目次
第一章 本論文の主旨
第二章 エンドユーザーの著作物使用の実態とその特色
第一節 エンドユーザーの定義
第二節 エンドユーザーによる著作物使用の実態
第三節 「著作物の消費者」の不認識
第三章 近代著作権法の問題点
第一節 著作権法制の歴史
第二節 排他的独占による利益偏重
第三節 考えられるべき利益衡量
第四章 利用権中心主義の提言〜まとめに代えて〜
第一節 立法論〜利用権中心主義〜
第二節 解釈論〜権利濫用理論〜
第三節 まとめに代えて
[添付資料1〜9]無
第一章
本論文の主旨
ここ1〜2年、いわゆるファン活動を中心に、web上でのエンドユーザーによる著作物使用が増加している。
例えば、『goo』http://www.goo.ne.jp/において『ドラえもん』で検索をかけてみよう。2000年12月16日現在で52926件、登録されていることがわかる。一位二位は、当然、著作権者側である藤子・F・不二雄プロダクションのサイトであるが、既に三位から『ドラえもんSuperDataBase』http://home.att.ne.jp/yellow/ikemasa/doraemon/というエンドユーザーのファンサイトがランキングされている。上位百位で見れば、100サイト中66がエンドユーザーのファンサイトであることがわかる。当然、下位になればなるほど、ファンサイトの占有率は増えてくるものと考えられる。上位百位でファンサイトがこれだけあるとすれば、全体、52926件でみれば、ファンサイトはかなりの数に上るであろうことは、容易に想像出来る。
そして、ファンサイトの増加に伴い、トラブルも実際に発生している。
例えば、ファンサイトの閉鎖としてしまじろう事件。ファン活動が刑事事件にまで発展したポケモン同人誌事件などである。
このように、ファンサイトの増加、エンドユーザーの著作物使用の増加は、著作権者側にとって、決して無視できるものではなく、両者のトラブルは社会問題化しつつある。
また、論理的にも、エンドユーザーの著作物使用は、著作権法という法律それ自体の正当性に疑問符を投げかけている。
例えば、近代著作権法は、複製権中心主義を中心に発達したが、果たして、これからのweb社会に通用するか。著作権は、排他的独占権として把握されており、その例外を「著作権の制限」として構成しているが、果たして、これからのweb社会に通用するか。著作物作成に当然伴うはずの著作物の使用に対し、従来の著作権法が理解を示した上で立法していたか。著作物の利用許諾は私的自治・契約自由の原則に委ねられているが、果たして、それが正しい在り方であったか。従来タブーとされてきた著作権上の様々な問題点が、近年、実務の上で有形無形で問題になっている。このようなあまたの問題は、web社会の双方向(インタラクティブ)性および、それによってもたらされる社会モデルの変化によって健在化しつつある。従来の、1対1の著作権モデルが崩れ、多対多の著作権モデルが登場したとき、著作権法が、どのような変質を遂げるかは、未だ誰も予測していない。
ここでエンドユーザーとの関係で言えば、引用なり、アイディアの流用なり、従前の著作物を使用しない著作物などあり得ない以上、エンドユーザーがファンサイトなどで著作権活動をすれば、著作者とエンドユーザーとの間に紛争が生じることは論理の必然である。そこで、web社会の到来に伴い、著作者とエンドユーザーとの権利関係基準を検討する必要に迫られる。これは従来、考えられていなかった事件類型であるが、著作権法上の一大論点として新たに浮上してくることは間違いない。
そこで、エンドユーザーの著作物使用を素材に、近代著作権法が抱える問題点を明らかにしてみたい。その上で、著作権者等とエンドユーザーとの間の権利関係基準を再構築する。
第二章
エンドユーザーの著作物使用の実態とその特色
第一節 エンドユーザーの定義
1 ここで、エンドユーザーとは、「著作物に『最終的に』アクセスすることが想定される著作物の受動的な消費者」と定義する。エンドユーザーとは、聞き慣れない言葉かもしれないが、要は、著作物の一般消費者を意味する。小説であれば小説の読者がエンドユーザーであるし、映画であれば映画の観客がエンドユーザーであるし、ゲームであればゲームのプレイヤーがエンドユーザーである。ゲーム業界の用語に従えば、エンドユーザーとはコンシューマーのことである。何も、特別な概念を意味するものではない。
この定義から明らかなように、エンドユーザーとは、従来、著作物に最終的にアクセスする主体であり、エンドユーザーが著作物をより能動的に“使用”することは想定されていなかった。 著作者が執筆し、出版社が出版した小説を読む読者は、当然、読書という行為を通じて著作物を受動的に消費することになる。そこには、読者が、著作者が執筆し出版社が出版した小説を、能動的に“使用”することなど、考えられてこなかった。
従来考えられていたエンドユーザーの著作権“使用”とは、例えば、小説ならば小説を読む行為、映画ならば映画を見る行為、ゲームならばゲームを遊ぶ行為そのものである。
これらは、すべて従来著作権法に明示されていない行為であるが(※1)、もっとも基本的かつ根幹的な著作物の“使用”であることは間違いない(※2)。
※1 当たり前の話ではあるが、近代著作権法は、複製権(21条)とその侵害を中心に立法的手当をしている。上演権(22条)その他の権利は、すべて、この複製権の発展形態と言っても過言ではない。例えば上演権は、物に定着することなく公衆の面前で生で著作物を「複製する行為」と言える。この、複製権を中心とした立法的手当こそ、近代著作権法の問題点の一つである。本論文は、著作権法において、複製権中心の立法から、利用権中心の立法への転換を促すものである。この点については、第三章第三節および第四章でより詳細に検討する。 ※2 理論的には、読書や観劇、映画鑑賞、ゲームプレイといったエンドユーザーの著作物“使用”行為すべてが30条1項にいう私的使用に含まれることになる。もっとも、30条1項の私的使用も、「その使用する者が複製することができる」という文言から明らかなように、複製権を中心として条文を構成している。読書や観劇、映画鑑賞、ゲームプレイといった著作物の受動的“使用”については明文を定めていないのが現状である。 ところが、著作権法によって保護の対象とされている“著作物”というものは、当たり前の話ではあるが、読書や観劇、映画鑑賞、ゲームプレイという形での著作物の受動的“使用”を当然の前提としている。見向きもされない(“使用”されない)著作物は、著作物として悲劇そのものであるという当たり前の事実に、著作権法が見向きもしなかったことが今の著作権法制の混迷の一端を担っているというのが、本論文の主旨の一つである。 もちろん、立法論的には、読書行為など、私的使用として著作権の侵害とは当然に考えられない著作物の受動的“使用”を、わざわざ条文で規律する必要はない。 しかし、それを論理的に検討していなかったという事実は、著作権法学にとって痛恨の極みと言う他ないであろう。 |
※3 「私的複製」の典型とされる例である。 しかし、30条1項1号を注意深く読めば、特に、本のコピーという行為を、「私的複製」の典型とするには抵抗を覚える。「公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器…を用いて使用する場合」が「私的複製」から除外されているからである。もちろん実際は、附則5条の2により、「当分の間」「専ら文書又は図画の複製に供する」自動複製機器は30条1項の対象外とされているが、付則によりかろうじて合法化されているという違和感はやはり拭えない。 ※4 SF愛好家のサークルやボードゲーム愛好家のサークルでは、昔から当たり前のように、海外未訳の作品をサークル内で翻訳して頒布していた。これは、翻訳権(27条)の侵害である。もちろん、現行法の解釈では、「私的複製」として、十名程度のサークルや同好会であれば翻訳権侵害を構成しないと考えられているが(加戸守行『著作権法逐条講義』(2000年・三訂新版・著作権情報センター)216頁)、大学のSFサークルやゲーム同好会が、十名を越える規模を有することはなんら珍しいことではない。ときに、百名規模のサークルにふくれあがることもある。このような可能性が当然に想定されるのに、それについて何ら解釈態度を明らかにしていないのは、黙認、あるいは実態に対する無知である。もちろん、そのような規模のサークルでの翻訳は翻訳権侵害であると結論づけることもできるが(現に、加戸氏はそう結論づけている)、それは一般人の法感情からすれば、結論として妥当性を欠くという印象を与えることだろう。より詳細な検討が必要とされるところである。 |
