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判決は、東京地裁から最高裁まで、ほぼ一貫して、原告側主張の事実を認定している。ここでは、最高裁での事実認定を引用してみよう。難しい文章ではないので、是非目を通して欲しい。
(1) 上告人A会(以下「上告人A会」という。)は、平成9年1月30日開催の設立総会を経て設立された権利能力なき社団であり、「新しい歴史・公民教科書およびその他の教科書の作成を企画・提案し、それらを児童・生徒の手に渡すことを目的とする」団体である。その余の上告人らは、上告人A会の役員又は賛同者である(ただし、上告人Bは、上告人A会の理事であった第1審原告Cの訴訟承継人である。以下、「上告人ら」というときは、上告人Bを除き、第1審原告Cを含むことがある。)。当該司書の廃棄行為について、著作者が人格権を侵害されたとして、不法行為に基づく損害賠償を請求したのが本件である。
(2) 被上告人は、船橋市図書館条例(昭和56年船橋市条例第22号)に基づき、船橋市中央図書館、船橋市東図書館、船橋市西図書館及び船橋市北図書館を設置し、その図書館資料の除籍基準として、船橋市図書館資料除籍基準(以下「本件除籍基準」という。)を定めていた。
本件除籍基準には、「除籍対象資料」として、「(1) 蔵書点検の結果、所在が不明となったもので、3年経過してもなお不明のもの。(2) 貸出資料のうち督促等の努力にもかかわらず、3年以上回収不能のもの。(3) 利用者が汚損・破損・紛失した資料で弁償の対象となったもの。(4) 不可抗力の災害・事故により失われたもの。(5) 汚損・破損が著しく、補修が不可能なもの。(6) 内容が古くなり、資料的価値のなくなったもの。(7) 利用が低下し、今後も利用される見込みがなく、資料的価値のなくなったもの。(8) 新版・改訂版の出版により、代替が必要なもの。(9) 雑誌は、図書館の定めた保存年限を経過したものも除籍の対象とする。」と定められていた。
(3) 平成13年8月10日から同月26日にかけて、当時船橋市西図書館に司書として勤務していた職員(以下「本件司書」という。)が、上告人A会やこれに賛同する者等及びその著書に対する否定的評価と反感から、その独断で、同図書館の蔵書のうち上告人らの執筆又は編集に係る書籍を含む合計107冊(この中には上告人A会の賛同者以外の著書も含まれている。)を、他の職員に指示して手元に集めた上、本件除籍基準に定められた「除籍対象資料」に該当しないにもかかわらず、コンピューターの蔵書リストから除籍する処理をして廃棄した(以下、これを「本件廃棄」という。)。
本件廃棄に係る図書の編著作者別の冊数は、第1審判決別紙2「関連図書蔵書・除籍数一覧表」のとおりであり、このうち上告人らの執筆又は編集に係る書籍の内訳は、第1審判決別紙1「除籍図書目録」(ただし、番号20、21、24、26を除く。)のとおりである。
(4) 本件廃棄から約8か月後の平成14年4月12日付け産経新聞(全国版)において、平成13年8月ころ、船橋市西図書館に収蔵されていたDの著書44冊のうち43冊、Eの著書58冊のうち25冊が廃棄処分されていたなどと報道され、これをきっかけとして本件廃棄が発覚した。
(5) 本件司書は、平成14年5月10日、船橋市教育委員会委員長にあてて、本件廃棄は自分がした旨の上申書を提出し、同委員会は、同月29日、本件司書に対し6か月間減給10分の1とする懲戒処分を行った。
(6) 本件廃棄の対象となった図書のうち103冊は、同年7月4日までに本件司書を含む船橋市教育委員会生涯学習部の職員5名からの寄付という形で再び船橋市西図書館に収蔵された。残り4冊については、入手困難であったため、上記5名が、同一著作者の執筆した書籍を代替図書として寄付し、同図書館に収蔵された。
裁判所は、東京地裁から最高裁まで一貫して当該司書の廃棄行為が存在したことを認定している。
ところが、本事件では、東京地裁及び東京高裁は不法行為に基づく損害賠償請求を認めなかったのに対し、最高裁は一転原判決を破棄し、損害賠償請求を認めている。
では、何故東京地裁・東京高裁と最高裁で、判断が分かれたのか?
