とエンドユーザーとの間に生じたトラブルとして銃夢ハンドル名事件がある。
 しまじろう事件は、著作権者側に立つベネッセが、自社でオフィシャルページhttp://www.shimajiro.co.jp/を展開するにあたって、今まで協力関係に立っていたファンサイトに閉鎖を申し込んだ事件である(※18)。
 ポケモン同人誌事件は、福岡の同人誌即売会において『ポケットモンスター』のパロディ同人誌を発行した女性が著作権法違反で刑事告発された事件である(※19)。この事件は、一般人からの通報で、同人誌の存在を任天堂側が認知し、警告や民事訴訟に踏み切ることなく、刑事告発に踏み切った点で、異質である(※20)。
 銃夢ハンドル名事件は、『銃夢』というハンドル名を使用していたエンドユーザー個人に対し、漫画『銃夢』の著作者側がクレームを申し入れた事件である(※21)。この事件は最終的には、著作者側がエンドユーザー側の批判を受け入れ前言を撤回している。
 その他、世界レベルで生じている著作権者等とエンドユーザーとのトラブルについては、山下丈『ネットフロンティアの攻防』(2000年・プレジデント社)に詳しい。ここでは、エンドユーザーによる著作権侵害のおそれが問題視されると同時に、著作権者等によるコンテンツ・コントロールが問題視されている(※22)。

※16 筆者が検索した限りで、北村・情報化社会12頁を除き、著作権者とエンドユーザーとの法的紛争の可能性に言及した論文は見あたらなかった。裁判例も、皆無である。
※17 web社会においては特に、公衆送信権等(23条)およびその利用許諾(63条)に掛かる諸経費が問題となる。諸経費とは、単純に許諾に掛かる金銭的コストのみならず、著作物の著作者に連絡を取るという時間的コストも含む。著作物発表を業としていないエンドユーザーにとって、この金銭的・時間的コストは、思いのほか重い制約としてのしかかる。そこで、公衆送信権等に対し制限を加えるべきか、加えるとしてどの程度・どのように制限を加えるべきであろうかが、重要な懸案課題となる。
※18 『Kiwiのページ』http://www.mapletown.net/~kiwi/index.html「ホームページ休止のお知らせ」http://www.mapletown.net/~kiwi/sima/参照[添付資料1]。
※19 朝日新聞1999年1月14日朝刊37面。
 『日曜出版社』http://www.nitiyo.com/zine/「『ポケモン同人誌事件』を考える」http://www.nitiyo.com/zine/poke/index.html参照[添付資料2]。
 なお、ここでのパロディの定義は、最高裁昭和55年3月28日判決民集34巻3号244頁[パロディ事件判決]にいうパロディと異なることに注意。http://www.nitiyo.com/zine/poke/poke19990218.htmおよびhttp://www.nitiyo.com/zine/poke/poke_kirikuti.htmを参照のこと。
※20 異質な点は三つ。
 一つは、一般人からの通報であること。任天堂側が積極的に調査した結果ではないということである。遭遇戦のように偶然生じた事件であると考えるべきである。実際問題、『ポケットモンスター』のパロディ同人誌として有名なものはもっと他に存在する。それ以降、同人誌に対する任天堂からの公式なコメントもない。非公式なコメントとして、http://www.nitiyo.com/zine/poke/poke19990408.htmを参照のこと。
 一つは、任天堂が刑事告発したこと。『ポケットモンスター』については、現在、任天堂と小学館プロダクションとが著作権を管理している。任天堂は『ポケットモンスター』のゲーム本体を、小学館プロはそれ以外、すなわち、アニメや漫画、キャラクター関連商品をそれぞれ管理している。当該同人誌の内容を伝え聞く限り、当該同人誌はゲームではなくアニメを基にしており、本来の管轄は小学館プロにあったと考えられる。
 一つは、直接刑事告発に踏み切ったことである。ここで、著作権者等とエンドユーザーとが先鋭に対立する形になっている。
※21 『銃夢HN問題を記憶に止めるために』http://members.tripod.co.jp/gunnmx/参照[添付資料3]。
 なお、著作物の題号(題名)それ自体には著作権が生じないことにつき、半田・概説92頁。
※22 コンテンツ・コントロールとは、著作権その他の法律を利用することで、企業など、社会的な力関係で優位に立つ者がweb上の言論(コンテンツ)を支配することを意味する。もちろん、著作権それ自体は保護しなければならないのは当たり前として、その行き過ぎはweb社会の発達を阻害するのみならず、表現の自由・知る権利(憲法21条1項)からも大きな問題となることは、想像するに難しくない。

 エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”及びコンテンツ・コントロールの問題は、著作物を表現する自由、知る権利(憲法21条1項)とも絡み、著作権法にとどまらず、人権尊重の観点からも重大な論点である。この点については、第三章第三節1でより詳細に検討する。


  ところで、今までの議論から明らかなように、web社会においては、従来エンドユーザーとされてきた者は、情報の受け手から情報の送り手に変わる可能性を常に有していると言えることになる。そうであれば、もはや『エンド』ユーザーという用語そのものが不適切であることは、論を待たないことであろう。なぜなら、エンドユーザーの定義は、エンドユーザーが、『エンド』、すなわち、受動的・最終的な著作物の“使用”者・消費者であることを前提とした概念だからである。そこには、エンドユーザーが著作物の能動的“使用”者であるという発想は存在しない。エンドユーザーとは、文字通り「従来は」著作物の受動的消費者であったという過去の事実を指摘したに止まり、これからのweb社会における著作権法の在り方を検討するには、不適切な用語とすら考えられるかもしれない。

 すなわち、web社会は、情報(著作物)の送り手と受け手との区別が相対化した社会である(※23)。
 これからのweb社会では、従来「当該著作物の著作権者・著作物隣接権者・出版権者・放送権者その他利用権者」と考えられてきた『企業など』のみが著作物を発表するのではなく、当該著作物の『エンドユーザー』もまた、独自に、あるいは、当該著作物を能動的に“使用”して新たな著作物を発表し、それを従前の著作権者等であった『企業など』が著作物を受動的に“使用”することになる(※24)。
 当該著作物については著作権者等の地位に立つとしても、その当該著作物から創作された著作物については(※25)、当該著作物の著作権者等は著作物の消費者(≒エンドユーザー)という立場に落ち着くことを忘れてはならない(※26)。低コスト性と編集・発信容易性を特徴とするweb社会においては、著作権者等と著作物の消費者との関係は絶対的・固定的なものではない。ある時は著作権者等であった者が、ある時は著作物の消費者となることもあるだろうし、その逆もまたあり得る。このように理解する限りにおいては、著作権者等と著作物の消費者とは、完全に対等な関係に立つことになる。従来考えられていた「著作権者等=企業・業者・出版社」「著作物の消費者=一般消費者・エンドユーザー」という図式は崩れ、例えばフリーウェアという形で一個人が著作権者として発表した著作物を、企業が著作物の消費者として受動的に“使用”することもあり得る(※27)。

※23 なぜなら、web社会では、情報は双方向で流通し、その権利関係も、1対1ではなく多対多でなされる。マスメディアが情報を独占し、情報を送り手として一方的に受け手である国民に送信する従前の形態のようには固定化・絶対化されない。web社会では、ある瞬間は情報の送り手であった者が次の瞬間には情報の受け手となり、ある瞬間は情報の受け手であった者が次の瞬間には情報の送り手となっている可能性がある。
※24 ここで著作権者等とは、「当該著作物の著作権者・著作物隣接権者・出版権者・放送権者その他利用権者」を示すことから明らかなように、従来著作権法で保護されてきた権利者たちの総体を意味する。
 本論文は、著作権者等と利害関係を有することになる第三者を「著作物の消費者」と定義することで、著作権者等と第三者たちとの利害関係を鮮明にすることをその本旨の一つとしている。著作権法が想定していた権利関係モデルの問題点を、第三者たちの視点・利益から指摘しようというのである。この点については、利益衡量の問題として第三章第二節・第三節でより詳細に検討する。
 なお、「第三者」とは、民法学でいう「新たに独立して権利関係に入った者」という意味ではなく(四宮和夫『民法総則』(1994年・第四版・弘文堂)163頁)、「新たに独立して利害関係を有するおそれがある者の総体」を意味する。第三者を民法学の第三者のように厳密に捉える必要は無い。
 「著作物の消費者」と「エンドユーザー」とは、「当該著作物の著作権者等ではない」という意味においては、非常に似た概念であるが、その意味するところは微妙に異なる。この点については、以下本節において検討する。
※25 二次著作物(28条)であることもあれば、まったく別の著作物であることもある。これは、従前の著作物をどれだけ真似たかによる判断である。表現において「創作的個性」を真似れば二次著作物であろうし、「創作的個性」ではない表現を真似ただけかアイディアだけを真似たのであれば別の著作物である。橋本英史「著作権(複製権、翻訳権)侵害の判断について(上)」判例時報1595号(1997年)30〜33頁参照のこと。
 二次著作物であれば著作権侵害となり、別の著作物であれば著作権侵害とならない。
 しかし、別の著作物と認定されるには、別の著作物であるか否かの判断が必要であり、ここに、著作者権等と著作物の消費者との間の権利関係基準を検討しておく実益がある。
 また、二次著作物であっても、それが「公平な慣行に合致する」場合、著作権侵害とならない可能性を残すべきであることも、脚注14で述べたとおりである。
※26 そして、当該著作物の消費者であっても、そこから創作した著作物に関しては、著作権者と呼ばれることになる。
※27 そして、それは既に現実化している。
 『VECTOR』http://www.vector.co.jp/や『窓の森』http://www.forest.impress.co.jp/info/about.html、『統合アーカイバープロジェクト』http://csdinc.co.jp/archiver/などで公開されている、エンドユーザーが作成したプログラムの中には、webにおけるデフェクトスタンダードになっているものも少なくない。

 しかし、エンドユーザーをエンドユーザーと定義した由来を考えてもらいたい。
 はじめに、エンドユーザーを「著作物に『最終的に』アクセスすることが想定される著作物の受動的な消費者」と定義した。
 ここで定義を厳密に詰めて考えるのであれば、エンドユーザーをわざわざエンドユーザーと呼称する必要はなく、単に、「著作物の消費者」と呼べばことが足りるであろう。消費者という言葉の中には、終局的・受動的といった意味が当然のように含まれている。エンドユーザーをわざわざエンドユーザーと定義したのは、他でもなく、エンドユーザーが『エンド』のユーザー、すなわち、終局的・受動的な、著作物の消費者であることを強調したかったからに他ならない。
 では、エンドユーザーと呼ばれる、従来想定されてきた著作物の一般消費者たちが、終局的・受動的な著作物の消費者にとどまり、著作物を積極的・能動的に“使用”するとは考えられてこなかったのは何故だろうか。
 それは、理論的には(※28)、はじめに書いたように、著作権法において従来考えられてきた著作権モデルが、「著作者が著作物を執筆し、出版権者がそれを複製した上で出版し、その複製物を消費者が手に取り商品として著作物を消費する」という構造になっていたからである(※29)。このような著作権モデルを採用する限りにおいては、複製権その他の著作物の能動的“使用”は著作権者等である著作権者と出版権者とに独占され、著作物の消費者は著作物を能動的に“使用”できないことになる。著作物を能動的に“使用”したければ、著作権者との間に利用許諾(63条)契約を締結する必要がある(※30)。
 しかし、著作物の消費者、それも、筆者がエンドユーザーと呼んだ著作物の一般消費者たちにとって、ここで大きな問題として立ちふさがるのが、利用許諾にかかる金銭的・時間的コストの問題である(※31)。結果、著作物の一般消費者たちが著作物を能動的に“使用”する機会は、実際は、全く与えられないという結論に到達せざるを得ない。
 これからのweb社会で何が問題になるかと言えば、著作物を能動的に“使用”することがデジタル技術上は容易であるのに対し(※32)、著作権法上は、利用許諾にかかる金銭的・時間的コストのために、著作物の能動的“使用”が事実上阻害されているという実態である。エンドユーザーは、技術的には著作物を能動的に“使用”出来るにも関わらず、コスト的には社会的弱者に立っている。本論文は、社会的弱者であるエンドユーザーの救済を第一の目的とし、エンドユーザーが社会的弱者に立たざるを得ない現状を問題視している(※33)。
 このように、「著作物の消費者」の中でも、著作物の一般消費者たちは、こと著作物の能動的“使用”においては、社会的弱者に立たざるを得ない。これが、エンドユーザーをエンドユーザーと定義し、「著作物の消費者」と分けて定義した理由である。このような問題を解決するには、エンドユーザーを「著作物の消費者」から切り離し、独自概念を再構築していく必要がある。エンドユーザーの概念は、これからのweb社会においても、より一層、有効な概念と言えよう。