※5 本論文では、“利用”とは、能動的“使用”に営利目的がある場合を指して呼称する。 |
※6 北村・情報化社会11〜12頁 ※7 webをメディア(技術)と定義することにつき、北村・情報化社会10頁別紙3参照。ここでwebとは、北村氏の「パソコンと結ばれた通信」に対応する概念と理解してもらいたい。また、メディア(技術)とは、メディアとメディア技術の二つを意味する。少なくとも、本論文ではメディアとメディア技術とを厳密に区別する必要はない。 ※8 上記の事実だけで、著作権法の立法事実が崩れていることが伺えよう。この点については、第三章第一節3でより詳細に検討する。 |
※9 webが広がる結果もたらされるであろう社会変革により到来した、新しい社会構造を、以下、「web社会」と定義する。 このweb社会に相当する言葉として、従来、「情報化社会」という概念が考えられてきた(北村・情報化社会3頁)。 しかし、情報化社会という概念では、これから到来し、著作権法制に重大な転換を要求するであろう新しい社会構造の本質を捉えることは出来ない。情報化というが、情報化の結果、何がもたらされるか、その定義からは一義的に明らかではないからである。 では、「webが広がる結果もたらされるであろう社会変革により」もたらされる「新しい社会構造」の特質とは何かといえば、それこそが情報の双方向性と多対多の権利関係である。webがもたらす影響は、何も著作権法のみに止まらない。 ※10 ここで、著作物の能動的“使用”とは、もっとも極端な例として、著作物の複製が考えられる。もちろん、著作物の複製は、「私的複製」などではない限り複製権(21条)の侵害となることは論を待たない。 しかし、一口に著作物の能動的“使用”といっても、その意味するところは、実は多種多様である。ここに、この問題の難しさがある。 |
※11 思うに、企業による著作物発表の独占から、如何に著作者やエンドユーザーを保護するかが、著作権法の現代的課題と言っても過言ではない。これは、技術的にはともかく、コスト的に力関係で優位に立つ企業から(脚注33参照)、企業の支援なくては著作物を発表できない著作者や、著作物については完全に受け手に回らざるを得ないエンドユーザーを、どのようにして保護するかということである。この点については、憲法の表現の自由・知る権利(憲法21条)と絡ませ、第三章第三節1でより詳細に検討する。 ※12 純粋に理論的な話であり、実際は、ハウツー本などを購入する必要があるだろうが、それでも初期投資が一万円を越えることはない。 ※13 半田正夫『著作権法概説』(2000年・第九版・一粒社)159頁参照。「著作者は著作物の作成にあたって何らかの形で先人の文化遺産を摂取しているのがふつうである」。そして、真実は、「ふつう」という言葉は不適切であり、著作者は先人の文化遺産の影響を「必ず」受けるものである。 さらに、半田・概説82〜87頁参照。半田氏は、著作物の本質を「創作的個性」に求めているが、これは決して、著作物が「創作的個性」によってのみ構成されているということを意味しない。著作物とは、すべからく、従前の著作物といった公用的な要素と「創作的個性」の混在により構成されている。そして、「創作的個性」というのも、実は、従前の著作物の影響から逃れられるものではない。特許法と異なり、新規性を要件としていない由縁である(特許法29条参照)。 ※14 「著作権法は表現を保護し、アイディアそれ自体は保護されない」として(加戸・前掲21頁)、問題を単純化することも可能である。この場合、アイディアそれ自体の能動的“使用”は当然に許されるが、著作物たる表現を能動的に“使用”することは、30条以下の制限を除きいっさい許されないことになる。結果、エンドユーザーも著作物を能動的に“使用”することは、許されない。 しかし、このロジックは、実はフィヒテの「著作物の『形式』を保護し『内容』は保護しない」という理屈の焼き直しである。フィヒテのロジックの問題点は、半田氏が既に指摘したとおりである(半田・概説83〜87頁)。すべての「形式」が保護されるわけでも、すべての「内容」が保護されないわけでもない。 大切なのは、それぞれに「創作的個性」が認められるか、「創作性」の要件の検討である。当該作品に「創作性」が認められれば、著作物として認められ著作権が発生し、著作物の消費者およびエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”は、著作物の制限を除いて許されない。 しかしなお、「『創作性』が認められれば著作物として認められ、著作権が発生し、著作物の能動的“使用”は著作物の制限を除いて許されない」という結論を採用することには、解釈論はともかく、立法論として疑問がある。ここで重要なことは、「著作物を能動的に“使用”することは、許されない」という結論を容易に採用するわけにはいかないという価値判断である。 脚注13で言及したように、「創作的個性」というのも、実は、従前の著作物の影響から逃れられるものではない。 そこでは、一定の独自性を発揮しつつも、確実に従前の影響を受けている。無から有が生まれないように、著作者は、無から有を想像することは出来ない。無から、「創作的個性」は生まれないと言えよう。著作物はすべからく模倣から始まるという事実は、忘れてはいけない事実である。当該著作物の「創作的個性」を保護することで、将来の「創作的個性」を保護しないとすれば、それは本末転倒であろう。著作物文化は衰退し、「文化の発達に寄与」するという著作権法の趣旨を図れないことになる(1条)。「複製権中心主義を金科玉条のように信奉していると、ときとして複製イコール悪であるかのような議論に陥りがちになるが、」web社会の著作権法が、著作物の能動的“使用”を「私的複製」「引用」を除き、いっさい許さないとする理由は、それほど確かなものではない(田村善之『著作権法概説』(1999年・有斐閣)105頁)。 これを規律するには、「著作物の能動的“使用”」が許されるかという、より実質的な判断をしていく必要がある。「創作的個性」の保護を図りつつ、「公正な慣行に合致する」著作物の能動的“使用”を保護するという、政策判断が必要と考える(解釈論としても、立法論としても)。半田・概説159頁も、著作権の制限を政策判断と断じている。 思うに、二次著作物であっても、それが「公平な慣行に合致する」場合、著作権侵害とならない可能性を残すべきである。 |
※15 北村・情報化社会11〜12頁参照。 |