実は、東京地裁、東京高裁、最高裁と進むにしたがって、原告つくる会側の理論構成が変遷しており、それに基づき、裁判所の法律論もまた、変遷を遂げているのだ。東京地裁、東京高裁の判決が、判例タイムズや判例時報といった判例雑誌に掲載されておらず、入手困難であることもあって、このことを指摘する人間は実に少ない。
この事件、新聞では、「最高裁は「著作者の利益を侵害した」とする初めての判断を示した」判決として報道されている。最高裁判決は、「司書が独断で蔵書を除籍することは、著作者の利益を侵害する行為に当たると認定した」ものであると、新聞報道は理解しているようだ。
ここで、気が早い人間であれば、「それってつまり、著作者人格権侵害を認めた判決?」と、考えるだろう。
確かに、新聞報道に基づけば、原告側は著作者人格権侵害を主張している。
ところが面白いことに、原告側は、裁判の始まりであるところの東京地裁では、この著作者人格権を真っ正面から主張していない(ちなみに、裁判で当事者の主張が変遷すること自体は、珍しいことではない。裁判を重ねるにしたがって法律論がより洗練されるのは望ましいことだ)。
原告側の主張の変遷をまとめると、下記のようになるだろう。
(1) 東京地裁での主張
司書の当該廃棄行為は、著作者の思想信条の自由(憲法19条)および表現の自由(憲法21条)を侵害し、著作者の人格を侵害した不法行為であると主張。すなわち、本事件はそもそも、「表現を公表する方法の1つである図書館内で公正な閲覧に供される利益を不当に奪われない権利」「公立図書館で購入された著書を適正・公正に(他の思想を表す著作と差別されることなく平等に)閲覧に供され保管・管理される権利」である、表現の自由を巡る憲法訴訟として始まっている。
また、予備的に、名誉毀損・人格権等の侵害を主張し、その法的構成の一手段として、「著作者人格権(著作権法18条〜20条、50条、113条3項、82条等)の根底を形成する著作者の人格権(著作者が自己の著作物について有する人格的利益)を侵害するものである」と、主張している。つまり、この段階では著作者人格権を前面には押し出さず、あくまで予備的に、しかも、著作者人格権の“根底を形成する著作者の人格権”侵害を主張しており、原告側も、当初はこの事件を著作権侵害、著作者人格権侵害の事件としては把握していなかったことが伺える。
もし仮に、原告側がこの事件を、著作権侵害、著作者人格権侵害の事件として把握しているのであれば、本事件を(法的主張がはっきりしない)憲法訴訟化せず、著作者人格権侵害を全面に押し出し、しかも、「著作者人格権の“根底を形成する著作者の人格権”」なんて、曖昧な言い方はしなかったであろうからだ。こんな回りくどい言い方をしなくても、著作者人格権侵害を主張すれば、ことが足りるからだ(実際、東京高裁では、原告側は著作者人格権侵害の準用・類推を構成している)。
(2) 東京高裁での主張
東京地裁と同じく、表現の自由の侵害を主張している。東京高裁での主張の特徴は、当該司書の廃棄行為を、公務員たる司書による事後検閲(一般に流通してから書籍を検閲すること)にあたるという主張を、東京地裁のときよりも紙面を割いて主張していることであろう。
また、東京地裁と異なり、著作権侵害を前面に押し出していることも、注目に値する。著作権のひとつである公貸権を主張、蔵書を根拠無く除籍することは同権利を侵害するものであると、主張している。
さらに、「いわゆる著作者人格権を定める著作権法の諸規定は、本件において、その趣旨が類推ないし準用されるべきである」と主張している。
(3) 最高裁での主張
実は、最高裁への原告側の上申書を入手できなかったため、最高裁での原告側の主張はよくわかっていない。
ただ、判決文から推測するに、表現の自由の侵害の主張を強める一方で、公貸権侵害の主張を撤回(判決文で、裁判所が公貸権について一切言及していないことから、そう判断した)、著作者人格権侵害(類推ないし準用)をメインに据えたのではないかと、考えられる。
では、このような原告側主張の変遷に対し、それぞれの裁判所はどのような法的判断を下したのか?