※28 また、技術的には、著作物の能動的“使用”にはコストがかかり(印刷機一台買うだけでそのコストは莫迦にならない)、エンドユーザーが著作物を能動的に“使用”する道が事実上絶たれていた。そこで従来は、エンドユーザーによる著作物“使用”を考慮する必要がなかった。それが、近年の複製技術の進歩により、エンドユーザーであっても、著作物を能動的に“使用”できるようになった。田村・概説103頁参照のこと。田村善之「デジタル化時代の知的財産法制度」ジュリストNo.1057(1994年)57頁もほぼ同旨。
※29 著作権モデルをこのように断言することに違和感を覚える読者もいるかもしれない。
 しかし、著作権法において、複製権(21条)として把握すれば足りるものを、出版権(79条)という別の権利をわざわざ用意した事実を考えてもらいたい。ここには、著作(権)者が、資本力がある出版社(著作者とは他人格であることに気を付けられたし)に著作物を複製・出版することを依頼して初めて、著作物が世に公表されるという前提が、当然のように潜んでいると理解できよう。出版社の介在を当然の前提としているが故に、著作権法は予め出版社の権利を保障しておく必要がある。
 また、著作権法が出版社の権利保護から出発したという著作権法制の発達の歴史を見ても、著作権モデルに出版社の存在が想定されていることが伺えよう。これは、英米法系のみならず、日本が著作権法を継授した大陸法系においても同じである(出版所有権論)。半田正夫『著作権法の研究』(1971年・一粒社)10頁参照のこと。その他、著作権法制の発達の歴史については、アラン=ラットマン他編・内藤篤訳『1990年米国著作権法詳解(上)(下)』(1991年・信山社)1〜5頁、白田秀彰「コピーライトの史的展開(1)〜(7)」一橋研究19巻4号・20巻1号・3号〜21巻3号(1995〜1996年)参照のこと。右をまとめたものとして白田秀彰「コピーライトの史的展開<知的財産研究叢書2>」(1998年・信山社)19頁以下がある。
 出版社の介在を当然の前提とする著作権モデルが想定されていたという事実に、企業(出版社)による著作物発表の独占を伺い知ることが出来よう。
※30 そして、著作権を著作物の排他的独占権と考えるのであれば、このような法制を採用することは当然の帰結である。条文上も、著作権を21〜27条において「専有」権とし、著作権は著作物の排他的占有権として把握されている。加戸・前掲169〜170頁参照のこと。
※31 従って、技術的には、もはや、エンドユーザーは社会的弱者ではない。エンドユーザーであっても、著作権を収集・編集し、かつそれを全世界に発信できる。
※32 利用許諾は、1対1の交渉でしか有効に機能しないことに注意。エンドユーザーにとっても、著作権者側にとっても、いちいち利用許諾の交渉を持つことは、コストとして大きな負担となる。
※33 web社会において、企業とエンドユーザーとは、技術的には、ほぼ同格の立場に立つことが可能になった。NHK『紅白歌合戦』のweb上海外同時放送を実現した石村秀一氏(仮名)やweb上での音楽の無料交換を実現する『ナップスター』(日本経済新聞2001年1月4日朝刊1面「技術創世紀 3」)、LinuxのオープンDVDキャンペーン(山下・前掲86〜97頁)は記憶に新しい。また、仮にエンドユーザー一人一人の技術は劣っていたとしても、複数人が協力することで技術的劣位を挽回することは可能であることに注意。
 なお、本論文では、エンドユーザーが技術的に企業などと同等の立場に立ちうるという事実の摘示にとどめ、右行為が著作権の侵害にあたるか否かは問題としない。
 右のように、エンドユーザーと企業などが、技術的に同じ立場に立つからこそ、より一層、利用許諾にかかるコスト面で、エンドユーザーの弱い立場が問題となる。この問題は、技術的には対等になったが故に生じた問題とも言えよう。

 本論文では、著作物の消費者の中でも、特に、社会的に弱い立場に立たざるを得ない著作物の一般消費者をエンドユーザーと呼称する。著作物の消費者とエンドユーザーとを分けるメルクマールは、「営利目的」の有無に求められる。営利目的が有れば、それをエンドユーザーとして特別の保護の対象とする必要はない。
 改めて、エンドユーザーを定義すると、以下のようになる。
 エンドユーザーとは、「著作物に『最終的に』アクセスすることが想定される著作物の受動的な消費者」であり、「著作物を能動的に“使用”するにあたっても、営利目的を有していない」法人格である。
 以上を対比して示せば、「著作権者等」←→「著作物の消費者」および、「企業など」←→「エンドユーザー」という、二つのモデルが成立することになる。
 ただし、だからといって、「著作権者等」←→「エンドユーザー」という対比が成立しないというわけではない。現実ではなお、「著作権者等=企業」という図式が成立する以上、「著作権者等」←→「エンドユーザー」という対比は、論理破綻ではなく、現実を理解するにはより一層有意義な対比の仕方である。


  本論文では、もう一つ気を付けてもらいたいことがある。ここで言う「エンドユーザー」や「著作物の消費者」とは、消費者法でいうところの「消費者」とは全くの別概念であるということである。
 大村敦志『消費者法』(1998年・有斐閣)20頁によると、「消費者」は、@商品に対し十分な知識を持たず、A十分な交渉力もなく、B影響を受けやすく必ずしも常に合理的な行動をとるわけではなく、C回復困難な損害を受けやすいという、四つの特質を備えているという。一口で言えば、「消費者は、事業者に対し@情報・A交渉力で劣位に立ち、また、B精神・C身体を備えるが故の脆弱性を持った存在」である。
 また、そもそも、消費者問題は、「「生産」と「消費」あるいは「生産者」と「消費者」が分離することで初めて生じた問題であ」る(※34)。
 今までのエンドユーザーおよび著作物の消費者という定義から明らかなように、エンドユーザーも著作物の消費者も、@商品に対して十分な知識を持っていないわけでも、B影響を受けやすいわけでもない。C著作物は生活必需品というわけではないから、回復困難な損害を受けるわけでもない。そもそも、これからのweb社会は、著作物の生産者と著作物の消費者とを分離させるものではなく、むしろ、双方向に交流させる方向に向かわせることであろう。
 以上から、エンドユーザーや著作物の消費者は、消費者法で言うところの「消費者」ではないと結論づけられる。

※34 大村・前掲18頁。

 しかし、だからと言って、エンドユーザーや著作物の消費者を保護する必要性が無いというわけではない。これからのweb社会において重要なことは、国民の表現の自由のために如何に著作物の能動的“使用”を保障するか、である。著作権者等の経済的利益を図る一方で、著作権者等に著作物を独占させることなく、「著作物の消費者」に著作物の能動的“使用”を図る必要性は、これからの重要な検討課題になるであろう。特に、エンドユーザーは、そのA交渉力の弱さ故、著作権法をもってより積極的に著作物の能動的“使用”を保障していく必要性が高いであろう(※35)。

※35 エンドユーザーの交渉力の弱さとは、交渉に掛けられる時間的、金銭的コストのなさのことである。


  以上のように、エンドユーザーを定義したところで、エンドユーザーによる著作物“使用”の実態がいかなるものかが、次の問題となる。そこで第二節では、幾つか実例を示してみる。


第二節 エンドユーザーによる著作物使用の実態

  そもそも、エンドユーザーによる著作物“使用”の実態と言って、想像できない読者もいるかもしれない。web上をはじめ、現在、現実に進行している著作物“使用”の実態がいかなるものであるか、まずは、それを概観するところから始めてみよう。


  まず、読書・観劇・ゲームプレイなどが考えられる。エンドユーザーの著作物“使用”として、もっとも基本的かつ根幹的な行為である。これは、エンドユーザーの著作物の「受動的な“使用”」と呼ぶことが出来よう。このように、エンドユーザーの著作物“使用”が受動的に止まる限り、エンドユーザーの行為は、著作権法上はなんら複製権(21条)その他を侵害しない(※36)。

※36 ただし、最近では、著作権法が複製権を中心として禁止権を規定し、複製行為ではない受動的な著作物の“使用”を当然正当な行為として、著作権侵害と全く考えない法制に対し、そもそもの疑問が投げかけられている。田村・前掲102〜104頁は、「現行法制の背後には、著作物を読みその内容を知る行為は本来自由であるべきだという価値判断が存在するはず」と断りを入れた上で、「大方の理解とは異なり、著作権は複製のところに及ぶ権利であるという概念(コピーライトという言葉に端的に示されている)を金科玉条のように受け取る必要はない」と結論づける。
 著作物の受動的“使用”にも規制の網をかぶせるか否かはともかく、読書行為といった著作物の受動的“使用”もまた、複製行為に代表される著作物“使用”の一部であるという事実には着目しておく必要がある。

 次に、私的使用が挙げられる(30条1項)。もっとも代表的な例としては、友人同士での本・CD・ゲームの貸し借りや、本のコピー・ドラマの録画・ラジオで流れた音楽の録音である。友人から借りた本やCDを複製する場合も考えられよう。さらに、個人的に楽しむ限りでは、好きなイラストをコピーした上で手製のポスターを作成する行為や、複数のCDに収録されている音楽を選曲し一枚のMDにまとめる行為なども含む。
 これらは、私的使用が認められない限り(30条1項、43条1号)、貸与権(26条の3)・複製権(21条)、さらには翻案権(27条)を侵害する行為である(※37)。
 このような行為は、先の読書行為に比べ、幾分か著作物を能動的に“使用”している。それでも、現行法上著作権の制限とされ、著作権の侵害とされないのは、「いわゆる著作物の通常の利用と衝突せず、著作権者の経済的な利益を害するおそれがないと思われる態様の典型例」であって、「こういった、限局された利用については、著作権者に権利行使を遠慮してもらう」のが相当であるという利益衡量の結果である(加戸・前掲214頁)。「閉鎖的な範囲の零細な利用」であれば、著作権者の財産的利益を侵害しない(加戸・前掲216頁)。これが、私的使用を著作権の制限とする30条1項の趣旨である。

※37 ただし、貸与権については、「公衆に提供する権利」という一文から、私的使用に限らなくても貸与権侵害とはならないという解釈も成立しないことはない。
 また、たとえ私的使用であっても、著作物の編集行為は同一性保持権(20条1項)を侵害する可能性がある。50条は、著作人格権は著作権の制限を受けないと明示していることに注意。とはいえ、これはあまりに妥当性を欠く解釈である。実際は、私的使用に止まる限り、「その意に反し」た変更ではなく(20条1項)、「やむを得ないと認められる改変」にあたると考えるべきである(20条2項4号)。

 ここまでが従来、エンドユーザーによる著作物“使用”の中で間違いなく著作権侵害を構成しないと考えられてきた行為である(※38)。

※38 しかし近年では、「私的複製」が、著作権を全く侵害しないと考えることにも、懐疑的にならざるを得ない。「私的録音・録画に関する補償金制度」の存在である(30条2項)。そもそも、補償金制度は、「私的な複製行為は限定的、零細なものであって、著作権者の権利を不当に害するものではないという考え方に」基づいていた「私的複製」の大前提が、録音・録画技術のめざましい発達により突き崩された事実を契機に立法されている(加戸・前掲222頁)。エンドユーザー一人一人の「私的複製」自体は、零細であり、著作権者等の財産的利益に対する著作権侵害として微細であっても、国民全体が複製した結果、著作権者等の財産的利益に対する重大な著作権侵害になることもあるだろう。
 田村・概説167頁も、「私的複製」すべてを補償金制度の対象とする可能性を指摘している。「私的複製」により著作権者等の財産的利益に対する著作権侵害が行われる可能性を考慮しつつ、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”の自由に配慮を示した結果であろう。


  エンドユーザーの著作物“使用”としてさらに能動的になったのが、web上をはじめとした様々なファン活動である。
 例えば、小説・映画・ゲームについて論評したり(※39)、ゲームであれば攻略法を掲載したり(※40)、作者や作品についてデータベースを作成したりである(※41)。作品紹介として作品内容を要約する場合も珍しくない。作風を真似て小説を書いたり、絵を描いたり、音楽を作成したりする行為も含まれる(※42)。それだけに止まらず、小説や映画・ゲームの設定だけ借りてSSと呼ばれる二次著作物を作成する場合もある(※43)。
 また、DNMLというフリーウェアの普及により、ヴィジュアルノベルやデジタルノベルと呼称されるゲームシステムを活用してオリジナルゲームを作成する場合もある(※44)。他にも、ゲームやアニメ、ドラマの画像を編集、そこに別作品の音声・音楽を当て、まったく別の映像作品を作成する場合もある。これを、マッドムービーという(※45)。
 このような、エンドユーザーによる一連の著作物の能動的“使用”は、webの登場により、問題が顕在化してきた。これら一連の行為が、どこまで著作権の制限として許され、どこまでが著作権侵害となるのかは、判例も、具体的な学説もなく、定かではない(※46)。
 なお、これらファン活動は、なにもwebの登場により初めて誕生したものではない。我が国では伝統的に同人活動が盛んであることに注意されたい(※47)。