※16 筆者が検索した限りで、北村・情報化社会12頁を除き、著作権者とエンドユーザーとの法的紛争の可能性に言及した論文は見あたらなかった。裁判例も、皆無である。 ※17 web社会においては特に、公衆送信権等(23条)およびその利用許諾(63条)に掛かる諸経費が問題となる。諸経費とは、単純に許諾に掛かる金銭的コストのみならず、著作物の著作者に連絡を取るという時間的コストも含む。著作物発表を業としていないエンドユーザーにとって、この金銭的・時間的コストは、思いのほか重い制約としてのしかかる。そこで、公衆送信権等に対し制限を加えるべきか、加えるとしてどの程度・どのように制限を加えるべきであろうかが、重要な懸案課題となる。 ※18 『Kiwiのページ』http://www.mapletown.net/~kiwi/index.html「ホームページ休止のお知らせ」http://www.mapletown.net/~kiwi/sima/参照[添付資料1]。 ※19 朝日新聞1999年1月14日朝刊37面。 『日曜出版社』http://www.nitiyo.com/zine/「『ポケモン同人誌事件』を考える」http://www.nitiyo.com/zine/poke/index.html参照[添付資料2]。 なお、ここでのパロディの定義は、最高裁昭和55年3月28日判決民集34巻3号244頁[パロディ事件判決]にいうパロディと異なることに注意。http://www.nitiyo.com/zine/poke/poke19990218.htmおよびhttp://www.nitiyo.com/zine/poke/poke_kirikuti.htmを参照のこと。 ※20 異質な点は三つ。 一つは、一般人からの通報であること。任天堂側が積極的に調査した結果ではないということである。遭遇戦のように偶然生じた事件であると考えるべきである。実際問題、『ポケットモンスター』のパロディ同人誌として有名なものはもっと他に存在する。それ以降、同人誌に対する任天堂からの公式なコメントもない。非公式なコメントとして、http://www.nitiyo.com/zine/poke/poke19990408.htmを参照のこと。 一つは、任天堂が刑事告発したこと。『ポケットモンスター』については、現在、任天堂と小学館プロダクションとが著作権を管理している。任天堂は『ポケットモンスター』のゲーム本体を、小学館プロはそれ以外、すなわち、アニメや漫画、キャラクター関連商品をそれぞれ管理している。当該同人誌の内容を伝え聞く限り、当該同人誌はゲームではなくアニメを基にしており、本来の管轄は小学館プロにあったと考えられる。 一つは、直接刑事告発に踏み切ったことである。ここで、著作権者等とエンドユーザーとが先鋭に対立する形になっている。 ※21 『銃夢HN問題を記憶に止めるために』http://members.tripod.co.jp/gunnmx/参照[添付資料3]。 なお、著作物の題号(題名)それ自体には著作権が生じないことにつき、半田・概説92頁。 ※22 コンテンツ・コントロールとは、著作権その他の法律を利用することで、企業など、社会的な力関係で優位に立つ者がweb上の言論(コンテンツ)を支配することを意味する。もちろん、著作権それ自体は保護しなければならないのは当たり前として、その行き過ぎはweb社会の発達を阻害するのみならず、表現の自由・知る権利(憲法21条1項)からも大きな問題となることは、想像するに難しくない。 |
※23 なぜなら、web社会では、情報は双方向で流通し、その権利関係も、1対1ではなく多対多でなされる。マスメディアが情報を独占し、情報を送り手として一方的に受け手である国民に送信する従前の形態のようには固定化・絶対化されない。web社会では、ある瞬間は情報の送り手であった者が次の瞬間には情報の受け手となり、ある瞬間は情報の受け手であった者が次の瞬間には情報の送り手となっている可能性がある。 ※24 ここで著作権者等とは、「当該著作物の著作権者・著作物隣接権者・出版権者・放送権者その他利用権者」を示すことから明らかなように、従来著作権法で保護されてきた権利者たちの総体を意味する。 本論文は、著作権者等と利害関係を有することになる第三者を「著作物の消費者」と定義することで、著作権者等と第三者たちとの利害関係を鮮明にすることをその本旨の一つとしている。著作権法が想定していた権利関係モデルの問題点を、第三者たちの視点・利益から指摘しようというのである。この点については、利益衡量の問題として第三章第二節・第三節でより詳細に検討する。 なお、「第三者」とは、民法学でいう「新たに独立して権利関係に入った者」という意味ではなく(四宮和夫『民法総則』(1994年・第四版・弘文堂)163頁)、「新たに独立して利害関係を有するおそれがある者の総体」を意味する。第三者を民法学の第三者のように厳密に捉える必要は無い。 「著作物の消費者」と「エンドユーザー」とは、「当該著作物の著作権者等ではない」という意味においては、非常に似た概念であるが、その意味するところは微妙に異なる。この点については、以下本節において検討する。 ※25 二次著作物(28条)であることもあれば、まったく別の著作物であることもある。これは、従前の著作物をどれだけ真似たかによる判断である。表現において「創作的個性」を真似れば二次著作物であろうし、「創作的個性」ではない表現を真似ただけかアイディアだけを真似たのであれば別の著作物である。橋本英史「著作権(複製権、翻訳権)侵害の判断について(上)」判例時報1595号(1997年)30〜33頁参照のこと。 二次著作物であれば著作権侵害となり、別の著作物であれば著作権侵害とならない。 しかし、別の著作物と認定されるには、別の著作物であるか否かの判断が必要であり、ここに、著作者権等と著作物の消費者との間の権利関係基準を検討しておく実益がある。 また、二次著作物であっても、それが「公平な慣行に合致する」場合、著作権侵害とならない可能性を残すべきであることも、脚注14で述べたとおりである。 ※26 そして、当該著作物の消費者であっても、そこから創作した著作物に関しては、著作権者と呼ばれることになる。 ※27 そして、それは既に現実化している。 『VECTOR』http://www.vector.co.jp/や『窓の森』http://www.forest.impress.co.jp/info/about.html、『統合アーカイバープロジェクト』http://csdinc.co.jp/archiver/などで公開されている、エンドユーザーが作成したプログラムの中には、webにおけるデフェクトスタンダードになっているものも少なくない。 |
※28 また、技術的には、著作物の能動的“使用”にはコストがかかり(印刷機一台買うだけでそのコストは莫迦にならない)、エンドユーザーが著作物を能動的に“使用”する道が事実上絶たれていた。そこで従来は、エンドユーザーによる著作物“使用”を考慮する必要がなかった。それが、近年の複製技術の進歩により、エンドユーザーであっても、著作物を能動的に“使用”できるようになった。田村・概説103頁参照のこと。田村善之「デジタル化時代の知的財産法制度」ジュリストNo.1057(1994年)57頁もほぼ同旨。 ※29 著作権モデルをこのように断言することに違和感を覚える読者もいるかもしれない。 しかし、著作権法において、複製権(21条)として把握すれば足りるものを、出版権(79条)という別の権利をわざわざ用意した事実を考えてもらいたい。ここには、著作(権)者が、資本力がある出版社(著作者とは他人格であることに気を付けられたし)に著作物を複製・出版することを依頼して初めて、著作物が世に公表されるという前提が、当然のように潜んでいると理解できよう。出版社の介在を当然の前提としているが故に、著作権法は予め出版社の権利を保障しておく必要がある。 また、著作権法が出版社の権利保護から出発したという著作権法制の発達の歴史を見ても、著作権モデルに出版社の存在が想定されていることが伺えよう。これは、英米法系のみならず、日本が著作権法を継授した大陸法系においても同じである(出版所有権論)。半田正夫『著作権法の研究』(1971年・一粒社)10頁参照のこと。