(1) 東京地裁の判断
請求棄却。
思想信条の自由および表現の自由侵害を認めず、名誉毀損・人格権等の侵害も、いずれも否定した。
メインの主張である表現の自由について、「現在の日本社会におけるおびただしい書籍の出版状況とそれに伴う書籍流通状況を考えれば、思想・表現の自由が確保され、言論の自由が真に保障されているといえるためには、出版され自由な流通におかれた多様な種類の書籍が、公立図書館において適正に収集され、利用者たる国民一般に広く提供される必要があり、公立図書館には、思想・信条の主体である国民(送り手)が対外的に表現した著作物を同じく思想・信条の主体である国民(受け手)へ伝達するために存在し、「公の表現の場」たる役割を果たす義務がある。」と、積極的な権利を認めるよう主張する原告側に対し、裁判所は、そこまで積極的な、公共団体への作為請求を認めた権利ではないと判断している。
また、蔵書除籍基準については、あくまで図書館が職員である司書を律するための内部規定であって、除籍基準違反によって図書館が司書を処分するのは格別、当該書籍の著作者との関係で、図書館及び司書に何らかの法的義務を負わせたり、著作者に何らかの権利を付与したりするものではないと、判断している。つまり、(図書館と司書との関係であれば格別、)著作者との関係では、そもそも不法行為が成立する余地がないと結論づけているのだ。名誉毀損等についても、いずれも要件を満たしていないとした。
なお、法的判断には、何らの影響を及ぼすものではないが、図書館および司書の対応を手厳しく批判している(なお、高裁も同様の文章をもって、図書館および司書の対応を手厳しく批判している)。
(6)これまでに認定し、説示したところを総合すれば、本件における被告司書には、公務員として当然に有すべき中立公正や不偏不党の精神が欠如していたことは明らかであるといわざるをえない。また、被告船橋市は、本件除籍等が発覚すると、被告司書を含む教育委員会の職員に費用を支出させて除籍等がなされた書籍を図書館に寄付させて事態の収束を図ろうとしたり、本件訴訟においても、被告司書による本件除籍等の経緯について関係者から事情を聴取して把握しているにもかかわらず、その内容を明らかにしようとせず、結果的に責任の所在を曖昧にしたまま幕を引こうとしており、このような被告船橋市の姿勢に原告らが強く反発するのも理解し得ないではない。(2) 東京高裁の判断
(3) 最高裁の判断
破棄差戻。原告側の請求を認め、損害額の認定などにつき、原審に差し戻した。
公立図書館は、住民に対して思想、意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場ということができる。そして、公立図書館の図書館職員は、公立図書館が上記のような役割を果たせるように、独断的な評価や個人的な好みにとらわれることなく、公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務を負うものというべきであり、閲覧に供されている図書について、独断的な評価や個人的な好みによってこれを廃棄することは、図書館職員としての基本的な職務上の義務に反するものといわなければならない。東京地裁・東京高裁の判断から一転、公立図書館に、「恣意的な廃棄行為しない法的義務」を認め、廃棄行為を著作者の表現の自由を侵害するものであるとした。加えて、廃棄行為は「著作者の人格的利益を侵害する」と判断している。
他方、公立図書館が、上記のとおり、住民に図書館資料を提供するための公的な場であるということは、そこで閲覧に供された図書の著作者にとって、その思想、意見等を公衆に伝達する公的な場でもあるということができる。したがって、公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは、当該著作者が著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なうものといわなければならない。そして、著作者の思想の自由、表現の自由が憲法により保障された基本的人権であることにもかんがみると、公立図書館において、その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は、法的保護に値する人格的利益であると解するのが相当であり、公立図書館の図書館職員である公務員が、図書の廃棄について、基本的な職務上の義務に反し、著作者又は著作物に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをしたときは、当該図書の著作者の上記人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるというべきである。
東京地裁から最高裁まで通してみたとき、原告側主張は、下記の通りまとめられるだろう。
@憲法違反
(a)思想信条の自由、表現の自由違反(憲法19条、21条)
(b)司書による事後検閲(憲法21条)
A不法行為(民法709条)
(a)名誉毀損・人格権等侵害
(b)著作者人格権の“根底を形成する著作者の人格権”侵害
B著作権侵害(著作権法)
(a)公貸権侵害
(b)著作者人格権侵害
ええっと、最初に言い訳しておくが、法律家が見ると、なんじゃこりゃってまとめ方だと思う。ただ、ここでは一般読者のわかりやすさを優先し、正確な法律論を放棄している。そこら辺を理解した上で、読み進めて欲しい。
では、このような主張に対し、裁判所がどのように答えたか?