※39 例えば、『goo』http://www.goo.ne.jp/で「レビュー 小説」「レビュー ゲーム」「レビュー 映画」と検索を掛けてみる。2000年12月16日現在、それぞれ、17569件・54028件・25534件、登録されていることがわかる。
※40 例えば、『goo』http://www.goo.ne.jp/で「攻略 ゲーム」と検索を掛けてみる。2000年12月16日現在、81402件、登録されていることがわかる。
※41 エンドユーザーが総合的なデータベースを手がけることは少ないが、個別具体的な作者・作品について手がけていることは多い。
※42 作風を真似ることは、従来から行われてきたことである。特に、模倣は何であれ上達の近道であり、多くの小説家・漫画家・芸術家などが実践してきたことである。それが従来問題とされてこなかったのは、著作権法においてエンドユーザーの著作物の能動的“使用”が意識されていなかったことに由来する。また、従来はwebで広く公表するという手段もなく、著作権侵害のおそれが公にならなかった。それが、webによって、『広く不特定多数に、』作風の模倣を公開できるようになったところに、問題点が存在する。作風の模倣をしてそれをweb上で閲覧可能にすることは、当該模倣が、単なる作風の模倣を越え、表現の模倣、すなわち複製あるいは翻案と裁判所に認定されれば、30条以降の著作権の制限を厳密に解釈する限り、複製権(21条)・翻案権(27条)・公衆送信権等(23条)・同一性保持権(20条)の侵害となる。
 なお、著作物の上演・演奏・上映・口述においては、それが営利を目的としない場合に限り、著作権侵害を構成しないが(38条)、やはり、翻案権や公衆送信権等の侵害になるという結論を採用せざるを得ない(加戸・前掲255頁)。
 もちろん、現行法制を保持し、web上での模倣を一切禁止するという政策も考えられる。
 しかし、大衆の視線にさらされてはじめて創作の上達が望める以上、これを一切禁止し、身内でのみ閲覧させるというのは、「文化の発展に寄与することを目的とする」著作権法の趣旨からは問題がある(1条)。脚注14参照のこと。模倣による修練が絶たれるのであれば、その国の著作物文化は衰退する。ある時期の著作権者を保護することで以降の著作物創作を阻害するようなことがあっては本末転倒であろう。問題は、模倣をどこまで認めるかという政策判断である。半田・概説159頁も、著作権の制限を政策判断と断じている。
※43 SS。ショートストーリーの略とも、サブストーリーの略とも言われている。語源の詳細は不明。一般的なSSは、作品(以下、原作)の登場人物の設定だけを借り、オリジナルストーリーを作成するという形態をとる。主に、小説形式を指しての呼称である(漫画形式を取る場合、「アニパロ(=アニメのパロディ)」などと呼ばれる)。原作の舞台設定・世界設定に従う場合と従わない場合がある。従わない場合、その舞台・世界は、SS作者のオリジナルである。例えば、原作が軍隊物であったのが、SSでは学園物になっているといった具合である。また、原作の登場人物が主人公となるのが一般的であるが、まれにSS作者のオリジナルキャラが主人公として登場する場合もある。 なお、SSが二次著作物にあたるか否かは、個々の作品を検討して判断するしかない。これは、従前の著作物をどれだけ真似たかによる判断である。表現において「創作的個性」を真似れば二次著作物であろうし、「創作的個性」ではない表現を真似ただけかアイディアだけを真似たのであれば別の著作物である。脚注14参照のこと。
 キャラクターの著作物性の検討も必要である。東京地裁昭和51年5月26日判決無体集8巻1号219頁[サザエさん事件判決]参照。ただし、右判決は、キャラクターの著作物性を認めた判例ではないことに注意。「既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足るものを再生すること」という複製概念からの帰結を述べただけであり、キャラクター自体に著作物性を認めたとは断じがたいためである(北村行夫『判例から学ぶ著作権』(1996年・太田出版)67頁)。また、東京地裁平成2年2月19日判決無体集22巻1号34頁[ポパイワンポイントマーク事件第一審判決]及び東京高裁平成4年5月14日判決地裁集24巻2号385頁[同第二審判決]もキャラクターが漫画の著作物から離れて別個独立の著作物になることを明確に否定している(北村・判例68頁、田村・概説51頁)。東京地裁平成11年8月30日判決[ときめきメモリアルビデオ事件判決]
http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/15808A4808F99A634925693B00244899/?OpenDocumentは、当てはめに終始しており、その判決理由があまりに希薄であるため、キャラクターに著作物性を認めた判決であるかはにわかに判断できかねる。
 さらに、パロディ引用をどこまで認めるかも問題になる(31条1項)。パロディ引用について消極的な最高裁の立場を採用する限り、SSの展望は暗いのが現状である(最高裁昭和55年3月28日判決民集34巻3号244頁[パロディ事件判決])。
※44 DNML。Digital Novel Markup Languageの略。著作者のハンドル名は「花梨」。
 DNMLは、『「天使の両翼」計画ホームページ』http://hp.vector.co.jp/authors/VA015183/の、 http://hp.vector.co.jp/authors/VA015183/dnml/からダウンロードできる。
 DNMLは、ゲームのイラストや音楽などを使用するだけで、基本的な発想はSSと同じである。まさに、デジタル技術の編集容易性を最大限に活用した作品といえる。
 DNMLは、そのソフトの特性上、原作のゲームを所持していなければ閲覧(あるいはゲームのプレイ)は不可能である。これは、プロテクトといった話ではなく、単純に、DNML が原作のゲームシステムに依存する形態をとるからである。
 なお、DNML自体が原作の著作権を侵害しないかが問題となるが、DNMLは、著作物を複製するわけでも、著作物を翻案するわけでもない。ただ、翻案についての指示を下すことを可能としているだけである。「指示を下すことを可能」としているのみでは、著作権侵害は構成しないと考えるべきであろう。東京地裁平成7年7月14日判決[三国志V事件判決]
http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/611C49DE4F9E353149256936000A0BF0/?OpenDocumentおよび大阪地裁平成9年11月27日判決[ときめきメモリアルメモリカード事件判決]
http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/5C3FA3890A7E28CB49256936000A1785/?OpenDocumentを参照のこと。前者は、「指示を下すことを可能」とするプログラムについての、後者は、「指示を下す」プログラムについての事件である。
 DNMLによって作られる作品が著作権侵害にあたるかは、SSと問題が同じである。脚注43参照のこと。
※45 マッドムービー。再編集したゲーム・アニメ・ドラマの画像に別作品の音楽を当て、主題歌付きのドラマ・アニメ・ゲームのオープニング風に仕立てる場合と、再編集したゲーム・アニメ・ドラマの画像に別作品の音声を当て、寸劇調に仕立てる場合が一般的である。これもデジタル技術の編集容易性を最大限に活用した作品といえる。現在は、複製権(21条)・翻案権(27条)・公衆送信権等(23条)・同一性保持権(20条1項)侵害の嫌疑を掛けられ、その多くがwebから撤退するか、アンダーグラウンドに活動領域を移しつつある。
 マッドムービーが著作権侵害にあたるかは、SSと問題が同じである。脚注43参照のこと。
※46 キャラクターの著作物性の論点やパロディの論点も絡み、その解決は容易ではない。
※47 同人活動。ある作品について批評やSS、アニパロ、データベースなどを作成し、それを同人誌即売会に持ち寄り販売する行為。作成された物は、「同人誌」と呼ばれるのが一般的である。webが発達する前は、ファン活動を対外的に広く発表するための唯一の機会とされていた。
 販売といっても、その多くが印刷費に合わせた価格設定をしているため、利益を上げることは難しい。例えば、コピー誌で、B5版両面20頁で百円というのが、一般的である。この価格設定であれば、余程安いコピー屋(8円コピー、6円コピー)を見つけない限り、同人誌即売会の参加費その他で確実に赤字になる。
 コミケ・同人誌即売会というと、一時期、同人作家のところに税務署が立ち入り、脱税金を徴収した過去があり、営利目的と誤解されている節があるが、一部の例外を除き、その多くは非営利である。参加費も、会場の貸借費用を参加サークル数で頭割りした価格設定であり、多くの場合、そこに営利目的はない。一年の内、限られた時期に、明らかに利益を上げられるとは思えない価格設定で、宣伝目的もなければ、それは「対価を受け取って」いても非営利目的であると考えられる。
 同人誌が複製権(21条)・翻案権(27条)・同一性保持権(20条)侵害を構成するかどうかは、パロディ引用をどこまで認めるかである(32条1項)。対外的に広く販売している時点で、「限られた範囲内」でのみ成立する私的使用(30条1項)とするのは難しいだろう。パロディ引用について消極的な最高裁の立場を採用する限り、SSと同じく同人誌の展望は暗いのが現状である。脚注43参照のこと。なお、ここでは、「対価を受け取っている」ことは、同人誌が著作権侵害を構成するかどうかの判断基準足り得ない。「非営利目的」でも「対価を受け取っている」場合もあり得るし(38条参照)、そもそも現行法上、非営利目的での著作物の能動的“使用”を一般的に認めた条文は存在しないためである。
 同人誌即売会は、非営利目的のもと、個人が有志で主催していることがほとんどである。同人誌即売会を企業が営利目的で主催することは一般的ではない。全国の同人誌即売会の開催情報を載せた『月刊イベント情報誌 C★NET』有限会社エスエスプリントという雑誌を読むと、同人誌即売会は、政令指定都市のすべて、まさに全国規模で開催されていることがわかる。
 同人誌即売会の最大手が、夏と冬に年二回幕張メッセで開催されるコミックマーケット(通称、コミケ)である。また、同人誌即売会ではないが、似たような活動として有名なのが、同じく夏冬年二回幕張メッセで開催されるワンダーフェスティバル(通称、ワンフェス)である(ただし、現在は活動を停止)。特に、コミケは、一回の動員総数が30万人を越える同人活動における一大イベントであり、同人誌即売会の通称としてコミケと呼ばれることがあるほど、その存在は、同人活動において有名かつ一般化している。
 コミケは、『有限会社コミックマーケット準備会』http://www.comiket.co.jp/が、ワンフェスは『海洋堂』http://www.kaiyodo.co.jp/atelier/jindex.htmlが、それぞれ主催している。

 最後に、エンドユーザーの能動的・積極的“使用”としてもっとも極端な行為に、著作物の「私的複製」に含まれない複製(※48)・複製物の公開・技術的保護手段の回避プログラムの公開が考えられる。前者二つは、明確な海賊行為であり、複製権(21条)侵害にあたることは論を待たない。後者も、120条の2第1号により、刑事罰が与えられる。エンドユーザーだからといって、すべてが許されるわけではない。

※48 30条1項の立法趣旨から考えれば、一つ一つは「私的複製」と目される複製であっても、それが大量かつ継続的に行われているのであれば、それは「私的複製」を逸脱する複製と考えられよう。十名程度の限られた仲間内として「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内で使用すること」にあたるとしても、複製が大量かつ継続的に行われれば、それは「著作権者の経済的な利益を害するおそれ」があり、30条1項が予定した「私的複製」を逸脱していると言える場合もある(加戸・前掲214頁)。
 実際、web上での友人づきあいで、(プロテクトがかかっていない)CDを大量かつ継続的に複製し、それをお互いに融通しあうケースもある。プロテクトがかかっている著作物を、プロテクトを回避しつつ複製すれば、右のように考えるまでもなく、著作権侵害となる(113条2項)。
 複製権(21条)侵害を構成するか否かはともかく、ナップスターの問題も、結局、複製が「大量かつ継続的に」行われることに問題が起因している(山下・前掲98〜109頁)。


  このように、一口にエンドユーザーの著作物“使用”と言ってもより受動的なものからより能動的なものまで、様々な形態がとられていることがわかると思う。この事実は、エンドユーザーの著作物“使用”を考えるに当たり、単一の基準で解決できないという点で、問題をより複雑にしている(※49)。

※49 なお、本節では、本論文のテーマに合わせて、エンドユーザーの著作物“使用”について論じているが、これは、著作物の消費者による著作物“使用”にも、同じことが言える。それが、「私的複製」などでどこまで著作権侵害を構成しないかはともかく、上記のように、段階を分けて論じることが出来る。


  このようなファンサイトの活動、エンドユーザーによる著作権の能動的“使用”に対し、著作権者等である企業の対応はかなり遅れているのが現状である(※50)。未だに、全く言及のない企業も多い。
 その上で、ここ一年内で、自社のHP上において「著作権の利用条件について」といったコンテンツを立ち上げている企業も増えている。それを概観すると、以下、四つの傾向が見られることが解る(※51)。

※50 二年前、ファン活動に対する立場を明らかにしていた企業は、特殊な業界を除き、ほとんど皆無であった。著者が調べた限り、大手では唯一、『サンライズ』http://www.nifty.ne.jp/station/sunrise/だけと記憶している(サンライズは、アニメ業界では老舗であり、大手)。
 なお、ほとんどの企業が、web(オンライン)上での基準確定にとどめ、オフラインでの基準まで確定していない。
※51 新聞社についてはhttp://www.hir-net.com/link/np/を、放送局についてはhttp://www.bremen.or.jp/mimi/tv.htmlを、出版社についてはhttp://fleamarket.shohyo.co.jp/index/cgi-bin/pubform.htmlを、ゲーム会社についてはhttp://www.os.xaxon.ne.jp/~takaki/を、アニメ製作会社についてはhttp://www.anime.ne.jp/~honmono/frame.htmlを、レコード会社についてはhttp://www.bremen.or.jp/mimi/link.htmlを、音楽出版社についてはhttp://www.gakki.com/yasuhara/link_publisher.htmlを、手がかりにそれぞれ検索している。
 また、業界毎には以下のような特徴が見られる。
 音楽業界およびゲーム業界は、基準を打ち出しているところが極端に少ない。権利を守る団体として『JASRAC(日本音楽著作権協会)』http://www.jasrac.or.jp/および『CESA(社団法人コンピュ−タエンタ−テインメントソフトウェア協会)』http://www.cesa.or.jp/が存在するためだと思われる。
 出版社も、『小学館』http://www.shogakukan.co.jp/を除けば基準を打ち出している企業はほぼ皆無であった。これは、出版業界には、零細企業が全体的に多いためだと思われる。
 新聞社は、『日本新聞協会』http://www.pressnet.or.jp/が統一意見を打ち出しており、各社それに倣う形になっている。http://www.pressnet.or.jp/info/kenk19780500.htmおよびhttp://www.pressnet.or.jp/info/kenk19971100.htmを参照のこと。