その他、著作権法制の発達の歴史については、アラン=ラットマン他編・内藤篤訳『1990年米国著作権法詳解(上)(下)』(1991年・信山社)1〜5頁、白田秀彰「コピーライトの史的展開(1)〜(7)」一橋研究19巻4号・20巻1号・3号〜21巻3号(1995〜1996年)参照のこと。右をまとめたものとして白田秀彰「コピーライトの史的展開<知的財産研究叢書2>」(1998年・信山社)19頁以下がある。 出版社の介在を当然の前提とする著作権モデルが想定されていたという事実に、企業(出版社)による著作物発表の独占を伺い知ることが出来よう。 ※30 そして、著作権を著作物の排他的独占権と考えるのであれば、このような法制を採用することは当然の帰結である。条文上も、著作権を21〜27条において「専有」権とし、著作権は著作物の排他的占有権として把握されている。加戸・前掲169〜170頁参照のこと。 ※31 従って、技術的には、もはや、エンドユーザーは社会的弱者ではない。エンドユーザーであっても、著作権を収集・編集し、かつそれを全世界に発信できる。 ※32 利用許諾は、1対1の交渉でしか有効に機能しないことに注意。エンドユーザーにとっても、著作権者側にとっても、いちいち利用許諾の交渉を持つことは、コストとして大きな負担となる。 ※33 web社会において、企業とエンドユーザーとは、技術的には、ほぼ同格の立場に立つことが可能になった。NHK『紅白歌合戦』のweb上海外同時放送を実現した石村秀一氏(仮名)やweb上での音楽の無料交換を実現する『ナップスター』(日本経済新聞2001年1月4日朝刊1面「技術創世紀 3」)、LinuxのオープンDVDキャンペーン(山下・前掲86〜97頁)は記憶に新しい。また、仮にエンドユーザー一人一人の技術は劣っていたとしても、複数人が協力することで技術的劣位を挽回することは可能であることに注意。 なお、本論文では、エンドユーザーが技術的に企業などと同等の立場に立ちうるという事実の摘示にとどめ、右行為が著作権の侵害にあたるか否かは問題としない。 右のように、エンドユーザーと企業などが、技術的に同じ立場に立つからこそ、より一層、利用許諾にかかるコスト面で、エンドユーザーの弱い立場が問題となる。この問題は、技術的には対等になったが故に生じた問題とも言えよう。 |
※34 大村・前掲18頁。 |
※35 エンドユーザーの交渉力の弱さとは、交渉に掛けられる時間的、金銭的コストのなさのことである。 |
※36 ただし、最近では、著作権法が複製権を中心として禁止権を規定し、複製行為ではない受動的な著作物の“使用”を当然正当な行為として、著作権侵害と全く考えない法制に対し、そもそもの疑問が投げかけられている。田村・前掲102〜104頁は、「現行法制の背後には、著作物を読みその内容を知る行為は本来自由であるべきだという価値判断が存在するはず」と断りを入れた上で、「大方の理解とは異なり、著作権は複製のところに及ぶ権利であるという概念(コピーライトという言葉に端的に示されている)を金科玉条のように受け取る必要はない」と結論づける。 著作物の受動的“使用”にも規制の網をかぶせるか否かはともかく、読書行為といった著作物の受動的“使用”もまた、複製行為に代表される著作物“使用”の一部であるという事実には着目しておく必要がある。 |
※37 ただし、貸与権については、「公衆に提供する権利」という一文から、私的使用に限らなくても貸与権侵害とはならないという解釈も成立しないことはない。 また、たとえ私的使用であっても、著作物の編集行為は同一性保持権(20条1項)を侵害する可能性がある。50条は、著作人格権は著作権の制限を受けないと明示していることに注意。とはいえ、これはあまりに妥当性を欠く解釈である。実際は、私的使用に止まる限り、「その意に反し」た変更ではなく(20条1項)、「やむを得ないと認められる改変」にあたると考えるべきである(20条2項4号)。 |
※38 しかし近年では、「私的複製」が、著作権を全く侵害しないと考えることにも、懐疑的にならざるを得ない。「私的録音・録画に関する補償金制度」の存在である(30条2項)。そもそも、補償金制度は、「私的な複製行為は限定的、零細なものであって、著作権者の権利を不当に害するものではないという考え方に」基づいていた「私的複製」の大前提が、録音・録画技術のめざましい発達により突き崩された事実を契機に立法されている(加戸・前掲222頁)。エンドユーザー一人一人の「私的複製」自体は、零細であり、著作権者等の財産的利益に対する著作権侵害として微細であっても、国民全体が複製した結果、著作権者等の財産的利益に対する重大な著作権侵害になることもあるだろう。 田村・概説167頁も、「私的複製」すべてを補償金制度の対象とする可能性を指摘している。「私的複製」により著作権者等の財産的利益に対する著作権侵害が行われる可能性を考慮しつつ、エンドユーザーによる著作物の能動的“使用”の自由に配慮を示した結果であろう。 |
※39 例えば、『goo』http://www.goo.ne.jp/で「レビュー 小説」「レビュー ゲーム」「レビュー
映画」と検索を掛けてみる。2000年12月16日現在、それぞれ、17569件・54028件・25534件、登録されていることがわかる。 ※40 例えば、『goo』http://www.goo.ne.jp/で「攻略 ゲーム」と検索を掛けてみる。2000年12月16日現在、81402件、登録されていることがわかる。 ※41 エンドユーザーが総合的なデータベースを手がけることは少ないが、個別具体的な作者・作品について手がけていることは多い。 ※42 作風を真似ることは、従来から行われてきたことである。特に、模倣は何であれ上達の近道であり、多くの小説家・漫画家・芸術家などが実践してきたことである。それが従来問題とされてこなかったのは、著作権法においてエンドユーザーの著作物の能動的“使用”が意識されていなかったことに由来する。また、従来はwebで広く公表するという手段もなく、著作権侵害のおそれが公にならなかった。それが、webによって、『広く不特定多数に、』作風の模倣を公開できるようになったところに、問題点が存在する。作風の模倣をしてそれをweb上で閲覧可能にすることは、当該模倣が、単なる作風の模倣を越え、表現の模倣、すなわち複製あるいは翻案と裁判所に認定されれば、30条以降の著作権の制限を厳密に解釈する限り、複製権(21条)・翻案権(27条)・公衆送信権等(23条)・同一性保持権(20条)の侵害となる。 なお、著作物の上演・演奏・上映・口述においては、それが営利を目的としない場合に限り、著作権侵害を構成しないが(38条)、やはり、翻案権や公衆送信権等の侵害になるという結論を採用せざるを得ない(加戸・前掲255頁)。 もちろん、現行法制を保持し、web上での模倣を一切禁止するという政策も考えられる。 しかし、大衆の視線にさらされてはじめて創作の上達が望める以上、これを一切禁止し、身内でのみ閲覧させるというのは、「文化の発展に寄与することを目的とする」著作権法の趣旨からは問題がある(1条)。脚注14参照のこと。模倣による修練が絶たれるのであれば、その国の著作物文化は衰退する。ある時期の著作権者を保護することで以降の著作物創作を阻害するようなことがあっては本末転倒であろう。問題は、模倣をどこまで認めるかという政策判断である。半田・概説159頁も、著作権の制限を政策判断と断じている。 ※43 SS。ショートストーリーの略とも、サブストーリーの略とも言われている。語源の詳細は不明。一般的なSSは、作品(以下、原作)の登場人物の設定だけを借り、オリジナルストーリーを作成するという形態をとる。主に、小説形式を指しての呼称である(漫画形式を取る場合、「アニパロ(=アニメのパロディ)」などと呼ばれる)。原作の舞台設定・世界設定に従う場合と従わない場合がある。従わない場合、その舞台・世界は、SS作者のオリジナルである。