@憲法違反
(a)思想信条の自由、表現の自由違反(憲法19条、21条)
(b)司書による事後検閲(憲法21条)
「検閲とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、発表前にその審査をした上、不適当と認めるものの発表を禁止することをいうものと」定義し、本件廃棄行為は、発表後の、一図書館の除籍事由であり、「発表前にその審査をした上、不適当と認めるものの発表を禁止」したものではないとしている。最高裁は、検閲について言及していないが、前期の検閲の定義はほぼ確定判例とされており、当該行為が検閲に当たらないという判断は、最高裁でも維持されていると考えるべきであろう。
A不法行為(民法709条)
(a)名誉毀損・人格権等侵害
メインの論点ではなく、最高裁でも言及していない。
(b)著作者人格権の“根底を形成する著作者の人格権”侵害
B著作権侵害(著作権法)
(a)公貸権侵害
そもそも現行著作権法が(諸外国が公貸権を認めている事実は兎も角、)公貸権条項を規定していないため、否定している。最高裁は、公貸権侵害について言及していない。条文が存在しない以上、最高裁でも否定的に判断されたことが想像される。
(b)著作者人格権侵害
問題なのが、「@(a)思想信条の自由、表現の自由違反」および「A(b)著作者人格権の“根底を形成する著作者の人格権”侵害またはB(b)著作者人格権侵害」である。
(1) @(a)思想信条の自由、表現の自由違反
最高裁の判決を要約しよう。
@公立図書館の図書館職員は、……公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務を負うものというべきであり、A公立図書館……は、そこで閲覧に供された図書の著作者にとって、その思想、意見等を公衆に伝達する公的な場でもある……。Bしたがって、公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは、当該著作者が著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なう。
以上を認め、遺棄行為が、著作者の思想の自由、表現の自由に基づき、著作者の人格的利益を侵害するものと認めた。
少し、憲法論をしてみよう。
伝統的に憲法論では、人権とは、国家に対する不作為請求権と定義されている。
つまり、国民は、国家に対して「表現の自由を侵害するな」「自由に信じる宗教を選ばせろ」「自由に経済活動させろ」と主張する権利を有するとする。国家の都合で「書籍を検閲したり」「宗教統制をしたり」「経済活動に規制の網を及ぼしたり」することはできない。国民の自由を保障することが原則であり、例外的に、その自由を制限できるにすぎないと考えられている。
これは裏を返せば、不作為の請求を認めるにとどまり、より積極的な、「表現の場がないから自由に表現できる場所を作ってくれ」「自分が信じる宗教をもっと保護してくれ」「経済活動するために手付け金をくれ」といった、国家の作為義務を認めない、国家への作為請求を認めないということをも意味する。
考えてみれば当たり前のことだ。仮に作為義務を認めてしまえば、作為義務の適正な範囲を判定するのは困難であり、また、作為を認めると言うことは、一方で不作為を求める他者の利益と衝突する。国家が積極的に人権侵害に荷担する危険性だってある。なによりも、作為とはコストがかかることであり、国家予算をそれに割くことは、なかなか難しいという現実がある。
このような、伝統的解釈を前提に、東京地裁・東京高裁は、著作者の書籍を購入するよう法的に要求する作為請求権を否定し、したがって、書籍の遺棄行為もまた、(購入義務がない以上)不法行為を形成しないと判断したものと考えられる。
一方、最高裁は、「公正に図書館資料を取り扱うべき職務上の義務」「住民に図書館資料を提供するための公的な場」であることを認め、それを根拠に、「不公正な取扱いによって廃棄することは、当該著作者が著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なう」としている。
これはおそらく、著作者の書籍を購入するよう法的に要求する作為請求権それ自体は否定しつつも、一端購入した書籍について、不公正な取扱いによって廃棄しない、著作者の図書館に対する不作為請求権を認めたものであると理解できよう(「不公正な遺棄をするな」という不作為を求めているため、これは不作為請求権であると理解できる)。伝統的な憲法論を維持しつつ、図書館の公共性に着目し、著作者からの遺棄行為についての不作為請求権を認めた判断であろう。