・著作物の能動的“使用”の一切禁止(※52)
 もっとも厳しい立場。個人(エンドユーザー)による著作物の能動的“使用”を一切許さず、著作物の複製の不許可は当然として、「自分で制作した小説やイラスト」なども二次著作物と定義し、その掲載を一切禁止している。
・著作権法の解釈一般に止まり、利用許諾につきいっさい触れていない(※53)
 放送局、新聞社に多い。その解釈も、厳格そのものであり、エンドユーザーの著作物“使用”を事実上不可能なものとしている。
・著作物の能動的“使用”の利用許諾(※54)
 近年基準を作成した企業の多くが採用している立場。二次著作物などの掲載に著作権者の利用許諾を必要としている。
・著作物の能動的“使用”の自由許可(※55)
 古くから基準を公開している企業が採用している立場。オフラインについても基準を確定していることをその特徴とする。零細企業に多い。

※52 例えば、『サンライズ』http://www.nifty.ne.jp/station/sunrise/「サンライズホームページにおける注意事項!」、『東京ムービー』http://www.tms-e.com/「TMSホームページを利用なさる皆様へ」、『小学館』http://www.shogakukan.co.jp/の「画像使用・著作権について」[添付資料4]。
※53 例えば、『TBS』http://www.tbs.co.jp/「著作権について」、『フジテレビ』http://www.fujitv.co.jp/「著作権について」、『朝日放送』http://www.tv-asahi.co.jp/「著作権について」http://www.tv-asahi.co.jp/anb/rights/[添付資料5]。
※54 例えば、『ガイナックス』http://www.gainax.co.jp/「GAINAX E-MAIL ADDRESSES」http://www.gainax.co.jp/mail.html、『タツノコプロ』http://www.tatsunoko.co.jp/「インターネットホームページでの画像使用に関して」http://www.tatsunoko.co.jp/chosaku.html[添付資料6]。
 また。『ベネッセ』http://www.benesse.co.jp/index.htmlは、会社本体のHPには利用条件を明示していないのに、下位の『こどもちゃれんじ』http://www.shimajiro.co.jp/においては、「ご利用条件 こどもちゃれんじホームページについて」http://www.benesse.co.jp/shimajiro/guide/index.htmlを設けている。これは、第一節3で紹介したエンドユーザーとのトラブル(しまじろう事件)があってのことであろう[添付資料7]。
※55 例えば、『Leaf』http://leaf.nerv.ne.jp/「素材引用・二次創作について」、『Tactics』http://www.tactics.co.jp/「Tactics Q&A」、『key』http://key.visualarts.gr.jp/「●製品内の素材の使用に関するQ&A●」http://key.visualarts.gr.jp/q&a.htm、『AIC』http://www.anime-int.com/「AICリンクや画像使用などに関するQ&A」http://www.anime-int.com/hp/links/faq.html[添付資料8]。
 自由許可としながらも、念のため二次著作物の届け出を推奨する企業として、『スタジオピエロ』http://www.pierrot.co.jp/「ホームページ著作物注意書き」http://www.pierrot.co.jp/forum/chosaku/[添付資料9]。

 以上のように、全体的に、特に大企業になればなるほど、エンドユーザーの著作物“使用”を否定する利用条件を設ける企業が多い。種々雑多な、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”に対処できていないのが、実情である。
 一方、特徴的なのが、著作物の能動的“使用”の自由許可を認める企業である。各社、比較的若い企業であり企業とエンドユーザーとの距離が近く、また、コミケといった同人誌即売会でも積極的に活動を展開しているため(※56)、段階を設け、エンドユーザーに配慮した基準を設けていると考えられる。
 しかし、著作物の能動的“使用”の自由許可を認める企業も少数派に止まり、このような現状を見たとき、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”は絶望的と言えよう。

※56 脚注47参照。


第三節 「著作物の消費者」の不認識

  第三節の検討から明らかなように、著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物“使用”は、より受動的なものからより能動的なものまで複雑多岐にわたり、このような多様な著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物の“使用”の在り方に対し、現行著作権法は有効な手を打てていない。
 では何故、現行法が著作物の消費者による著作物の能動的な“使用”やエンドユーザーによるファンサイトの活動に対し、有効な基準を打ち出せていないか。それは詰まるところ、現行著作権法が、このような「エンドユーザー」や「著作物の消費者」による著作権の能動的“使用”をまったく想定していなかったことにつきる。
 現行法上、著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物“使用”を予定している条文は、わずかに二条、私的使用(30条1項)と引用(32条1項)の条文だけである。もちろん、著作権の制限は、30条から48条にわたるが、その多くは目的手段が制限されているため、著作物の消費者やエンドユーザーの著作物の能動的“使用”を規律することは期待できない(※57)。著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”については、限定的にしか考慮されていなかった。日本著作権法は、著作物の制限について一般条項をもうけていないため、著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”は、より一層制限されざるを得ないのが、現状である(※58)。
 確かに、私的使用は、限られたコミュニティーにおいて“使用”する場合に限り完全に翻訳・複製その他すべての能動的“使用”をなす事を認めているし、引用は、エンドユーザーが作品批評という能動的“使用”をなすことを認めている。引用においては、パロディ・オマージュという形で著作物を能動的に“使用”する事も認められるであろう。
 しかし、私的使用は、不特定多数の聴衆の目にさらされるwebでのエンドユーザーの活動を完全に否定している。批評引用も、名誉毀損(113条5項)の訴追にさらされる危険性があることを忘れてはいけない。パロディ引用の場合、最高裁のパロディ判決が打ち出した基準を前提とすれば、その展望は絶望的である(※59)。
 現行著作権法は、著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”に対し、有効な基準を打ち出せていないのみならず、右に対し否定的な決断を下しているのが現状である。企業の基準も、現行著作権法に倣い、エンドユーザーに対し厳しい判断が多い(※60)。

※57 一般条項を設けないという時点で、すでに著作物の消費者による著作物の能動的“使用”を制限している。著作物の消費者によるfair use(公正利用)は許されず、その使用は、報道目的や教育目的といった、特定の目的に関する使用にしか許されていない。また、43条が翻案・翻訳による利用につき制限を設けており、著作物の消費者による著作物の能動的“使用”は、その手段においても著しい制限を受けている。
※58 田村・概説166頁も、「日本の著作権法の現在の制限規定により、人の行動の自由が万全に確保されたとはいいがたいものがある。一般条項も含めて、制限の在り方を検討する必要があることは否めない」とする。
※59 最高裁昭和55年3月28日判決民集34巻3号244頁。斉藤博「モンタージュ写真の作成と著作者人格権の侵害」判例タイムズ439号(1981年)121頁、半田正夫「パロディ=モンタージュ写真事件と著作権」ジュリストNo.719(1980年)89頁は、パロディ判決の基準の厳格さを問題視している。染野啓子「パロディ保護の現代的課題と理論形成」法律時報55巻7号(1983年)35頁は「永久に息の根を止められる結果となるだろう」と絶望的だ。筆者も、作品の「昇華」を必要とする最高裁の基準に反対する。より緩やかな、染野・前掲41頁の基準に基本的に賛成する。また、染野・前掲35頁が指摘するように、同事件をパロディの論点として構成すべきであったか、判例理論には、そもそもの疑問が向けられよう。
※60 第二節5参照。


  しかし、これからのweb社会としては、このような限られた条件でしか著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”が認められないとすれば、問題である。「大方の理解とは異なり、著作権は複製のところに及ぶ権利であるという概念(コピーライトという言葉に端的に示されている)を金科玉条のように受け取る必要はない」(※61)。著作物の消費者やエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”の適切な保護が「文化の発展」に有益であるとすれば(1条)、web社会の到来により著作権モデルが変化しつつある現在(※62)、著作権者等がより一層の譲歩をすべきであるという選択肢も存在しうる。
 それが「著作物の消費者」であれば、利用許諾(63条)契約を結べば足りるとまだ結論づけられようが、それが「エンドユーザー」である場合、コストの問題から、利用許諾を得ることは事実上絶望的である(※63)。ここに、エンドユーザーおよび著作物の消費者による著作物の能動的“使用”を著作権の限界として検討する実益がある。
 もちろん、エンドユーザーにおいても、著作権者の善意により利用許諾を得る可能性もあるが、そのような場合を常に期待することは、現実的な意見ではない。先に見たとおり、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”をいっさい拒絶する企業も少なくない(※64)。

※61 田村・概説104頁。
※62 第一節2参照。
※63 第一節4参照。
※64 第二節5参照。


  このように、現行法上、著作物の消費者、特に、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”については、立法的手当がまったく成されていないのが現状である。理論的には利用許諾(63条)があっても、そのコストを考えれば、エンドユーザーが著作物を能動的に“使用”することは事実上絶望的である。エンドユーザーの著作物の能動的“使用”の可能性は、今までまったくといって良いほど考慮されていなかった。現行の著作権法には、もはや、これからのweb社会でのエンドユーザーの著作物の能動的“使用”を規律するだけの力はないのが、実態である。

 これは法の欠缺(けんけつ)である。

 それでは、このような現状に、我々はどのように立ち向かえばよいのか。
 方法は二つある。
 一つは、そもそも何故、近代著作権法が現行法のような形式を採用したか、その由来を明らかにすること(第三章第一節)。
 「今日我々が直面している事態は、従来の著作権保護の仕組みの変わり目にいるという意味において、著作権制度が現れた18世紀に似ている」ことから、18世紀の著作権法が現行の著作権法制度を採用した由来を、歴史的に明らかにすることが有用である(※65)。
 もう一つが、法律の基本であるところの、利益衡量に立ち戻ることである。著作権者等の利益と著作物の消費者、特にエンドユーザーの利益とを比較、検討する必要があろう(第三章第二節・第三節)。
 もちろん、著作物の消費者やエンドユーザーの利益を考えず、利用許諾無しには著作物の能動的“使用”をいっさい認めないという利益衡量も考えられる。著作権が著作物の排他的独占権を保障するものであることを考えれば(※66)、当然の帰結とも言えるかもしれない。著作権者等の利益とエンドユーザーの利益とを利益衡量する際、併せて検討する(第三章第三節)。

※65 北村・情報化社会12頁。18世紀と似ているとは、次のような意味においてである。
 18世紀当時、「著作物の保護の後ろ盾であった国王の権力や検閲制度が無くなると、一斉に海賊版の横行する時代と」なり、それを解決するのに、著作権法制という法制度・社会システムが開発された。
 一方、「現代は、後ろ盾としての法制度があるにもかかわらず、情報処理と情報伝達の技術が発達し、現代の「海賊」を横行せしめる環境を整え」ている。これは、「万人が、18世紀の海賊版業者となりうる社会」の到来を意味する。ここに、両者の共通点が存在する。
※66 脚注30参照。


  そこで、第三章では、著作権法の歴史を明らかにするとともに、著作権者等の利益と著作物の消費者の利益、特にエンドユーザーの利益とを比較検討する。



第三章

近代著作権法の問題点

第一節 著作権法の歴史

  まず、近代著作権法は、著作者の利益ではなく、出版社の利益をその出発点としている。これは既に、あまたの研究が明らかとするところである(※67)。
 これら研究が明らかにするところによると、著作権法制の歴史は以下のような流れになる。
 かつて著作者たちは、国王をはじめとした多くのパトロンたちによって経済的に養われていた。あまたのパトロンの中でもっとも強力であったのが国王で、国王による特許によってもたらされる年金により、著作者たちはその生活を保障されていた。特許著作権である。それを近代革命が、王侯貴族、すなわちパトロン層を打ち倒してしまった。ここで、従来のパトロン層に代わって著作者たちの面倒を見るようになったのが、出版の世界でいえば書籍業者だったわけである。
 書籍業者が新たなパトロンとして著作者たちの生活を保障するには、資金が必要である。ここに、書籍業者(=出版社)の経済的利益を保障する必要がでてくる。ここで登場してきたのが、世界初の著作権法である1709年アン女王法である。アン女王法は、「著者に存する財産権」ではなく「著書に存する財産権」を保障しており、著書を著作者から買い上げた書籍業者の財産的利益を保障するような仕組みになっている。これを、ドイツ風に言えば、出版著作物に一種の所有権が生じ出版社に帰属するという、出版所有権論ということになる(※68)。
 その後、著作権法の理論は発展し、大陸ではついには、著作者の人格から著作物が生じたという理論が通説となり(自然権論)、1791年のフランス著作権法その他に繋がっている。

※67 脚注29参照。半田・研究9〜24頁、ラットマン・前掲1〜5頁、白田・前掲。さらに、北村・情報化社会13〜19頁。
※68 半田・研究10頁。

 ここで気を付けなければならないことは、著作権法の成立において、著作者の人格から著作物が生じたという理論がはじめから採用されたわけではなく、元々の発生は、出版社のインセンティブ、パトロンである出版社の利益を保障することにより著作物文化を保護するところにあったということである(※69)。著作権法の発生において、重視されたのは、著作者の利益ではなく、まずは出版社の利益であった。

※69 北村・情報化社会16頁。従来は、苗村憲司・小宮山宏之編『マルチメディア社会の著作権』(1997年・慶應義塾大学出版会)25頁のように、アン法は著作者のインセンティブとして理解されていたが、それは理解の仕方として誤りである。


  このような事実の中で、著作権法を立法するにあたって、必ず出版社の利害も考慮されてきたというのは、想像するに容易であろう。事実、近代著作権法をつぶさに見ると、出版社の存在を前提とした著作権法システムが散見される(※70)。