例えば、原作が軍隊物であったのが、SSでは学園物になっているといった具合である。また、原作の登場人物が主人公となるのが一般的であるが、まれにSS作者のオリジナルキャラが主人公として登場する場合もある。 なお、SSが二次著作物にあたるか否かは、個々の作品を検討して判断するしかない。これは、従前の著作物をどれだけ真似たかによる判断である。表現において「創作的個性」を真似れば二次著作物であろうし、「創作的個性」ではない表現を真似ただけかアイディアだけを真似たのであれば別の著作物である。脚注14参照のこと。 キャラクターの著作物性の検討も必要である。東京地裁昭和51年5月26日判決無体集8巻1号219頁[サザエさん事件判決]参照。ただし、右判決は、キャラクターの著作物性を認めた判例ではないことに注意。「既存の著作物に依拠し、その内容及び形式を覚知させるに足るものを再生すること」という複製概念からの帰結を述べただけであり、キャラクター自体に著作物性を認めたとは断じがたいためである(北村行夫『判例から学ぶ著作権』(1996年・太田出版)67頁)。また、東京地裁平成2年2月19日判決無体集22巻1号34頁[ポパイワンポイントマーク事件第一審判決]及び東京高裁平成4年5月14日判決地裁集24巻2号385頁[同第二審判決]もキャラクターが漫画の著作物から離れて別個独立の著作物になることを明確に否定している(北村・判例68頁、田村・概説51頁)。東京地裁平成11年8月30日判決[ときめきメモリアルビデオ事件判決] http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/15808A4808F99A634925693B00244899/?OpenDocumentは、当てはめに終始しており、その判決理由があまりに希薄であるため、キャラクターに著作物性を認めた判決であるかはにわかに判断できかねる。 さらに、パロディ引用をどこまで認めるかも問題になる(31条1項)。パロディ引用について消極的な最高裁の立場を採用する限り、SSの展望は暗いのが現状である(最高裁昭和55年3月28日判決民集34巻3号244頁[パロディ事件判決])。 ※44 DNML。Digital Novel Markup Languageの略。著作者のハンドル名は「花梨」。 DNMLは、『「天使の両翼」計画ホームページ』http://hp.vector.co.jp/authors/VA015183/の、 http://hp.vector.co.jp/authors/VA015183/dnml/からダウンロードできる。 DNMLは、ゲームのイラストや音楽などを使用するだけで、基本的な発想はSSと同じである。まさに、デジタル技術の編集容易性を最大限に活用した作品といえる。 DNMLは、そのソフトの特性上、原作のゲームを所持していなければ閲覧(あるいはゲームのプレイ)は不可能である。これは、プロテクトといった話ではなく、単純に、DNML が原作のゲームシステムに依存する形態をとるからである。 なお、DNML自体が原作の著作権を侵害しないかが問題となるが、DNMLは、著作物を複製するわけでも、著作物を翻案するわけでもない。ただ、翻案についての指示を下すことを可能としているだけである。「指示を下すことを可能」としているのみでは、著作権侵害は構成しないと考えるべきであろう。東京地裁平成7年7月14日判決[三国志V事件判決] http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/611C49DE4F9E353149256936000A0BF0/?OpenDocumentおよび大阪地裁平成9年11月27日判決[ときめきメモリアルメモリカード事件判決] http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/Listview01/5C3FA3890A7E28CB49256936000A1785/?OpenDocumentを参照のこと。前者は、「指示を下すことを可能」とするプログラムについての、後者は、「指示を下す」プログラムについての事件である。 DNMLによって作られる作品が著作権侵害にあたるかは、SSと問題が同じである。脚注43参照のこと。 ※45 マッドムービー。再編集したゲーム・アニメ・ドラマの画像に別作品の音楽を当て、主題歌付きのドラマ・アニメ・ゲームのオープニング風に仕立てる場合と、再編集したゲーム・アニメ・ドラマの画像に別作品の音声を当て、寸劇調に仕立てる場合が一般的である。これもデジタル技術の編集容易性を最大限に活用した作品といえる。現在は、複製権(21条)・翻案権(27条)・公衆送信権等(23条)・同一性保持権(20条1項)侵害の嫌疑を掛けられ、その多くがwebから撤退するか、アンダーグラウンドに活動領域を移しつつある。 マッドムービーが著作権侵害にあたるかは、SSと問題が同じである。脚注43参照のこと。 ※46 キャラクターの著作物性の論点やパロディの論点も絡み、その解決は容易ではない。 ※47 同人活動。ある作品について批評やSS、アニパロ、データベースなどを作成し、それを同人誌即売会に持ち寄り販売する行為。作成された物は、「同人誌」と呼ばれるのが一般的である。webが発達する前は、ファン活動を対外的に広く発表するための唯一の機会とされていた。 販売といっても、その多くが印刷費に合わせた価格設定をしているため、利益を上げることは難しい。例えば、コピー誌で、B5版両面20頁で百円というのが、一般的である。この価格設定であれば、余程安いコピー屋(8円コピー、6円コピー)を見つけない限り、同人誌即売会の参加費その他で確実に赤字になる。 コミケ・同人誌即売会というと、一時期、同人作家のところに税務署が立ち入り、脱税金を徴収した過去があり、営利目的と誤解されている節があるが、一部の例外を除き、その多くは非営利である。参加費も、会場の貸借費用を参加サークル数で頭割りした価格設定であり、多くの場合、そこに営利目的はない。一年の内、限られた時期に、明らかに利益を上げられるとは思えない価格設定で、宣伝目的もなければ、それは「対価を受け取って」いても非営利目的であると考えられる。 同人誌が複製権(21条)・翻案権(27条)・同一性保持権(20条)侵害を構成するかどうかは、パロディ引用をどこまで認めるかである(32条1項)。対外的に広く販売している時点で、「限られた範囲内」でのみ成立する私的使用(30条1項)とするのは難しいだろう。パロディ引用について消極的な最高裁の立場を採用する限り、SSと同じく同人誌の展望は暗いのが現状である。脚注43参照のこと。なお、ここでは、「対価を受け取っている」ことは、同人誌が著作権侵害を構成するかどうかの判断基準足り得ない。「非営利目的」でも「対価を受け取っている」場合もあり得るし(38条参照)、そもそも現行法上、非営利目的での著作物の能動的“使用”を一般的に認めた条文は存在しないためである。 同人誌即売会は、非営利目的のもと、個人が有志で主催していることがほとんどである。同人誌即売会を企業が営利目的で主催することは一般的ではない。全国の同人誌即売会の開催情報を載せた『月刊イベント情報誌 C★NET』有限会社エスエスプリントという雑誌を読むと、同人誌即売会は、政令指定都市のすべて、まさに全国規模で開催されていることがわかる。 同人誌即売会の最大手が、夏と冬に年二回幕張メッセで開催されるコミックマーケット(通称、コミケ)である。また、同人誌即売会ではないが、似たような活動として有名なのが、同じく夏冬年二回幕張メッセで開催されるワンダーフェスティバル(通称、ワンフェス)である(ただし、現在は活動を停止)。特に、コミケは、一回の動員総数が30万人を越える同人活動における一大イベントであり、同人誌即売会の通称としてコミケと呼ばれることがあるほど、その存在は、同人活動において有名かつ一般化している。 コミケは、『有限会社コミックマーケット準備会』http://www.comiket.co.jp/が、ワンフェスは『海洋堂』http://www.kaiyodo.co.jp/atelier/jindex.htmlが、それぞれ主催している。 |