法的に考えたときに、下記の通り、著作者からの遺棄行為についての不作為請求権を認めるべきかどうか、若干の問題はあるが(個人的には、どちらかといえば否定的だ)、伝統的な憲法論を維持しつつ、国民感情に沿うような判断をした最高裁判決は、それなりに説得的であると考えられる。
では何故、著作者からの遺棄行為についての不作為請求権に対して、私個人として否定的なのか、説明を試みたい。特に本判決については、図書館に勤める者であれば不安に感じる者もいるだろうから、その、不安の原因を指摘するためにも、詳しく言及する。その上で、私個人は、今回の最高裁判決の判断につき、その射程を下記の通り考えることで、それなりの納得を示している。
まず、伝統的な民法解釈にしたがうと、今回のような事例は、不法行為を構成しないのが、通例である。
なぜなら、東京地裁も言及しているとおり、蔵書除籍基準については、あくまで図書館が職員である司書を律するための内部規定であって、除籍基準違反によって図書館が司書を処分するのは格別、当該書籍の著作者との関係で、図書館及び司書に何らかの法的義務を負わせたり、著作者に何らかの権利を付与したりするものではないからだ。図書館が、司書に対して遺棄行為について何らかの法的責任を問うこと自体は認められる。だが、著作者が、図書館と司書に対して、契約関係も成立していないのに、法的責任を問うには、根拠がないのだ。もちろん、契約関係が成立していないときになお法的責任を追及するのが不法行為制度の趣旨だとしても、経済的には何ら損害がない著作者に、責任追及を認めて良いか、疑問も多い。もし仮にこれが、(東京地裁も言及しているのだが)司書が原告らの書籍を図書館前に積み上げて公衆の面前で燃やしたような場合であれば、公然性などの要件を満たし、原告らとの関係でも名誉毀損が成立したと判断できるが、そのような事実がない本件では、名誉毀損をはじめとした、人格権侵害に基づく不法行為を認めることは難しいように思える。不法行為を認めるだけの法益が著作者に乏しいというのが、東京地裁・東京高裁の判断である。著作者にそこまで法益を認める必要はないと考えるため、個人的にも東京地裁・東京高裁の判断を支持する。ここから先は本来、裁判所で解決すべき問題ではない。
そして、不法行為を認めるだけの法益が著作者に乏しいという伝統的な民法解釈に対し、法益の欠如を補うべく、原告側が持ち出したのが憲法違反であり、最高裁が認定した(と思われる)不公正な取扱いによって廃棄しない、著作者の図書館に対する不作為請求権であろう。個人的には支持し得ないが、なるほど、納得はできる判断ではある。
問題は、最高裁判決の射程である。
まず、今回の判断は、公立図書館にのみ妥当し、私的図書館には適用されない。
シンプルに考えれば、書籍の購入とは、自己の財産にすることであり、それをどのように破棄処分しようが、本来所有者の自由であるからだ。最高裁判決は、「公立図書館は、住民に対して思想、意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場ということができる」ことを根拠に、理論を展開しており、この判断は、私的図書館には適用されない。
また、先も言及したとおり、最高裁判断は、恣意的な遺棄行為にのみ妥当し、図書館に書籍購入義務を認め、著作者に書籍購入請求権を認めたものではない。図書館はそれぞれのポリシーにしたがって、自由に書籍を購入できる。
あくまで、公立図書館において、恣意的な遺棄行為を戒めた判断であると考えるべきであろう。これが、本件最高裁判決の射程である。
(2) A(b)著作者人格権の“根底を形成する著作者の人格権”侵害またはB(b)著作者人格権侵害
まず、理解しなければならないことがある。
世間の本判決に対する一般的な理解と異なり、最高裁判決は、本件遺棄行為につき、著作者人格権侵害または、その準用・類推を一切認めていない。本件を著作権侵害の事例と認識していない。
これは、「著作者の上記人格的利益」という言葉からも明らかである。著作権法は、著作者人格権を「著作者人格権」と呼称しており、著作者人格権とは、条文上も認められた立派な法律用語である。判決文中でわざわざ、著作者人格権ではなく「著作者の人格的利益」という、回りくどい表現を使うということは、最高裁は、これを著作者人格権の問題ではないと考えていると結論づけるべきだ。