※70 出版社の存在を立法者が意識下においていたかどうかはこの際問題とはならない。

 その一つが、複製権(21条)とその侵害を中心に立法的手当をなす立場、すなわち複製権中心主義である。
 もう一つが、1対1、すなわち著作者と出版社との交渉を前提とした利用許諾(63条)のシステムである。

 日本著作権法は、21条に複製権を定め、それ以外の上演権(22条)その他をすべて複製権の派生原理として捉えている。公衆送信権等など、複製権の範囲で捉えきれないが故に改正で追加された権利も多い。その上で、日本著作権法は、著作物の“使用”を、著作権の制限として把握し、例外的に複製権その他を侵害しないと考えている。まさに、複製権先にありきの複製権中心主義的な発想である。
 日本著作権法の基となったベルヌ条約も、同じように複製権先にありきの複製権中心主義を採用している(※71)。11条以下の権利の多くが、複製権の範囲で捉えきれないが故に改正で追加されている。
 このように、条文の構造を見る限り、近代著作権法は、複製権中心主義を当然の前提としている(※72)。
 ところが、これは考えてみれば不思議な話である。著作物から財産的利益を上げるという意味で著作権を把握すれば、複製権中心主義が、如何に技巧的な構成であるかが理解できよう。財産から財産的利益を上げるという行為は、通常「利用」と呼ばれるはずであり、それは決して「複製」という形で把握されるものではない。財産法の大原則に遡るのであれば、著作物の利用一般中心に著作権法を構成すべきであった(※73)。それが、特に言語・画像の著作物においては、読書という利用行為ではなく、複製という、どちらかといえば二次的に把握されるべき利用行為によって権利化されている。
 もちろん、書籍においては、いちいち朗読してもらっては効率が悪いものであり、識字率が上がった現在、著作物を複製することで広く著作物を流通させ、そこから経済的利益を回収するという考えも解らなくはない。
 しかし、そこに利用権という原則を据えることなく、複製権という、どちらかといえば二次的に把握されるべき利用行為を著作権の根幹たる権利として明文化した事実に注目してもらいたい。そこには、著作物を複製することこそ著作物の利用であるという利害関係人の存在が意識されていることが理解できよう。まさに、出版社にとって、著作物を複製することこそが著作物を利用する行為であり、複製権こそまず第一に保障されるべき権利である。複製権中心主義は、出版社の経済的利益の保護をその出発点としている(※74)。
 また、出版権の存在も、複製権中心主義を補完し、出版社の経済的利益を保障するものとして理解できる。
 前述したように(※75)、著作権法において、複製権(21条)として把握すれば足りるものを、出版権(79条)という別の権利をわざわざ用意した事実を考えてもらいたい。ここには、著作(権)者が、資本力がある出版社(著作者とは他人格であることに気を付けられたし)に著作物を複製・出版することを依頼して初めて、著作物が世に公表されるという前提が、当然のように潜んでいると理解できよう。出版社の介在を当然の前提としているが故に、著作権法は予め出版社の権利を保障しておく必要がある。

※71 ただし、ベルヌ条約の方は、若干複雑な変遷をたどっている。
 まず、複製権(9条)の前に、翻訳権(8条)を定めている。とはいえこれは、国際条約という性質上、当然の要請と考えられる。国家間でもっとも著作権について利害関係が衝突するのが翻訳をする権利であり、何よりもまずはじめに翻訳についてその問題を解決する必要があったためと考えられよう。
 また、「奇妙なことに」複製権は、ストックホルム改正(1967年)に至るまで明文を有していなかった(黒川徳太郎『ベルヌ条約逐条解説』(1979年・著作権資料協会)60頁)。とはいえこれも、あまりに当たり前な権利として考えられ、明文で定める必要がないと判断されていたためであろう。黒川・前掲60頁も、複製権を「著作権の本質そのものである」とする。
※72 複製権を著作権の本質として紹介する教科書も多い。加戸・前掲169頁、田村・概説104頁[法定の利用行為]、半田正夫・紋谷暢男『著作権のノウハウ』(1995年・第五版・有斐閣)118頁。
 一方、人格的一元論者である半田氏は、複製権を著作権の本質と見る理解の仕方はしていないようだ。ただし、出版権については「最も古く、かつ最も典型的」な権利とする(半田・概説214頁)。
※73 利用には、“利用”のみならず、能動的・受動的“使用”を含む。
 著作権を利用権中心に理解するものとして、斉藤博『著作権法』(2000年・有斐閣)156頁。
※74 もちろん、出版社の利益が出発点だったからといって、近代著作権法が著作者の利益を保護していないということを意味するものではない。近代著作権法が、出版社の存在を著作権法の当然の前提としていたということを意味するに過ぎない。
※75 脚注29参照。

 日本著作権法は、原則、利用許諾(63条)によってのみ、著作物の能動的“使用”を可能としている。これも、北村・情報化社会11〜12頁が既に指摘しているように、1対1、すなわち著作者と出版社の交渉を前提としたシステムである。ここにも、出版社が著作権法の当然の前提として存在している。


  問題は、著作権の歴史において何故、出版社の利益を図らねばならなかったかである。それは詰まるところ、技術的な制約に求められる。「著作権法の骨格が現在のようなものに固まった時代にあっては、使用の度に対価を徴収することができるような権利を構成することは技術的に不可能であり、複製のところで対価を徴収せざるをえない事情があった」「大量の人間によって頻繁に行われる行為について逐一許諾を求められたとしたならば、権利者にとっても煩雑で耐えられないであろう」「他方で、…出版社など相当の資本投下をなした者にのみ許されるものであったから、複製を行う者は、読書をなす者の数に比べて極めて少なかった」。そして、「複製の数は、使用の数にそれなりに対応するので、複製のところで著作権者に対価を支払うようなシステムを採用したとしても、著作物の使用価値に応じた対価を著作権者に還流させることが可能である。その複製が行われるところで、複製者に著作権者と交流させることにより、著作権者に対価を還流させるシステムの方が、読書のところで交渉させるシステムよりも効率的かつ現実的であることは明らかであ」る(※76)。
 複製者の数が限られた社会においては、限られた複製者の下で一括で権利処理するのが、最も効率的なシステムだったと言えよう。ここに、複製者(=出版社)の下に権利を集中させる実益がある。
 結果、近代著作権法は、複製権中心主義および1対1の利用許諾システムを採用せざるを得ない状況にあったと考えられる。複製権中心主義および1対1の利用許諾システムは、出版社の存在を当然の前提としている。著作権者は複製をする者と交渉をなせば足り、複製物から投下資本を回収するというのが、近代著作権法の大前提である。この法制は、複製者が限定されているという事実を前提としている。

※76 田村・概説103頁。

 しかし、web社会は、右前提を覆しつつある。
 複製技術の発達、web社会の発達に伴い、複製が容易化し、かつ、複製物の流通が容易化している。デジタル技術の発達により複製はますます安価になり、送信技術の発達は出版社を介在することなく著作物を広く対外的に送信可能となっている。ここにきて複製者の数は増大し、複製権中心主義の前提は完全に崩れた。
 また、1対1を前提とした利用許諾制度は、交渉に時間的にも金銭的にもコストを掛けることが可能である状況を前提としている。ところが、多対多の交渉が行われるweb社会では、著作権者側・著作物の消費者共に、特に時間的コストを掛ける余裕などありはしない。著作物の消費者、特にエンドユーザーにとって、「交渉費用がかさむために、結局、利用が促進されないか、著作権侵害が横行することになる」だろう(※77)。
 しかも、更に問題を複雑にしているのが、様々な著作物の能動的“使用”である。複製を許可するか否かという単純な判断に止まらず、どこまでの能動的“使用”を許可するかというシビアな判断を、多対多の関係で要求されているのが、現在のweb社会の実態と言えよう(※78)。エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”を一律不許可とする企業がでてくる由縁である(※79)。
 この現状において、複製権中心主義と利用許諾のシステムは機能不全に陥る。これが、近代著作権法が抱える問題点の一つである(※80)。

※77 田村・制度58頁。
※78 もちろん、複製にあたっても、複製数などでシビアな判断は要求されることはあろうが、その難しさは、能動的“使用”を「どこまで」許可するかという判断の比ではない。
※79 第二章第二節5参照。
※80 田村・制度55頁も、技術の進歩によって知的財産権の各法が、制度としての前提を失う可能性を指摘する。その上で、技術を法に合わせるのではなく、法を技術に合わせることを提案している。


第二節 排他的独占による利益偏重

  近代著作権には、もう一つ問題がある。著作権法が排他的独占権モデルを採用しているということである。右モデルを採用する限りにおいて、著作物の消費者の利益は軽視され、著作権者等の利益が一方的に重視される。結果、近代著作権法には、著作権者等の利益偏重が見られる(※81)。

※81 吉田邦彦「情報の利用・流通の民事的規制――情報法学の基礎理論序説」ジュリストNo.1126(1998年)188頁。

 近代著作権法は、排他的独占権モデル、すなわち、所有権的構成をその理論的前提としている。所有権的構成においては、所有権は絶対に守られるべき権利であるというドグマが支配し、所有者と利用者との利益衡量はいっさいなされず、精々、所有権の制限という限定された形でのみ認められるに過ぎない(※82)。本来絶対的である所有権は、明文の規定がない限り、権利濫用(民法1条3項)と言えるような場合にのみ、その権利行使を制限されるにとどまる。右のような状況においては、所有者と利用契約を結ばなかった利用者の利益はいっさい考慮されないのが、近代所有権理論の基本である。
 右のような所有権モデルを前提とすれば、著作権もまた絶対に守られるべき権利であるというドグマが支配し、著作(権)者と著作物の消費者との利益衡量はいっさいなされず、精々、著作権の制限という限定された形でのみ認められるに過ぎない。本来絶対的である著作権は、明文の規定がない限り、権利濫用(民法1条3項)と言えるような場合にのみ、その権利行使を制限されるにとどまる。右のような状況においては、著作権者と利用契約を結ばなかった著作物の消費者の利益はいっさい考慮されないのが、近代著作権理論の帰結となる。
 しかし、著作権法が、このような所有権的構成にこだわる理由はない(※83)。
 中山信弘『マルチメディアと著作権』(1996年・岩波新書)12頁以下は、知的財産法には排他的独占権、すなわち所有権モデルが借用されているが、そもそも民法の所有権理論に縛られる必要はないとする。現に、不法行為モデルである不正競争防止法のような保護モデルも存在する。
 さらに、著作権は、他の知的財産権との間に決定的な差異を持つ。その差異を考えたとき、著作権を排他的独占権として把握する必要性はそれほど高くない。
 例えば、特許権の対象となる特許発明は、本来公開になじむ性質のものではない。発明者が発明内容を公開せず、独占的に使用する事は可能である。発明者が発明を公開するのは、公開と引き替えに排他的独占権を獲得するからである。特許法は、社会の技術水準を向上させるという趣旨から、発明者に発明の公開を要求し、その引き替えに、国家によって特許権者の発明に対する排他的独占権という特権を与える構造となっている。
 一方、著作権の対象となる著作物は、本来公開になじむ性質のものではない特許発明と異なり、公表されて初めてその真価を発揮できる存在である。非公開の著作物に価値はない(※84)。従って、特許権のように、公開と引き替えに排他的独占権を与える必要性は高くはない(※85)。
 例えば、商標などは、公開されて初めて意味を有することになる。公表して、多くの消費者に商標の存在を認識してもらい、ブランドイメージを創造することを目的とする(出所表示機能・品質保証機能・広告宣伝機能)。そして、このようなブランドイメージを正しく創造するには、公開した商標などを、利用を望む企業に独占させる必要がある。
 一方、著作権法は、このようなブランドイメージの創造を目的に立法された法律ではない。商標ほど、著作物に排他的独占権を与える必要性は高くはない。

※82 憲法29条1項。所有権は神聖不可侵な権利である(「侵してはならない」)。それを受け、民法も、「所有権絶対の原則」をその基本原理とする。民法第二編第三章第一節で所有権の限界が認められる以外は、所有権は絶対にして不可侵な権利である。山田卓夫他『民法T 総則 有斐閣S シリーズ』(1995年・第2版・有斐閣)22頁参照のこと。
※83 そして、近年の民法理論も、所有権絶対の原則に対し、様々な制限を及ぼそうと試みている。山田他・前掲22〜23頁および淡路剛久他『民法U 物権 有斐閣S シリーズ』(1994年・第2版・有斐閣)136〜137頁参照のこと。
※84 もちろん、公表すること自体は、著作者の発表権(18条1項)の行使に委ねられている。
※85 苗村=小宮山・前掲116頁も、著作権と特許権を同列に置き、著作権を排他的独占権として把握することに疑問を投げかけている。

 また、出版社の存在も、著作物の消費者、特にエンドユーザーの利益軽視に影響を与えている。そこでは、著作者と著作物の消費者との間に出版社が必ず介在することになり、結果、消費者と著作物の消費者との間に、真剣な対話は存在しないことになる。対話がない以上、その存在を知覚することはかなわない。結果、著作(権)者と著作物の消費者との間の利益衡量は、実務上も、理論上も、意識されないことになる。両者の利益衡量が意識されなければ、必然、著作物の消費者の利益は軽視される(※86)。
 もちろん、出版社が介在していたとしても、著作(権)者が自ら矢面に立ち、著作物の消費者との真摯な対話に望むということも考えられるが、現実において、出版社の介在が両者の対話を阻害しているという現状は否めない。著作物の出版は出版社に独占され、著作物の消費者、特にエンドユーザーは、著作物の能動的“使用”を阻害されている。
 両当事者が直接真摯に対話しない限り、両者の利益衡量を図ることは現実問題として不可能であろう。
 ここで、コミケなどでエンドユーザーと直接交渉の機会を持つ、第二章第二節5で紹介した著作物の能動的“使用”の自由許可を認める各企業は、著作権者でありながらも、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”について理解を示しているという現実は、参考になると思われる。