※48 30条1項の立法趣旨から考えれば、一つ一つは「私的複製」と目される複製であっても、それが大量かつ継続的に行われているのであれば、それは「私的複製」を逸脱する複製と考えられよう。十名程度の限られた仲間内として「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内で使用すること」にあたるとしても、複製が大量かつ継続的に行われれば、それは「著作権者の経済的な利益を害するおそれ」があり、30条1項が予定した「私的複製」を逸脱していると言える場合もある(加戸・前掲214頁)。 実際、web上での友人づきあいで、(プロテクトがかかっていない)CDを大量かつ継続的に複製し、それをお互いに融通しあうケースもある。プロテクトがかかっている著作物を、プロテクトを回避しつつ複製すれば、右のように考えるまでもなく、著作権侵害となる(113条2項)。 複製権(21条)侵害を構成するか否かはともかく、ナップスターの問題も、結局、複製が「大量かつ継続的に」行われることに問題が起因している(山下・前掲98〜109頁)。 |
※49 なお、本節では、本論文のテーマに合わせて、エンドユーザーの著作物“使用”について論じているが、これは、著作物の消費者による著作物“使用”にも、同じことが言える。それが、「私的複製」などでどこまで著作権侵害を構成しないかはともかく、上記のように、段階を分けて論じることが出来る。 |
※50 二年前、ファン活動に対する立場を明らかにしていた企業は、特殊な業界を除き、ほとんど皆無であった。著者が調べた限り、大手では唯一、『サンライズ』http://www.nifty.ne.jp/station/sunrise/だけと記憶している(サンライズは、アニメ業界では老舗であり、大手)。 なお、ほとんどの企業が、web(オンライン)上での基準確定にとどめ、オフラインでの基準まで確定していない。 ※51 新聞社についてはhttp://www.hir-net.com/link/np/を、放送局についてはhttp://www.bremen.or.jp/mimi/tv.htmlを、出版社についてはhttp://fleamarket.shohyo.co.jp/index/cgi-bin/pubform.htmlを、ゲーム会社についてはhttp://www.os.xaxon.ne.jp/~takaki/を、アニメ製作会社についてはhttp://www.anime.ne.jp/~honmono/frame.htmlを、レコード会社についてはhttp://www.bremen.or.jp/mimi/link.htmlを、音楽出版社についてはhttp://www.gakki.com/yasuhara/link_publisher.htmlを、手がかりにそれぞれ検索している。 また、業界毎には以下のような特徴が見られる。 音楽業界およびゲーム業界は、基準を打ち出しているところが極端に少ない。権利を守る団体として『JASRAC(日本音楽著作権協会)』http://www.jasrac.or.jp/および『CESA(社団法人コンピュ−タエンタ−テインメントソフトウェア協会)』http://www.cesa.or.jp/が存在するためだと思われる。 出版社も、『小学館』http://www.shogakukan.co.jp/を除けば基準を打ち出している企業はほぼ皆無であった。これは、出版業界には、零細企業が全体的に多いためだと思われる。 新聞社は、『日本新聞協会』http://www.pressnet.or.jp/が統一意見を打ち出しており、各社それに倣う形になっている。http://www.pressnet.or.jp/info/kenk19780500.htmおよびhttp://www.pressnet.or.jp/info/kenk19971100.htmを参照のこと。 |
※52 例えば、『サンライズ』http://www.nifty.ne.jp/station/sunrise/「サンライズホームページにおける注意事項!」、『東京ムービー』http://www.tms-e.com/「TMSホームページを利用なさる皆様へ」、『小学館』http://www.shogakukan.co.jp/の「画像使用・著作権について」[添付資料4]。 ※53 例えば、『TBS』http://www.tbs.co.jp/「著作権について」、『フジテレビ』http://www.fujitv.co.jp/「著作権について」、『朝日放送』http://www.tv-asahi.co.jp/「著作権について」http://www.tv-asahi.co.jp/anb/rights/[添付資料5]。 ※54 例えば、『ガイナックス』http://www.gainax.co.jp/「GAINAX E-MAIL ADDRESSES」http://www.gainax.co.jp/mail.html、『タツノコプロ』http://www.tatsunoko.co.jp/「インターネットホームページでの画像使用に関して」http://www.tatsunoko.co.jp/chosaku.html[添付資料6]。 また。『ベネッセ』http://www.benesse.co.jp/index.htmlは、会社本体のHPには利用条件を明示していないのに、下位の『こどもちゃれんじ』http://www.shimajiro.co.jp/においては、「ご利用条件 こどもちゃれんじホームページについて」http://www.benesse.co.jp/shimajiro/guide/index.htmlを設けている。これは、第一節3で紹介したエンドユーザーとのトラブル(しまじろう事件)があってのことであろう[添付資料7]。 ※55 例えば、『Leaf』http://leaf.nerv.ne.jp/「素材引用・二次創作について」、『Tactics』http://www.tactics.co.jp/「Tactics Q&A」、『key』http://key.visualarts.gr.jp/「●製品内の素材の使用に関するQ&A●」http://key.visualarts.gr.jp/q&a.htm、『AIC』http://www.anime-int.com/「AICリンクや画像使用などに関するQ&A」http://www.anime-int.com/hp/links/faq.html[添付資料8]。 自由許可としながらも、念のため二次著作物の届け出を推奨する企業として、『スタジオピエロ』http://www.pierrot.co.jp/「ホームページ著作物注意書き」http://www.pierrot.co.jp/forum/chosaku/[添付資料9]。 |
※56 脚注47参照。 |
※57 一般条項を設けないという時点で、すでに著作物の消費者による著作物の能動的“使用”を制限している。著作物の消費者によるfair