あくまで、著作者の、人格的な利益に基づき、不法行為の成立を認めた、希有な事例であると、そのように理解すべきである。東京地裁で原告側が主張した、著作者人格権の“根底を形成する著作者の人格権”に近い考え方と言えるであろう。
また、東京地裁では、29部、40部、46部、47部が、東京高裁では、3部、6部、13部、18部が(現在の知財高裁1〜4部)、知的財産関係訴訟、すなわち著作権関係訴訟を担当しており、本件が上記各部に係属されていないことも、理解すべきことであろう。
したがって、本判決は、世間が一般的に理解しているように、著作権の適用範囲を広げるような判決ではない。
そしてもうひとつ理解しなければならないこと。
最高裁が、「“著作者”の人格的利益」としていることだ。
つまりこれは、著作物の創造者であるところの著作者にのみ、人格的利益を認め、著作者から当該著作物を譲り受けた著作(財産)権者には、人格的利益を認めないことを意味する。図書を遺棄され、もっとも感情を害するのは、人格の発露として当該図書を執筆した著作者であると考えれば、妥当な判断であろう。
本判決の論考から、若干離れてしまうが、ついでに、著作者人格権について論じてみたい。
論じると言っても、確認と疑問提示にとどまる、ちょっとしたコラムのようなものだが。
現行著作権法は、18条で公表権を、19条で氏名表示権を、20条で同一性保持権を、それぞれ認め、法律上、これを著作者人格権と呼称している。
ではなぜ、著作財産権による保護のみならず、著作者人格権による保護をも含め、著作権法を構成しているのか、その趣旨は、実はあまりはっきりしていない。
特に、著作者人格権が、著作者が創造した著作物に対して有する人格的利益を保護する権利であると定義されていることを考えると、その趣旨はますます曖昧になる。つまり、著作者人格権は、著作物の創造をもって著作者の人格的利益を保護するとするのだが、それであれば、わざわざ著作者人格権という制度で保護する必要はなく、一般的人格権によって、著作者の人格的利益を保護すれば足りるからだ。実際、英米法圏においては、著作権法で別途著作者人格権を保護するような法制を取っておらず、一般法理であるところの、人格権によって、著作者の人格的利益の保護を図っており、実際にそれで足りているという。
結局、現行著作権法性における、著作者人格権の意義は、大陸法系の伝統と、著作権が著作者の人格の発露であるという元々論からの援用、それに、著作者の人格的利益として典型的に問題となる公表、使命表示、同一性保持という、三類型を類型化したにすぎない、そのように考える学説があっても不思議ではないだろう。実際、今回のように、(要件を満たすか満たさないかは兎も角)本来、著作者人格権によって保護すべき事案に対し、著作者人格権の直接の適用ができない現状を鑑みれば、果たして、わざわざ著作者人格権という制度を著作権法性に設けておく必要性があるのか、疑問は大きくなるであろう。
逆に、著作者人格権の意義を認める伝統的な立場から見ても、本判決は問題がある。
重ねて確認するが、当該遺棄行為は、何ら著作権者の著作権を侵害する行為ではなかった。別に、複製したわけでも、公衆送信したわけでも、上演したわけでもなく、公表したわけでも、虚偽の氏名表示したわけでも、同一性を侵害したわけでもない。ただ、遺棄しただけである。それは本来、所有権によって律せられるべきことであり、本来自分の書籍についてどう遺棄しようが、それが著作者から何らかの文句を言われるべき筋合いはない。著作物の保存は、本来著作者の責任によってなされるべきものであり、著作者に代わって、著作者のために書籍を保存し、遺棄を禁じられる筋合いはないはずである。このように考えたとき、本件遺棄行為によって害された「著作者の人格的利益」とはなにか? いくら上述のように最高裁判決の射程が限定的に理解できるとはいえ、疑問は残るであろう。何故判決は、著作者人格権で保護されないのみならず、一般不法行為理論、一般人格権理論でも保護すべきか判断を迷うような事例まで、保護してしまったのか? 昨今の著作権ブームに踊らされ、著作者という言葉に引っ張られ、厚く保護しすぎてしまったのではないかと、邪推してしまうところがある。
最高裁判決は、理論的に検討を重ねれば、それなりに納得できる判断である。
だがまた同時に、著作人格権との関係、一般人格権理論との関係で考えて見たときに、不自然な違和感が残ってしまう判決だったと言える。結局、本判決に不安を覚える人々の不安の正体とは、その違和感だったのでは無かろうか。
ご意見・ご感想・ご質問・苦情・その他萬、tatuya215@hotmail.comにお願い申し上げます。