※86 著作(権)者と著作物の消費者との真摯な対話がなされていない現状は、著作物の消費者が著作(権)者の存在を意識することは難しく、結果、著作権侵害も厭わないと言う風潮を生むことにも繋がっている。対話がない以上、その存在を知覚することはかなわない。根が深い問題である。


  その結果が、著作権者側の利益偏重である。

 近代著作権法は、著作権者等の経済的利益のみが重視され、その反対利益を有する著作物の消費者の利益は全く考慮されてこなかった。著作権法は、著作物の制限で認められている行為をなすことのみが、著作物の消費者にとっての利益であると断じてきたと言えよう。
 著作物の消費者の利益の軽視は、今までの著作権法改正作業においても、顕著な傾向である。第15期著作権審議会専門委員名簿
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chosaku/meibo/000701.htmを眺めてみても、著作物の消費者、特にエンドユーザーの代表者は出席していない。反対利益の代表者を出席させないというのは、立法の在り方としても明らかに問題がある。

 これからのweb社会は、著作権者と著作物の消費者との間で直接交渉が持たれる社会である。そこでは両者の真摯な対話が必要であり、著作権者等の利益のみならず、著作物の消費者の利益も衡量する必要がある。そして、著作物の消費者、特にエンドユーザーの利益として最も保護しなければならないものこそ、表現の自由(憲法21条1項)である。第三節においてより詳細に検討することにする。


第三節 考えられるべき利益衡量

  まず、ここで認識してもらいたいことは、著作物もまた表現であること。従って、著作権法も、表現の自由(憲法21条1項)を考慮する必要があるということである。著作権者等の保護も重要だが、それは決して、表現の自由を蔑ろにするものであってはならない。
 もちろん、著作権もまた、一つの財産権である(憲法29条1項)。財産権侵害が許されるものではない。著作権もまた、財産権の一つとして憲法上保護されるべき権利であることは間違いない。
 そして近代著作権法は、著作権の制限(30条以下)という立法的手当によって、著作権者等と著作物の消費者との利益を衡量してきた。複製技術の発達により容易に複製権(21条)侵害が可能となった現在、まずなすべきことは、いかにして著作権という財産権を著作権侵害から保護していくかであろう。「このような事態を前にして、著作権を管理するという必要性だけからいいますと、情報全体を管理する仕組みを作ってしまえばいい」のである(※87)。
 しかし、ここで考えなければならないことは、従前の著作物を利用しない著作物など存在しないという当然の事実である。「創作的表現」は、無からは絶対に生まれようがない。従前の著作物を利用しなければ次の著作物が生まれないとすれば、そこで現在の著作物に対し著作権法で絶対的な保護を与えることは、著作権法にとって自殺以外の何者でもない。最低でも50年は新たに著作物を創作する道は絶たれ、著作物文化は衰退する(※88)。著作権法1条は空文化することだろう。この点、3を参照のこと。

※87 北村・情報化社会12頁。
※88 50条2項参照。

 思うに、著作物創作・発表の自由という表現の自由を考えたとき、二次著作物だから、著作物の能動的“使用”だから、直ちに著作権侵害にあたるとするのは、暴論以外の何者でもない。表現の自由はあまたの人権の中でもとりわけデリケートな権利である(※89)。表現の自由を制限する場合、慎重に検討する必要があろう(※90)。
 そして、著作物の消費者、特にエンドユーザーの利益を考え、著作物の能動的“使用”の範囲を拡張することは、web社会における表現の自由の保護を考えたとき、絶対にはずせない検討課題である。
 ここで、憲法において知る権利が発生した由来を考えてもらいたい。
 知る権利は、そもそも、かつて情報の送り手の権利、すなわち表現の自由を保護してさえおけば足りていたのが、社会の高度化に伴い、情報の送り手と情報の受け手が分離・固定化し、情報の送り手たるマスメディアが情報を独占し、かつ、情報の受け手である国民に一方的に伝達するようになった社会実態に起因している。もはや、情報の送り手と情報の受け手は固定化され、マスメディアの助力無しでは、国民が情報の送り手となることはあり得ない。そこで、せめて受け手の権利、すなわち知る権利を保障することで、この問題を解消しようというところにあった。知る権利とはいわば、表現の送り手となれない国民の表現の自由を守るための苦肉の策である(※91)。
 ところが、web社会はその状況を一変させた。技術の発達は、国民個人個人が情報を蓄積し、かつ、それを全世界レベルで発信することを可能にしている。技術的コスト的に優位に立つが故に情報を独占し、かつそれを送信していたマスメディアや企業に、もはや国民が頼る必要はなくなった。web社会においては、知る権利という苦肉の策に頼る必要はない(※92)。国民は、マスメディアに頼ることなく情報を受け、かつ発信できるようになった。ここで、著作権者等の経済的利益のみにこだわり、著作物の消費者、特にエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”を過剰に制限することになれば、社会の流れは再び逆行し、エンドユーザーすなわち国民は、再びマスメディア(企業)を介さねば情報を受けかつ発信することは出来なくなる。企業による著作物発表の独占およびコンテンツ・コントロールを許してはならない。これからのweb社会において、これだけは絶対に避けねばならない現象である。ここに、著作物の消費者、特に、国民の大部分であるエンドユーザーに著作物の能動的“使用”を認めなければならない理由がある。受動的“使用”だけでは、消極的に知る権利を認めているだけに過ぎない。表現の自由の本来の趣旨である、送り手の自由を保障すべきである(※93)。
 ここに、著作物の消費者、特に、エンドユーザーの著作物の能動的“使用”を認める必要がある。

※89 精神的自由権、特に表現の自由は「壊れやすく傷つきやすい」とされている。芦部信喜『憲法』(1997年・新版補訂版・岩波書店)174頁参照。
※90 北村・情報化社会12頁が、「近代社会というのは、言論の自由を基礎に成り立っておりますから、これを蔑ろにして著作権の管理という問題を考えることはできない」「著作権制度が揺れているように見える原因というのは、言論表現の保障という近代的な制度としての情報伝達の自由を保障しながら、個人によって発信され、利用される著作物の管理の万全を期するという要求をいかにして調和させるかという問題に直面している」とする由縁である。
※91 芦部・前掲160〜161頁。より詳しくは、奥平康弘『知る権利』(1979年・岩波書店)1〜90頁および同『表現の自由U』(1984年・有斐閣)290〜310頁参照のこと。
※92 もちろん、これは理想論である。実際には、国民とマスメディアとの間の技術的・コスト的な優位が崩れることはない。マスメディア(企業)はこれからも、情報を集めそれを発信することについては、国民と比べ圧倒的に優位に立つ。知る権利は、これからより一層重要な権利として把握できよう。奥平・知る権利69〜73頁参照のこと。
※93 利用許諾(63条)について、著作権者の自由裁量に委ねるとしても、企業が資本の理論で自己の著作権を用いれば、資本力に劣るエンドユーザーは、事実上著作物を創造する道が絶たれる。これは、エンドユーザーにとどまらず、表現の自由全体にとって、致命的なことである。webの発達が、企業による表現の独占、マスメディアによる情報の独占という状況を打破したのに、その流れを著作権法で逆行させる必要はない。
 これは、知る権利においてアクセス権を認める以上に重要な問題である。web社会は、HPやメーリングリストという形で、エンドユーザーたる国民に表現する自由を与えた。国民はもはや、マスメディアに対し表現発表の場を設けることを積極的に請求する必要はない(アクセス権)。アクセス権を改めて保障する必要も無かろう。しかしそれも、そもそも表現のおおもとである従来の著作物の能動的“使用”が保障されてこそ可能となる。著作物の能動的“使用”が認められなければ、そも、表現を発表することは不可能になる。

 また、著作権の人格性を強調すれば、著作権侵害は著作(権)者にとって幸福追求権(憲法13条)の侵害と構成できよう。
 しかし、幸福追求権といえども、無条件で保障される人権ではない。様々な制約があり得る。
 思うに、従前の著作物を利用しない著作物など存在しない。「創作的表現」は、無からは絶対に生まれようがない。従前の著作物とはすべからく「先人の文化遺産」である。「著作物はそれを作成した著作者個人のものであると同時に国民共通の文化財産としての一面を有する」(※94)。
 従って、著作物とは、国民の共通財であり、すべからく公的な性質を持つ。そうであるとすれば、著作(権)者による著作物の利用には自ずと制限がかかるのは当然である。著作(権)者といえども、著作物の排他的独占は認められず、「公共の福祉」に従ってその利用は制限される。著作(権)者は、著作物が公的な性質を持つが故に他者に利用されることを受忍しなければならない。

※94 半田・概説159頁。

 更に、幾ら著作権者の財産権保護・幸福追求権の保護だとしても、著作権法が刑事罰を設けていることを忘れてはならない(119条以下)。著作物の消費者の表現の自由を考えたとき、著作権者を保護とはいえ過剰に著作物の消費者を罰することは、適正手続きの原則(憲法31条)から問題がある。適正手続きの原則は、手続きが適正のみならず、実体法の内容も適正であることを要求する(※95)。

※95 芦部・前掲219頁。


  著作権者等にとっても、いちいち利用許諾(63条)をしなければならないとすれば、それは大きな負担である。
 すなわち、誰もが複製できる社会、誰もが著作物を能動的に“使用”できる社会においては、いちいち利用許諾(63条)を得なければ著作物を能動的に“使用”できないというのは、逆に社会モデルとして非効率的である。これは、“使用”する側にとって非効率的であるのみならず、“使用”させる側、すなわち著作権者として利用許諾(63条)をなす側としても、“使用”内容をいちいちを検討するという手間を負担することでもある(※96)。
 利用許諾というシステムは、あくまで、著作者と出版社という1対1の交渉を前提とした著作権モデルであり、万人が著作物の能動的“使用”をなし、多対多の交渉が行われうるweb社会に向いたシステムであるかは疑問が持たれる(※97)。著作権者側の負担を考えれば、著作権の制限の範囲を広げ、無料かどうかはともかく、著作物の消費者によるよりいっそうの著作物の能動的“使用”を認めることにつき、著作権者と著作物の消費者、両者の思惑は意外に一致する。
 なるほど、利用許諾とは、そもそも民法の契約理論から発生したシステムである。市民個人は一人の自由かつ平等な人間であり、それぞれが自由な意思を持って交渉に望み、契約締結にこぎ着けることを前提にしている。
 しかし、このような民法の契約モデルが社会実態を反映していないことは既に明らかなことである。特に、社会の高度化に伴い、1対1でじっくりと交渉し契約を締結することは困難である。多対多の契約を迅速に行うべく、契約が類型化・モデル化されるなど、民法理論はその変質を迫られている(※98)。
 民法の契約モデルが変質を迫られている現在、民法の契約モデルを採用している著作権法もまた、変質を迫られていると考えるべきだろう。

※96 田村・概説104頁。
※97 第一節3参照。
※98 普通取引約款の登場である。ここに来て、民法は契約自由の原則の修正を迫られている。藤岡康宏他『民法W 債権各論 有斐閣S シリーズ』(1995年・第2版・有斐閣)9〜12頁。


  著作物の消費者の保護は、著作者の権利保護という意味においても重要な意味を持ちうる(※99)。
 著作物は、従前の著作物の利用によって創造される。このことはすなわち、著作物の消費者は、次の著作者でもあるということである。このような理解の基においては、著作物の消費者の保護と著作者の保護は同義であると言えよう。著作物の消費者による著作物の能動的“使用”の保護は、次の著作物の保護に直結する(※100)。
 もちろん、著作物の消費者の利益を重視するあまり、今現在の著作権者の利益を軽視できるものではない。今現在の著作権者等の利益を保護しなければ、著作物創造のインセンティブは失われ、結果、著作権法1条の趣旨は損なわれる。
 しかし、ここで気を付けてもらいたいことは、インセンティブ理論は、「著作者」の実感とずれがあることである。
 インセンティブ理論は、功利主義を前提としているが、「著作者の表現意欲は、必ずしも功利的なものではない」。右は、法律家たちが看過しやすい事実である。「出版業者の承認としての功利主義的な発想へと著作者の執筆動機を矮小化してしまっている」と言えよう。インセンティブ理論は、「保護すべき対象を、市場に受け入れられる、いわゆる売れる著作物を想定していると言わざるを得」ない。インセンティブ理論はあくまで商人にとっての理論であり、表現の自由の一翼を担う著作物についての法律、すなわち著作権法で、常に妥当する理論ではない(※101)。名誉欲だけで作られる著作物も、決して少ないわけではない(※102)。
 インセンティブ理論を前提に今現在の著作権者等を保護することも重要だが、当該著作物を能動的に“使用”した結果創造される次の著作物と著作者の存在を忘れてはならない。