use(公正利用)は許されず、その使用は、報道目的や教育目的といった、特定の目的に関する使用にしか許されていない。また、43条が翻案・翻訳による利用につき制限を設けており、著作物の消費者による著作物の能動的“使用”は、その手段においても著しい制限を受けている。 ※58 田村・概説166頁も、「日本の著作権法の現在の制限規定により、人の行動の自由が万全に確保されたとはいいがたいものがある。一般条項も含めて、制限の在り方を検討する必要があることは否めない」とする。 ※59 最高裁昭和55年3月28日判決民集34巻3号244頁。斉藤博「モンタージュ写真の作成と著作者人格権の侵害」判例タイムズ439号(1981年)121頁、半田正夫「パロディ=モンタージュ写真事件と著作権」ジュリストNo.719(1980年)89頁は、パロディ判決の基準の厳格さを問題視している。染野啓子「パロディ保護の現代的課題と理論形成」法律時報55巻7号(1983年)35頁は「永久に息の根を止められる結果となるだろう」と絶望的だ。筆者も、作品の「昇華」を必要とする最高裁の基準に反対する。より緩やかな、染野・前掲41頁の基準に基本的に賛成する。また、染野・前掲35頁が指摘するように、同事件をパロディの論点として構成すべきであったか、判例理論には、そもそもの疑問が向けられよう。 ※60 第二節5参照。 |
※61 田村・概説104頁。 ※62 第一節2参照。 ※63 第一節4参照。 ※64 第二節5参照。 |
※65 北村・情報化社会12頁。18世紀と似ているとは、次のような意味においてである。 18世紀当時、「著作物の保護の後ろ盾であった国王の権力や検閲制度が無くなると、一斉に海賊版の横行する時代と」なり、それを解決するのに、著作権法制という法制度・社会システムが開発された。 一方、「現代は、後ろ盾としての法制度があるにもかかわらず、情報処理と情報伝達の技術が発達し、現代の「海賊」を横行せしめる環境を整え」ている。これは、「万人が、18世紀の海賊版業者となりうる社会」の到来を意味する。ここに、両者の共通点が存在する。 ※66 脚注30参照。 |
※67 脚注29参照。半田・研究9〜24頁、ラットマン・前掲1〜5頁、白田・前掲。さらに、北村・情報化社会13〜19頁。 ※68 半田・研究10頁。 |
※69 北村・情報化社会16頁。従来は、苗村憲司・小宮山宏之編『マルチメディア社会の著作権』(1997年・慶應義塾大学出版会)25頁のように、アン法は著作者のインセンティブとして理解されていたが、それは理解の仕方として誤りである。 |
※70 出版社の存在を立法者が意識下においていたかどうかはこの際問題とはならない。 |
※71 ただし、ベルヌ条約の方は、若干複雑な変遷をたどっている。 まず、複製権(9条)の前に、翻訳権(8条)を定めている。とはいえこれは、国際条約という性質上、当然の要請と考えられる。国家間でもっとも著作権について利害関係が衝突するのが翻訳をする権利であり、何よりもまずはじめに翻訳についてその問題を解決する必要があったためと考えられよう。 また、「奇妙なことに」複製権は、ストックホルム改正(1967年)に至るまで明文を有していなかった(黒川徳太郎『ベルヌ条約逐条解説』(1979年・著作権資料協会)60頁)。とはいえこれも、あまりに当たり前な権利として考えられ、明文で定める必要がないと判断されていたためであろう。黒川・前掲60頁も、複製権を「著作権の本質そのものである」とする。 ※72 複製権を著作権の本質として紹介する教科書も多い。加戸・前掲169頁、田村・概説104頁[法定の利用行為]、半田正夫・紋谷暢男『著作権のノウハウ』(1995年・第五版・有斐閣)118頁。 一方、人格的一元論者である半田氏は、複製権を著作権の本質と見る理解の仕方はしていないようだ。ただし、出版権については「最も古く、かつ最も典型的」な権利とする(半田・概説214頁)。 ※73 利用には、“利用”のみならず、能動的・受動的“使用”を含む。 著作権を利用権中心に理解するものとして、斉藤博『著作権法』(2000年・有斐閣)156頁。 ※74 もちろん、出版社の利益が出発点だったからといって、近代著作権法が著作者の利益を保護していないということを意味するものではない。近代著作権法が、出版社の存在を著作権法の当然の前提としていたということを意味するに過ぎない。 ※75 脚注29参照。 日本著作権法は、原則、利用許諾(63条)によってのみ、著作物の能動的“使用”を可能としている。これも、北村・情報化社会11〜12頁が既に指摘しているように、1対1、すなわち著作者と出版社の交渉を前提としたシステムである。ここにも、出版社が著作権法の当然の前提として存在している。 |
※76 田村・概説103頁。 |
※77 田村・制度58頁。 ※78 もちろん、複製にあたっても、複製数などでシビアな判断は要求されることはあろうが、その難しさは、能動的“使用”を「どこまで」許可するかという判断の比ではない。 ※79 第二章第二節5参照。 ※80 田村・制度55頁も、技術の進歩によって知的財産権の各法が、制度としての前提を失う可能性を指摘する。その上で、技術を法に合わせるのではなく、法を技術に合わせることを提案している。 |
※81 吉田邦彦「情報の利用・流通の民事的規制――情報法学の基礎理論序説」ジュリストNo.1126(1998年)188頁。 |
※82 憲法29条1項。所有権は神聖不可侵な権利である(「侵してはならない」)。それを受け、民法も、「所有権絶対の原則」をその基本原理とする。民法第二編第三章第一節で所有権の限界が認められる以外は、所有権は絶対にして不可侵な権利である。山田卓夫他『民法T 総則 有斐閣S
シリーズ』(1995年・第2版・有斐閣)22頁参照のこと。 ※83 そして、近年の民法理論も、所有権絶対の原則に対し、様々な制限を及ぼそうと試みている。山田他・前掲22〜23頁および淡路剛久他『民法U 物権 有斐閣S シリーズ』(1994年・第2版・有斐閣)136〜137頁参照のこと。 ※84 もちろん、公表すること自体は、著作者の発表権(18条1項)の行使に委ねられている。 ※85 苗村=小宮山・前掲116頁も、著作権と特許権を同列に置き、著作権を排他的独占権として把握することに疑問を投げかけている。 |
※86 著作(権)者と著作物の消費者との真摯な対話がなされていない現状は、著作物の消費者が著作(権)者の存在を意識することは難しく、結果、著作権侵害も厭わないと言う風潮を生むことにも繋がっている。対話がない以上、その存在を知覚することはかなわない。根が深い問題である。 |
※87 北村・情報化社会12頁。 ※88 50条2項参照。 |
※89 精神的自由権、特に表現の自由は「壊れやすく傷つきやすい」とされている。芦部信喜『憲法』(1997年・新版補訂版・岩波書店)174頁参照。 ※90 北村・情報化社会12頁が、「近代社会というのは、言論の自由を基礎に成り立っておりますから、これを蔑ろにして著作権の管理という問題を考えることはできない」「著作権制度が揺れているように見える原因というのは、言論表現の保障という近代的な制度としての情報伝達の自由を保障しながら、個人によって発信され、利用される著作物の管理の万全を期するという要求をいかにして調和させるかという問題に直面している」とする由縁である。 ※91 芦部・前掲160〜161頁。より詳しくは、奥平康弘『知る権利』(1979年・岩波書店)1〜90頁および同『表現の自由U』(1984年・有斐閣)290〜310頁参照のこと。 ※92 もちろん、これは理想論である。実際には、国民とマスメディアとの間の技術的・コスト的な優位が崩れることはない。マスメディア(企業)はこれからも、情報を集めそれを発信することについては、国民と比べ圧倒的に優位に立つ。知る権利は、これからより一層重要な権利として把握できよう。奥平・知る権利69〜73頁参照のこと。 ※93 利用許諾(63条)について、著作権者の自由裁量に委ねるとしても、企業が資本の理論で自己の著作権を用いれば、資本力に劣るエンドユーザーは、事実上著作物を創造する道が絶たれる。これは、エンドユーザーにとどまらず、表現の自由全体にとって、致命的なことである。webの発達が、企業による表現の独占、マスメディアによる情報の独占という状況を打破したのに、その流れを著作権法で逆行させる必要はない。 これは、知る権利においてアクセス権を認める以上に重要な問題である。web社会は、HPやメーリングリストという形で、エンドユーザーたる国民に表現する自由を与えた。国民はもはや、マスメディアに対し表現発表の場を設けることを積極的に請求する必要はない(アクセス権)。アクセス権を改めて保障する必要も無かろう。しかしそれも、そもそも表現のおおもとである従来の著作物の能動的“使用”が保障されてこそ可能となる。著作物の能動的“使用”が認められなければ、そも、表現を発表することは不可能になる。 |
