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日々是無事(渡辺やよい氏の日記 6月分)この問題、最近、著作権関係で人気の真紀奈たんでも取り上げられたので、ご存じの方も多いだろう。2chなどでも、スレッドが立てられ、様々な角度から検証されている。しかしこの問題、法律上の問題としては意外に単純なものである。この点、「B館」の「特集:さくら出版原稿流出事件を考える。」が詳しい。記事にしたがえば、以下のような法律問題を含んでいることになる。
http://www2.diary.ne.jp/user/117288/
漫画原稿を守る会
http://members.jcom.home.ne.jp/mamorukai/
バーチャルネット法律娘 真紀奈17歳●漫画の著作権者は誰か?
http://homepage3.nifty.com/machina/d0306c.html#03062403
特集:さくら出版原稿流出事件を考える。(期間限定のつもり。)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kouji/sakuradarake.htm
●原稿の所有者は誰か?
特段の契約がない限り、原稿の所有者は作者。出版社は、印刷・出版にあたって一時的に管理しているに過ぎない。出版社は管理者の地位にとどまる以上、当然、原稿の転売をする権原はない。そこで本来は、印刷・出版が終了次第、著作権者であり所有者である作者に、ただちに原稿を返却するのが筋であろうし、原稿の所有者である作者が原稿の返還請求をすれば出版社に限らず誰であれ返還に応じるのが原則である(ただし、重版などの都合により、返却しないのが業界慣行)。
特段の契約とは、例えば、原稿についての所有権譲渡の契約などを意味する。所有権譲渡の契約と著作財産権譲渡の契約とは別概念であるため、原稿所有権の譲渡が直ちに著作権譲渡となるわけではないことに注意すべきである。
●作者の返還請求により、直ちに返還に応じるべきか?
ここで即時取得(民法192条)の問題が絡んでくる。
おかしな話と思うかもしれないが、たとえ所有者といえども、第三者の手元に渡ってしまった物を取り返すには、困難がつきまとう。
即時取得は、取引の安全を目的とした制度である。物を取引するときは、相手がその物の持ち主だと思って取引するのが普通であろう。あとで別の人から「実は私の物です。返してください」と言われても正直困る。正当な取引の上で、もう自分の物だと思って使ったり消費したり売ったりしているのに、返してくださいと言われては、安心して物が買えない。かといって、あらゆる物の所有権を全て確認した上で取引を行うのは現実には困難。そこで、取引の安全を確保する上で、取引相手を所有権者と信じて目的物を譲り受けたような場合は、取引相手に所有権といった権原がなくても、受け取った者に所有権などの取得を認めた。
この、即時取得が認められる場合、第三者から原稿を買い取ったまんだらけに原稿の所有権が認められることになる。
●即時取得を適用した場合どのような結論となるか?
まんだらけは古物商と呼ばれる業態である。古物商という業態は、盗品など、筋があやしい商品が持ち込まれる可能性が極めて高い。そこで、古物営業法20条は、即時取得の特別法としてさらに、「盗品又は遺失物があつた場合においては、その古物商が当該盗品又は遺失物を公の市場において又は同種の物を取り扱う営業者から善意で譲り受けた場合においても、被害者又は遺失主は、古物商に対し、これを無償で回復することを求めることができる。ただし、盗難又は過失の時から1年を経過した後においては、この限りでない」とする。
そして、この条文を前提にすると、作者が原稿を取り戻せる可能性は限りなく低いことになる。なぜなら、おそらく十中八九、この原稿をまんだらけに持ち込んだのはさくら出版関係者と考えられるからである。この場合、原稿は、「盗品又は遺失物」ではなく、管理者が管理権原を逸脱して処分した「横領物」と認定されるだろう。そうなれば、古物営業法20条は適用されず、即時取得の原則たる民法192条が適用されるが、現行の解釈では占有は平穏、公然、善意、無過失になされているだろうと推定され(民法186条、188条)、訴訟の結果、まんだらけが所有権を取得する公算は高い。
●でも、本当に著作権は無関係なの?