※99 著作「権」者ではなく、著作者である。
※100 苗村=小宮山・前掲277頁。
※101 以上、北村・情報化社会18頁。
 思うに、インセンティブ理論は、著作権法において常に妥当するわけではない。妥当することもあれば、妥当しないこともある。
 しかし、インセンティブ理論が著作権法で妥当しない場合があるからといって排斥すべきではない。現代社会が資本主義を前提としている以上、著作権法の一翼を担う重要な理論であることには変わりが無かろう。重要なのは、インセンティブ理論が妥当する範囲を見極めることである。
※102 このように著作権法の問題点を理解したとき、近年のweb上でのフリーウェアの流通は、著作権者等の財産的利益、特に出版社の財産的利益を重視してきた著作権法に対する、著作者の反発として理解できよう。
 フリーウェアとは、なにも著作権を放棄するものではない。フリーウェアの著作者の多くがが要求していることは、著作物が自分の名前の明示の「要求」と、営利目的で頒布することの「禁止」である。これは、著作権として構成すれば、著作物人格権の保持と、営利目的に対する利用許諾(63条)の拒否である。なんら、著作権そのものを放棄しているものではない。財産的利益、特に出版社の財産的利益を重視してきた著作権法に対し反発し、ただ、多くの人に自分の著作物を知ってもらいたいという名誉欲、原始的な欲求のみで著作物を公開している。この現象は、「著作者の表現意欲は、必ずしも功利的なものではない」という北村・情報化社会18頁と見事に一致する。フリーウェアの流通に見られるものは、著作者としてのアイデンティティを取り戻すという活動そのものである。


  結局、著作権法の本質とは、人はその知的創作物に対して権利を主張することが出来るはずであるという「自然権論」でも、著作者に創作活動のインセンティブを与えるという「インセンティブ理論」でもなく、著作権者等と著作物の消費者との「利益衡量」にすぎない。自然権論もインセンティブ理論も、著作権制度の意義として、著作権法の体系に一定程度の指針を与えるものではあるが(※103)、より具体的な権利関係を確定するには、はなはだ不十分な理論である。著作権法制の権利関係を最後に決定する原理は、利益衡量という、法律学の深淵以外にあり得ない。これを、情報法学の用語で言い直せば、「情報の保護と利用のディレンマ」「情報の所有・独占と利用・アクセスのディレンマ」である(※104)。
 著作権法とは、著作権者等の著作物の独占と著作物の消費者による著作物の利用との利益衡量の結果である。
 それが、今までは、両者の利益衡量が意識されることはなく、排他的独占権・所有権的モデルを絶対の前提としていた(※105)。ここに近代著作権法の問題が存在する。
 また、歴史的に見ても、複製権中心主義・利用許諾のシステムは既にその役割と終えていることは、今までの議論で明らかである。

※103 田村・概説6〜9頁。
※104 吉田・前掲185頁。
※105 吉田・前掲188頁。

 近代著作権法が前提としていた様々な理論的・歴史的・技術的前提は、web社会の発展に伴い、完全に崩壊する。そうであれば、現行著作権・近代著作権の法制度にこだわる必要はどこにも存在しない。これまでの議論をふまえた上で、新しい著作権モデルを模索する必要がある。



第四章

利用権中心主義の提言
〜まとめに代えて〜

第一節 立法論〜利用権中心主義〜

  第三章における検討で、近代著作権法には様々な問題点があることが明らかとなった。問題点は大きくは二点に分けられる。
 一つは、出版社の存在を大前提とした法体系という問題。エンドユーザーの技術発達に伴い、出版社以外にも、著作者と直接利害関係を有する者が増大することにより、著作権法システムは機能不全に陥った。
 一つは、著作権を著作権者の著作物に対する排他的独占権と構成してるという問題。著作権者等の利益を一方的に重視するあまり、著作物の消費者、特にエンドユーザーによる著作物の利用を看過している。結果、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”が絶望的になっている。
 web社会の到来に伴い、上記の問題点が露見することになり、ここに来て著作権法は大きな転換期を迎えることになった。新しい著作権モデルの模索である。
 それでは、これからのweb社会において、どのような著作権モデルがふさわしいか。


  ここで筆者は、利用権中心の著作権モデルを提案したい。
 利用権中心の著作権モデルの概要は、以下の通りである。

・「利用権」の創設
・利用の類型化
・エンドユーザーの権利保護


  「利用権」の創設
 まず、従来の複製権中心主義・排他的独占権モデルが採用していた「複製の禁止権」という構成を廃し、単純に、著作物の「利用権」を中心に著作権法を再構成する必要がある。
 なぜなら、利用とは、財産権において最も基本的な行為であり、財産権を把握するには、利用権を中心に把握するのが最も適切だからである。この利用権による把握は、その権利の性質が物権的であるか債権的であるかに関わらず有効な方法であろう。
 思うに、利用権による理解は、著作権においては特に有効な把握方法であると考えられる。著作権は、著作(権)者が著作物を利用することは当然として、著作物の消費者も著作物を利用することを当然の前提としている。著作物は、著作権者等による“使用”ではなく、著作物の消費者によって様々に“使用”されてこそ、初めてその目的を達成するからである。読まれない小説も、見られない映画も、遊ばれないゲームも、著作物としては意味をなさない(※106)。
 また、著作物は、従前の著作物の影響を常に受ける。従前の著作物の利用によって当該著作物が創造されるので有れば、当該著作物もまた利用され、新たに著作物が創造されるのを受忍しなければならないのは、当然の法理である。結果、著作物は、にわかに国民の公共財としての性質をも有することになる。このような著作物の性質をふまえた場合、著作物は、他者に利用されることを潜在的に予定していると考えるべきである。
 以上から、著作権法は、著作権者等による「利用」および著作物の消費者による「利用」として把握される必要がある。その上で、著作権者等による利用が、他者、すなわち著作物の消費者の利用をどこまで制限できるか、それを検討する必要がでてくる。著作権を、著作権者の著作物に対する排他的独占権として把握するのではなく、著作者の著作物に対する相対的利用権・他者に対する「利用制限請求権」として把握する必要があろう(※107)。

※106 これを無体財産権一般の特質と考えてはいけない。
 例えば、特許において特許発明を利用するのは、特許権者のみである。「特許発明で作られた商品」を利用する人たちは、「特許発明によって作られた商品」を利用するのであって、「特許発明それ自体」を利用するわけではない。特許発明の利用は、特許権者および特許権者から通常実施(特許法78条)を得た者のみに限られる。
 一方、著作権は、読書行為か複製行為か、より受動的かより能動的か、という差異は生じるものの、著作物それ自体を著作物の消費者も利用することを、その大前提としている。
※107 苗村=小宮山・前掲122頁以下。小宮山氏のアウトプット論を参考にしている。
 アウトプット論は、用語の特殊性およびあまりの先駆性により、今までほとんど省みられていなかったが、その基本的発想は極めて単純であり、実に優れた著作権モデルを我々に提供している。
 アウトプットとは、すなわち、著作物の能動的“使用”(“利用”を含む)・「利用」である(苗村=小宮山・前掲126頁)。
 そして、アウトプット論とは、著作権者による「利用」と著作物の消費者による「利用」とが衝突した場合に、どちらを優先すべきかという判断に他ならない(「利用制限請求権」)。そこには、従来の排他的独占権モデルを前提とした著作権法が採用する「著作権の制限」という発想ではなく、著作権法が採用する立法趣旨(著作権法1条「著作者等の権利の保護」)を前提とした上での「利益衡量」が存在するだけである。そして、アウトプット論が従来の議論よりも優れていた処こそ、「利益衡量」という発想をその理論の視野の中に予め持ち込んでいた点である。
 しかし、残念なことに、アウトプット論は「アウトプット」という特殊な用語を採用したため、その理論の意味するところが必ずしも理解されていたわけではなかった。
 本論文では、この点を反省し、読者になじみやすい「利用」および「利用権中心主義」という用語を採用することにする。
 ここで利用とは、受動的“使用”と能動的“使用”、および“利用”を含んだ概念と定義する(脚注73参照)。いわゆる、日常用語で言うところの、利用と使用とを合わせた用語と理解してもらいたい。
 なお、利用権中心主義は、利用の定義の中に受動的“使用”も取り込んでいる点、アウトプット論との間に差異がある点は注意されたい。アウトプット論は、アウトプット、すなわち公開された情報利用についてのみ妥当する理論である(「公開された情報利用」とは、公開した情報を利用する、情報の利用を公開する、二つを含意する)。アウトプット論は、「私的使用として許容されている範囲を超えてアウトプットをすることが、法的問題となる」とする(苗村=小宮山・前掲247頁)。


  利用の類型化
 では、著作権者等による利用が、他者、すなわち著作物の消費者の利用をどこまで制限できるか。ここで有効なのが、著作物の消費者による利用の類型化である。そこで本論文では、まずは@著作物の受動的“使用”A著作物の能動的“使用”B著作物の“利用”の三つに類型化することにする。

 @著作物の受動的“使用”とは、小説ならば読書、演劇ならば観劇、ゲームならばゲームプレイなどを意味する。
 右行為は、著作物にとって当然予想される利用形態であり、そもそも著作物は上記のような利用をされることを当然の前提としている。読まれない小説にも、見られない演劇にも、遊ばれないゲームにも、何ら価値はない。
 以上から、著作権者等は著作物の消費者による著作物の受動的“使用”を制限できない。

 B著作物の“利用”とは、営利目的をもって、複製などの著作物の能動的“使用”をなすことである。
 右行為まで完全に著作物の消費者の自由に委ねるとすれば、著作(権)者は、著作物から収益をあげることは阻害され、結果、著作物創作のインセンティブは損なわれる(※108)。
 そこで、著作物の消費者が著作物を“利用”するには、著作権者の利用許諾が必要とすべきである。著作権者等は、利用許諾という形で著作物の消費者の“利用”を制限できる。

※108 まさに、インセンティブ理論が妥当する領域である。

 問題は、A著作物の能動的“使用”である。能動的“使用”は、複製・翻案・上演など、著作物の受動的“使用”に止まらない、能動的・積極的な利用形態である。“利用”との違いは、営利目的の有無であり、能動的“使用”は、営利目的がない利用形態であることをその特徴とする。この、営利目的の不在が、能動的“使用”を難しいものとしている。
 従来、営利目的がない能動的“使用”は、コストの関係から不可能とされてきた。複製するにしても、翻案するにしても、上演するにしても、莫大な費用がかかり、営利を追求せずには投下資本の回収は図れなかったためである。能動的“使用”を可能とするには、莫大なコストの浪費を回避し利用量を制限するか、膨大なコストの浪費を受け入れ利用回数を制限するかであった。前者であればコピー本の配布は身内に限られ、後者であれば演劇サークルでの上演は年数回に限られることになる。従来は、著作権法で著作物の能動的“使用”を考慮する必要はなく、精々、旧来からの慣習に則り、「私的複製」(30条1項)や「非営利目的の上演・演奏」(38条1項)を例外的に条文として設けておけば足りていた。
 ところが、webというメディアの誕生が状況を一変させた。
 デジタル技術の発達は複製・編集といった著作物の能動的“使用”を技術的にもコスト的にも容易にし、かつ、その送信を技術的にもコスト的にも容易にする。結果、営利目的無く能動的“使用”することが、誰にでも可能となった。ここに来て、著作権法は、著作物の消費者による著作物の能動的“使用”を考慮する必要性に迫られることになった。
 ところが、ここで更に問題となるのが、能動的“使用”の様態の多彩さである(※109)。そこで、著作物の能動的“使用”について、更に類型化を試みる必要がある。以下、大まかに三つに類型化した。具体的な事例においては、下記三つを合わせて両当事者の利益を衡量した上で、最終的な結論を出す必要があるであろう。相関関係による判断である。

※109 第二章第二節3参照。

 一つは、露出度による分類が考えられる。
 @)数人の関係でなされる著作物の能動的“使用”、A)サークル関係でなされる著作物の能動的“使用”、B)対外的にもある程度積極的になされる著作物の能動的“使用”、C)web上での著作物の能動的“使用”の四つが考えられよう。
 @)は、家族関係や友人関係など、従来「私的複製」が予定していた著作物の利用形態である。著作権者は、いかなる場合であっても、著作物の消費者の利用を制限できない。このような、限定的関係であれば、営利目的であっても「私的複製」を認め、著作権者は、著作物の消費者の利用を制限できないと立法することも考えられよう(※110)。
 A)は、十人から百人規模を、B)は、我が国独自の文化である同人誌即売会をそれぞれ想定している。
 A)からC)については、現行法上は、著作権の制限とは考えられてこなかった領域である。そこで、現行法を前提とする限り、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できるという結論に至りやすいであろう。
 しかし、筆者は、著作権者等と著作物の消費者との利益の衡量を考えたとき、著作権者等の経済的利益を害さなければ、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できない、と結論づけてもかまわないと考える。特に、営利目的を持たないエンドユーザーの表現の自由、著作物創作・発表の自由を考えたとき、右を認める必要性は高いと思われる。
 このように考えると、露出度による分類は、利用制限の基準としてはそれほど有効ではないことになる。