※94 半田・概説159頁。 |
※95 芦部・前掲219頁。 |
※96 田村・概説104頁。 ※97 第一節3参照。 ※98 普通取引約款の登場である。ここに来て、民法は契約自由の原則の修正を迫られている。藤岡康宏他『民法W 債権各論 有斐閣S シリーズ』(1995年・第2版・有斐閣)9〜12頁。 |
※99 著作「権」者ではなく、著作者である。 ※100 苗村=小宮山・前掲277頁。 ※101 以上、北村・情報化社会18頁。 思うに、インセンティブ理論は、著作権法において常に妥当するわけではない。妥当することもあれば、妥当しないこともある。 しかし、インセンティブ理論が著作権法で妥当しない場合があるからといって排斥すべきではない。現代社会が資本主義を前提としている以上、著作権法の一翼を担う重要な理論であることには変わりが無かろう。重要なのは、インセンティブ理論が妥当する範囲を見極めることである。 ※102 このように著作権法の問題点を理解したとき、近年のweb上でのフリーウェアの流通は、著作権者等の財産的利益、特に出版社の財産的利益を重視してきた著作権法に対する、著作者の反発として理解できよう。 フリーウェアとは、なにも著作権を放棄するものではない。フリーウェアの著作者の多くがが要求していることは、著作物が自分の名前の明示の「要求」と、営利目的で頒布することの「禁止」である。これは、著作権として構成すれば、著作物人格権の保持と、営利目的に対する利用許諾(63条)の拒否である。なんら、著作権そのものを放棄しているものではない。財産的利益、特に出版社の財産的利益を重視してきた著作権法に対し反発し、ただ、多くの人に自分の著作物を知ってもらいたいという名誉欲、原始的な欲求のみで著作物を公開している。この現象は、「著作者の表現意欲は、必ずしも功利的なものではない」という北村・情報化社会18頁と見事に一致する。フリーウェアの流通に見られるものは、著作者としてのアイデンティティを取り戻すという活動そのものである。 |
※103 田村・概説6〜9頁。 ※104 吉田・前掲185頁。 ※105 吉田・前掲188頁。 |
※106 これを無体財産権一般の特質と考えてはいけない。 例えば、特許において特許発明を利用するのは、特許権者のみである。「特許発明で作られた商品」を利用する人たちは、「特許発明によって作られた商品」を利用するのであって、「特許発明それ自体」を利用するわけではない。特許発明の利用は、特許権者および特許権者から通常実施(特許法78条)を得た者のみに限られる。 一方、著作権は、読書行為か複製行為か、より受動的かより能動的か、という差異は生じるものの、著作物それ自体を著作物の消費者も利用することを、その大前提としている。 ※107 苗村=小宮山・前掲122頁以下。小宮山氏のアウトプット論を参考にしている。 アウトプット論は、用語の特殊性およびあまりの先駆性により、今までほとんど省みられていなかったが、その基本的発想は極めて単純であり、実に優れた著作権モデルを我々に提供している。 アウトプットとは、すなわち、著作物の能動的“使用”(“利用”を含む)・「利用」である(苗村=小宮山・前掲126頁)。 そして、アウトプット論とは、著作権者による「利用」と著作物の消費者による「利用」とが衝突した場合に、どちらを優先すべきかという判断に他ならない(「利用制限請求権」)。そこには、従来の排他的独占権モデルを前提とした著作権法が採用する「著作権の制限」という発想ではなく、著作権法が採用する立法趣旨(著作権法1条「著作者等の権利の保護」)を前提とした上での「利益衡量」が存在するだけである。そして、アウトプット論が従来の議論よりも優れていた処こそ、「利益衡量」という発想をその理論の視野の中に予め持ち込んでいた点である。 しかし、残念なことに、アウトプット論は「アウトプット」という特殊な用語を採用したため、その理論の意味するところが必ずしも理解されていたわけではなかった。 本論文では、この点を反省し、読者になじみやすい「利用」および「利用権中心主義」という用語を採用することにする。 ここで利用とは、受動的“使用”と能動的“使用”、および“利用”を含んだ概念と定義する(脚注73参照)。いわゆる、日常用語で言うところの、利用と使用とを合わせた用語と理解してもらいたい。 なお、利用権中心主義は、利用の定義の中に受動的“使用”も取り込んでいる点、アウトプット論との間に差異がある点は注意されたい。アウトプット論は、アウトプット、すなわち公開された情報利用についてのみ妥当する理論である(「公開された情報利用」とは、公開した情報を利用する、情報の利用を公開する、二つを含意する)。アウトプット論は、「私的使用として許容されている範囲を超えてアウトプットをすることが、法的問題となる」とする(苗村=小宮山・前掲247頁)。 |
※108 まさに、インセンティブ理論が妥当する領域である。 |
※109 第二章第二節3参照。 |
※110 田村・概説168頁。 |
※111 橋本・前掲31頁を参考に類型化。 |
※112 38条1項参照。 ※113 第二章第一節4参照。 |
※114 森亮一「ソフトウェア――流通の混乱を打開する超流通、使用記録の回収で料金回収」日経エレクトロニクス582号(1993年)98頁以下および北川善太郎「著作権市場論、取引の場を構築する」日経エレクトロニクス582号(1993年)94頁以下。近年では、森亮一氏による「超流通:知的財産権処理のための電子技術」http://sda.k.tsukuba-tech.ac.jp/SdA/reports/A-59/draft.html、北川善太郎氏による「コピーマートの仕組み」http://www.copymart.gr.jp/japan/copy/cm_cm_f.htmlを参照のこと。 |
※115 著作権は、著作者の財産的利益の保護を趣旨とする以上、著作物からの財産的利益を他者に帰属させる理由はない。営利目的を持つ著作物の消費者の著作物の利用は、制限されてしかるべきである。 従って、営利目的は、判断基準として有用である。 |
※116 http://www.jasrac.or.jp/doc/reason.htmにおいて解説もなされている。 ※117 一日版権制度。各企業申し合わせの上、各社の著作物についての著作権を放棄し、エンドユーザーに、一日だけ、ワンフェスの会場において、ガレージキットの創作を認める制度。ファン活動の一環として、古い歴史を誇る。 |
※118 田村・前掲166頁。 ※119 引用(32条1項)以外、ほぼ無制限である。 ※120 東京地裁昭和59年8月31日判決無体集16巻2号547頁[レオナール・フジタ絵画複製事件第一審判決]、東京高裁昭和60年10月17日判決無体集17巻3号462頁[同第二審判決]。東京地裁平成1年10月6日判決無体集21巻3号747頁[レオナール・フジタ展カタログ事件判決]。判例評釈として、昭和59年事件の半田正夫「批評」判例タイムズ542号(1985年)83頁および渋谷達紀「藤田画伯磁権の意義と問題点」ジュリストNo.828(1985年)203頁、平成元年事件の阿部浩二「批評」判例批評314号44頁(判例時報1142号(1985年)206頁)も判例の結論に賛成している。 |