実は、著作権法は平成11年に改正されている。そこで、譲渡権(著作権法26条の2)が新設され、「著作者は、その著作物(映画の著作物を除く。以下この条において同じ。)をその原作品又は複製物(映画の著作物において複製されている著作物にあつては、当該映画の著作物の複製物を除く。以下この条において同じ。)の譲渡により公衆に提供する権利を専有する」とされている。
すなわち、著作権者による原作品・複製物の流通のある程度のコントロールを認め、著作権者が許可していない原作品・複製物の譲渡を禁止する制度である。
本件では、原稿は原作品であり、著作権者である作者の許可なしに原稿を流通させることは違法となる。
ただし、著作権法113条の2に即時取得とよく似た制度があり、まんだらけはこの条項によって原稿の返還請求を拒む余地がある。即時取得と異なるため、平穏、公然、善意、無過失の推定は働かず、この条項を用いた場合、状況は作者側に若干有利に働くことだろう。
●総じて言えば
譲渡権を加味して考慮しても、まんだらけ側が優勢であろう。あとは、事実認定の問題で、作者側がどこまでまんだらけの悪意を裁判所に懐かせることができるかに掛かっている。
ところで、上記のような法律上の論点から離れ、さくら出版問題の本質的な問題点を探求した場合、どのように考えられるのであろうか?
思うに、今回最大の問題、多くの論者がさくら出版やまんだらけに怒りを覚えるのは、「オリジナルの作者が、権利放棄をしていないにも関わらず、自らの描いたオリジナルソースにアクセスできない」ことにある。
原稿に対する漫画家の所有権のあるなしに関わらず、漫画家は著作権を有しており、その著作物を再利用したい場合に、オリジナルソースにアクセスする方法を担保しておく必要がある。それがまさしく、漫画家が切実に訴える問題の本質であろう。
もちろん、さくら出版が勝手に原稿を転売したことも腹立たしければ、転売権原がないさくら出版から、(おそらくそれと知りつつ)原稿を買い取ったまんだらけに対しても腹立たしい感情を持つことだろう。
だが、それを越えてさらに言えば、オリジナルソースを作成したはずの著作者が、何らの落ち度もなしに、オリジナルソースへのアクセスを断絶させられる。これに優る苦痛はなく、さらに、経済的にも、著作物の再利用を困難ならしめる結果となる。著作権者であるはずの漫画家が、原稿の占有権・所有権を失うことでオリジナルソースへのアクセスを困難にさせられ、ひいては著作物の再利用を困難とする。そこに正義はないと、漫画家たちは空を仰ぎ見ることだろう。ここにこそ、この問題の難しさが潜んでいる。なるほど、漫画家の嘆きももっともだ。
しかし、そもそも考えて欲しい。著作権法が、なにを保護する法律であったかだ。著作権とは、著作物を排他的に利用することができる独占的権利である。では、著作権が保護する著作物とはなにか? 著作物とはすなわち創作的表現であり、創作的に表現すること自体であり、創作的に表現された物としての、例えば原稿といったオリジナルソースではない。
したがって、本来、著作権とは、オリジナルソースの欠損・滅失を著作権侵害として評価しない。なぜならば、著作権法は、創作的表現を排他的独占的に利用することを認める権利であって、オリジナルソースを排他的独占的に利用することを認める権利ではないからだ。オリジナルソースの欠損・滅失は、あくまで所有権の問題として把握するのが著作権法の態度である。論理的に言えば、著作権の譲渡と所有権の譲渡とは別であるし、別でなければならない。そうでなければ、原稿の移転と共に著作権もまた移転し、原稿が盗み出されて第三者が即時取得してしまえば著作権もまた即時取得してしまう。原稿の消滅と共に著作権もまた消滅するのが論理的帰結であり、そもそも、有体物ではないデジタル著作物は著作権が発生しないというおかしな議論を招く危険性すらある(実際、一昔前は、有体物への固定化が著作権の成立とされていた)。
以上のような不都合を考えれば、オリジナルソースへのアクセスが絶たれる危険性は甘受しなければならない。この問題はまさに、著作権と所有権との狭間が生みだした悲劇と言えよう(私は、下記のように考えているので、この問題を狭間の問題とは考えていないのだが)。
『知的財産権辞典』三省堂
「著作物の原作品の破棄等と同一性保持権の侵害」の項
「もう一度、原稿を描けばいいだけじゃないの?」
本来、法は、著作権者に著作物の全面的な利用を認め、複製のみならず改変など、ありとあらゆる利用を認めている。著作者は著作物が気にくわなければ改変すればよいし、それでも気に入らなければ遺棄すればよい。著作権法は、著作権者に著作物の管理を全面的に委託している。著作権者は、著作権者である限り、著作物の同一性を維持することなく好きに改変・複製をなすことが許されているはずだ。著作物、大いに改変すべき。