※110 田村・概説168頁。

 一つは、「創作的個性」への侵害の度合いによる分類が考えられる。
 @)アイディアの流用A)表現形式の特徴の一部流用B)表現形式の特徴の全部流用C)表現形式全体の流用の四つが考えられる(※111)。
 @)は、“使用”“利用”問わず、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できない。これは、著作権法において当然の前提である。
 A)は、論評や二次著作物を想定している。いわゆるパロディもここに含まれる。第二章第二節3を例に挙げれば、ゲーム攻略、作品要約、および作風模倣の一部がA)に含まれる。また、多くのSSやDNML文書もA)に含まれよう。これらは、原作を想像させて初めて著作物として有効に機能する性質を持っており、しかも、パロディが例に挙げられるように、原作のイメージを損なう場合も多々あり得る。そこで、右行為においても著作権者が著作物の消費者の利用を制限できるとすれば、事実上、右行為による利用形態はおよそ不可能となる。著作権者の利益を不当に侵害する行為でない限り、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できないと考えるべきであろう。「不当に侵害」したか否かの要件として、染野・前掲41頁の基準は有用である。
 B)は、翻案を想定した利用形態である。ここまで来ると、「創作的個性」への侵害は著しく、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できると考えなければ、著作権法を定めた意味が無くなる。当然に、制限できる。
 従って、大規模なサークルによる海外未訳の翻訳は、制限されるという結論を採らざるを得ないであろう。
 C)は、複製・上演・演奏等を想定している。B)と同じく、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できる。
 ただし、上演・演奏などは、旧来からの「公正な慣習」に則り、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できない場合があってしかるべきであろう。38条1項参照のこと。

※111 橋本・前掲31頁を参考に類型化。

 一つは、「対価の授受」の有無による分類が考えられる(※112)。
 これは、“利用”とのメルクマールとしても重要である(※113)。営利目的ではなくても、「対価の授受」が有れば、著作権者は著作物の消費者の利用を制限できると考えられるべきである。ただし、「対価の授受」があれば一律禁止、ではなく、対価の段階に応じた処理も考えられよう。

※112 38条1項参照。
※113 第二章第一節4参照。

 以上から、著作権者によって、著作物の消費者による著作物の能動的“使用”を制限できるか否かの判断は、「創作的個性」への侵害の度合いと「対価の授受」の度合いとの相関関係により決するべきである。
 なお、上記のように類型化して制限の可否を考えたとしても、その結果、利用許諾による利用制限の可否という単一・単純な基準を採用する必要は必ずしもない。特に、1対1を前提とした利用許諾のシステムは、多対多のweb社会では機能不全に陥りやすい。そこで、「私的録音・録画に関する補償金制度」をはじめ(30条1項2号)、超流通やコピーマートといった様々な手法が考えられる(※114)。

※114 森亮一「ソフトウェア――流通の混乱を打開する超流通、使用記録の回収で料金回収」日経エレクトロニクス582号(1993年)98頁以下および北川善太郎「著作権市場論、取引の場を構築する」日経エレクトロニクス582号(1993年)94頁以下。近年では、森亮一氏による「超流通:知的財産権処理のための電子技術」http://sda.k.tsukuba-tech.ac.jp/SdA/reports/A-59/draft.html、北川善太郎氏による「コピーマートの仕組み」http://www.copymart.gr.jp/japan/copy/cm_cm_f.htmlを参照のこと。


  さらに、利用形態による類型化の他に、目的による類型化も考えられるかもしれない。現行の著作権法が採用するところでもある(38条参照)。筆者も、上記の類型において営利目的という目的を類型化のメルクマールに取り込んでいる。
 しかし、筆者は、目的による類型化については、目的の認定など、判断を無用に困難にするのみならず、判断基準として無意味ですらあると考える。

 例えば、ここに論文が一つあるとする。この論文は、「公正な慣習」に則り、引用がされている(32条1項)。
 では、ここでなされた引用が著作権で制限できない理由は何か。
 思うに、現行法上においても、右判断において重要なのは、「学術目的」ではなく、「公正な慣習」であろう。これは、「学術目的」であっても複製が許されないことを考えれば明らかである。何も、「学術目的」だから著作物の能動的“使用”が許されるわけではない。目的は、判断基準の一部に過ぎないし、判断基準としても、それほど重要な要素では無かろう。
 また、著作権法1条は、「文化の発展に寄与」することをその趣旨としており、「個別の学術・報道などの発展に寄与」することを趣旨としているわけではない。目的による類型化は、時に、立法で定められた目的以外で「文化の発展に寄与」する場合を看過しかねない。現に、日本著作権法は、ファン活動という目的を、見事に看過していた。「文化の発展に寄与」するという視点で見たとき、学術目的や報道目的に比べ、ファン活動が劣っているという理由は定かではない。

 以上、三点を考慮したとき、目的による基準策定は、営利目的を除き、それほど有効に機能しないであろう(※115)。目的による基準確定に反対する。

※115 著作権は、著作者の財産的利益の保護を趣旨とする以上、著作物からの財産的利益を他者に帰属させる理由はない。営利目的を持つ著作物の消費者の著作物の利用は、制限されてしかるべきである。
 従って、営利目的は、判断基準として有用である。


  エンドユーザーの権利保護
 利用を類型化するにあたっては、エンドユーザーの権利保護に留意する必要がある。
 なぜなら、著作権とは、著作権者の財産権と著作物の消費者の表現の自由との利益衡量の問題と考えられるからである。特に、国民のweb上での表現の自由、著作物創作・発表の自由を考えたとき、企業による著作物発表の独占、コンテンツ・コントロールだけは避けなければならない事態と言える。営利目的がないエンドユーザーの著作物の利用を制限するには、細心の注意を要すべきである。第三章第三節1参照のこと。

 ここで、料金体系を階層化した『JASRAC』http://www.jasrac.or.jp/の取り組みhttp://www.jasrac.or.jp/doc/sinseian.htmは、傾聴に値する(※116)。ワンフェスにおける一日版権制度の取り組みも、傾聴に値する(※117)。コスト面で企業に劣るエンドユーザーにとって、著作物の能動的“使用”を阻む一番の要因は、金銭の問題だからである。

※116 http://www.jasrac.or.jp/doc/reason.htmにおいて解説もなされている。
※117 一日版権制度。各企業申し合わせの上、各社の著作物についての著作権を放棄し、エンドユーザーに、一日だけ、ワンフェスの会場において、ガレージキットの創作を認める制度。ファン活動の一環として、古い歴史を誇る。


  以上、利用権中心主義として掲げた上記三点を考慮し、立法論として、新たな著作権法のモデルを模索する必要がある。その場合、柔軟に社会の進展に対処できる一般条項の創設が望まれるであろう。


第二節 解釈論〜権利濫用理論〜

 とはいえ、上記は立法論であり、ある種の理想論である。現状において、著作権法すべてを全面的に改正することは、社会への影響力などを考えたとき、不可能であろう。
 そこで、現状においては、現行著作権法を認めた上で、解釈論による修正を図るしかない。
 では、利用権中心主義を前提とした場合、どのような解釈によって、修正を図れるであろうか。
 思うに、「著作権者は著作物の消費者の利用を制限出来るか否か」という判断に近づけるためにも、30条以下の「著作物の制限」の妥当範囲を拡張する必要がある。
 そこでまず、fair useの抗弁が考えられる。
 しかし、「詳細な制限規定を置く一方で、著作権を一般的に制限する条項を欠く日本法は、個別の制限規定の運用により著作権を制限していく趣旨であると解される」以上、解釈論としてfair useの抗弁を認めるのは困難である(※118)。
 では、権利濫用の抗弁(民法1条3項)はどうであろうか。
 特に、権利濫用の抗弁は、30条以下の「著作物の制限」による制限をほとんど受けない公衆通信権等(23条)の規制に有効である(※119)。
 とはいえこれも、過去の判例が権利濫用の抗弁を否定したのを見ると、解釈論としても難しいものがあるのが実情であろう(※120)。
 もちろん、下級審判例であることを考えれば、最高裁で判断が変わる可能性は否定できない。
 しかし、判例が複製権中心主義・排他的独占権モデルをその理論的前提とする限り、判例において権利濫用の抗弁を認められる場合は極めて限られてしまうというのが、理論的帰結と言えよう。

※118 田村・前掲166頁。
※119 引用(32条1項)以外、ほぼ無制限である。
※120 東京地裁昭和59年8月31日判決無体集16巻2号547頁[レオナール・フジタ絵画複製事件第一審判決]、東京高裁昭和60年10月17日判決無体集17巻3号462頁[同第二審判決]。東京地裁平成1年10月6日判決無体集21巻3号747頁[レオナール・フジタ展カタログ事件判決]。判例評釈として、昭和59年事件の半田正夫「批評」判例タイムズ542号(1985年)83頁および渋谷達紀「藤田画伯磁権の意義と問題点」ジュリストNo.828(1985年)203頁、平成元年事件の阿部浩二「批評」判例批評314号44頁(判例時報1142号(1985年)206頁)も判例の結論に賛成している。

 以上から、現行著作権法の解釈論による修正は、実務においては難しいところであろう。
 やはり、一刻も早い、新たな著作権モデル創設へ向けての本格的な討論が望まれるところであろう。


第三節 まとめに代えて

 最後に、利用権中心主義について簡単に確認しておく。
 利用権中心主義の基本的発想は、著作権者等と著作物の消費者との間で利益衡量を行い、著作権者等の権利で、著作物の消費者による著作物の利用をどこまで制限できるかというところにある。
 ここで重要なことは二点。
 一つは、著作物の消費者もまた、次の著作者であるという可能性。
 もう一つは、web社会においてエンドユーザーによる著作物発表の自由を確保することである。
 この二点を守ることは、ひいては、著作権法1項の「文化の発展に寄与」するものであると考える。
 エンドユーザーの著作物の能動的“使用”の保護は、著作物文化を育み、より一層優れた著作物が生まれる土壌を育むと言えよう。



以上




あとがき

 火塚たつやです。本名は秘密ですが、これが私の修士論文であるということは、紛れもない事実です。タイトルも変えていませんから、ちょっと調べれば、私の本名は分かってしまうかと思います。知りたい人だけ調べてください。

 さて、この修士論文、一つ目的がございます。
 それは、エンドユーザーに論理武装をしてもらうことで、著作権法の議論を活性化させるということです。
 論文で明らかにしたように、今まで、理論的にも、実務的にも、著作権法において著作物の消費者、特にエンドユーザーの利益は軽視されてきました。近年の著作権をめぐる様々な事件もその大部分が、ここに帰結するのでは、というのが、私も問題意識であり、誠に危惧するところであります。このような事態において、著作権の問題を、もはや実務家や学者、企業に委ねていられない、市民がもっと積極的に議論に参加すべきであると考えています。市民のための論理武装、エンドユーザーのための論理武装、これが、本論文の目的なのです。

 もちろん、現行法を厳格に解釈する限り、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”が認められるケースなどまれであることなど、はじめから理解しています。趣味であっても、それが著作権侵害になることも理解しています。三年以下の懲役または300万円以下の罰金という極めて重い刑事罰に課せられることも理解しています(119条1項)。
 しかし、本当に、それでよいのですか?それが、本当に正しい社会であるのでしょうか?
 少なくとも、私は、そんな社会、正しいとは思っていませんし、そんなぎすぎすした社会で暮らそうとも思っていません。だからこそ、声をあげるのです。それはおかしい、と。どうかみなさんも、お考えください。

 前述のような目的でありますので、私といたしましても、この修士論文は一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。
 そこで、本論文については、私、火塚たつや(本名含む)は、次の頁の条件を許諾していただくことを条件に、複製権・翻訳権・翻案権・公衆送信権等をはじめ、今後認められるであろう全ての著作権のいっさい(著作者人格権を含む)をここで放棄します。
 この本をばらしてコピーしそれを同人誌即売会で販売しようが、スキャナーで取り込みwebで公開しようが、この論文を翻訳しようが、翻案しようが、いっさいが自由であります。


条件

・私、火塚たつやのハンドル「火塚たつや」、アドレス「hiduka@hotmail.com」、URL「http://tatuya.niu.ne.jp/」を必ず掲載する。
 法的に構成すれば、氏名表示権の放棄はしない、ということです(19条)。

・翻案・要約した場合、その旨を必ず明記する。
 翻案・要約と引用とは、必ず区別してください。これは、私の便宜というよりも、むしろ、読者にとっての便宜です。どこまでが私の意見であり、どこからが別人の意見か、区別が付かないと読解が困難になります。

・研究者は、研究者としての良心を守って、引用、要約、翻訳その他をなしてください。まあ、これは当たり前のことで、今更言うことでもないでしょう。学術研究においての引用のルールは必ず守りましょう。

・引用・要約する場合の注意点が一つ。
 絶対に、「著作物の消費者には表現の自由が認められている。故に著作物の消費者の利益を保護すべきである」というような要約はしないでください。これは、暴論です。必ず、「著作物の消費者には表現の自由が認められている。著作権者等には財産権が認められている。故に、両者の間の問題は、利益衡量によって決すべきである」とのようにしてください(最低でも)。法律学において重要なのは、常に、相手方の反対利益を考慮するということであり、どこで線引きをすべきかというぎりぎりの判断が要求されています。仮に、「著作物の消費者には表現の自由が認められている。故に著作物の消費者の利益を保護すべきである」とすれば、それは「著作権者等には財産権が認められている。故に著作権者等の利益を保護すべきである」というのと、同レベルの議論になりかねません。ご注意ください。


オープンソース論文宣言

 誤字脱字の指摘とか、批評反論とか、たくさんください。みなさんの指摘がこの論文をよりよい物にしてくれます。
 それから、この論文を元に、論文に補筆改訂を加えることも自由です。みなさんの手で、この論文をよりよい物にしましょう。オープンソース論文という奴です。




奥付らしきもの

発行………………2001年03月01日(第二版発行)
著者………………火塚たつや
発行者……………火塚たつや
発行所……………近くのコピー屋
印刷・製本………近くのコピー屋


………論文の感想とか送ってもらえると、嬉しいなあ(ぼそり)。