もちろん、そう簡単に言えるものではない。大いに改変すべきと言われても、そもそも改変するつもりがない著作権者も多いだろう。幾ら同じように原稿を描いたところで、幾ら金を掛けようとも、「同じ原稿にはならない」。特に、イラストや音楽といった、微妙なタッチが要求されている芸術作品においては、同じ物はもう二度と作り出せない。作品は人格の発露である。著作物とは本来、その一瞬の人格の輝きであり、それを技術の発達が記録物に固定化しているに過ぎないのである。そもそもこの問題においては、著作権者は望んで著作物を改変するわけではない。オリジナルソースにアクセスできず、仕方がなく、新しく著作物を作り直すことになる。オリジナルソースがあるのに、オリジナルソースにアクセスできない我が身を呪うだろう。
しかし、ここでは敢えて厳しい物言いをしよう。
それが、権利を有すると言うことであり、財産を管理するということだ。オリジナルソースにアクセスできないのは、オリジナルソースを管理していなかった著作権者の、ひいては業界全体の怠慢である。
現在の著作権法は、文化の発展のために、著作物の同一性を担保すると同時に、著作者にインセンティブを与えるために、同一性保持権や複製権という様々な著作権を著作権者に与えている(著作物が個人の人格や精神的所有から生産されているという自然権論を採用するとしても、著作権法のインセンティブ性自体は否定しないはずである)。
ここでは、著作物のオリジナル、すなわち同一性を一番正しく保持できるのは著作権者をおいてほかにないという政策判断が働き、著作権者以外の何人も著作物の同一性を侵害できないように著作者に同一性保持権を与えている(著作権法20条。なお、ここでは、著作権者と著作者とを敢えて同一視して論じている)。そして、複製権を著作権者に独占させることで、同時に、著作物から収益を受ける方法を確保し、その利益をもって著作物コンテンツの管理を委ねている。
この物言いは、初めて聞く人にとっては、極めて異質に聞こえるかもしれない。
しかし、インセンティブ論からすれば当然の論理帰結であろうし、自然権論を採用する場合においても、自然権論がその前提とするロックの所有権論(すなわち、労働所有権論とその発展において)は、神から与えられた大地をよりよく管理し、利益を上げることはある種、神から与えられた義務であるとすらする観念を前提としていた(ちなみに、ロックは、市民政府論で所有物の遺棄や個人の自殺を明確に否定している)。自然に権利を獲得する者は、政府に頼らずにその権利の保守に勤めなければならないのだ(刑事罰を抜きにすれば、政府に頼らねば保守できない権利であれば、それは、自然に獲得した権利であることを正当化することは難しいのではないか?)。
したがって、著作権者には、所有者に土地をよりよく管理する義務があるように、著作物をよりよく管理する義務があり、その義務を怠った者には不利益が降りかかっても仕方がないところである、とさえ言えるのだ。
著作権者が、その著作物の同一性にあくまで拘るというのであれば(したがって、逆に、同一性に拘らないという解も存在することに注意)、著作権者は、著作物を一層注意をもって管理すべきである。著作権法をもし仮に強化したいと思うのであれば、著作権者がまず第一に、著作権法の効力とその限界を正しく把握し、正しい著作権管理の在り方を模索していく必要があるであろう(まあ、これからのweb社会、すべての市民が著作権者となる時代であり、そういう意味で、従来業界人と言われてきた人々だけの問題ではなく、全市民的問題なのだが)。
著作権者のみなさん、著作物を保守管理する覚悟がありますか? さくら出版門題はまさに、著作権者の保守管理の覚悟を問う、ひとつの試金石となったのであろう。
「個人の人格は成長するし、社会は変化するのに、著作物の同一性は何故維持しなければならないのか?」
原稿著作権法は、間違いなく、著作物の同一性を維持することを前提として作られた法制度である。その論拠がなんで、そして、なぜ、同一性を維持しなければならないのか? これは恐らく、私の今後の研究テーマになるであろう。
………いや、同一性を維持しなければならない理由(作者の感情、コンテンツ保持の必要性)は、概ね判るのよ? でもね、なにか、大きな見落としがあるような気がして、ならないの。
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